数日後、澪は階段の踊り場で、手すりに手を添えてエントランスホールを見ていた。そこには津田と相の姿がある。

「いい? ここはきちんと隅まで掃くんだよ?」
「はい!」

 西園寺家の従僕になる事に同意した相は、毎日津田と一緒に掃除や雑用をしている。元気に返事をした少年からは、既に怯えは見えない。また生臭い匂いに関しては、吸血鬼の技術で血の匂いを誤魔化す香水が伝わっていたので、それを用いるようにさせてある。そのため現在の相の血の匂いは、バニラのような甘い匂いをしている。

「あ、澪様」

 その時津田が、澪に気がついた。相も顔を向ける。そして満面の笑みを浮かべた。

「澪様!」

 相に名を呼ばれたので、ゆっくりと階段を降りて、澪が歩みよる。相の前に立った澪は、少し屈んで、相のあどけない顔を覗き込む。すると相が目をキラキラと輝かせた。

「澪様は、本当に綺麗です」
「こら、相くん。ご主人様には、そういう事は言わないの」
「でも久水さんも絵山さんも言ってますよ?」
「……あの二人は、まぁ、はぁ……」

 すると津田が溜息をついた。きっとからかわれているのだろうと考えて、澪は苦笑する。

「相。仕事には慣れてきたか?」
「はい! 津田さんが色々教えてくれるから。まだ失敗も多いけど、頑張れてます」

 相がそう言うと、津田が気を取り直したように笑顔を浮かべた。

「ええ。相くんは、頑張っていますよ。これなら立派な従僕になれますね」
「そうか。津田、宜しく頼む。相も頑張ってくれ」

 澪はそう声をかけてから、相の肩を優しく叩いた。
 そして邪魔をしては悪いだろうからと、その場を離れて居室へと入る。するとそこでは瑛と昴が話をしていた。

「邪魔をしたか?」

 澪が問いかけると、昴が慌てたように首を振る。瑛は悠然と笑って澪を見た。

「『兄上』を独占して申し訳ないな、澪」
「なんだその含みがある言い方は?」
「随分と親しくなったと聞いたんだ。いやぁ父として非常に嬉しい」

 瑛の明るい声音を聞きながら、澪はその隣に座る。昴も少し打ち解けたのか、おどおどしている様子はない。その姿に、澪は胸を撫で下ろす。

「澪、昴がねぇ、働きたいと言うんだよ」
「働く?」
「そうなんだ。従僕になりたいと言うんだよ」
「そんな必要は無い」

 澪が断言すると、瑛も頷く。澪が視線を向けると、昴が困ったように眉根を下げた。

「で、でも……なにもしないで置いてもらうわけには……」
「ここは昴の家でもあるのだから、構わないんだよ。まだ私や澪を家族だとは思ってくれないのかね?」
「そ、そういうことじゃなく……」

 か細い声で昴が返したので、澪は首を傾げた。

「働くというのならば、西園寺家の人間としての仕事はまだ難しいにしろ、なにか父上の医学のように、やりたい学問か商売でも見つけたらどうだ?」
「それは名案だ」

 澪の声に、瑛が乗り気になる。すると昴がいよいよ困った顔になった。

「俺は義務教育も受けていないし学が無くて……」
「勉強というのは、何歳で始めても遅くはない。何か興味がある分野はあるかい?」

 瑛の声に、顔を上げた昴が瞳を揺らす。艶やかな黒い髪も静かに揺れた。

「俺は……その、牧師になったのも周囲の勧めもあったけど、一番は、孤児や困っている人を助けたいと思ったんです。慈善事業に来てくれる人達のように、ボランティアがしたくて……」
「それは非常に善い行いだ。父として誇りに思うよ」

 呟くように言った昴の前で、パンと瑛が手を叩く。それから誇らしげな顔で、澪を見た。

「澪、昴の手伝いをしてやってはどうだい?」
「ああ。兄上がボランティアをしたいというのならば、俺も手伝おう。慈善事業は、華族はあまりしないが、俺としては高貴たるものは出来る行いをするべきだと考えている」
「いい考えだよ、澪。そういう行いを、ノブレス・オブリージュと言うんだ」

 喉で笑った瑛は、それから思案するように、微笑したまま宙を見る。

「なにから始めるのがよいだろうね?」
「俺、具体的に考えた事は全然無くて……」

 昴が申し訳なさそうに言う。そこで澪はふと思い出した。

「兄上は、孤児院の子供達に読み聞かせをしていたのだろう? 西園寺の家はお祖父様の趣味もあって蔵書が豊富だ。貧民街の孤児院街はもう無いが、帝都には沢山の孤児院がある。読み聞かせにまわって、菓子を振る舞うというのはどうだ?」

 澪の声を聞くと、ハッとした顔をした後、昴が嬉しそうに、はにかむように笑った。その眩しい笑顔に、澪も瑛も暫し見惚れた。まるで花が舞うような笑顔は、本当に麗しい。

「俺はそれがしたい」
「あ、ああ。俺はいつでも手伝う。孤児院に打診もしておく」
「澪、昴のことを宜しく頼むよ。私もできるかぎりの手伝いはしよう」

 そのような話をしながら、家族水入らずの時間は流れていった。