さて本日、西園寺侯爵家は忙しなかった。理由は、瑛侯爵の一時帰国を祝して、夜会を開くことになったからである。というのも、瑛の帰国に多くの者が挨拶や遊びに来ようとしたからで、全員を相手にする時間が無いので、夜会に皆を呼ぼうという事になったからである。瑛はとても顔が広い。

 今は絵山が火野の手伝いで招待状の手配をしているので、澪は久水と二人で私室にいた。チェストに飾られている水仙に、久水が水を与えている。

 澪は久水が淹れてくれた紅茶を飲みながら、ソファに座り、書籍を開いていた。
 ――地獄の國のアリスだ。

「脳がスカスカ、か」

 父の話したプリオンという言葉を思い出す。人間のプリオン病であれば、脳はスポンジ状のスカスカな状態になるというから、あながちこの童話のいう事も間違っていないのではと考えて、澪は背筋が寒くなった。すると久水が言った。

「愚者、か。愚者は実は賢者が全てを悟って捨てた先の姿だともいうな」

 久水がチェストから振り返る。

「そうなのか?」
「おう。愚者のタロットは、番号が無い。始まりでもあり終わりでもあるカードだ。ここから始まり魔術師となるのか、調和が取れた世界を旅した先の終わりの姿なのか、誰も知らない」
「へぇ」

 頷いた澪は、本を閉じてテーブルの上に置く。

「ところで久水」
「ん?」
「兄上についていてくれてありがとう。感謝する」

 澪が改めて礼を告げると、久水が二度緩慢に瞬きをしてから歩みよってきた。

「澪様のご命令だからな」
「仕事だったとしても、感謝する」
「それだけじゃない。澪様の兄上だ。澪様が大切にしていたから、俺も守ってやる気になったんだよ。ま、昴様はなにかと抜けていて……純粋だからなぁ」

 そう語った久水は、椅子の背にまわると、両手の指先を澪の双肩に置いた。

「なんだ?」
「礼が欲しい」
「何が欲しいんだ?」
「噛みたい」
「だから俺は人間では無いと言っているだろう」
「――冗談だ」

 久水はそう言ってから、後ろから澪を抱きしめるように腕を伸ばす。澪は両手でその腕の服に触れる。

「俺に触れると癒やされるのだったか?」
「おう。澪様をこうしてると、無性に落ち着く」
「変わってるな」
「変わっていてもいいだろ」

 久水はそう答えてから、顔を動かし、横から澪を見る。澪もそちらを向いた。ごく近い場所に久水の顔がある。久水の瞳は、獲物にじゃれる猫のように輝いてる。ニッと口角を持ち上げた久水は、さらに顔を近づけた。

「今度、またの機会があったら、絵山じゃなく俺を連れていけ」
「うん?」
「絵山が羨ましくて死ぬかと思った」
「わざわざ事件に巻き込まれたいのか?」
「違う。澪様のたった一人の供になりたいって話だ。ばーか」

 冗談めかした久水の声に、澪が喉で笑う。

「澪様、俺は独占欲が強い方なんだ。常々俺は、澪様のたった一人の従僕は俺でいいと思ってる」
「なんだそれは」
「俺が一番、澪様のことを考えてるって意味だ」
「そうなのか?」
「おう、そうだ。だから紅茶の一杯を注ぐ時にも、細心の注意を払ってる」
「確かにお前の紅茶は今日も美味い。おかわりをくれ」
「畏まりました」

 頷いて久水が腕を放し、前にまわって紅茶を淹れ始める。その姿を見ながら、もう危険な事件はなければよいなと漠然と澪は考えた。だが仮にあったとしても、このように言ってくれる久水がいるのだし、きっと問題なく解決出来るだろうと考える。

「どうぞ」

 久水がカップを差し出したので、澪は受け取る。そして静かに味を楽しんだ。