「うん。伊織は、そうだな……いい奴だと俺は思ってるよ」
「兄上がそう言うのなら、そうなのだろう」

 実際、澪に対しても、結果だけ見れば協力してくれたのは明らかだ。気は抜けないが、過度に疑うべきでは無いのかも知れないと考え直す。

「なぁ、澪」
「ん?」
「お、俺も……澪の友達に会ってみたい」

 昴の声に、澪は視線を合わせて考える。友達、と聞いて、真っ先に宏人が浮かんだ自分に辟易した。あれは友達ではないと意識上で思った後、腐れ縁だと考える。だが浮かんだ人物は、他にはほとんどいなかった。

「ああ、今度な」

 だからそう答え、回復祝いも兼ねて、その内宏人と沙羅を招いて茶会でもしようかと考える。


 こうして朝食の時が終わってから、居室に移動した澪は、絵山を見た。

「伊織牧師には、やはり話を聞く必要があると思う」
「ええ」
「貧民街にまだいると思うか?」
「他に居場所には思い当たらないけど」
「そうだな。では、行ってみるとするか」

 澪の言葉に頷くと、絵山が馬車の手配へと向かった。澪は紅茶を飲み干してから、立ち上がる。既に外套が不要になった外へと向かい、庭の薔薇を一瞥する。もしももっと早く【治療薬】を入手していたならば、今頃あの薔薇の手入れをしていたのは、祖母ではなく母だったのだなと考えると、寂寞に駆られた。

 馬車に乗り込み、貧民街の最寄りの駐車場までついたところで、ゆっくりと降りる。
 御者にここで待つように告げてから、絵山と共に、澪は坂道を静かに歩いた。正面の人工湖が、日の光を受けて輝いている。ゴミは浮いているが、風景だけ見れば、別段貧民街は汚らしいところではない。すり切れた服を着た者が多いが、彼らは彼らなりに生きている。決してそれは、臓器を差し出すためではないはずだ。

 堂々と聖フルール・エトワール大教会へと向かい、門の前に澪は立つ。開け放たれている門から敷地に入ると、庭で孤児達が遊んでいた。チューリップの花が咲いていて、紫陽花も見える。明るい子供達の声に、胸が痛くなった。

「これはこれは」

 すると声がかけられた。澪が子供達から、声がした方へと澪が視線を向けると、そこには紫苑牧師が立っていた。

「西園寺澪伯爵」

 その声に、自分の素性を知っていたのだなと、澪は半眼になった。慈善事業の際は、苗字は名乗らなかったからだ。尤も集会の場でも西園寺の名前を挙げていたから、知らない方が不自然ではあったが。

「ごきげんよう、紫苑牧師」

 澪がよそ行きの笑顔で答えると、隣に絵山が並んだ。一瞥すればその眼差しは険しく、警戒しているのは明らかだ。

「うちの昴は元気にしていますでしょうか?」

 決定的な事を述べた紫苑を見て、澪は目を眇める。

「『うち』の? 昴兄上は、俺の兄なのだから、こちらの者だ。これまで育てて頂いたようだが、既に兄上は貴殿の手中にはない」
「いくら血が繋がっていようとも、所詮人間と吸血鬼は別の存在では?」
「っ」

 吸血鬼という言葉がさらりと出たものだから、澪は身構える。

「兄弟ごっこを楽しまれるのは大いに結構。しかしながら、彼はもっと世の中のために役に立つ存在なので、返して頂きたい。なぁに、殺しはしませんよ。死ぬまで血を少しずつ少しずつ、抜くだけだ。我々の行いは、吸血し糧を得る吸血鬼の皆様と、何ら変わらない。どころか食事ではなく、病を治癒させるための、薬を作るための、平和的な行いだ」

 恍惚とした表情で、紫苑牧師が語る。

「我々は、ね? 澪伯爵。吸血鬼の方々に、従順だ。協力的な人間……いいや、支配されている事を正確に理解している上で、あなた方の支配下にいる事を誇りに思う特別な人間なのですよ。なにもあなた達に害成すような事はしない」

 紫苑牧師の声に、澪が視線を鋭いものへと変える。その前で、紫苑牧師が続けた。

「人間を噛む時、吸血鬼は豚を食す人間と同じ心境でしょう?」
「……」
「家畜と同じということだ」

 果たしてそうなのだろうかと澪は考える。以前までは、確かにそう考えていた。豚に愛想を振りまく人間を偽善的で滑稽だと感じていたようにも思う。だが、今は紫苑牧師の言葉に、強烈な違和感が伴った。

「いいですかな? 正しい人間の噛み方とは、家畜として飼い、意思など尊重せずに吸血をすることだ。分かるでしょう? 人間である私にさえ分かる事なのです。治癒の異能の持ち主から血を抜くのも、同様の行為だ。即ち吸血鬼による人間の噛み方を考えれば、同じ事だと分かるでしょう」
「いいや、それは違う」

 反射的に澪は言葉を放った。

「人間の正しい噛み方は、意思ある相手を尊重し、一個の他者として見た上で、血を提供してもらうという心構えのもとに、噛むということだ。俺達が噛んでいるのは、物言わぬ物品ではない。理性ある、『人間』だ。勿論暗示でその記憶を曖昧にし、吸血鬼の存在を知らせないことはする。だがそれも、人間を尊重し、怯えさせない事が本意だ。決して自分勝手に相手を蹂躙しているわけではない」

 言いながら、澪は自分の考えが固まった気がした。これまでとは根本的に、人間への見方が変わった気がした。まさに今、入門したような心地だ。昴と出会ってから少しずつ変化していった内心を、言葉にすることで、やっと自分自身でも理解できたように思う。

「詭弁ですな。所詮食べ物は食べ物」
「そうではない。違うと言うことが、貴殿には分からないのだろうな。なにせ紫苑牧師は、ただの人間(・・・・・)なのだから」
「違う! 私は特別な、選ばれし人間だ」

 すると紫苑牧師が血相を変えた。忌々しいものを見るように、澪を睨めつけている。

「いくら高貴な吸血鬼の方だといえど、言葉は慎んで頂きたい。私はこれでも錬金術師なのですよ? 貴方達二人くらい、倒すことができる。その上――ここには、大勢の錬金術師がいるのですから。皆、私の同志だ」

 紫苑牧師がそう言うと、いつの間にか多数の人間が、四方から二人を取り囲んだ。皆、黒い祭服の上に、灰色のローブを纏っている。フードは取っている者ばかりだ。

 その中に、伊織の姿はない。
 冷静にそれを確認してから、顎を少し持ち上げて、澪は嘲笑した。

「そちらこそ、吸血鬼を侮っているようだな。何故吸血鬼が、人間を支配する上位の存在だと言われるのかを、全く理解していない様子だ」
「なに?」
「何も吸血し、操るから、それだけが理由ではない」

 澪は余裕たっぷりにそう言い放つと、絵山を一瞥した。

「絵山、殺すなよ」
「――何故ですか?」
「人間には人間の手による裁きが必要だ。警察に突き出してやろう。彼らは、ただの人間(・・・・・)なのだから」

 澪の言葉に、絵山が頷いた。