桜鬼家の贄花嫁 純血の四兄弟は甘き婚約者を奪いあう

 お人好しの性格が悪いのだと、萌香(もか)は暗い道を走りながら思った。
 アルバイト先のカフェが某インフルエンサーに紹介され、店の前に長蛇の列ができるようになったのが一カ月前のこと。客が殺到したせいで勤務時間が延びることになり、外が真っ暗になってから職場を後にする日が増えた。
 収入は増えるから悪くはないかなと思っていたけど……。

 ちらっと後ろを振り返ると、黒いパーカーを着た男が早足で歩いてくる。
 店の裏口を出た辺りですれ違った男だ。いつの間にか同じ方向に歩いていると気づいたのは、踏切で電車が通り過ぎるのを待っていたときだった。
 人通りが少ない道で後ろからついてこられるのは気持ち悪い。萌香はわざと最寄り駅へと続く道をそれた。だが、男はついてきた。
 何度も道を曲がって、普段は通らない川沿いの土手道にまできてもとなると、明らかに萌香を狙っている。

 萌香の脳裏に最近起きた通り魔事件がちらついた。夜遅く、一人で歩いていた女性が襲われて斬りつけられたという。犯人はたしかまだ捕まっていない……。
 疑いを持って見ると、ますます男は怪しい。
(どうしよう。助けを呼ぶにも近くに家はないし、人通りもない)
 ごくりと唾を飲みこんだ萌香は二世代前のスマホを取り出した。充電は15パーセント。残りわずかだが惜しんではいられない。明るく点灯する画面を耳に当てる。

「もしもし? お母さん?」

 わざと大声を出すと、男は歩調をゆるめて細い脇道を下っていった。
 諦めたようだ。立ち止まった萌香は、ほっとしてスマホを下ろした。
 壁紙では今呼んだ母親と父親が笑いあっている。家族愛にあふれた自慢の両親だ。もしも不審者に追われていると電話をかけたら、大急ぎで迎えに来てくれただろう。
 まだ、二人が生きていた頃は――

「おい」

 真横から話しかけられて、背筋がぞっとした。
 振り向けば、先ほど脇道を下っていった男が真横に立っていた。かぶったフードで顔は見えないが声は若い。そして、どこかよどんだ響きをしていた。
 萌香は、声を上ずらせて後ずさる。
「な、何か用ですか……」

「見つけたぞ〝甘贄(あまにえ)〟」

 男は突然、ナイフを突き出した。
 腕を切りつけられた萌香はよろけて倒れる。
「きゃあっ」
「通話の演技までして、逃げられると思ったかよ!」
 仰向けになった萌香の上に男が馬乗りになった。
 大きな手が制服の衿にかかる。
 荒い息が、フードの奥の暗がりで光る眼が、萌香に抵抗すれば殺すと告げてくる。
 萌香の体は恐怖で硬直した。
 怖い、怖い。こめかみを涙がこぼれ落ちる。

(誰か、助けてっ!)

 祈るように心のなかで叫んだとき、
「その手を離せ」
 闇を裂くように、強い声が響いた。

 はっとして目を開くと、黒いロングコートを着た青年が険しい表情で立っていた。
 夜風に揺れる黒髪は闇を塗りこめたように暗く、熱を帯びてぎらついた赤い目はライフルについたレーザーライトみたいにまっすぐこちらを見つめていた。
 冴え冴えとした美貌に一瞬で心を撃ち抜かれたのは、萌香を襲っていた男も同じだ。
 手を止めて青年に見惚れている。いや、恐れているのか。
 カタカタと震えているのが掴まれた衿を通して伝わってきた。

「聞こえなかったか? 彼女を離せ」
 青年が腕を伸ばして手を開くと、男の体が吹き飛んだ。桜色の光が散る花びらのようにはらはらと落ちる。男は「ぐあっ」と蛙のような悲鳴を上げて、自動車にでも追突されたように斜面を転がっていった。
 起き上がった萌香は、男の姿が草むらにまぎれて見えなくなるのを確認して、青年を振り返った。
 強大な力を放ったというのに、当人は涼しい顔で汗一つかいていない。
(さっきのは神力だよね。ってことは、この人は華族なの?)

 大昔、八百万の神々が暮らしていたこの日本には、神様の血を受け継ぐ一族がいる。
 華族と呼ばれる高貴な人々で、ずば抜けた身体能力と頭脳、神々しいまでの美貌を持ち、財政界だけでなくアスリートや芸能人としても多く活躍している。
 そして、人智を超えた神力も持っている。といっても、萌香のような平民は華族と関わることがないので神力というのが何なのか、よくわからないのだけど……。
 青年を見た萌香は、漠然と理解していた。あれは神様の力なのだと。

 とにかくお礼を言わないと。立ち上がった萌香は深く頭を下げる。
「助けていただいてありがとうございましたっ!」
「……君は」
 青年は眉をひそめて萌香の腕をとった。傷から流れる血が袖を赤く染めている。
 手当てでもしてくれるのかと思いきや、青年は長いまつ毛を伏せて、傷口に口づけた。
「ひゃっ!?」
「甘い……。そうか、君が」
 うっとり微笑んだ青年は、唇についた血もぬぐわずに萌香を両手で抱き上げた。
「あ、あの、一人で歩けます!」
「気にするな。俺がこうしたいだけだ」

 青年は上機嫌で斜面をくだる。下の道には黒塗りの高級車が停まっていた。
(私が襲われているのに気づいて助けにきてくれたんだ)
 吹き飛ばされて転がっていった男の姿はない。
 車の外で待っていた運転手は「取り逃がしました」と青年に報告する。
「逃げ足が速くてわたしではとても」
「向こうは連続通り魔だ。仕方ない」
 手慣れていると思ったら、はやり最近起きている事件の犯人だったようだ。

 青年が来てくれなかったらどうなっていたか。萌香は死んでいたかもしれない。
 感謝の気持ちがこみ上げて、萌香は青年の胸に頬を寄せた。
「本当にありがとうございました。私は萌香。野宮(ののみや)萌香です」
「俺は桜鬼壱岐(さくらぎいつき)という。詳しい話はあとだ。早く傷の手当てをしなければ。君は――」
 後部座席に私をのせて、自分も乗り込んだ壱岐は扉を閉じた。

「――大事な〝甘贄〟なのだから」

「?」
 囁く声はあまりにも小さく、萌香は聞き取ることができなかった。
 萌香は車中で傷の手当を受けた。口づけられた際に血は止まっていたのだが、壱岐は丁寧に包帯を巻いてくれた。
 そのまま連れてこられたのは和風の大邸宅だった。
 門をくぐって車を降りると、ずらっと並んだ使用人に迎えられる。
「ここが俺の住まいだ」
 萌香は度肝を抜かれたが、壱岐は気にもせず旅館のような建物に入っていった。
 そこでも女中が並んでいて、先頭で若い執事が一礼する。糸目で細身の男性だった。

「おかえりなさいませ、壱岐様。運転手から連絡が来ていましたが、その方が……」
 執事は靴を脱いだ壱岐の後ろに回り、自然な動作でコートを脱がせながら、狐のような細い目で萌香を見る。
「っ」
 ドキッとした。急にここにいてはいけない気がしてきた。
 男に押し倒されたせいで制服は汚れているし、普段カフェで時給千円で働いている高校生に、このお屋敷は場違いだ。
 大きすぎるスリッパのなかで足を泳がせていると、背中に壱岐の手が触れた。
「家人用の応接間を使う。茶と菓子を用意しろ」
 壱岐は執事の目から守るように萌香を屋敷の奥へエスコートしてくれた。

「立派なお屋敷ですね」
「しょせん別邸だ。本家と比べたら大したことはない」
 ここよりすごいお屋敷……萌香には想像できなかった。
 通されたのは、品のいい和室だった。ベルベット張りのソファと巨大な樹を輪切りにしたテーブルが置かれていて、カーペットの下の畳からい草の匂いが香ってくる。
 萌香は勧められるままソファに腰かけた。壱岐は向かいに座り、執事が運んできた日本茶と和菓子が置かれるのを赤い目で見つめる。
 闇のなかでは発光して見えた瞳は、照明の下では高価なルビーのようにきらめいていた。

(本当に綺麗な人……)
 柳を思わせる眉は細く、まつ毛は白い頬に影を落とすほど長い。鼻筋は筆で描いたようにまっすぐで、薄い唇はほのかに桜色だ。
 萌香のまえに茶碗を置き、壱岐に革のカバーをつけたタブレットを渡して執事は部屋を出ていった。
 襖が閉じられると、萌香は心細くなる。
 壱岐は先ほどの男とは違うと分かっていても襲われたあとだ。
 異性と二人きりになるのはまだ怖い。

「壱岐さん、本当にありがとうございました。お茶をいただいたら帰ります」
「帰る家はあるのか?」
「え?」
 顔を上げると、壱岐はタブレットを操作して読み上げる。

「野宮萌香、年は十六。両親と死別して以降は親戚の家をたらいまわしにされている。親権者は父親の姉になっているが、今いるのは又従兄弟の家だな。アルバイト禁止の学校にもかかわらず夜遅くまで働いているのは、家主に生活費を無心されているから。払う金額が少ないと殴られて家を追い出され、公園で眠って警察に補導されたこともある」

「どうしてそれを……?」
「桜鬼家の情報網をあなどらないでもらいたい」
 壱岐はタブレットを閉じてお茶を一口飲んだ。
 萌香も喉が渇いていたが、茶碗に手を伸ばす気にはなれなかった。この短時間で萌香が虐げられていると調べ上げられたのも衝撃的だが、なぜ調べたのか壱岐の意図がわからない。
 黙る萌香を、壱岐は赤い視線で刺す。

「野宮萌香、俺だけの〝甘贄〟になれ。そうすれば、今の家から救い出してやる」

「あまにえ……?」
 思わず眉根を寄せてしまった。
「さっきの通り魔にも同じことを言われました。甘贄というのは何ですか?」
「やはり知らなかったか。甘贄は遺伝の要素が多いが、ご両親や祖父母から話を聞いたこともないのか?」
「ありません。父と母は家に強盗が入って亡くなりましたし、祖父母はその前に……」
「思い出させてすまない」
 第一発見者として目にした凄惨な記憶は、壱岐の声でさえぎられた。

「では、俺が教える。甘贄というのは〝飢鬼(きき)〟を癒せる唯一の存在だ。君は華族というものをどれだけ知っている?」
「学校で習ったくらいです。華族はかつて日本にいた神様の末裔で、普通の人間より強くて美しくて、不思議な力を持っているんですよね」
「一般的にはそう伝わっているようだ。しかし、華族には秘密がある。俺のような神力の強い華族は、元服を迎える頃に一切の味覚を失う。甘み、塩気、苦さ、旨味を感じられなくなるんだ。そうなった華族を飢鬼と呼ぶ」

「味覚を失う……ご飯を食べても味がしないんですか?」
 驚く萌香に、壱岐は寂しそうにうなずいた。
「食感しかわからない。だから、飢鬼は食欲を失っていく。死なない程度に栄養補助剤を口に入れるし水も飲むが、この瞬間ほど空虚なものはない」
 そう言って壱岐は再び茶碗に口をつけた。
 こくりと喉は動くが、少しもおいしそうではない。
 味を感じていないのだ。壱岐も。

「飢鬼は味覚を失っているが、唯一甘さを感じる存在がいる。それが甘贄――萌香、君だ」
「し、信じられません」
 味覚を失っているなら人体にだって味を感じないはずだ。
 いきなり甘贄だ飢鬼だといわれて鵜呑みにするほど萌香は愚かではない。両親が亡くなってから、甘いことを言って萌香を懐柔しようする汚い大人をたくさん見てきた。
 恩人である壱岐に失望したくない。
「変なお話を続けるならもう結構です。私もう帰ります!」
「待て」

 壱岐は立ち上がって、部屋を出ようとする萌香の腕を掴んだ。
「甘贄だとわからせてやる」
「え……?」
 振り払う間もなく引き寄せられて、壱岐の唇が萌香のそれと重なった。
 ドクン、と鼓動が跳ねる。
 壱岐の柔らかな唇は熱く、触れただけで萌香の頭がぼうっとした。
 思考があいまいになって、眠りに落ちる瞬間みたいに心地よくて、目蓋が自然と落ちてくる。
(なに、これ……)
 よく知らない男の人に初めてのキスを奪われている。
 それなのに、萌香の心にわき上がるのは不快感ではなく快感だった。

(キスって、こんなに気持ちいいの?)
 甘いしびれが萌香の体をかけめぐる。全身から力が抜けて、もう立っていられない。
 くたりと弛緩した体を抱きかかえた壱岐は、いくども角度を変えて夢中で萌香の唇を味わう。
 それはまるで、長い間さまよい歩いた獣が、やっと見つけた食糧にむさぼりつくよう。
(このまま食べられちゃいそう……)
 おもむろに壱岐の頬に手を伸ばすと、彼ははっと我に返って口を離した。

「……甘い……」

 情熱的なキスの間、壱岐は甘さを感じていたらしい。
 息を吐いた彼は、まだ夢見心地にひたる萌香を見て、勝ったような顔で微笑んだ。
「飢鬼に求められた甘贄は歓喜を覚えるそうだ。その様子だと、気持ちよかったようだな?」
「ち、ちがっ」
「否定しないでくれ。俺は、君を味わえて幸せだった」
 壱岐の得も言われぬ表情に、萌香は真っ赤になった。

(は、恥ずかしい!)
 ファーストキスで快感を覚えただけでなく、した相手に幸せだとまで言われてしまった。
 恋人でもないのにおかしいけれど、たしかに萌香の体は、壱岐――飢鬼に求められた喜びに包まれていた。
 彼にすべてを捧げてもいい、そんな気にさえなるキスだった。
 熱い頬に手を当てる萌香を、壱岐はもう離さないというように強く抱きしめる。
「俺が飢鬼になったのはもう五年も前だ。味がしない日々は空虚で、苦しくて、覚めない悪夢のようだった。やっと、やっと解放される……」
「壱岐さん……」

 味覚を失って五年も苦しんできた壱岐。
 自分が甘贄だと言われてもすぐには信じられないけれど、ほんの一瞬でも彼の苦痛を和らげられるのが自分だけなら、萌香は協力したいと思った。
 壱岐には通り魔から助けられた恩がある。そう自分に言い訳して。
「たまにキスするくらいでよければ、私がお力になります」
 すると、壱岐はほっとした表情になった。
「ありがとう、萌香。よければこの屋敷にいてくれないか。大切な君を、ひどい環境に帰したくない。保護者への話はこちらでつける」
「それは……難しいかもしれません。話が通じない人たちなので」

 居候している又従兄弟一家は金にがめつい。
 バイト禁止の学校に通う萌香を働かせるくらいに。
 桜鬼家が萌香を引き取りたいと話したら、大金をせびられるだろう。
 心配する萌香の頭を撫でて、壱岐は口角を上げた。
「俺が上手くやる。萌香は安心して待っていてくれ」
「……はい」
 こうして、萌香は桜鬼家に身を落ち着けることになった。

 その後、案内されたのは客間だった。
 温かなシャワーを浴びて、女中が用意してくれた浴衣に着替えた萌香は、真っ白いシーツをかけたベッドに飛び込んだ。
 親戚の家はせんべい布団ばかりだったので、ふかふかの寝床は久しぶりだ。
(これでよかったのかもしれない。壱岐さんを助けられるし、私も居場所ができたし)
 そう思わないとやっていられなかった。

 甘贄。飢鬼。華族に神力。
 初めて聞く話で頭がパンク寸前だ。
 とにかく今は休みたい。体を横たえるとすぐに睡魔が襲ってくる。
(明日も、壱岐さんとキスをするのかな)
 ぼんやり考えながら、萌香は深い眠りに落ちていった。


     ◇◇◇


 ――ぴちゃ、ぴちゃ。

 なまめかしい音がする。
 雨音より粘着質で執拗な音。それに、首の付け根がくすぐったい。
 温かく湿った何かが肌をかすめるとゾクゾクして、萌香は眠ったまま身を震わせた。
(舐められてる?)

 全身にのしかかる重みは、巨大な犬を思わせた。
 昔、近所で飼われていたハスキーを思い出す。
 その犬は子どもが好きらしく、幼い萌香に飛びかかってきては顔中を舐めてきた。
 たしか、あの子の名前は――

「もう、やめてよニア……」
 寝言を漏らしたら、のしかかった誰かの動きが止まった。
「どうして知ってるの」
 響いた男性の声に、萌香はパチッと目を開いた。
 体の上に美しい青年がのっていて、壱岐と同じ色の瞳で萌香を見下ろしてくる。

(この人、誰!?)
 差し込む陽にキラキラと輝く金色の髪は、目にかかっていて襟足も長い。
 だるそうに半分開いた瞳は二重がくっきりしたアーモンド形で、輪郭がシャープだ。オニキスのピアスやワイン色のシャツから胸元をはだけさせている姿は、どことなくアルコールの匂いが漂う夜の街を思わせた。
 上体を起こした青年は、首を傾げて「どうして知ってるの?」と繰り返した。
「もしかして壱岐に聞いたの? あいつのことだから、お持ち帰りした女の子に僕らの説明はしてないと思ったんだけど」

「壱岐さんからは何も聞いていません。ニアというのは、昔近所で飼われていたワンちゃんの名前です。ちょうど首を舐められる夢を見ていて……」
 なまめかしい感触を思い出しながら首に手を当てると、なぜかしっとりしている。
 寝汗じゃない。明らかに他人の仕業だ。
「もしかして、あなたが舐めてたんですか!?」
 青くなったり赤くなったりする萌香に、青年はけらけらと声を出して笑った。
「気づくの遅すぎ。男に乗り上げられている時点で警戒しなよ~、萌香ちゃん?」
「どうして私の名前を……」

「これ」
 ベッドから下りた青年は振り返って指を立てる。
 長い指に挟まれていたのは萌香の学生証だった。
「平民が通う学校だよね、ここ。こんなところに甘贄が潜んでいたとは思わなかった。壱岐もよく見つけたよね~。さすが桜鬼家の実質的な支配者だ。どうせ萌香ちゃんも、壱岐のカリスマオーラにやられちゃってついてきたんでしょ? もう抱かれたの?」
「だっ!? 壱岐さんはそんなことしません!」
 壱岐は、通り魔から助けてくれて、ひどい親戚にも話をつけると言ってくれた親切な人だ。
 悪く言われるのは我慢ならない。
 無理やりキスはされたけど、あれは甘贄を前にして飢鬼としての抑えがきかなかったせいだ。きっと。

「失礼なことばかり言う、あなたはいったい誰なんですか!?」
 びっと指さすと、青年は赤い瞳をにんまりと細めた。
「僕は弐亜(にあ)。桜鬼壱岐の弟で、ここの次男坊だよ。君の天敵」
「天敵? どういう意味ですか?」
「飢鬼ってことだよ」
「きゃっ」

 がばっと萌香を押し倒した弐亜は、抵抗できないように両腕を顔の横で押さえた。
「無防備でか~わいい」
「は、放してください。叫びますよ!」
「大声を出しても誰も助けてはくれないよ。使用人たちはみ~んな、桜鬼家の人間には逆らえないんだから」
 そう言って、弐亜は萌香の首筋に顔をうずめた。
 大きく息を吸い込んで、「匂いまで甘い」とクスクスと喉を鳴らす。

「寝てるところを襲うのはさすがに可哀想だから、首筋だけで我慢したんだよ? すっごく甘くておいしかった。ねえ、壱岐にはどこまで味見させたの?」
「あ、味見なんて」
 萌香の脳裏に、昨晩のキスがよみがえる。
 我を忘れて萌香の唇をむさぼる壱岐。
 強引な触れ合いではあったけれど、あの瞬間、萌香は求められる喜びを知った。今まで生きてきたなかで一番の快感だった。
 思い出して身じろいだら、弐亜は呼吸を荒くして苛立った。

「ずるい。いつもいつも一番は壱岐に取られる――はぁっ」
 短い息の音がした刹那、がぶっと噛みつかれた。
「ひっ!」
 突然の痛みに、萌香はぎゅうっと眉を寄せる。
「や、やめて……」

 抵抗しようとしたが体に力が入らない。
 弐亜に噛まれている箇所からゾワゾワと快感が広まって、萌香の思考はあっという間にとろける。
(こんな扱いも嬉しいと思うなんて)
 乱暴されているのに、どうして?
 自由にならない体がはがゆい。悔しい思いすらも気持ちよさに取って代わって、涙で目がうるむ。
 じわっと上がる体温から逃れるように、萌香は口をはくはくと開いた。

(誰か、助けて――)

「彼女を離しなさい、弐亜」
 冷ややかな制止が響いた。
 壱岐のものではない。もっと若く、張り詰めた声だ。
 うるんだ目で見れば、白皙の美少年が、部屋の戸を開けたかっこうで厳しい目をこちらに向けていた。
 くせのない紺色の髪は綺麗に切りそろえられていて、瞳は真っ赤だ。
 ブレザーを着ているので学生のようだが、表情は弐亜よりも大人びている。
 弐亜は萌香から口を離すと、前髪をかき上げて舌打ちした。

参悟(さんご)……」
「壱岐お兄様から客人の様子を見てほしいと頼まれてきたらこれですか。我が兄ながら情けない。桜鬼家の純血としての自覚が足りないのではありませんか?」
 遠慮なく部屋に入ってきた参悟は、弐亜の腕をつかんで力づくでベッドから降ろした。
「神力で吹き飛ばされないだけよかったと思ってください」
(助かった……)
 ほっとした萌香が視線を上げると参悟と目があった。
 しかし、すぐにそらされてしまって少し傷つく。

(たぶん、この人も飢鬼なんだ)
 神力が強い華族は、元服を迎える頃に飢鬼になるという。
 壱岐を「お兄様」と呼んでいるし、参悟もまた桜鬼家の兄弟なのだろう。
 参悟は、起き上がって浴衣の衿をあわせる萌香を見ないようにしながら、小脇に抱えていた包みを差し出した。
「萌香さん、弐亜がご迷惑をおかけしました。壱岐お兄様からの伝言です。転校手続きを済ませたので、これからは私が通っているのと同じ清蘭学園に通うようにと」
「清蘭学園って、芸能人やお金持ちの子どもが通う私立学校ですよね。私では学費が払えません!」
「心配いりません。桜鬼家でもちますから。それは清蘭の制服です」

 萌香が包みを開くと、参悟が着ているのと同じブレザーが現れた。
「綺麗」
 金銭的に不自由で、お古の制服を着ていた萌香にとって、新しい制服は憧れの対象だった。
 あふれる喜びを噛みしめながら、萌香は制服を両手で抱きしめた。
「嬉しい……! ありがとうございます」
 萌香が笑うと参悟の表情も和らぐ。不満そうなのは、床に座った弐亜だけだ。

「僕だけ悪者扱いなの納得いかない。参悟、お前だってそのうち我慢できなくなるよ~?」
「一緒にしないでください」
 ぴしゃりと言い切って、参悟は弐亜の膝を蹴った。
「私は、壱岐お兄様の甘贄に手を出すような真似はしません」
 萌香が清蘭学園に登校したのは、結局その翌日だった。
 弐亜に噛まれた傷を見た参悟から、一日休養するように勧められたからだ。
 彼の神力で傷口はすぐにふさがったけれど、寝込みを襲われた心の傷を心配された。
 夜には壱岐が帰ってきた。参悟から事情を聞いて怒ってくれたが、弐亜はどこかに出かけていて話はできなかった。

「清蘭学園は幼稚舎から大学部までエスカレータ式なんです。萌香さんが転学するのは高等部の一年。私は二年なので教室の階は違いますが同じ校舎ですよ」
 参悟は、萌香に高級ホテルのような校舎を案内してくれた。
 どこを見ても豪華だ。平民の学校のように汚れたり壊れたりしている場所はなく、談笑する生徒もみんなお淑やかで、萌香が知る高校生とはかけはなれている。
 それは隣を歩く参悟も同じ。
 すらりとした背丈と落ち着いた態度は大人のようなのに、萌香の一学年上だというから、びっくりしてしまった。
「私はここで。後でお会いしましょう」

 職員室に送り届けられた萌香は、担任の女性教師に挨拶した。
 彼女と一緒に教室に向かって、朝のホームルームのはじめに紹介の時間を作ってもらう。
「こちらは野宮萌香さんです。自己紹介は自分でできるかしら?」
「は、はい! 皆さん、はじめまして。野宮萌香です。よろしくお願いします!」
 がばりと頭を下げる。礼儀正しく机についた生徒たちはパラパラと拍手を送ってくれた。

(あんまり歓迎されていない、かな?)
 親戚の家を転々としてきただけあって転校には慣れている。
 最初の感触でクラスになじめるかどうかがわかるのだが、ここはイマイチだ。
 よくない雰囲気を感じた教師はパンと手を叩いた。
「萌香さんは清蘭が初めてなの。代々ここの理事を務めている桜鬼家で暮らしているそうだから、華族の者はとくに力になってあげるように」
 桜鬼家の名前が出た瞬間、生徒たちの顔に驚きが浮かんだ。

(ここでも影響力ばつぐん……。桜鬼家って本当にすごいんだなぁ)
 窓際の一番後ろの席に座った萌香は、ホームルームが終わるなり生徒に取り囲まれた。
「桜鬼家で暮らしているって本当なの?」
「もしかして、参悟様と一つ屋根の下ってこと!?」
「ぼくは壱岐様が目標なんだ。話を聞かせてほしい」
「え、えっと」

 女子も男子も桜鬼家の話を聞きたいようだ。だが、萌香に語れることはあまりなかった。
 壱岐と出会ってまだ三日目。
 母屋の間取りさえ覚えていないのに、彼らの知られざる秘密を語れるわけがない。
「ごめんなさい。教科書を忘れちゃったみたいで……購買に行ってくるね!」
 耐えきれずに教室から走り出た。
 残されたクラスメイトは顔を見合わせる。
「高等部に購買はないよね?」
「何でも買ってきてくれるコンシェルジュはいるけど……」

 萌香は、ろくに知らない廊下を走り抜けて、だだっ広い校舎で当然のように迷った。
「ここはどこなんだろう……」
 右も左も空き教室。授業が始まったせいか出歩く生徒はいない。
 さすが清蘭学園。サボったり早退する生徒はいないようだ。
 職員室で地図をもらおうと歩いたが、どこをどう間違ったのか中庭に出てしまった。
 巨大な噴水が中央にあり、左右は色とりどりの花が咲きほこる花壇になっていた。
 白いパラソルの下にはガーデンテーブルと椅子が設置されて、このままカフェが営業できそうだ。

「いいお天気だし、ここでカフェオレを飲んだら気持ちよさそう」
 晴れた空を見上げて噴水に近づいていく。歩きつかれたので休憩がしたかった。
 噴き上げられて落ちていく水の帯を目でたどると、揺らめく水面の向こうに人影が見えた。
(誰かいる)
 服の色合いから高等部の生徒のようだ。
 萌香は顔色を明るくして駆け寄った。

「すみません! 道を聞きたいんですけど――」

 噴水を回り込んだ萌香は、ピタッと足を止めた。
 噴水のへりに腰かけてスマホを操作していた人物は、弐亜だった。
 シャツの襟をくつろげていて、首にかけた二連のチェーンが胸筋にそって垂れるのが見えた。
「どうして弐亜さんがここにいるんですか」
「サボりだよ。僕、ここの生徒だから」
「高校生だったんですか!?」

 思わず大声を出してしまった萌香に、弐亜は不本意そうに唇をとがらせた。
「そんなに驚かれると傷つくな~。涙が出てきちゃった。ハンカチ貸してくれる?」
「これでよければ、どうぞ」
 素直に差し出すと、パシッと手首をつかまれて引き寄せられた。
「きゃっ」
 どさっと倒れ込んだ先は弐亜の胸だった。彼は、萌香の首筋を確認して肩をすくめる。
「傷、治されちゃったんだね。せっかく僕のモノだって印をつけたのに」
「私は弐亜さんの所有物ではありません!」
「じゃあ、壱岐の?」

 弐亜の視線が剣のように鋭くなったので、萌香は硬直する。
 赤い瞳から感じるのは、こごり固まった血のように黒い感情。
 どうも弐亜は、壱岐に憎しみにも似た感情を抱いているようだ。
(兄弟なのに)
 家族をすべて失った萌香には、血をわけた相手を敵対視する弐亜が理解できない。
 どうせなら仲良くしたらいいのに。胸がもやもやする。

「……私は、壱岐さんのモノでもありません。一年の教室がどこにあるか教えてくれませんか? 迷っちゃったんです」
 ダメもとで聞いたら、弐亜は吊り上げていた眉をカクンと下げて吹き出した。
「萌香ちゃんって天然だよね。いいよ、案内してあげる。萌香ちゃんの方から僕のモノにしてっておねだりしてくれるように、点数を稼いでおかないとね」
 弐亜は萌香を支えて立ち上がると、手を引いて歩き出した。
 大きな手のひらは、お父さんみたいで安心する。
(強引でとらえどころがないけど、悪い人じゃないんだ)

 その後、無事に教室に戻った萌香は、クラスメイト総出で捜索されそうになっていてびっくりした。
 夜も更けて屋敷が静まった頃、萌香は壱岐の部屋を訪れる。
 飢鬼になって一切の味覚を失った彼を癒す、甘贄としての役割を果たすために。

「――ん」
 声を漏らして唇を離した壱岐は、甘ったるいキスに呑まれてぼんやりする萌香の赤くほてった頬を撫でた。
 こうしてキスをするのは週に一度。
 だけど、何回しても萌香は慣れない。
「今晩もありがとう。萌香には負担ばかりかけているな」
「いいえっ。私こそ壱岐さんに頼ってばかりで申し訳ないです。生活費も学費も払ってもらって。働けたらいいんですけど、清蘭学園はアルバイトが禁止で……」

 清蘭学園は独特な校則があり、起業や投資は認められているけれどアルバイトは絶対禁止。ただの労働は勉強にならないというのが大きな理由だ。
 いくら甘贄とはいえ、これでは萌香は桜鬼家の厄介者だ。
 消沈する萌香に、壱岐は「気にするな」と首を振った。
「どうせ金なら腐るほどあるんだ。それに、萌香にならいくら使っても惜しくない。学校にはもう慣れたか?」
「毎日楽しいです。友達もできましたし、参悟さんや弐亜さんが助けてくれますし」
 二人の名前を出すと、壱岐の顔がわずかに曇った。
「……壱岐さん?」

「いや、弟と仲良くしているようでよかった。あれ以降、弐亜も大人しくしているしな。萌香が家に来るまでは帰ってこない日の方が多かったんだ」
 弐亜は旧套な家を嫌い、知り合いの家を転々としていたようだ。
 あの見た目と桜鬼家の御曹司という身分を使えば、どんな相手にも取り入り放題だろう。
(たぶん、女の人の家に泊まってたんだろうなぁ)
 ちょっと不潔な妄想をしてから、壱岐も女性はよりどりみどりだと思い至る。
 桜鬼家の実質的なトップとして君臨する壱岐が、なんのとりえもない萌香を求めてくるのは、飢鬼としての本能だ。
 どんなに情熱的なキスをしても、彼は萌香を愛していない。

 華族と平民。
 桜鬼家の長男と孤児。
 萌香と壱岐は、決定的に違う。
 萌香がどんなにあがいても現実は変わらないから、そっと気持ちに蓋をする。
 好きと言えたら、どんなに楽だろう。だけど、それは言ってはいけない呪文。

「明日も忙しいんですか?」
 熱くうるんだ目で見上げると、壱岐はつれなく腕を下ろしてちらりと窓の方を見た。
「夜には家に帰れそうだが、夕餉は参悟ととってくれ」
「そうですか……」
 がっかりして萌香は壱岐から離れた。
 キスした後の寂しさは、自室に帰ってベッドにもぐりこむまで続いた。


    ◇◇◇


「――くれぐれも怪我のないように。清蘭学園の生徒として楽しみましょう

 壇上で一礼する参悟に、講堂に集まった高等部の生徒が拍手を贈った。
 話を聞いていた萌香も手をパチパチと打ち鳴らす。
(参悟さんの開会宣言、かっこよかった。さすが生徒会長!)
 参悟は二年生ではあるが生徒会長を務めている。
 今日は球技大会で、先ほどのは生徒会長による開会宣言だ。

 式が終わると、学校指定のブランド製ジャージに身を包んだ生徒は会場へ急ぐ。
 スポーツ選手も多く通う清蘭学園の球技大会は、プロチームとの招待試合が目玉になっている。生徒同士の球技はお飾り程度で、有望な生徒の活躍を見るために欠席者多数で中止になる試合も多いのだとか。
 萌香はバドミントンに出場する。
 会場の第三体育館に行く前に、教室へ水筒を取りに戻ると、ロッカーに入れてあった鞄がない。赤いスプレーが吹かれていて、ハンガーにかけた制服も置いていた教科書も真っ赤だ。
「誰がこんなことを……」
 言葉を失っていると、後ろから複数の笑い声が聞こえた。
 振り向くと、クラスの一軍女子たちがニヤニヤと笑っていた。開会式に出ていないと思ったら、ここで時間をつぶしていたようだ。

「野宮さんのロッカー、きたなーい。平民は整理整頓もできないんだぁ」
「あなたたちがやったの?」
 彼女たちは以前から、桜鬼家で世話になる萌香を疎んでいる様子だった。
 お嬢様育ちだからイジメはしないだろうと思っていたが、甘かったらしい。
 彼女たちは「証拠もないのにひどい」と被害者みたいなことを言いながら爆笑している。
(話していても埒が明かないな)
 萌香はバンとロッカーを閉じて、きびすを返した。

 清蘭学園の敷地は広い。
 開会式の間に萌香のロッカーを荒らして鞄を捨てたとすれば、そう遠くない場所に捨てられているはずだ。
 ゴミ箱の中にはなかった。中庭の噴水にも浮いていない。
 花壇のなか、雨樋のした、用具入れ……。
 萌香はあちこち歩き回ったが、鞄はどこにもない。

 わあっと歓声が上がって顔を上げる。
 気づけば、バスケの試合が行われている第一体育館のそばだった。
 通気口からのぞいたら、弐亜がBリーグの選手を翻弄してシュートを決めていた。
 黄色い歓声に顔を向けると、テニスコートで参悟がレジェンド選手と互角の戦いを見せていた。
 弐亜も参悟も女性人気がすごい。
 萌香が嫌がらせを受けたのは、彼らと同居しているせいかもしれない……。

 ふいに、萌香は二メートルくらい先の茂みに目をとめた。
 ここは高等部の敷地なのに、中等部の制服を着た少年がいる。
 こっそり参悟に熱い視線を送る彼の手には、萌香の鞄があった。
「それ、私の!」
 叫ぶと、少年はすっと視線を動かして萌香を見た。
 その瞳は、壱岐や弐亜、参悟と同じ赤色だった。
 少年は、目じりが切れ上がった大きな瞳で萌香をじっと見つめる。
 四方にはねた髪は銀色だが、ミステリアスな雰囲気はどことなく壱岐に似ていた。
「モカ、これ」
 鞄とともに差し出されたマスコットは、萌香が幼稚園の頃に母が作ってくれたもので、『もかちゃんへ』と刺繍が入れられている。
 赤く染まった鞄と違ってこちらは汚れていなかったので、萌香は笑顔で受け取った。
「拾ってくれてありがとう! どうして私が持ち主だってわかったの?」
「んー……」

 少年は、もの憂げにあごに手を当て、ゆっくりした動作で小首を傾げた。
 手首にはめた赤い腕輪が揺れる。
壱岐兄(いつきにい)が写真を見せてくれた。昨日、離れで夕餉をとったときに」
「離れって、桜鬼家の敷地の端にある建物だよね。人が住んでたんだ……」
 大きな池のある日本庭園を歩くと、枝ぶりの大きな紅葉に隠れるように建てられた家が見える。
 萌香はそれを茶室だと思い込んでいた。まさか、住人がいたとは。
「母屋は広くて空いてる部屋もたくさんあるのに、どうして離れに?」
 悪気なく聞いたら、少年は子犬のようにシュンとうなだれた。
「オレ、妾の子だから……」
「え?」
「あそこは、愛人が住む家」

 少年の目から光が消え、テニスコートに、そして体育館に向ける視線がじっとりとした影を帯びる。
 日陰にいるせいか、瞳の色が乾いた血のように黒ずんで見えた。
 けれど、目に浮かんでいるのは憎しみではなかった。
 純粋な憧れだ。
(この子、お兄さんを応援に来たんだ)
 人気のない場所にいるのは、誰かに見られると変な噂を立てられて兄たちに迷惑がかかるからだろう。
 少年のけなげな姿は萌香の胸を打った。

「あなたの名前を聞いてもいい?」
「……オレは四葉(よつば)。壱岐兄とは母親が違うけど認知されてる。桜鬼本家はオレを入れて四兄弟」
 壱岐には、弐亜と参悟の他にも弟がいたらしい。
 萌香は離れに近づかないし、教えてくれる人もいなかった。
 桜鬼家の事情に首を突っ込むなと言われればそれまでだけど、線を引かれているようで少し寂しい。
「四葉くんは、いつから離れで暮らしているの?」
「去年。父さんの葬儀に出たら、壱岐兄が同じ屋敷で暮らそうと言ってくれた。オレも桜鬼家の子どもだからって。だけど、当主のお爺様が認めてくれなくて。落としどころを作るために、オレと母さんは離れで暮らしてる……」
 壱岐、弐亜、参悟、そして四葉の父親は病気で儚くなり、彼が率いていた桜鬼グループは壱岐が受け継ぐことになった。
 桜鬼家の当主は存命の祖父だ。萌香はまだ会ったことがない。
(いつか、ご挨拶することになるのかな)

 その日がちょっとだけ怖い。
 四葉のような子どもですら陰に追いやる人物が、甘贄である萌香を受け入れてくれるとは思えなかった。
 壱岐の重荷になるのであれば、萌香はすぐにでも離れる。
 たとえ、彼がそれを望まないとしても。

「モカは、ずっと母屋にいる?」
 四葉はじいっと瞳をのぞき込んでくる。
 澄んだ赤い瞳に心の奥まで見透かされそうで、萌香は少し身がまえた。
「い、いるよ。私、他に行くあてがないところを壱岐さんに拾われたの」
 甘贄として、という部分はぼかしたが、四葉はそのまま受け入れてくれた。
「そうなんだ。オレと同じ、だね」
 微笑む顔は嬉しそうだ。無垢な反応に、萌香は安堵する。

(四葉くんはまだ飢鬼にはなっていないみたい)
 弐亜のように噛みついてくることはなさそうでほっとする。
 あんな獣が周りに二人もいたら大変だ。
「モカ。今度、離れにお茶しに来て。オレも母さんも喜ぶ」
「学校がお休みの日でもいいなら行くよ。連絡先も交換しよう」
「うれしい。モカ、好き」
「大げさだなぁ」

 あっという間に仲良くなるそばで、ピピ―ッと試合終了の笛が慣らされた。
 二人で顔を見合わせて、こっそり通気口から体育館をのぞく。
 シャツの首をのばして顔の汗をぬぐう弐亜のチームが勝利。
 テニスコートの方も参悟の勝ちでゲームセットしていた。
弐亜兄(にあにい)も、参悟兄(さんごにい)も、かっこいい……」
 四葉はぼそっとつぶやいた。
 あまり感情が表に出ない性格のようだが、瞳はキラキラ輝いていた。

 横目でそれを見ながら萌香は思う。
(四葉くんもかっこいいよ)
 本人に言わないその気持ちは、そのまま萌香の心に残った。
 無事に球技大会が終わり、清蘭学園のテストシーズンがやってきた。
 萌香を悩ませたのは試験範囲の広さ。
 生徒の多くが有名塾や家庭教師に勉強を教わっているため、清蘭では普通の学校の二倍の速度で授業が進んでいく。三年生になったとき、受験勉強だけに集中するためだという。
 予習、復習してもなにがなにやらわからない萌香は、当然ながら赤点連発だった。
 一週間後には追試がある。
 萌香は、恥を忍んであの人に泣きついた。

「――この公式は暗記してください。大問で必ず出ます」
 母屋のライブラリールームで、萌香は眼鏡をかけた参悟から勉強を教えてもらっていた。
 全教科で満点をとっているだけあって教え方が上手だ。
 問題は、萌香の理解力である。
 苦手な数学の問題集を解いてもう一時間がたつ。
 集中力切れを起こして目玉をぐるぐるさせていたら「少し休憩しましょうか」と甘いティーラテを取りにいってくれた。
 一人残された萌香は、ペンを置いてはぁとため息をつく。
「また赤点だったらどうしよう……」

 寝る間も惜しんで机に向かっているが、勉強するほどに効率が落ちている気がする。
 参悟のすすめで、テストに出やすい箇所に集中する方針に切り替えてからも、萌香はがんばりすぎてから回っていた。
(留年したら、学費を払ってくれてる壱岐さんに失礼だよ。がんばらないと)
 そよそよ吹く風に頬をなでられて眠くなってきた。参悟はまだ戻ってくる気配がない。
(ほんの少しだけ目を閉じていてもいいかな)
 萌香は、ノートの上に伏せるように目を閉じた。


「お待たせしました。……萌香さん?」
 二人分のティーラテを盆にのせてライブラリールームに入った参悟は、萌香がテーブルにつっぷして眠っているのを見て肩をすくめた。
(お疲れのようですね)
 盆を置き、彼女の隣の椅子に腰かけて寝顔をながめる。
 カールしたまつ毛はモカ色の髪と同じ色。
 健やかな寝息にあわせて上下する体は細く、これでよく今まで生きてこられたと感心する。

 壱岐の話では、萌香は両親を亡くして親戚の家を転々としてきた。
 恵まれた生活をしてきた参悟には思いもよらない苦労があったに違いない。
(ここ数年の間に、甘贄が襲われる事件が増えてきているそうです。萌香さんのご両親も、その被害者かもしれない)
 襲っているのは飢鬼だと思われる。
 すでに鬼化している参悟にとって他人事ではないし、壱岐が萌香を保護したのも同じ理由だろう。

 華族には飢鬼が多い。
 萌香の両親を殺したのが同族なら、華族の上にたつ桜鬼家には彼女を保護する責任がある。
(本当にそれだけでしょうか?)
 鼻をかすめる甘い匂いが参悟の思考をくもらせた。
 甘贄が発する独特の香りは飢鬼にしかわからないという。
 強い飢餓感にさいなまれた飢鬼が、甘贄を見つけて我慢できるとは思えない。

 参悟は知っている。
 壱岐が週に一度、萌香を自室に呼んでいることを。
 凛々しく気高い兄が人払いをさせてまで彼女と何をしているのか、考えたくない。
「……萌香さんはそれでいいんですか」
 薔薇色の頬に指をすべらせる。
 壱岐はここに触れただろうか。
 唇を寄せて、舌でなぞって、この少女で飢鬼としての渇きを癒したのだろうか。

 穢らわしい。
 そう思うのに、なぜか参悟の胸は高揚していた。
 飢鬼になったのは半年前だ。
 死なない程度に食物は口に入れているが、味がしないと心が飢える。
(壱岐お兄様が夢中になるくらい、萌香さんはおいしいのでしょうか)

 そんなに甘いのなら、そんなに満たされるのなら、自分も少しでいいから味見をしてみたい――。

 参悟は顔を近づけて、萌香の頬に控えめに唇を落とした。
 ほんの少し触れただけなのに口内に甘みが広がって、脳がグラッと揺れる。
(おいしい)
 参悟の目つきが変わった。
 理性は一瞬で吹き飛び、萌香を味わうことしか考えられなくなる。

 もっと食べたい。飲み込みたい。
 この甘贄を自分だけのモノにしてしまいたい――

「ん……? 参悟さん?」
 萌香が目をこすって起き上がった。
「あ……」
 参悟は我に返って驚愕した。
 萌香にキスしてしまった。蜜蜂が花に吸い寄せられるように、欲望にあらがえなかった。
 自分のなかに眠っていた暴力性が恐ろしくなって、口元に手を当てて立ち上がる。
 このまま萌香のそばにいたら、彼女に何をするかわからない。
「すみません。用事を思い出しました」
 廊下に出ようとすると、出口を塞ぐように弐亜が立っていた。
(見られていた)

 血の気が引く。弐亜はそんな参悟をさらに追い詰めるように口角を上げた。
「優等生ぶってても飢鬼は飢鬼だね。お前は僕らと同じだ。萌香ちゃんを食べたくてたまらないんだよ」
「違う!」
 参悟は声を荒らげた。
 壱岐は許せるが、弐亜と同類扱いされるのは我慢ならない。
「私は貴様のように萌香さんを傷つけたりしない……!」
 手のひらに神力を集めて、弐亜へ向けて放つ。
 その瞬間、弐亜をかばうようにして萌香が割り込んできた。

「だめっ!」