夜も更けて屋敷が静まった頃、萌香は壱岐の部屋を訪れる。
 飢鬼になって一切の味覚を失った彼を癒す、甘贄としての役割を果たすために。

「――ん」
 声を漏らして唇を離した壱岐は、甘ったるいキスに呑まれてぼんやりする萌香の赤くほてった頬を撫でた。
 こうしてキスをするのは週に一度。
 だけど、何回しても萌香は慣れない。
「今晩もありがとう。萌香には負担ばかりかけているな」
「いいえっ。私こそ壱岐さんに頼ってばかりで申し訳ないです。生活費も学費も払ってもらって。働けたらいいんですけど、清蘭学園はアルバイトが禁止で……」

 清蘭学園は独特な校則があり、起業や投資は認められているけれどアルバイトは絶対禁止。ただの労働は勉強にならないというのが大きな理由だ。
 いくら甘贄とはいえ、これでは萌香は桜鬼家の厄介者だ。
 消沈する萌香に、壱岐は「気にするな」と首を振った。
「どうせ金なら腐るほどあるんだ。それに、萌香にならいくら使っても惜しくない。学校にはもう慣れたか?」
「毎日楽しいです。友達もできましたし、参悟さんや弐亜さんが助けてくれますし」
 二人の名前を出すと、壱岐の顔がわずかに曇った。
「……壱岐さん?」

「いや、弟と仲良くしているようでよかった。あれ以降、弐亜も大人しくしているしな。萌香が家に来るまでは帰ってこない日の方が多かったんだ」
 弐亜は旧套な家を嫌い、知り合いの家を転々としていたようだ。
 あの見た目と桜鬼家の御曹司という身分を使えば、どんな相手にも取り入り放題だろう。
(たぶん、女の人の家に泊まってたんだろうなぁ)
 ちょっと不潔な妄想をしてから、壱岐も女性はよりどりみどりだと思い至る。
 桜鬼家の実質的なトップとして君臨する壱岐が、なんのとりえもない萌香を求めてくるのは、飢鬼としての本能だ。
 どんなに情熱的なキスをしても、彼は萌香を愛していない。

 華族と平民。
 桜鬼家の長男と孤児。
 萌香と壱岐は、決定的に違う。
 萌香がどんなにあがいても現実は変わらないから、そっと気持ちに蓋をする。
 好きと言えたら、どんなに楽だろう。だけど、それは言ってはいけない呪文。

「明日も忙しいんですか?」
 熱くうるんだ目で見上げると、壱岐はつれなく腕を下ろしてちらりと窓の方を見た。
「夜には家に帰れそうだが、夕餉は参悟ととってくれ」
「そうですか……」
 がっかりして萌香は壱岐から離れた。
 キスした後の寂しさは、自室に帰ってベッドにもぐりこむまで続いた。


    ◇◇◇


「――くれぐれも怪我のないように。清蘭学園の生徒として楽しみましょう

 壇上で一礼する参悟に、講堂に集まった高等部の生徒が拍手を贈った。
 話を聞いていた萌香も手をパチパチと打ち鳴らす。
(参悟さんの開会宣言、かっこよかった。さすが生徒会長!)
 参悟は二年生ではあるが生徒会長を務めている。
 今日は球技大会で、先ほどのは生徒会長による開会宣言だ。

 式が終わると、学校指定のブランド製ジャージに身を包んだ生徒は会場へ急ぐ。
 スポーツ選手も多く通う清蘭学園の球技大会は、プロチームとの招待試合が目玉になっている。生徒同士の球技はお飾り程度で、有望な生徒の活躍を見るために欠席者多数で中止になる試合も多いのだとか。
 萌香はバドミントンに出場する。
 会場の第三体育館に行く前に、教室へ水筒を取りに戻ると、ロッカーに入れてあった鞄がない。赤いスプレーが吹かれていて、ハンガーにかけた制服も置いていた教科書も真っ赤だ。
「誰がこんなことを……」
 言葉を失っていると、後ろから複数の笑い声が聞こえた。
 振り向くと、クラスの一軍女子たちがニヤニヤと笑っていた。開会式に出ていないと思ったら、ここで時間をつぶしていたようだ。

「野宮さんのロッカー、きたなーい。平民は整理整頓もできないんだぁ」
「あなたたちがやったの?」
 彼女たちは以前から、桜鬼家で世話になる萌香を疎んでいる様子だった。
 お嬢様育ちだからイジメはしないだろうと思っていたが、甘かったらしい。
 彼女たちは「証拠もないのにひどい」と被害者みたいなことを言いながら爆笑している。
(話していても埒が明かないな)
 萌香はバンとロッカーを閉じて、きびすを返した。

 清蘭学園の敷地は広い。
 開会式の間に萌香のロッカーを荒らして鞄を捨てたとすれば、そう遠くない場所に捨てられているはずだ。
 ゴミ箱の中にはなかった。中庭の噴水にも浮いていない。
 花壇のなか、雨樋のした、用具入れ……。
 萌香はあちこち歩き回ったが、鞄はどこにもない。

 わあっと歓声が上がって顔を上げる。
 気づけば、バスケの試合が行われている第一体育館のそばだった。
 通気口からのぞいたら、弐亜がBリーグの選手を翻弄してシュートを決めていた。
 黄色い歓声に顔を向けると、テニスコートで参悟がレジェンド選手と互角の戦いを見せていた。
 弐亜も参悟も女性人気がすごい。
 萌香が嫌がらせを受けたのは、彼らと同居しているせいかもしれない……。

 ふいに、萌香は二メートルくらい先の茂みに目をとめた。
 ここは高等部の敷地なのに、中等部の制服を着た少年がいる。
 こっそり参悟に熱い視線を送る彼の手には、萌香の鞄があった。
「それ、私の!」
 叫ぶと、少年はすっと視線を動かして萌香を見た。
 その瞳は、壱岐や弐亜、参悟と同じ赤色だった。