翌日の昼食後、澪は昴と共に応接間にいた。
 壁には油絵がかけられている。そのすぐそばのチェストの上の花瓶には、薄いピンクと白の薔薇が生けられている。昼だが銀色の燭台には火が点されていて、シャンデリアも輝いている。チェストの中には、ウイスキーの瓶が並んでいる。

 昴へと振り返った澪は、昴が長椅子の上で膝の上に両手を置き、緊張した顔で俯いているのを見た。まるで最初の頃のような、借りてきた猫状態だ。

「兄上、大丈夫だ」
「う、うん」

 ぎこちなく頷いて笑い、昴が顔を上げた。とても大丈夫そうには見えない。
 歩みよって、澪が苦笑し、その肩に触れる。

「父上は少々機微に富んでいるが、嫌な性格ではない。嫌味な場合はあるが」
「そ、そうか」

 その時、絵山が入ってきた。

「おつきになりました」
「分かった、今行く。兄上はここにいてくれ」

 澪はそう告げて、昴と久水を部屋に残し、絵山と共に応接間から出た。そしてエントランスに向かうと、火野と津田の姿があった。そして開け放たれている扉から、静かに入ってくる父・瑛の姿を視界に捉えた。家令の緋波が横で鞄を持っている。

「おかえりなさいませ」

 火野の言葉に、津田が一緒に頭を下げる。二人に笑いかけてから、瑛が澪を見た。

「やぁ、澪。少し背が伸びたかな?」
「止まって久しい。どうせ俺は父上ほど背が伸びなかったさ」
「いいじゃないか。真理亜に似て小柄で可愛くて」
「……嬉しくはないな」

 実際、澪の母は背が小さかった。柔らかな線の女性だった。

「ところで父上。実は――」
「昴のこと、かい?」
「そうだ。聞いていたのか?」

 澪はちらりと火野を見た。すると火野が首を振る。横で津田が吹き出した。

「僕ですよ。火野さんは無罪です」
「そうか。津田には確かに口止めするのを忘れていたな」

 澪の言葉に、喉で瑛が笑う。

「早く言ってくれれば良かったものを。それで? 昴はどこにいるんだい? さしずめ応接間で待たせているというところかな? 先に私に自分から話す予定だった。違うかい?」
「全て正解だ。兄上のところへ案内する」

 澪が踵を返すと、瑛がその後ろを歩きはじめた。他の者も皆ついてくる。
 応接間に入ると、ビクリとしたように昴が立ち上がった。すると澪の隣をすり抜けて、瑛がかけより、昴の両手を己の両手で強引に持ち上げた。

「そっくりだ! 莉奈にうり二つだ!」

 写真を見て同じ感想を抱いた澪は、その光景を見守る。

「み、三神莉奈は、俺の母です……あ、あの、はじめまして。三神昴と言います」
「昴。私は西園寺瑛という。君の父親だという心当たりがある。ああ、会えてよかった。さぁ、座りたまえ。話をしよう、沢山」

 瑛は昴を椅子に促す。そして対面する席に座った。澪は昴を安心させるために、兄の横に陣取る。そこへ久水が紅茶を三つ用意した。

 まじまじと昴を見ている瑛の頬は紅潮しており、その瞳は実に嬉しそうだ。

「そうか、莉奈の子か。いいや、俺の……そうか。昴……良い名だ。これからは、私の事を父と呼んでほしい」
「……父上」
「うん」

 小声で言った昴に向かい、満面の笑みで瑛が頷く。

「貧民街にいたそうだね?」
「はい」
「そうか、貧民街か。帝都中を探したつもりだったのだが、盲点だった。貧民街は探した記憶が無い……」

 指を組んで長い膝の上に置いた瑛は、それから眉根を下げて笑う。

「これまで、辛い思いをさせただろうね」
「い、いえ……」
「これからは安心してくれ。私が父親として、責任を持つ。どうかこの家で、改めて家族として過ごしてほしい」

 瑛が断言すると、昴が慌てたように首を振る。

「俺はお会いできただけで十分です」
「そんな事を言わないでくれ。ああ、しかしそっくりだ。ただ、目元は私に少し似ているな。会えて嬉しくてたまらない」

 瑛はそう言って昴の声を遮ると、紅茶の浸るカップを持ち上げた。

「莉奈と私は、三神家が開いた茶会で出会ったんだ。珈琲の試飲会で、珈琲好きだった私は声をかけられてすぐに招待に応じたんだ。そこで隣の席だったのが最初の出会いだ。麗しい女性だと思って話していたら、招待客の少女の帽子が飛ばされて、木に引っかかってしまってね。私が登って取ろうかと考えた一歩先に、女性だというのにスカートも気にせずに、莉奈が木に登り始めて……その突飛な行動に、私は興味を惹かれたんだ。彼女はとにかく面白くてね。つい何度も会いたくなるような話をするから、気づいたら私は惚れ込んでいたんだ」

 ふふっと楽しそうに瑛が笑う。そしてまたカップを傾けてから、懐かしむような目をして、唇の両端を持ち上げた。

「告白したのは私からだった。すると五回も断られてね。いつもは身分など気にしないで話すのに、その時ばかり彼女は、身分だ立場だと口にするんだ。断り文句だと覚悟していたのだが……私が子を堕ろせと言うだとか、彼女を捨てるだとか、そう想われていたのだろうか……それはショックだが……それはないと、私は思う。恐らく、彼女は彼女の父の、三神男爵の反対を恐れたんだ」

 瑛はそう言うと、難しそうな顔をした。

「三神男爵は、人間らしい人間だからね。娘を化け物に嫁がせるだとか、孫に化け物の血を引く者が生まれるだとか、そういう事を嫌う人間だった。莉奈も男爵も、西園寺家がどんな家かは知っていたからね。知る、数少ない人間だったんだ。彼らは、特別な角砂糖も卸している関係で、それを知っていた」

 小声で語る瑛の声に、澪は何度か頷いた。

「化け物?」

 話が見えないようで、昴が首を傾げている。

「ああ、こちらの話だ。まぁ、そんなわけだから、莉奈はおそらく家を出たのだろう。私はきっと、彼女は落ち着いたら私に会いに来てくれるつもりだったと信じている。仮に違ったとしても、信じることは自由だ」

 瑛はそう述べると、改めて昴を見た。

「私は莉奈を愛していた。その莉奈との大切な子供だ。昴は、西園寺家の大切な息子だ」