その夜、澪は居室にて、絵山と久水と三人でいた。久水が用意した紅茶に血の入ったジャムを垂らした澪は、ゆっくりと飲み込み吐息する。
「――というわけで、兄上が襲われたんだ。よって、護衛をつけたいと思っている」
澪の言葉に、絵山が腕を組む。
「妥当な判断だけど」
「ちょっと過保護なんじゃないのか?」
久水がそう言うと、澪は首を振って、改めて彼を見た。
「いいや。白兎の手紙も気になるし、兄上には何かある。貴重な手がかりだ。それになにより西園寺家の縁者が手出しをされるのは見過ごせない」
「ブラコンだろ、ただの」
「なんだって?」
「ブラコン」
「久水、繰り返す必要性を感じない。それよりも、よって、久水。兄上の護衛を頼む」
「えっ」
久水が目を丸くした。澪はそれには構わず絵山へと視線を向ける。
「絵山は俺と共に調査に協力してくれ。時計店の伊織牧師は孤児院の人間だ。唯一の、生臭い血の持ち主で素性が分かっている人物だ。その上兄上も貧民街の出。あの彩湖区に、なにか手がかりがあるかもしれない。そもそも白兎は、貧民街にいた兄上のことを知っていたわけだから、白兎もあの匂いや貧民街に、なにか関係があるのかもしれない」
「分かりました」
すんなりと絵山は頷くが、その顔にはやる気が見えない。つまり、いつも通りだ。
「おい。俺も澪様と調査する方がいい。絵山、変わってくれ」
「やだよ。俺だって澪様がいい。昴様は美人系だし血が美味しいけど、俺の主人は澪様だけだからね」
「俺だってそうだ」
「その澪様のご命令を無視するの?」
「っ……分かったよ」
久水が絵山に言い負かされていた。それを見守りつつ、澪は紅茶を飲み干した。
翌日は、晴れているわけでも雨が降るわけでもない、雲が多い空模様だった。貧民街の下調べに絵山が向かったので、澪は昴と久水の様子を観察することにした。書斎の窓から庭を見れば、本日は庭で礼儀作法の勉強をしている昴と、講師役の火野、そのそばの椅子に久水の様子がある。久水は言葉とは裏腹に、安全な邸宅内でもきちんと護衛をしてくれている。
久水を護衛の担当にしたのは、絵山よりは昴を噛みたがらないからという理由だけだ。武力も調査能力も、絵山と久水は拮抗している。どちらも態度は別だが、優秀な従僕だ。
頬に手を添え、その肘をもう一方の手で持ち、ぼんやりと澪は考える。
白兎の目的は、なんなのだろう。
ただの愉快犯には思えない。
コンコンとノックの音がしたのは、その時だった。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは絵山だった。従僕としての正装ではなく、シャツに和服、袴という和洋折衷な服装だ。私服姿というよりは、街に紛れるための姿だと澪はすぐに気がついた。
「なにか分かったか?」
「聖フルール・エトワール大教会が、くだんの伊織牧師の所属している教会で、大規模な孤児院が付属しています」
「ああ」
「整理すると、そこには、昴様の育ての親らしき紫苑牧師もいますよね」
「そのようだな」
「紫苑牧師本人にはまだ接触しませんでしたが、孤児院の外を歩いて孤児を見た感想として、特定の一人というより全体的に、強度は別々ですが、俺は、例の『ジャック』の事件の時に嗅いだような、生臭い匂いを感じました」
「――なに? 孤児全員ということか?」
「少なくともその場にいた孤児からは感じられました」
絵山の報告に、澪は険しい顔をして腕を組む。それから左手の指先を持ち上げて、唇に当てた。
「特別な匂いではなかったということか?」
「さすがにそれはないでしょ。そうは思わないよ」
「では、その孤児院が特殊と言うことか?」
「俺はそう思うけど、確証はないし、そうなった理由も不明だね」
「もう少し調べてみる必要がありそうだな」
澪がそう言った時、絵山が懐から封筒を取り出し、澪の執務机の上に置いた。
「三日後に、貧民街のまさにその孤児院で、人間の富裕層による慈善事業が行われるんだって。華族――や、吸血鬼は行かないけど、その下の階級くらいの人がやってるみたいだね。十分紛れ込める。少し服装のグレードは落とさないといけないけど」
「そうか。確かに、慈善事業ならば、気まぐれに華族が顔を出しても問題は無いし、主催する人間も断らないだろうしな。自然と孤児院に入れる。招いてもらえるな。絵山、服の用意を頼む」
「畏まりました」
頷いた絵山は、それから中へと入ってきて、執務机の前の応接用のソファに座った。
「はぁ、疲れた」
そして勝手に、澪のための紅茶を、テーブル上にあった新しいカップに注いで飲み始める。これは二人きりだとよくある事なので、特に澪も咎めない。
「生き返る」
「そんなに紅茶が美味いのか?」
「違うよ。澪様のそばにいて、澪様の顔を見てるとって意味」
「逆に意味が分からなくなった」
澪は首を捻りつつ、執務机の椅子に座った。そして机の上にあった、西園寺家当主のサインが必要な書類に、代理として万年筆でサインを始める。
「慈善事業なんですけど、手作りのお菓子を持っていくみたいですよ。どうするの?」
「風原にクッキーを焼いてもらってくれ」
「分かったよ、言っておく」
現在テーブルに載るティースタンドの茶菓子も全て、風原の作ったものだ。彼は料理だけでなくお菓子作りにも秀でている。
その後暫くの間、絵山は静かに紅茶を飲み、澪は書類を片付けていた。
澪が書類を片付け終わったその時、絵山が澪の分の紅茶を淹れる。
「澪様はいいよね」
「なにが?」
「無言でいても落ち着くから」
そういうものだろうかと、澪は曖昧に頷いたのだった。
「――というわけで、兄上が襲われたんだ。よって、護衛をつけたいと思っている」
澪の言葉に、絵山が腕を組む。
「妥当な判断だけど」
「ちょっと過保護なんじゃないのか?」
久水がそう言うと、澪は首を振って、改めて彼を見た。
「いいや。白兎の手紙も気になるし、兄上には何かある。貴重な手がかりだ。それになにより西園寺家の縁者が手出しをされるのは見過ごせない」
「ブラコンだろ、ただの」
「なんだって?」
「ブラコン」
「久水、繰り返す必要性を感じない。それよりも、よって、久水。兄上の護衛を頼む」
「えっ」
久水が目を丸くした。澪はそれには構わず絵山へと視線を向ける。
「絵山は俺と共に調査に協力してくれ。時計店の伊織牧師は孤児院の人間だ。唯一の、生臭い血の持ち主で素性が分かっている人物だ。その上兄上も貧民街の出。あの彩湖区に、なにか手がかりがあるかもしれない。そもそも白兎は、貧民街にいた兄上のことを知っていたわけだから、白兎もあの匂いや貧民街に、なにか関係があるのかもしれない」
「分かりました」
すんなりと絵山は頷くが、その顔にはやる気が見えない。つまり、いつも通りだ。
「おい。俺も澪様と調査する方がいい。絵山、変わってくれ」
「やだよ。俺だって澪様がいい。昴様は美人系だし血が美味しいけど、俺の主人は澪様だけだからね」
「俺だってそうだ」
「その澪様のご命令を無視するの?」
「っ……分かったよ」
久水が絵山に言い負かされていた。それを見守りつつ、澪は紅茶を飲み干した。
翌日は、晴れているわけでも雨が降るわけでもない、雲が多い空模様だった。貧民街の下調べに絵山が向かったので、澪は昴と久水の様子を観察することにした。書斎の窓から庭を見れば、本日は庭で礼儀作法の勉強をしている昴と、講師役の火野、そのそばの椅子に久水の様子がある。久水は言葉とは裏腹に、安全な邸宅内でもきちんと護衛をしてくれている。
久水を護衛の担当にしたのは、絵山よりは昴を噛みたがらないからという理由だけだ。武力も調査能力も、絵山と久水は拮抗している。どちらも態度は別だが、優秀な従僕だ。
頬に手を添え、その肘をもう一方の手で持ち、ぼんやりと澪は考える。
白兎の目的は、なんなのだろう。
ただの愉快犯には思えない。
コンコンとノックの音がしたのは、その時だった。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは絵山だった。従僕としての正装ではなく、シャツに和服、袴という和洋折衷な服装だ。私服姿というよりは、街に紛れるための姿だと澪はすぐに気がついた。
「なにか分かったか?」
「聖フルール・エトワール大教会が、くだんの伊織牧師の所属している教会で、大規模な孤児院が付属しています」
「ああ」
「整理すると、そこには、昴様の育ての親らしき紫苑牧師もいますよね」
「そのようだな」
「紫苑牧師本人にはまだ接触しませんでしたが、孤児院の外を歩いて孤児を見た感想として、特定の一人というより全体的に、強度は別々ですが、俺は、例の『ジャック』の事件の時に嗅いだような、生臭い匂いを感じました」
「――なに? 孤児全員ということか?」
「少なくともその場にいた孤児からは感じられました」
絵山の報告に、澪は険しい顔をして腕を組む。それから左手の指先を持ち上げて、唇に当てた。
「特別な匂いではなかったということか?」
「さすがにそれはないでしょ。そうは思わないよ」
「では、その孤児院が特殊と言うことか?」
「俺はそう思うけど、確証はないし、そうなった理由も不明だね」
「もう少し調べてみる必要がありそうだな」
澪がそう言った時、絵山が懐から封筒を取り出し、澪の執務机の上に置いた。
「三日後に、貧民街のまさにその孤児院で、人間の富裕層による慈善事業が行われるんだって。華族――や、吸血鬼は行かないけど、その下の階級くらいの人がやってるみたいだね。十分紛れ込める。少し服装のグレードは落とさないといけないけど」
「そうか。確かに、慈善事業ならば、気まぐれに華族が顔を出しても問題は無いし、主催する人間も断らないだろうしな。自然と孤児院に入れる。招いてもらえるな。絵山、服の用意を頼む」
「畏まりました」
頷いた絵山は、それから中へと入ってきて、執務机の前の応接用のソファに座った。
「はぁ、疲れた」
そして勝手に、澪のための紅茶を、テーブル上にあった新しいカップに注いで飲み始める。これは二人きりだとよくある事なので、特に澪も咎めない。
「生き返る」
「そんなに紅茶が美味いのか?」
「違うよ。澪様のそばにいて、澪様の顔を見てるとって意味」
「逆に意味が分からなくなった」
澪は首を捻りつつ、執務机の椅子に座った。そして机の上にあった、西園寺家当主のサインが必要な書類に、代理として万年筆でサインを始める。
「慈善事業なんですけど、手作りのお菓子を持っていくみたいですよ。どうするの?」
「風原にクッキーを焼いてもらってくれ」
「分かったよ、言っておく」
現在テーブルに載るティースタンドの茶菓子も全て、風原の作ったものだ。彼は料理だけでなくお菓子作りにも秀でている。
その後暫くの間、絵山は静かに紅茶を飲み、澪は書類を片付けていた。
澪が書類を片付け終わったその時、絵山が澪の分の紅茶を淹れる。
「澪様はいいよね」
「なにが?」
「無言でいても落ち着くから」
そういうものだろうかと、澪は曖昧に頷いたのだった。