桜鬼家の贄花嫁 純血の四兄弟は甘き婚約者を奪いあう

 萌香が清蘭学園に登校したのは、結局その翌日だった。
 弐亜に噛まれた傷を見た参悟から、一日休養するように勧められたからだ。
 彼の神力で傷口はすぐにふさがったけれど、寝込みを襲われた心の傷を心配された。
 夜には壱岐が帰ってきた。参悟から事情を聞いて怒ってくれたが、弐亜はどこかに出かけていて話はできなかった。

「清蘭学園は幼稚舎から大学部までエスカレータ式なんです。萌香さんが転学するのは高等部の一年。私は二年なので教室の階は違いますが同じ校舎ですよ」
 参悟は、萌香に高級ホテルのような校舎を案内してくれた。
 どこを見ても豪華だ。平民の学校のように汚れたり壊れたりしている場所はなく、談笑する生徒もみんなお淑やかで、萌香が知る高校生とはかけはなれている。
 それは隣を歩く参悟も同じ。
 すらりとした背丈と落ち着いた態度は大人のようなのに、萌香の一学年上だというから、びっくりしてしまった。
「私はここで。後でお会いしましょう」

 職員室に送り届けられた萌香は、担任の女性教師に挨拶した。
 彼女と一緒に教室に向かって、朝のホームルームのはじめに紹介の時間を作ってもらう。
「こちらは野宮萌香さんです。自己紹介は自分でできるかしら?」
「は、はい! 皆さん、はじめまして。野宮萌香です。よろしくお願いします!」
 がばりと頭を下げる。礼儀正しく机についた生徒たちはパラパラと拍手を送ってくれた。

(あんまり歓迎されていない、かな?)
 親戚の家を転々としてきただけあって転校には慣れている。
 最初の感触でクラスになじめるかどうかがわかるのだが、ここはイマイチだ。
 よくない雰囲気を感じた教師はパンと手を叩いた。
「萌香さんは清蘭が初めてなの。代々ここの理事を務めている桜鬼家で暮らしているそうだから、華族の者はとくに力になってあげるように」
 桜鬼家の名前が出た瞬間、生徒たちの顔に驚きが浮かんだ。

(ここでも影響力ばつぐん……。桜鬼家って本当にすごいんだなぁ)
 窓際の一番後ろの席に座った萌香は、ホームルームが終わるなり生徒に取り囲まれた。
「桜鬼家で暮らしているって本当なの?」
「もしかして、参悟様と一つ屋根の下ってこと!?」
「ぼくは壱岐様が目標なんだ。話を聞かせてほしい」
「え、えっと」

 女子も男子も桜鬼家の話を聞きたいようだ。だが、萌香に語れることはあまりなかった。
 壱岐と出会ってまだ三日目。
 母屋の間取りさえ覚えていないのに、彼らの知られざる秘密を語れるわけがない。
「ごめんなさい。教科書を忘れちゃったみたいで……購買に行ってくるね!」
 耐えきれずに教室から走り出た。
 残されたクラスメイトは顔を見合わせる。
「高等部に購買はないよね?」
「何でも買ってきてくれるコンシェルジュはいるけど……」

 萌香は、ろくに知らない廊下を走り抜けて、だだっ広い校舎で当然のように迷った。
「ここはどこなんだろう……」
 右も左も空き教室。授業が始まったせいか出歩く生徒はいない。
 さすが清蘭学園。サボったり早退する生徒はいないようだ。
 職員室で地図をもらおうと歩いたが、どこをどう間違ったのか中庭に出てしまった。
 巨大な噴水が中央にあり、左右は色とりどりの花が咲きほこる花壇になっていた。
 白いパラソルの下にはガーデンテーブルと椅子が設置されて、このままカフェが営業できそうだ。

「いいお天気だし、ここでカフェオレを飲んだら気持ちよさそう」
 晴れた空を見上げて噴水に近づいていく。歩きつかれたので休憩がしたかった。
 噴き上げられて落ちていく水の帯を目でたどると、揺らめく水面の向こうに人影が見えた。
(誰かいる)
 服の色合いから高等部の生徒のようだ。
 萌香は顔色を明るくして駆け寄った。

「すみません! 道を聞きたいんですけど――」

 噴水を回り込んだ萌香は、ピタッと足を止めた。
 噴水のへりに腰かけてスマホを操作していた人物は、弐亜だった。
 シャツの襟をくつろげていて、首にかけた二連のチェーンが胸筋にそって垂れるのが見えた。
「どうして弐亜さんがここにいるんですか」
「サボりだよ。僕、ここの生徒だから」
「高校生だったんですか!?」

 思わず大声を出してしまった萌香に、弐亜は不本意そうに唇をとがらせた。
「そんなに驚かれると傷つくな~。涙が出てきちゃった。ハンカチ貸してくれる?」
「これでよければ、どうぞ」
 素直に差し出すと、パシッと手首をつかまれて引き寄せられた。
「きゃっ」
 どさっと倒れ込んだ先は弐亜の胸だった。彼は、萌香の首筋を確認して肩をすくめる。
「傷、治されちゃったんだね。せっかく僕のモノだって印をつけたのに」
「私は弐亜さんの所有物ではありません!」
「じゃあ、壱岐の?」

 弐亜の視線が剣のように鋭くなったので、萌香は硬直する。
 赤い瞳から感じるのは、こごり固まった血のように黒い感情。
 どうも弐亜は、壱岐に憎しみにも似た感情を抱いているようだ。
(兄弟なのに)
 家族をすべて失った萌香には、血をわけた相手を敵対視する弐亜が理解できない。
 どうせなら仲良くしたらいいのに。胸がもやもやする。

「……私は、壱岐さんのモノでもありません。一年の教室がどこにあるか教えてくれませんか? 迷っちゃったんです」
 ダメもとで聞いたら、弐亜は吊り上げていた眉をカクンと下げて吹き出した。
「萌香ちゃんって天然だよね。いいよ、案内してあげる。萌香ちゃんの方から僕のモノにしてっておねだりしてくれるように、点数を稼いでおかないとね」
 弐亜は萌香を支えて立ち上がると、手を引いて歩き出した。
 大きな手のひらは、お父さんみたいで安心する。
(強引でとらえどころがないけど、悪い人じゃないんだ)

 その後、無事に教室に戻った萌香は、クラスメイト総出で捜索されそうになっていてびっくりした。
 夜も更けて屋敷が静まった頃、萌香は壱岐の部屋を訪れる。
 飢鬼になって一切の味覚を失った彼を癒す、甘贄としての役割を果たすために。

「――ん」
 声を漏らして唇を離した壱岐は、甘ったるいキスに呑まれてぼんやりする萌香の赤くほてった頬を撫でた。
 こうしてキスをするのは週に一度。
 だけど、何回しても萌香は慣れない。
「今晩もありがとう。萌香には負担ばかりかけているな」
「いいえっ。私こそ壱岐さんに頼ってばかりで申し訳ないです。生活費も学費も払ってもらって。働けたらいいんですけど、清蘭学園はアルバイトが禁止で……」

 清蘭学園は独特な校則があり、起業や投資は認められているけれどアルバイトは絶対禁止。ただの労働は勉強にならないというのが大きな理由だ。
 いくら甘贄とはいえ、これでは萌香は桜鬼家の厄介者だ。
 消沈する萌香に、壱岐は「気にするな」と首を振った。
「どうせ金なら腐るほどあるんだ。それに、萌香にならいくら使っても惜しくない。学校にはもう慣れたか?」
「毎日楽しいです。友達もできましたし、参悟さんや弐亜さんが助けてくれますし」
 二人の名前を出すと、壱岐の顔がわずかに曇った。
「……壱岐さん?」

「いや、弟と仲良くしているようでよかった。あれ以降、弐亜も大人しくしているしな。萌香が家に来るまでは帰ってこない日の方が多かったんだ」
 弐亜は旧套な家を嫌い、知り合いの家を転々としていたようだ。
 あの見た目と桜鬼家の御曹司という身分を使えば、どんな相手にも取り入り放題だろう。
(たぶん、女の人の家に泊まってたんだろうなぁ)
 ちょっと不潔な妄想をしてから、壱岐も女性はよりどりみどりだと思い至る。
 桜鬼家の実質的なトップとして君臨する壱岐が、なんのとりえもない萌香を求めてくるのは、飢鬼としての本能だ。
 どんなに情熱的なキスをしても、彼は萌香を愛していない。

 華族と平民。
 桜鬼家の長男と孤児。
 萌香と壱岐は、決定的に違う。
 萌香がどんなにあがいても現実は変わらないから、そっと気持ちに蓋をする。
 好きと言えたら、どんなに楽だろう。だけど、それは言ってはいけない呪文。

「明日も忙しいんですか?」
 熱くうるんだ目で見上げると、壱岐はつれなく腕を下ろしてちらりと窓の方を見た。
「夜には家に帰れそうだが、夕餉は参悟ととってくれ」
「そうですか……」
 がっかりして萌香は壱岐から離れた。
 キスした後の寂しさは、自室に帰ってベッドにもぐりこむまで続いた。


    ◇◇◇


「――くれぐれも怪我のないように。清蘭学園の生徒として楽しみましょう

 壇上で一礼する参悟に、講堂に集まった高等部の生徒が拍手を贈った。
 話を聞いていた萌香も手をパチパチと打ち鳴らす。
(参悟さんの開会宣言、かっこよかった。さすが生徒会長!)
 参悟は二年生ではあるが生徒会長を務めている。
 今日は球技大会で、先ほどのは生徒会長による開会宣言だ。

 式が終わると、学校指定のブランド製ジャージに身を包んだ生徒は会場へ急ぐ。
 スポーツ選手も多く通う清蘭学園の球技大会は、プロチームとの招待試合が目玉になっている。生徒同士の球技はお飾り程度で、有望な生徒の活躍を見るために欠席者多数で中止になる試合も多いのだとか。
 萌香はバドミントンに出場する。
 会場の第三体育館に行く前に、教室へ水筒を取りに戻ると、ロッカーに入れてあった鞄がない。赤いスプレーが吹かれていて、ハンガーにかけた制服も置いていた教科書も真っ赤だ。
「誰がこんなことを……」
 言葉を失っていると、後ろから複数の笑い声が聞こえた。
 振り向くと、クラスの一軍女子たちがニヤニヤと笑っていた。開会式に出ていないと思ったら、ここで時間をつぶしていたようだ。

「野宮さんのロッカー、きたなーい。平民は整理整頓もできないんだぁ」
「あなたたちがやったの?」
 彼女たちは以前から、桜鬼家で世話になる萌香を疎んでいる様子だった。
 お嬢様育ちだからイジメはしないだろうと思っていたが、甘かったらしい。
 彼女たちは「証拠もないのにひどい」と被害者みたいなことを言いながら爆笑している。
(話していても埒が明かないな)
 萌香はバンとロッカーを閉じて、きびすを返した。

 清蘭学園の敷地は広い。
 開会式の間に萌香のロッカーを荒らして鞄を捨てたとすれば、そう遠くない場所に捨てられているはずだ。
 ゴミ箱の中にはなかった。中庭の噴水にも浮いていない。
 花壇のなか、雨樋のした、用具入れ……。
 萌香はあちこち歩き回ったが、鞄はどこにもない。

 わあっと歓声が上がって顔を上げる。
 気づけば、バスケの試合が行われている第一体育館のそばだった。
 通気口からのぞいたら、弐亜がBリーグの選手を翻弄してシュートを決めていた。
 黄色い歓声に顔を向けると、テニスコートで参悟がレジェンド選手と互角の戦いを見せていた。
 弐亜も参悟も女性人気がすごい。
 萌香が嫌がらせを受けたのは、彼らと同居しているせいかもしれない……。

 ふいに、萌香は二メートルくらい先の茂みに目をとめた。
 ここは高等部の敷地なのに、中等部の制服を着た少年がいる。
 こっそり参悟に熱い視線を送る彼の手には、萌香の鞄があった。
「それ、私の!」
 叫ぶと、少年はすっと視線を動かして萌香を見た。
 その瞳は、壱岐や弐亜、参悟と同じ赤色だった。
 少年は、目じりが切れ上がった大きな瞳で萌香をじっと見つめる。
 四方にはねた髪は銀色だが、ミステリアスな雰囲気はどことなく壱岐に似ていた。
「モカ、これ」
 鞄とともに差し出されたマスコットは、萌香が幼稚園の頃に母が作ってくれたもので、『もかちゃんへ』と刺繍が入れられている。
 赤く染まった鞄と違ってこちらは汚れていなかったので、萌香は笑顔で受け取った。
「拾ってくれてありがとう! どうして私が持ち主だってわかったの?」
「んー……」

 少年は、もの憂げにあごに手を当て、ゆっくりした動作で小首を傾げた。
 手首にはめた赤い腕輪が揺れる。
壱岐兄(いつきにい)が写真を見せてくれた。昨日、離れで夕餉をとったときに」
「離れって、桜鬼家の敷地の端にある建物だよね。人が住んでたんだ……」
 大きな池のある日本庭園を歩くと、枝ぶりの大きな紅葉に隠れるように建てられた家が見える。
 萌香はそれを茶室だと思い込んでいた。まさか、住人がいたとは。
「母屋は広くて空いてる部屋もたくさんあるのに、どうして離れに?」
 悪気なく聞いたら、少年は子犬のようにシュンとうなだれた。
「オレ、妾の子だから……」
「え?」
「あそこは、愛人が住む家」

 少年の目から光が消え、テニスコートに、そして体育館に向ける視線がじっとりとした影を帯びる。
 日陰にいるせいか、瞳の色が乾いた血のように黒ずんで見えた。
 けれど、目に浮かんでいるのは憎しみではなかった。
 純粋な憧れだ。
(この子、お兄さんを応援に来たんだ)
 人気のない場所にいるのは、誰かに見られると変な噂を立てられて兄たちに迷惑がかかるからだろう。
 少年のけなげな姿は萌香の胸を打った。

「あなたの名前を聞いてもいい?」
「……オレは四葉(よつば)。壱岐兄とは母親が違うけど認知されてる。桜鬼本家はオレを入れて四兄弟」
 壱岐には、弐亜と参悟の他にも弟がいたらしい。
 萌香は離れに近づかないし、教えてくれる人もいなかった。
 桜鬼家の事情に首を突っ込むなと言われればそれまでだけど、線を引かれているようで少し寂しい。
「四葉くんは、いつから離れで暮らしているの?」
「去年。父さんの葬儀に出たら、壱岐兄が同じ屋敷で暮らそうと言ってくれた。オレも桜鬼家の子どもだからって。だけど、当主のお爺様が認めてくれなくて。落としどころを作るために、オレと母さんは離れで暮らしてる……」
 壱岐、弐亜、参悟、そして四葉の父親は病気で儚くなり、彼が率いていた桜鬼グループは壱岐が受け継ぐことになった。
 桜鬼家の当主は存命の祖父だ。萌香はまだ会ったことがない。
(いつか、ご挨拶することになるのかな)

 その日がちょっとだけ怖い。
 四葉のような子どもですら陰に追いやる人物が、甘贄である萌香を受け入れてくれるとは思えなかった。
 壱岐の重荷になるのであれば、萌香はすぐにでも離れる。
 たとえ、彼がそれを望まないとしても。

「モカは、ずっと母屋にいる?」
 四葉はじいっと瞳をのぞき込んでくる。
 澄んだ赤い瞳に心の奥まで見透かされそうで、萌香は少し身がまえた。
「い、いるよ。私、他に行くあてがないところを壱岐さんに拾われたの」
 甘贄として、という部分はぼかしたが、四葉はそのまま受け入れてくれた。
「そうなんだ。オレと同じ、だね」
 微笑む顔は嬉しそうだ。無垢な反応に、萌香は安堵する。

(四葉くんはまだ飢鬼にはなっていないみたい)
 弐亜のように噛みついてくることはなさそうでほっとする。
 あんな獣が周りに二人もいたら大変だ。
「モカ。今度、離れにお茶しに来て。オレも母さんも喜ぶ」
「学校がお休みの日でもいいなら行くよ。連絡先も交換しよう」
「うれしい。モカ、好き」
「大げさだなぁ」

 あっという間に仲良くなるそばで、ピピ―ッと試合終了の笛が慣らされた。
 二人で顔を見合わせて、こっそり通気口から体育館をのぞく。
 シャツの首をのばして顔の汗をぬぐう弐亜のチームが勝利。
 テニスコートの方も参悟の勝ちでゲームセットしていた。
弐亜兄(にあにい)も、参悟兄(さんごにい)も、かっこいい……」
 四葉はぼそっとつぶやいた。
 あまり感情が表に出ない性格のようだが、瞳はキラキラ輝いていた。

 横目でそれを見ながら萌香は思う。
(四葉くんもかっこいいよ)
 本人に言わないその気持ちは、そのまま萌香の心に残った。
 無事に球技大会が終わり、清蘭学園のテストシーズンがやってきた。
 萌香を悩ませたのは試験範囲の広さ。
 生徒の多くが有名塾や家庭教師に勉強を教わっているため、清蘭では普通の学校の二倍の速度で授業が進んでいく。三年生になったとき、受験勉強だけに集中するためだという。
 予習、復習してもなにがなにやらわからない萌香は、当然ながら赤点連発だった。
 一週間後には追試がある。
 萌香は、恥を忍んであの人に泣きついた。

「――この公式は暗記してください。大問で必ず出ます」
 母屋のライブラリールームで、萌香は眼鏡をかけた参悟から勉強を教えてもらっていた。
 全教科で満点をとっているだけあって教え方が上手だ。
 問題は、萌香の理解力である。
 苦手な数学の問題集を解いてもう一時間がたつ。
 集中力切れを起こして目玉をぐるぐるさせていたら「少し休憩しましょうか」と甘いティーラテを取りにいってくれた。
 一人残された萌香は、ペンを置いてはぁとため息をつく。
「また赤点だったらどうしよう……」

 寝る間も惜しんで机に向かっているが、勉強するほどに効率が落ちている気がする。
 参悟のすすめで、テストに出やすい箇所に集中する方針に切り替えてからも、萌香はがんばりすぎてから回っていた。
(留年したら、学費を払ってくれてる壱岐さんに失礼だよ。がんばらないと)
 そよそよ吹く風に頬をなでられて眠くなってきた。参悟はまだ戻ってくる気配がない。
(ほんの少しだけ目を閉じていてもいいかな)
 萌香は、ノートの上に伏せるように目を閉じた。


「お待たせしました。……萌香さん?」
 二人分のティーラテを盆にのせてライブラリールームに入った参悟は、萌香がテーブルにつっぷして眠っているのを見て肩をすくめた。
(お疲れのようですね)
 盆を置き、彼女の隣の椅子に腰かけて寝顔をながめる。
 カールしたまつ毛はモカ色の髪と同じ色。
 健やかな寝息にあわせて上下する体は細く、これでよく今まで生きてこられたと感心する。

 壱岐の話では、萌香は両親を亡くして親戚の家を転々としてきた。
 恵まれた生活をしてきた参悟には思いもよらない苦労があったに違いない。
(ここ数年の間に、甘贄が襲われる事件が増えてきているそうです。萌香さんのご両親も、その被害者かもしれない)
 襲っているのは飢鬼だと思われる。
 すでに鬼化している参悟にとって他人事ではないし、壱岐が萌香を保護したのも同じ理由だろう。

 華族には飢鬼が多い。
 萌香の両親を殺したのが同族なら、華族の上にたつ桜鬼家には彼女を保護する責任がある。
(本当にそれだけでしょうか?)
 鼻をかすめる甘い匂いが参悟の思考をくもらせた。
 甘贄が発する独特の香りは飢鬼にしかわからないという。
 強い飢餓感にさいなまれた飢鬼が、甘贄を見つけて我慢できるとは思えない。

 参悟は知っている。
 壱岐が週に一度、萌香を自室に呼んでいることを。
 凛々しく気高い兄が人払いをさせてまで彼女と何をしているのか、考えたくない。
「……萌香さんはそれでいいんですか」
 薔薇色の頬に指をすべらせる。
 壱岐はここに触れただろうか。
 唇を寄せて、舌でなぞって、この少女で飢鬼としての渇きを癒したのだろうか。

 穢らわしい。
 そう思うのに、なぜか参悟の胸は高揚していた。
 飢鬼になったのは半年前だ。
 死なない程度に食物は口に入れているが、味がしないと心が飢える。
(壱岐お兄様が夢中になるくらい、萌香さんはおいしいのでしょうか)

 そんなに甘いのなら、そんなに満たされるのなら、自分も少しでいいから味見をしてみたい――。

 参悟は顔を近づけて、萌香の頬に控えめに唇を落とした。
 ほんの少し触れただけなのに口内に甘みが広がって、脳がグラッと揺れる。
(おいしい)
 参悟の目つきが変わった。
 理性は一瞬で吹き飛び、萌香を味わうことしか考えられなくなる。

 もっと食べたい。飲み込みたい。
 この甘贄を自分だけのモノにしてしまいたい――

「ん……? 参悟さん?」
 萌香が目をこすって起き上がった。
「あ……」
 参悟は我に返って驚愕した。
 萌香にキスしてしまった。蜜蜂が花に吸い寄せられるように、欲望にあらがえなかった。
 自分のなかに眠っていた暴力性が恐ろしくなって、口元に手を当てて立ち上がる。
 このまま萌香のそばにいたら、彼女に何をするかわからない。
「すみません。用事を思い出しました」
 廊下に出ようとすると、出口を塞ぐように弐亜が立っていた。
(見られていた)

 血の気が引く。弐亜はそんな参悟をさらに追い詰めるように口角を上げた。
「優等生ぶってても飢鬼は飢鬼だね。お前は僕らと同じだ。萌香ちゃんを食べたくてたまらないんだよ」
「違う!」
 参悟は声を荒らげた。
 壱岐は許せるが、弐亜と同類扱いされるのは我慢ならない。
「私は貴様のように萌香さんを傷つけたりしない……!」
 手のひらに神力を集めて、弐亜へ向けて放つ。
 その瞬間、弐亜をかばうようにして萌香が割り込んできた。

「だめっ!」
「萌香ちゃん!」
 弐亜が抱きとめる。神力で頬や足に怪我をした萌香は、痛そうに顔を歪めながら「平気です」と笑った。
 あからさまな笑顔は弐亜の心に火をつけた。
 萌香を一人で立たせると、言葉を失っていた参悟につかみかかる。
「こんな場所で神力を放ったらどうなるか考えなかったわけ!?」
「萌香さんを傷つける気はありませんでした。お前がよけたのが悪いんでしょう」
「ふざけんなよ!」
 殴り合いに発展しそうになって、萌香はうろたえた。
「弐亜さんも参悟さんも落ち着いてください!」

「そうだよ。モカが困ってる」
 氷を叩いたような声が加勢して、三人はいっせいに戸口を見た。
 入ってきたのは四葉だった。
 彼は、白い指先で萌香の手を握ると、喧嘩する兄二人を冷たく見すえる。
「放っておくならオレがもらう。モカ、行こう。手当てしてあげる」
 感情の読めない声で告げて四葉は歩き出した。
 引っ張られた萌香はついていかざるを得なくて、あわあわと振り返る。
「私は大丈夫ですから、仲直りしてくださいー!」

 残された弐亜は、バツが悪そうな表情で手を下ろした。
「……腹が立つけど、あの子の言う通りだ。萌香ちゃんの手当てを優先するべきだった」
「先に、萌香さんに謝るべきでした」
 参悟もまた自分の間違いを認めて反省した。
 兄弟のなかでも弐亜と参悟は仲が悪く、普段は顔を合わせないようにしている。
 それなのに、なぜ今回はお互いに衝突してしまったのか。

 理由は漠然とわかっていた。二人とも飢鬼だからだ。
 甘贄を前にすると、ひとりじめしたい欲を抑えられなくなる。
 萌香に近づく飢鬼は滅せよという本能からの警告が冷静さを失わせた。
「四葉くんに一本取られちゃった。今日は痛み分けにしよう、参悟。萌香ちゃんにはちゃんと謝るんだよ?」
「こんなときだけ兄貴風を吹かさないでください。言われなくてもそうします。手当てはあの子がしてくれるそうですから、夜にでも」
 肩をすくめる弐亜も、暗い表情で反省する参悟も、欲にかられない四葉がうらやましかった。
 飢鬼でない彼であれば、きっと打算なく萌香を大切にできるから。


 ――四葉に手を引かれて離れにやってきた萌香は縁側に座らされた。

 いつもなら四葉の母が挨拶に出てくるが、今日は外出しているらしい。
 数名の使用人も母屋の手伝いに行っている時間で、正真正銘の二人きりだ。
 そのせいか、四葉は腰を下ろしても手を離そうとしない。
「あ、あの四葉くん?」
「弐亜兄も参悟兄もひどいね……」
 もの憂げに目を伏せた四葉が、手首にはめていた腕輪を外す。
 途端に、握られた手が熱くなって、伝わった温度が萌香の全身を包み込んだ。
(神力だ!)
 壱岐も使っていた治癒の法で、参悟につけられた傷は綺麗に消えてしまった。

「ありがとう。四葉くんにも神力があったんだね。飢鬼になっていないから、持ってないかと思ってた」
「これで抑え込んでた。強い神力があるとお爺様に知られたらいけないからって。でも……モカに会って覚悟ができた」
「覚悟って?」
 萌香が首を傾げたと同時に、四葉の腕輪にピシッとひびが入る。
 ひびはあっという間に広がって、腕輪は粉々になってしまった。
「割れちゃった!」
「……大人になる日がきた。つっ」
「四葉くん!?」

 四葉は苦しそうに背を丸めた。
 不思議なことに、彼の体は桜色の光に包まれていき、光が広がるごとに四葉はうめいた。
「い、たい、痛い……」
 萌香はたまらず彼を抱きしめて助けを求める。
「誰か! 誰かいませんか!」
「呼ばないで、モカ」
 顔を上げた四葉は、涙をためた目に萌香を写して、苦しくも幸せそうに微笑む。
「モカにだけ見てほしいから……」

 カッと光が強くなり、萌香の視界が真っ白に染まった。
(まぶしい!)
 思わず目を閉じるが、何も起こらない。
 そうっと目蓋を開けると光はすっかり消えていて、萌香の肩に手を置いた四葉はうつむいていた。
「よ、四葉くん。大丈夫?」
「モカ――」
 白い指にあごをすくいあげられる。
 はっとしたときには、萌香の唇は四葉のそれと重なっていた。
(四葉くん!?)

 どうしてキスしているんだろう。四葉と萌香は、友達だったはずなのに。
 喧嘩の場から連れ出して、傷の手当てをしてくれた優しい四葉。
 それが今は、食物連鎖の上にいる肉食獣みたいに萌香に食らいついている。
「ん……」
 萌香の動揺をよそに、夢中で口内を味わった四葉は、唇を離してあやしく笑った。
「モカが甘い……。オレも、やっと飢鬼になれたんだ……!」
 瞳孔をぱっくり開け、白皙の頬を染めて、四葉は歓喜に包まれる。
 その様子に、萌香はゾッとした。
 壱岐や弐亜は飢鬼になってあんなに苦しんでいるというのに、四葉もそうなりたかったというのか。
 急に、四葉が正体不明な怪物のように思えてきて、体の震えが止まらない。

 逃げたい。
 だけど、逃げても意味がないとわかっている。
 四葉は、桜鬼四兄弟のなかでもっとも獰猛な鬼だ。
 萌香が逃げたら地の果てまで追ってきて、この体を食べつくすだろうと、甘贄の本能が警告してくる。
(こわい。四葉くんが、すごくこわい)
 おびえる萌香の濡れた唇を指でなぞって、四葉は甘ったるく目を細めた。
「おいしかったよ、モカ」
 窓の外に桜色の光が見えて、壱岐は表に走り出た。
(今のは桜鬼家の者が鬼化するときの光だ)
 光が放たれたのは離れの方角である。
 離れは異母弟の四葉が住んでいる家で、数名の使用人以外は立ち入らせないようにしていた。
 四葉の神力の強さを周囲に悟らせないためだ。

 桜鬼家の当主である祖父は、華族の血を重んじる純血思想を持っていて、平民の母親から生まれた四葉を疎んでいる。
 彼が壱岐に匹敵するほどの強さを秘めていると知れば、何をしてくるかわからない。
(封じの腕輪を渡していたのに。まさか、外したのか!?)
 庭園を突っ切って離れに向かう。
 大きな紅葉が近くなると、その向こうに信じたくない光景が広がっていた。

 ――萌香が四葉と口づけをかわしている。

 こちらに背を向ける萌香の表情はわからないが、四葉は静かに目を閉じて真摯に彼女を感じていた。
 彼の足元に散らばった腕輪の欠片を見て、壱岐は察する。
(ああ、四葉も俺と同じ飢鬼になってしまった)
 末の弟だけは、この苦しい運命から逃れさせたかったのに。

 桜鬼グループ内の製薬会社には飢鬼を研究する秘密部署がある。
 鬼化を食い止めるのに紅葉から採取された物質が有効だとわかり、試験的に製作したのがあの腕輪だ。
 有効成分を絶えず発するほか、神力を抑え込んで体の成長を阻害する術もほどこした。
 引っ越しもさせた。
 桜の木に囲まれた母屋ではなく、紅葉の植わった離れで暮らさせているのは、四葉を鬼化から守るためだった。
(結局、俺は弟たちを守ってやれなかった……)

 落胆に身をつまされていたら、四葉が目を開けて萌香から離れた。
 彼女の唇で指をなぞった彼は、遠くの壱岐に視線をすべらせて挑発するように笑った。
 その表情は、獲物を見事に仕留めた狩人のようだった。
(まさか……四葉は自ら望んで鬼化したのか?)
 封じの腕輪を外して、欲望の枷を取り払い、甘贄に食らいつくのが、四葉の本望だったとでもいうのだろうか。
 壱岐は、四葉という人間を見誤っていたのかもしれない。
 彼は、壱岐が庇護するべき弱者ではなく、壱岐の幸せをおびやかす敵対者だったのだ。

(萌香は渡さない)
 ぐっとこぶしを握りしめて四葉を見すえる。
 四葉は、早々に壱岐への興味をなくして萌香を愛でているが、その姿もまた壱岐の嫉妬心に油を注いだ。
 甘贄を独占したい想いに、思考が焼ききれそうだ。
 気をやるすんでのところで踏みとどまって、深呼吸をする。
(萌香を独占したい。これは恋か? それとも食欲か?)
 わからない。
 どちらにせよ、萌香は悲しむだろうなと壱岐は思った。
 萌香が壱岐に唇を許すのは、壱岐を愛しているからではない。
 どんな感情を抱いても、彼女の重荷にしかならない。

「さっき光が見えたような……」
「それよりも、私の話を聞きなさい」
 弐亜と参悟が母屋を出てきたので、壱岐は反対方向にきびすを返した。
 残酷な問いへの答えは保留して。
 萌香への想いを胸に秘めて。
 壱岐が運転する高級車の助手席で、萌香はしょぼんとしていた。
「すみません、壱岐さん。私が寝坊したせいで送らせてしまって」
「かまわない。俺は萌香が困っているなら何でもする」
 ハンドルを握った壱岐は、赤信号で停止すると腕を伸ばして萌香の髪をなでた。
「寝ぐせがついている」
「ええっ! 本当だ……はねちゃってる」
 手鏡を見ながら手で撫でつけるけれど、一晩かけてついた寝ぐせはしつこくて、すぐにぴょこんと戻ってくる。
 悪戦苦闘する萌香に、壱岐はクスリと喉を鳴らした。
「そのままでも可愛いから大丈夫だ」

 清蘭学園の駐車場に入って車を停めた壱岐は、シートベルトを外す萌香に覆いかぶさった。
(キスされる)
 萌香は体をこわばらせて唇を奪われる瞬間を待つ。
 だが、あと五センチで触れるというところで壱岐の動きが止まった。
(あれ?)
 普段と違う壱岐に萌香は戸惑う。
 いつもなら、性急に食らいついてくるのに、どうしたんだろう。

 不思議そうにまばたきする萌香の瞳をのぞき込んだ壱岐は、眉を下げて身を引いた。
「……遅れるぞ」
「そうだった! 送っていただいてありがとうございました、壱岐さん!」
 車を降りて校舎まで全速力で走る。
 その間、頭のなかでは疑問符が浮かんでいた。
(お腹が空いたような顔をしてたけど、キスしなくてよかったのかな?)

 最近の壱岐は少しおかしい。
 定期的なお呼ばれの日もキスより雑談する時間の方が長くなったし、離れに行く日を減らして萌香と食事をとってくれるし、今日みたいに仕事よりも萌香を優先してくれることが増えた。
 考えていたら、チャイムの音がして飛び上がる。
「授業が始まっちゃう!」
 慌てて校舎に入る萌香は気づかなかった。
 その後ろ姿をながめる、狡猾な視線に。
「そういえば今朝、野宮さんが車で送られてくるのを見たんだけど――」
 唐突なつるし上げは昼休みにはじまった。
 異国風情あるカフェテリアに入った萌香は、テーブルにお菓子を広げていた女子たちにあっと思う。
(この間、ロッカーを汚してきた人たちだ)
 芸能人を親に持つ彼女たちは、持ち前の人目を引く外見で生徒たちの注目を集め、目立ちたくない萌香を取り囲む。
「あれってさー、桜鬼家の壱岐様だよね?」
「車中でキスしてたの見たんだけど。付き合ってんの?」

 ざわっと場内に動揺が広がった。
 桜鬼グループを率いる壱岐の名前は、清蘭学園では有名なのだ。
「ち、違います。遅刻しそうになって送ってもらっただけです!」
 萌香は慌てて否定するが、女子たちのいじりは止まらない。
「あやしい。愛人だったりして」
「野宮さん、地味な顔してやることやってんだ~」
「弐亜様や参悟様も騙されてそう。平民の可哀想な女の子って得だよね」
「そんなことしてない……」

 か細い反論は、彼女たちの笑い声にかき消された。
 視線を感じて振り向くと、カフェテリア中が萌香を疑いの目で見つめている。
「ひっ」
 思わず声が漏れた。
 彼女達の話はありもしないことばかり。だけど、誰も信じてくれない。
 黙っているのは肯定も同じだ。だけど反論するのが怖い。
 冷たくかじかんだ手をポケットに入れると、母が作ってくれたマスコットに触れた。

「君たち、何をしているんですか」
 参悟と生徒会がカフェテリアにやってきた。
 女子の言い分を信じ込んだ生徒たちは、彼にもうろんな目を向けてにやにやする。
「会長、あの子をいいようにしてるって本当ですか?」
「何の話です?」
 わけがわからない表情で参悟は萌香の方に向かってくる。助けてくれるのだろう。
(だめ。ここは、私自身が戦わないと!)

 萌香は立ち上がって、すうっと息を吸い込んだ。
「言いがかりは止めてください! 私が桜鬼家にお世話になっているのが気に入らないとしても、いじめはやりすぎです」
「いじめてないけど」
 しらばっくれる女子に、萌香は取り出したマスコットを突きつけた。
「な、なによこれ」
「私の私物です。あなたたちは球技大会の日、私のロッカーに赤いスプレーを噴いて、鞄を体育館裏に捨てましたよね。その鞄につけていたんです。ここにいる三人は、その様子を撮影して友達と共有していました。皆さんも見てみてください。パスワードは――」

 清蘭学園には独自のSNSがある。
 学校からの情報を素早く伝達し、炎上がつきものの外部サービスを使用させないためだ。
 友達とつながれる他、個別のパスワードを入力した者だけが使えるプライベートルームで複数でのメッセージのやりとりも可能だ。
 女子たちはこれで萌香をいじめた写真を共有していた。
 萌香が話したパスワードを入力した生徒たちは、赤く染まったロッカーや鞄の写真を目にして騒ぎだした。

「本当にいじめられてたんだ。可哀そうに」
「鞄の横に、あのマスコットが映ってる。彼女のもので間違いないよ」
 犯行が明るみに出た女子たちは、顔を真っ赤にして萌香に突っかかる。
「どうしてアタシたちのパスを知ってんのよ!」
「スマホのケースが教えてくれました」
 半透明の保護ケースには、流行りの男性アーティストのコレクトカードと英語のシールが挟まっていた。
 推しはそれぞれ違っても、シールの文字は同じ。
 授業中もスマホを触ってばかりいる彼女たちは、よくシールの文字を確認していたので、誰の目から見てもパスワードだと丸わかりだった。

「あなたたちのルームを確認して、いざとなったら公にするつもりでいじめに耐えてきたんです。桜鬼家の皆さんは私を保護して、こうして勉強する機会も与えてくださった素晴らしい方々です。彼らを悪く言うなら容赦しません! あなたたちには、きちんと処分を受けてもらいます!」
 萌香は勇敢に告げた。だけど、最後の方では涙がにじんでいた。
 いじめを告発している間、体の震えが止まらなかった。
 黙って見守ってくれた参悟は、騒ぎを聞いて駆けつけた教師に事情を説明する。
 女子は教師に連れられてカフェテリアを出た。
 彼女たちの姿が見えなくなると、萌香はその場にぺたんと座り込む。
「か、勝てた……」

 達成感に震えていると、参悟が目の前にしゃがみこんだ。
「なぜ相談してくれなかったんですか。私に話してくれれば、もっと早く解決しました」
「一人で解決したかったんです。桜鬼家の皆さんには十分にお世話になっていますから、余計な心配をかけたくありません」
「私がかけてほしいと言っても?」
「え……?」
 思わぬ言葉に萌香が目を丸くする。
 参悟は渋面を作ってから「忘れてください」と首を振った。
「……萌香さん、昼食をとりましょう。生徒会と一緒に食べませんか?」
「はい。よろこんで」
 萌香と参悟、生徒会の面々での昼食は楽しくて、萌香は先ほどの嫌がらせなどすぐに忘れてしまった。
 しかし、いじめと戦った萌香の評判は学園中に広まったのだった。
 桜鬼家では、本家の屋敷に集まって桜鬼一族が一堂に会する宴がある。
 萌香は留守番のはずだったが壱岐たっての要請により出席することになった。
 当日、壱岐たちと一緒に会場に入った萌香は、生まれて初めて振袖を着た。
 桜が描かれた豪華なもので、髪もセットして壱岐たちの待つ部屋に向かう。
「お待たせしました」
 ソファに座っていた四人は、現れた萌香を見て破顔した。

「萌香ちゃん、可愛いね」
「とてもお似合いです」
 手放しでほめてくれたのは弐亜と参悟。二人ともスーツを着ていて締めたネクタイが凛々しい。
 上着の襟には、桜鬼本家の家紋をあしらった金のバッジがきらめいていた。
「モカ……」
 言葉をなくして萌香に見とれているのは四葉だ。彼は中等部の制服を着ていて、家紋のバッジもない。
 これまで宴には招待されていなかったが、萌香と同じく壱岐の強い要望で参加が決まったという。
(たぶん、四葉くんが悪目立ちしないように私を連れてきたんだ)
 そうでなければ、桜鬼家とは何のゆかりもない萌香のために豪勢な着物一式を準備するはずがない。

 今日の仕掛け人である壱岐の方を見ると、彼は兄弟の誰よりも感極まった表情で瞳を揺らしていた。
「すごく綺麗だ、萌香。俺の見立ては間違っていなかったな」
 自画自賛する壱岐は、五つ紋付の羽織袴だった。
 風格ある着姿に思わずドキドキしてしまう。
 壱岐の美しさに比べたら、床の間にかけられた桜の掛け軸や上等な生け花もかすんで見える。
 他の三人も同じだ。
 兄弟が顔を揃えているだけで美術館に展示される国宝のような神々しさ。
 華麗なる兄弟に混ぜてもらった萌香は肩身が狭くて、恐縮してしまう。

「褒められると恥ずかしいです。でも、この振袖、すごく可愛くて好きです。ありがとうございます」
「お礼はいらない。俺が萌香を飾りたかったんだ――」
 立ち上がった壱岐は、頭を下げる萌香の手を取って「すまない」と囁いた。
「――これから起きることは、ぜんぶ俺のわがままだ」
 どういう意味だろう。
 問い返す間もなく、宴の会場である大広間へエスコートされた。

「本家のご兄弟が到着されました」
 侍従が壱岐たちの入室を知らせると、晴れ着で集まった人々は惜しみない拍手を送った。
 何十畳あるのか見当もつかない和室。そこに無数に置かれたテーブルでご馳走や高級酒が振る舞われている。
 桜鬼家の分家とそれに連なる一族が勢ぞろいで、平民の萌香には圧巻の規模だ。
 萌香のように振袖を着た令嬢たちは、ギラギラした視線を壱岐や弐亜に送り、手を引かれる萌香に気づくと鬼の形相になった。
(こ、こわい……あれ?)
 首をすくめた萌香は、同じように険しい表情でこちらを見る白髪の老人に気づいた。
 上座の金屏風のまえで、渋い羽織を着て座った老人の周囲は、そこだけ別世界みたいに静まっていた。

(あの人、もしかして……)
 桜鬼家の当主である、桜鬼萬治郎(まんじろう)ではないだろうか。
 睨まれているのは萌香か、それとも四葉か、両方か。
 わからないなりに、萌香は首をすくめて壱岐の手をはなれた。
「壱岐さんが挨拶している間、端にいます」
「わかった。だが、四葉たちのそばにいてくれ」
 壱岐は舞台に上がり、弐亜、参悟、四葉の順で舞台袖に並ぶ。
 萌香は四葉から距離をとって、壁に背を向けて立った。

「桜鬼家の宴にお集まりいただきありがとうございます。桜鬼グループが代替わりしても変わらず栄えているのは一族の皆のおかげです。どうぞ、本日の宴を楽しんでください。これより本家当主よりご挨拶を賜りますが、その前に紹介したい人がいます――」
 壱岐が萌香へ視線をすべらせる。
 スポットライトが動いて、萌香がパッと照らされた。
「――彼女は野宮萌香。縁があり、この春から私の屋敷で暮らしています。いずれ、彼女を桜鬼本家に花嫁として迎え入れるつもりです」
「えっ!?」
 事実上の婚約者紹介に、萌香はびっくりした。

(花嫁にされるって、私が?)
 参加者も驚いたようでざわめいたが、弐亜と参悟、四葉は平然としている。
 壱岐と打ち合わせしていたようだ。
「……もっとも、私たち四兄弟の誰が彼女を射止めるかはまだわかりませんが」
「許さんぞ、壱岐!」
 萬治郎が杖に寄りかかって立ち上がり、壇上の壱岐を指で刺した。
「その女は平民だというではないか。桜鬼の本家に穢らわしい血を入れるのはならん!!」
「彼女は穢らわしい存在ではありません」

 断言した壱岐は、不安そうな萌香を視界に入れて、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「私を癒し、ときに励ましてくれる、素晴らしい女性です。彼女以外の誰にもその役割は務まらない。私たちには彼女が必要です」
 話しかけてくる声は痛いくらいに優しい。
 萌香が必要とされるのは甘贄だからだと思っていた。
 しかし、壱岐のまなざしは愛してやまない女性に送るそれだ。
 彼は目で、声で、態度で、萌香への愛を表明していた。

 揺れる萌香の心に、弐亜たちの声が染み入ってくる。
「僕にも萌香ちゃんが必要だよ」
「あなたと一緒にいたいです。萌香さん」
「だいすきだよ、モカ」
 三人に笑いかけられて、じわっと涙があふれてきた。
(私、勘違いしてもいいのかな)
 一人の人間として愛されているって。

 もしもそうなら、萌香の答えは――

「貴様ら、絶対に許さんからな!」
 萬治郎はそう言って、怒り心頭で大広間を出て行ってしまった。
「お爺様が……」
「昔かたぎで差別的な人なんだ。いつまで平民を見下すつもりなんだか」
 ぼやく弐亜が目で合図する。
 壱岐はそれを受けて、挨拶をこう締め切った。

「いずれ、当主にも認めていただく。私たちは彼女を諦めるつもりはありません」