こうして瑛の帰還を祝う夜会の当日が訪れた。
 相がつけている香水と同様のものを、本日は昴も身につけているので、極上の甘い匂いではなく、バニラアイスを彷彿とさせる香りを纏っている。瑛が、正式に昴を西園寺家の血族だとして、この機会に紹介すると断言したので、昴も出席することになった。昴は先程からガチガチに緊張した状態で、澪の隣に立っている。

 従僕として相も初めて夜会に臨むので、そちらは津田が面倒を見ている。

「お招き預かり光栄だ」

 そこへ宏人伯爵が歩みよってきて声をかけた。隣には、快癒した沙羅を伴っている。

「ごきげんよう、宏人伯爵。そして沙羅嬢。具合はどうだ?」

 澪が尋ねると、沙羅が両頬を持ち上げた。口元にほくろがある。長い髪を緩く巻いている彼女は、嬉しそうな眼差しで澪を見た。

「もうすっかりよいのですわ。澪様が治して下さったのだとか。兄から聞きました」
「そうか。だが、俺と言うよりは宏人が奔走した結果だ。沙羅嬢の兄上は、各地で薬を探していたようだからな」

 暗に闇オークションの事を告げる。
 宏人は困ったように笑ってから、ふいっと顔を背けた。

「感謝してる」

 いつもの軽口ではなく、ぽつりと述べられた声には、謝意が滲んでいた。

「気にするな。らしくもない」
「うるさいな。人が下でに出れば――」

 言いかけてから、ふと気づいたように宏人が昴を見た。

「そちらは?」
「ああ、俺の兄上だ。兄上、こちらは宏人だ。前に紹介すると話した友人だ」

 それを聞いて、宏人がぎょっとした顔をした。

「俺は今、二つ驚いた。なんだか分かるか?」
「二つ? 俺に兄上がいたことだけじゃなくか?」
「それも無論驚いたが、友達……だと? お前の口から、俺が友達……友達……」
「……言葉のあやだ」
「いや……お、俺もそう思ってやってる、一応。一応だけどな」

 二人がそうやりとりすると、傍らで昴が微笑した。

「親しいんだな」
「……」
「……」

 そろって昴を見た澪と宏人は、無言になった。

「お名前はなんと仰るのですか? 私は高宮沙羅です」
「昴です」

 そこから沙羅と昴が談笑を始めたので、澪はそばのテーブルからシャンパングラスを一つ手に取ると、宏人に渡した。中に入るノンアルコールのシャンパンを口に含んでから、改めて宏人が驚いた顔をした。

「兄って、隠し子か? 爵位はどうなるんだ? 西園寺家の跡取りは? お家騒動か?」
「不思議と爵位について揉めるような話にはならなかったな。いいや、不思議でもないか。俺の兄上は、その方面に欲がないようだ」
「へ、へぇ」
「隠し子というのも正確ではない。父上は、兄上がいる事を知らなかったんだ」
「複雑なんだな。詳しく聞きたいが、俺は瑛侯爵に挨拶に行く。妹を置いていっても構わないか?」
「ああ。責任を持ってお相手しよう」

 こうして宏人が、沙羅に声をかけてから、瑛の方へと歩いて行くのを、澪は見送った。
 それから、綺麗に荊の痕が消えた、彼女の華奢な首筋を見る。本当によかったと、内心で考えながら、先程までの緊張が少し解れたように話している昴と、楽しそうな沙羅を見守る。

「ですけれど、本当に見目麗しいご兄弟で羨ましいですわ。目の保養と申しますか」

 ころころと沙羅が笑う。片手に持つ扇が揺れている。

「格好いい殿方が、もう一人増えるだなんて。西園寺侯爵家は、やっぱり華族女性の憧れの的ですわ」

 きらきらした瞳の沙羅の声に、澪は苦笑しそうになった。

「茶会のネタにはしないでくれ。兄上が見世物になってしまう」
「お約束は出来ませんわ。こんなに素敵なお顔立ちのお兄様のこと、私だけの秘密には出来ませんもの。みんなに怒られてしまうわ」

 くすくすと沙羅が笑うので、澪は結局苦笑した。正直な沙羅は愛らしい。

「澪様。今日はヴァイオリンはお弾きにならないのかしら?」
「ああ、後ほど父上がピアノを弾く時に、横で弾けと言われている」
「まぁ、楽しみ」

 頬に華奢な白い手を添え、沙羅が弾んだ声を出した。

「ヴァイオリンが弾けるのか? 凄いなぁ」

 昴が目を丸くしている。

「ああ。期待していてくれ、二人とも。俺の特技の一つだからな」

 そんなやりとりをしていると、瑛の声が響いてきた。

「お集まりの皆様、ご静粛に。本日は、私の帰国にあわせた夜会に、お越し下さり誠にありがとうございます。そこで私から、嬉しい報告が一つ」

 瑛はそう言うと、真っ直ぐに昴を見た。昴が背筋を正している。

「昴、こちらへ」
「は、はい」

 慌てたようにグラスを置いて、昴が瑛の元へと歩みよる。
 するとその細い腰を抱いて、長身の瑛が会場を見渡した。

「こちらは、昴といい――私の息子です」

 きっぱりと瑛が宣言すると、会場に静寂が訪れた。