半年ぶりに拓実がこの家にいる。
 半年前まではそれが当たり前だったのに、いざ目の前にすると、ひどく違和感を覚えた。私は案外薄情な女なのかもしれない。

「相変わらず綺麗にしてるね」
「汚す人がいないからね」
「そんな嫌味なこと言わないでよ」
「いつも食べたもの片付けるの遅かったでしょ。あれわたしずっと嫌だった」
「うん、冬乃が嫌そうにしてるのわかってたのにいつも後回しにしてたな」

 悪びれながらそう笑うので、私もつられて笑った。
 リビングに足を踏み入れてすぐ、ダイニングテーブルに面と向かって座った。この2週間、シュン少年に会っていない。連絡が来ないのはわざとか、それとも呆れられたか、どちらだろう。

「俺の部屋、まだそのまま?」
「あー……いや、物置になってる、かな」
「半年も経てばそんなものだよね」

 不意に立ち上がって、拓実がソファへと移動する。
 拓実が元々使っていた部屋は、今ではほぼシュンくんが泊まる時専用になってしまっている。さすがに彼も私物は置いていないだろうけど、そこへ拓実を招くのはどうだろう。
 
「冬乃も来たら?」
「え、」
「……映画でも見る?」

 ソファに座りながらそう招く。
 同棲していた時は、ここでよくふたりで読書をしたり映画を見た。懐かしいといえばそうだけれど、私がまたこの光景を求めていたのかどうかは定かじゃない。
 渋々立ち上がってソファへ向かう。
 拓実の横へ座って横顔を見る。
 瞬間、そこはシュンくんの定位置なのに、と馬鹿げた思考が巡った。おかしい。たった半年一緒にいただけの年下大学生。対して今隣にいるのは、大学時代から5年も横にいた、かつて愛した男なのに。

「何観る?」
「……なんだろ、なんでもいい」
「冬乃はアクション系嫌いでしょ」
「安い恋愛映画も嫌い」
「ほんとおれと真逆だよね」

 慣れた手つきでリモコンを操作して、サブスクアプリの中から私が好みそうな古い邦画を探索する。
 拓実は本をあまり読まず少年漫画ばかり読んでは夢を語り、誰もが泣けると謳うチープな恋愛映画でぼろぼろと涙を流せるようなひとだった。
 つまるところわたしたちは彼の言うように、正反対だった。

「……これでいっか」

 時刻はもうすぐ23時。
 拓実が適当に選んだ古い邦画はギリギリわたしの許容範囲外だ。
 ゆったりとした古い街並みから始まる静かな映画に合わせてか、リモコンで部屋の暗さを器用に調節する。元々ここに住んでいたのだから誰よりもこの家のことを知っている。
 映画の進みと同じぐらいゆっくり、拓実の腕が伸びてきて、そのままさらりと髪を撫でられた。

 金曜日、23時、元カップル、同棲していた部屋。
 条件はすべて整っている。きっかけをつくったのは彼とはいえ、招いたのは私だ。

「……」

 何も言わないわたしに、もう一度さらりと髪が撫でられて、そのままぐいっと引き寄せられた。抵抗しなかったからだ。
 拓実のきゅるんとしたかわいい子犬のような目が、成獣のように鋭く熱を帯びるのを何度も見てきた。今目線が重なったそれは、いつか見た熱をもっている。
 無意味に流れる邦画がランプ代わりかBGMか、その温度をよく知っている指先がわたしの頰をゆるりと撫でて、そこからは早かった。
 充分に広いソファの上で押し倒されて、確かめるように一度躊躇いを見せたものの、唇が乱暴に重なる。シャツにかかる彼の手はどこか生き急いでいてひんやりしている。
 同棲していたのだ。同じようなシチュエーションで何度も身体を重ねた。
 わかっていた。わたしが招いた。ここで断るなんて大人としてどうだろう。世間で言えば指を刺されるのは私の方だ。 
 それならば受け入れた方がずっと早い。何回も何百回もこの人としてきた行為だ。今更恥ずかしいことなんてひとつもないし、隠すようなものもない。
 愛を確かめ合うと謳えば聞こえがいい。最後の方は、お互いの欲を晴らすといったほうが近かったのに。
 あまりに人間的で動物的で、けれどもそれがわたしたち人間という生物なのだから仕方がなかった。むしろそれが関係を繋ぐひとつの意味になり得たりするのだから末恐ろしい。

「……冬乃」
「……」
「冬乃、」
「……え?」
「ごめん、ほんとに、おれ……」

 私に覆い被さっていた拓実と目があった。驚いた顔をした彼がゆっくりとわたしから離れる。
 自身の目から涙が溢れていることに、その時初めて気がついた。

「ごめん、怖がらせるつもりはなくて、冬乃がそんなに嫌だっていう認識もなくて、ほんと、おれ、」
「……なんで泣いてるんだろ」

 同じようにむくりと起き上がって慌てる彼に向き直る。何度擦っても無意識に涙が出てきて止まらない。
 彼の前で泣いたことなんて一度だってなかったのに。あのバスの中で泣くのを最後にしようと決めたのに。
 ぼろぼろと(こぼ)れるそれはとまることを知らないみたいに溢れてくる。

「……ごめん、おれ、本当は気づいてたんだ、」
「……え?」
「冬乃に新しい彼氏がいるって」
「彼氏、?」
「前にさ、平日の昼間ここに突然きたことがあって。その時びっくりするくらいのイケメンが出て驚いた。まだ自分の家みたいに思ってたから、余計にさ……。それに、今日も、洗面に歯ブラシ、ふたつあったし」

 そうか、そういえば、シュン少年と拓実は一度顔を合わせていたんだった。忘れていた。
 彼氏ではないんだけれど、今わたしが何か言ったところで藪蛇だろう。

「俺も随分とずるいことして、ごめん。でも冬乃もずるかったよ」

 そうだね、その通りだ。
 拓実の言葉にゆっくり頷くと、その瞳が真っ直ぐわたしを貫いた。

「こんな状況下で、諦め悪くて、本当にごめん。でも、やっぱりおれは、結婚するなら冬乃がいい。もう一回おれを選んで欲しい」

 薄闇の中、古い邦画は小さな盛り上がりを見せてちかちかとひかっていた。
 頭を下げた元恋人は、変わらずゆるりとしたふわふわの猫毛で、いやに素直に純粋で、ほしい言葉をいつもくれるような、スペック云々ではない優しさを持て余した、安い恋愛映画でボロボロと泣いてしまう、あまりに頼りなく、それでいて放っておけない男だった。
 もう二度と会えないと思っていた。
 もし会えたら色んなことを聞こうと思っていた。
 いつからわたしのことが好きだったのか。いつから付き合いたいと思っていたのか。わたしのどんなところが好きでどんなところが許せなかったのか。どうしてあの日突然いなくなったのか。どうしてわたしたちはダメになってしまったのか。どうしてこの関係に終止符を打たねばならなかったのか。
 けれど、会って、わかった。
 もう、わたしたちには、そんな言葉を交わす意味なんて、どこにもない。
 ひとつの恋が終わった。
 チョコレートがどろどろと溶けていくように、長年続いた恋心が跡形もなくなって、まるくなった。
 ただ、それだけで、もうそれ以上、私たちの関係を続ける術なんて、ひとつもなかったのだ。


「ごめん。ずるくて、ごめんなさい。好きな人がいる」


 せめて最後は綺麗に終わろうだなんて馬鹿げている。終わった恋はお互いきちんと拭い去る。
 ごめんなさい、わたし、いま、目の前のあなたじゃなくて、別の人のことを考えている。
 それが全ての答えで、誤魔化せない事実だった。