薬類一式を手に高宮侯爵家へと戻ると、入り口を入ってすぐのエントランスホールに、宏人の姿があった。壁に背を預けて腕を組んでいる。澪に気づくと、憂鬱そうだった顔をハッとした様子に変えた。

「何処に行っていたんだ? というより、なんだそのティーセットは」
「大至急六十度のお湯を用意してくれ。絶対に六十度だ。そして沙羅嬢の部屋へ」
「なに?」
「部屋で話す。温度はきっちりと管理して、部屋に持ってきた時点で六十度になるように、熱めで用意を頼む」
「? 紅茶なら、うちにもあるぞ?」
「いいから」

 不審そうな宏人を言いくるめて、澪は沙羅の部屋へと向かった。そして薄暗い室内で、テーブルに持参した茶葉やポット、瓶に入る粉薬を置く。羊皮紙には、メモリのついたスプーンが入っていて、そこの線の分まで粉を紅茶に入れると書かれていた。

「持ってきたぞ。使用人の仕事だが、自分でな」

 不機嫌そうな声を放ち、宏人が部屋へと入ってきた。そこで澪がじっと、真剣な顔で宏人を見る。

「【黒薔薇病】の薬だという粉を手に入れてきた。この紅茶に入れて飲ませるという」
「なっ」

 すると硬直した宏人が、目を見開く。

「ただし、偽薬や毒でない保証もない。真偽は飲ませてみないと分からない。どうする?」
「……っ」

 宏人が言葉に詰まる。それから妹を見ると、切ない表情に変わった。

「本当に、可能性があるんだな?」
「ああ」
「……そうか。どうせ闇オークションで薬を手に入れたとしても、それが毒ではない保証もないんだ。妹のためにありがとう。飲ませてほしい」

 決断した宏人の声に、真剣な面持ちで澪が頷く。
 そこからは、絵山が紅茶の準備をした。そして宏人が抱き起こした沙羅へと、カップを手に歩みよる。最後にカップにも温度計を入れて、きっちりと六十度である事を確認した。

「飲ませますよ」

 絵山の声に、二人が固唾を呑み、首を縦に動かす。
 意識の無い沙羅ではあったが、自然と紅茶を飲み込んでいく。カップの中身を全て飲ませてから、再び宏人は沙羅の体を横たえた。

 何も変化は起きない。
 澪はやはり偽物だったのだろうかと、悔しくなって眉間に皺を刻む。

「あっ」

 その時、宏人が声を上げた。顔を向けた澪は、ピクリと沙羅の瞼が動くのを見た。長い睫毛が続いて動き、薄らと目が開く。

「沙羅!」
「……お兄様……? なぁに? もう夜なのね。あら私、寝過ごしたのかしら?」

 沙羅が上半身を起こしながら、ぼんやりしたような声を放つ。
 宏人が感極まった様子で、横から沙羅の体を抱きしめる。

「お兄様、苦しいわ!」
「沙羅、沙羅! 本当によかった」

 宏人の声に、涙が混じり始める。
 澪はその光景に胸が熱くなった。薬は本物だったのだ。見ていると、沙羅のドレスの首元から、すっと黒い荊の模様が消え始める。

「ありがとう、澪!」

 その時宏人が振り返った。眦には涙が光っている。

「ああ。気にするな。飲ませる決断をしたのは、お前自身だ」
「だが手に入れてきてくれたのは澪だ。俺は生涯をかけてでも、この恩を必ず返す」

 大げさだと言おうとして、澪は止めた。
 己も母が不治の病だと知った時、治してもらえるならばなんでもすると思った過去があったからだ。きっと宏人は本当に嬉しいのだろうと判断する。だから澪は、頷くにとどめた。なにかを言うべきだとは思わなかったからだ。

「では、俺はそろそろ帰る。甚左侯爵には、挨拶をせずに帰る非礼を詫びておいてくれ」
「――父もきっと感謝をするだろう。代わって礼を伝えておく。それに後日また改めて、きちんと礼もする」
「宏人。悪いんだが、この薬のことは、暫く黙っていてくれないか? だから俺が持ってきたことは、お父上にも内密で頼む」
「……そうか。なにか事情がありそうだというのは分かった。約束する」

 宏人が頷いたので、澪も頷き返す。するとその場を見守っていた沙羅が首を傾げた。

「一体何のお話?」

 それから澪を見ると、ポッと頬を染めて、花のように笑った。

「澪伯爵! お会いできて嬉しいけれど、こんな格好で失礼します」
「――ああ、俺も嬉しい。また今度、改めて。それではごきげんよう、沙羅嬢。それに宏人伯爵」

 こうして澪は、絵山に薬類の載る盆を持たせて、高宮侯爵家を後にした。