そうして、瑛侯爵が再び渡欧する日が訪れた。澪と昴は、空港まで見送りに来ている。

「それでは二人とも。元気で過ごすように。すぐに、ではないかもしれないが、私はまた戻る。その時には、よい報告が出来るようにしよう。祈っていてくれ」
「ああ。父上も息災で」
「澪、昴のことをくれぐれも頼んだよ」
「言われずとも」

 瑛と澪が言葉を交わし終えた時、昴が口を開いた。

「またお会いできる日を、お帰りを、お待ちしてます」
「ああ。昴、君にも澪の事を頼もう。弟の手助けをしてやってほしい」

 力強い眼差しで笑みを昴へと向けた瑛は、それからポンっと昴と澪、それぞれの肩に手を置く。

「私は君達が息子で誇りに思っているよ。また私も、君達にとって自慢の父であるよう日々努力をしよう。それでは、また会おう」

 そう言ってから、再度肩をポンと叩くと、手を離して瑛は踵を返した。

「行こう緋波」
「畏まりました」

 それまで火野と話していた緋波が、顔を上げて頷く。緋波は火野の師匠だ。

 瑛と緋波が搭乗口へと向かうのを、一同は見送った。
 今日は六人乗りの馬車で来たので、帰りは四人で席に余裕がある。その広い馬車の中で、久水が紅茶を淹れる。深々と背を預けている絵山は、車窓から空を見上げている。つられて澪も外を見て、飛行機が飛んでいるのを眺めた。

「俺、空港って初めてだから、なんだか色々とびっくりした」

 その時昴が言った。澪は隣に座る兄に顔を向ける。昴が続ける。

「他の国があるというのも、知識としては知っているけど、実感がわかなくて」
「それは俺も同じだ。日本から出たことがないからな」

 澪が返すと、昴が微笑を湛えて頷いた。

「俺、勉強できるのならば、言葉の勉強はしてみたい。いつか色々な国で困っている子を助けたい。色々あったけど、聖フルール教の人々は、異国のこの地で、俺を育ててくれたのは変わらないからな。道を誤ったのはいけないし、非人道的な事が目的だったのは恐ろしいけどな……」

 昴の声に、澪が頷く。

「そうだな。道さえ誤らなければ、孤児を保護し成長を見守るというのは元来は善い事だ。俺達は、道を誤らないように心がけよう。兄上、明日は最初のボランティアの日だな。準備の方はどうだ?」
「うん。風原さんがお菓子を焼いてくれるそうで、相も手伝いに来てくれる」
「そうか。その後貧血の具合はどうだ?」
「最近はまったくだよ。やっぱり食べ物が豪華だからかな?」

 昴が首を傾げたので、澪は頷いておいた。風原に釘を刺したのは、暫く前だ。

「そうかもしれないな。では帰ったら、残りの準備をするのか?」
「うん。読み聞かせる本の内容を、もう一回確認するよ」
「何を選んだんだ?」
「地獄の國のアリスだよ。やっぱり慣れているからな」
「――そうか」

 今となっては、意味を理解した分恐ろしい童話だが、想像力を養う意味では悪い選択ではないだろうと判断し、意味を知らない昴には、澪はなにも告げず、ただ頷くにとどめた。

 アリスと呼ばれていた事すら知らない兄だが、昴に一連の事件について告げるつもりはない。昴の心の平穏もまた、澪は守りたい。

「きっと明日は成功する。兄上ならば、大丈夫だ」
「ありがとう、澪」
「俺もそばにいる。ただ俺は、慈善事業に関しては素人だから、兄上が俺に色々教えてくれ」
「分かる事なら全部教えるよ!」

 そんな話をしながら、馬車は帰路についた。