貧民街の最寄りの路地で馬車を停め、澪達は外に降りた。
 貧民街には、そこにある裏路地を抜けてから、ごく細い坂道を下るとたどり着く。その知識は澪にもあったが、実際に足を運ぶのは初めてだった。

 貧民街というのは、様々な事情で家を失ったり職を失ったり、初めからどちらもなく捨てられたのだったりした者が暮らしている。非常に治安が悪く、スリも多い。夜鷹と呼ばれる花を売る遊女がいたり、犯罪に手を染める者が根城にしていたりする。戸籍がない者も多く、無法地帯でもある。なお一部の区画には、異国から入ってきた宗教の一つである聖フルール教の教会が孤児院や保護施設を展開している。

「あそこか」

 暫く歩くと、屋根に月を背負った十字架が立つ建物が見えてきたので、澪が呟いた。現在は四月なのだが、今年はまだ肌寒い。桜が控えめに開花している。坂道を下りきると、正面には濁った人工湖が見えた。ゴミの集積所も兼ねていて、水面にも数多のゴミや油が浮いている。その前にT字路があり、向かって右側に進むと、先程遠目に見えた、小さな教会があった。古びた教会の屋根の色は白緑色をしていて、礼拝堂と住居が一体になっているように見える。

「問題は、どうやって中に入るか、だな」

 教会の敷地の前に立ち、澪は腕を組んだ。一歩後ろには、左に絵山、右に久水が立っている。

 ちなみに今も日の光の下を歩いているように、吸血鬼は人間の想像する弱点の全てを持っているわけではない。一部は同じものもあるが、多くの吸血鬼は、日光に弱くはない。人間の方が、日光過敏の病などを持ちやすいほどだ。

 ただ、人間が考えた正解――あるいは吸血鬼の誰かが人間に漏らしたのだろう事柄もある。その内の一つに、吸血鬼は『招かれなければ、中に入れない』というものがある。

 澪の後ろで、絵山と久水が顔を見合わせている。
 すると丁度、目の前の教会の扉が開いた。

「あれ?」

 顔を出した青年が、三人に気づいて目を丸くした。整った顔立ちをしていて、黒い目に黒い瞳、実に人間らしい風貌だ。身長は平均的で、体躯は痩身である。黒い祭服姿で、久水より少し若いくらいの年頃、二十代半ば頃に見える。三十二歳の絵山よりは完全に若いが、十八歳の澪よりはずっと年上の外見だ。

 吸血鬼の外見年齢の老化は、非常に個体差がある。中には不老不死に近い吸血鬼がいるのも事実だが、ほとんどは人間と変わらない寿命だ。この部分も、人間の空想や想像が大きい。

「ええと……華族様、か? で、ですか……? なにか御用ですか?」

 困ったように笑いながら、青年が首を小さく傾げた。
 我に返った澪は、唇の両端と頬を持ち上げ、見る者を惹きつけるような笑みを浮かべる。澪のこの上辺の笑顔は、老若男女に大層評判がいい。皆、澪の作り笑いには騙されてくれる。純粋で無垢な優しい若き伯爵――本当はどちらかといえば聡く腹黒い澪だが、天真爛漫な素振りをして、色々と誤魔化しながら自分のイメージを構築するのが、彼の得意技だ。

「俺は西園寺澪と言う。華族・西園寺家の者です。実は昴牧師という人物を探していて……」

 言葉が終わるにつれ、澪は悲しげな表情を取り繕った。
 結果、青年が慌てたような顔に変わる。

「昴は俺ですが、え、ええと? 一体、どうして?」
「込み入った話なので、ここで話すのはちょっと……中に入れてもらえませんか?」
「それは構いませんが」
「有難うございます! 後ろの二人もいいですか?」
「勿論」

 頷きながら昴が答えた。あっさりと中に招いてもらう機会が訪れたので、澪は拍子抜けしつつも安堵する。そして後ろの二人にそれぞれ振り返ると、二人は冷静な従僕の顔をして、頷いていた。

 こうして招かれた三人は、昴の後ろに従い、教会の中へと入った。
 案内されたのは応接間のようだったが、質素な長椅子が一つと、一人がけの椅子が二脚、背の低い木のテーブルが一つあるだけで、お世辞にも居心地が良い場所ではない。床に敷かれた灰色の絨毯もボロボロであり、壁紙も所々剥がれ落ちていた。ただ、綺麗に掃除はされていて、窓際に生けられた白いガーベラも瑞々しい。

「それで、どんな御用ですか?」

 珈琲を用意して戻ってきた昴が、三人の前にカップを置きながら尋ねて、椅子に座した。
 長椅子に座っている三名は、それぞれ頭を下げてカップを手にする。本来、華族は貧民街の者にこうした態度は取らない――いいやそもそも、平民にこうした態度は取らないので、とても珍しい事だ。

「昴牧師、こちらの話をする前にまずは、貴方のご両親について伺っても構いませんか?」

 澪が切り出すと、困ったように昴が眉根を下げた。

「その……言いにくいけど、俺の母は所謂夜鷹をしていて……花を売っていたから、俺の父親は誰だか分からないと話していた。俺が小さい頃に母は亡くなったから、それ以上は何も……俺はほとんど孤児院で育ったんです」

 嘘をついているとすれば、類い希なる演技派だとしかいいようのない困惑した表情で、昴が答えた。長い睫毛が影を落としている。

「そうですか」

 頷いた澪は、吸血鬼同士であれば感じ取れる威圧感を放っていた。慣れている絵山と久水ならば、この程度では動じないが、澪の強い力は多くの吸血鬼を萎縮させる。だが人間にはそれは感じ取れない。そして、昴が動じた様子は微塵も無い。

 なお人間からは、基本的に強弱はあれど、甘い血の匂いがする。しかし昴からは、それも感じ取れない。そこで澪は伝承を思い出した。血を分けた者の場合は、人間であっても匂いを感じないという話だ。

 吸血鬼と人間の間に子が生まれた場合、その者は基本的に、きっぱりと吸血鬼か人間にわかれて生を受ける。両者の特徴を受け継ぐことはめったにない。この世界においては、はっきりと二者択一だ。

 澪はカップを手に取ると、珈琲を一気に飲み干す。

「すみません、緊張してしまって、喉が渇いて。もう一杯頂けませんか?」
「あ、勿論です。ちょっと待っててくれ」

 昴はそう言うと立ち上がって、カップを手に奥へと消えた。
 それを見送ってから、澪はまず右隣にいる久水を見た。珈琲は、三人だけになるための口実だ。

「おい、久水。俺は、昴牧師は人間だと感じたが、血の匂いはするか?」
「する。澪様にはしないのか? この美味そうすぎる、ちょっと度を超したいい匂いが」
「ああ、俺には何も感じられない。やはり血族……異母兄弟という事なのか」

 澪がそう言って腕を組むと、今度は左隣から絵山が言った。

「ちょっとこの香りは危険だよ。本当に美味しそう。見た瞬間から、俺、噛みそうになってた」

 それを聞いて、驚いてそちらを見て、澪は目を丸くした。

「そんなにか?」

 絵山は美食家で有名で、その辺の有象無象の人間を噛む事はない。久水は美味しそうな人間を見かけたらとりあえず噛み、次があるか否かは気まぐれといった食生活だが、絵山は吸血用の人間を数人確保している。人間に暗示をかけて記憶を消す力は、吸血鬼ならば皆が持つ。中には、暗示をかけずになんらかの報酬を用意して、人間と契約をする場合もある。絵山の場合も、都度記憶を消している相手と、契約をしている相手がいる。

 また、噛んだからといって、人間が吸血鬼になるというわけではない。人間が吸血鬼になるためには、秘儀が必要だ。

 ちなみに吸血鬼同士は、吸血できない。

「うん。次に帰ってきたら、噛んでもいい?」
「おい、待て。ずるい、俺も噛みたい」
「なら久水、二人で噛んじゃう?」
「いいな、絵山」

 二人の素早いやりとりには、本気の色しか見えない。完全に獲物を捕る算段をしている声音だった。澪は思わず嘆息する。