五十嵐拓実(いがらしたくみ)。7月15日生まれ、同い年。大学生の時の時バイト先の本屋で知り合って、なんやかんやありながらも5年間付き合った、元彼氏の名前だ。

「ごめん、いきなり呼び出したりして」
「……ううん」

 土曜日、最寄駅近の人が少ない穴場カフェにて。出会った時と変わらないくるくるとした癖毛を見つめながら、何も変わっていないなと思う。
 同棲していた家から徒歩数分のこのカフェも、もう会うことはないと覚悟を決めた別れた元彼も、数ヶ月じゃあまりにも離れた時間が短過ぎるのだと気づく。
 どこかに残っている小さな胸の奥の星屑を指摘されるようでなんだかずっと息苦しい。

「会ってくれると思わなかった。……酷い別れ方したなって、自分でも自覚あったから。あの時は本当にごめん」
「……拓実だけが悪いわけじゃないから、やめてよ、そういうの」

 5年付き合った元彼──今目の前にいる拓実から電話があった翌日、連絡するかどうか半日悩んだわたしは無意識に『どうしたの?』というメッセージを送っていた。
 そこからとんとん拍子に話が進んで、週末土曜日、こうして半年ぶりに顔を合わせることになってしまった。

「冬乃らしいな、そういうとこ……」
「……」
「会ってくれると思ってなかったし、もう一生会えないかと思ってたから……ありがとう、時間作ってくれて」

 子犬のような丸っこい目が少しだけ潤んでいるのを見て、あ、この目に弱かったんだった、と思い出す。
 容姿がすごく整っているわけじゃない。背丈も小柄で、大学の偏差値だってわたしより低かった。社会人になって、稼ぎだってきっとわたしのほうがあったはず。
 だけど惹かれて、惹かれあって、長い時間を共にした。わたしは彼の子犬のような人懐っこさと、この瞳がすきだったのだ。

「……なんで連絡してきたの」

 流されたくない。
 机の上のコーヒーを見て何故だかシュンくんのことを思い出した。そういえばあの美少年はあれから家に来ていない。たかが4日くらいなのに、もう随分と長い間会っていない気がする。

「年末年始にさ、地元に帰って、久しぶりに友達と話したら、みんなやっぱ結婚したり子供がいたりして、」
「……うん」
「実は先々週末、トモヤの結婚式だったんだよ。あ、トモヤって覚えてる? 地元の友だちのさ、」
「うん、覚えてるよ。会ったこともあるし」
「あ、そうだっけ、」

 覚えているに決まっている。大学生から5年間、ずっと一緒にいたのだ。
 今目の前にいる彼のことは、好きなこと嫌いなこと、食の好みも性的趣向も交友関係も、殆ど知り尽くしている。わたしなりにずっと、知る努力をしてきたから。

「そう、それで、トモヤの結婚式に行ったらさ、こう、将来のこと真剣に考えるようになって」
「……うん」
「自分もこういう風に誰かと結婚するだろうなって想像したりしてさ、」
「うん……」
「それで……冬乃のこと、思い出してさ」

 それはつまり、どういうことなんだろう。
 ううん、言われていることはわかる。友人の結婚式で感化され、冷めていた恋心を手繰り寄せてしまったバカな元恋人のことを、まだ少しだけかわいく思えている自分が腹立たしい。

「つまり、結婚を意識して将来のことを考えていたら、やっぱり結婚に対して条件が合うのは私だなって思ったってこと?」
「そう言われるとなんか悪いことしてるみたいだけど……そう思われても仕方ないのかな」
「……拓実は変わらないね。情に弱くて流されやすくて、」
「うん、そうだね、自分でもそう思う」

 申し訳なさそうにそう笑う。丸まった背中はひどく頼りない。この人は、なにか秀でるものがあるわけではないけれど、こういう弱さをしっかりと自分で受け止められる人だ。プライドが高くて人に頼るのが苦手な私とは正反対で。

「でも、」

 土曜の昼間。窓から差し込む光は心地いい。このカフェは2人のお気に入りで、よく一緒に訪れては読書や作業に耽っていた。

「何回も考えたけど、やっぱり結婚するなら冬乃しかいないって思った」

 窓から拓実に視線を戻すと、ひどく真っ直ぐな視線で私を見ていた。別れた時、あんなに冷めていた彼の視線が、今はしっかりとした熱を帯びている。
 だったらどうしてあの時わたしを手放したのだろう。最後に姿も見せないまま、わたしが仕事をしている間に部屋から消えていたこの人は、離れていた時間で何が変わったのだろう。

 いつもやさしくて、事あるごとに言葉で愛情を示してくれて、形のあるプレゼントや時間をわたしにかけてくれた。今だってこうして、はっきりと「結婚するならあなたがいい」という言葉をくれている。
 なんでも知っている。知り尽くしている。いいところも、悪いところも、全部。家族になるならきっと、この人以外いないと、わたしだってずっとそう思っていた。
 だから、この人の言葉に、頷く以外、選択肢なんてない。別れたあの日、わたしは大雨の中、柄にもなく人前で大粒の涙を流すくらいだったのだから。