ドクン、と鼓動が跳ねる。
 壱岐の柔らかな唇は熱く、触れただけで萌香の頭がぼうっとした。
 思考があいまいになって、眠りに落ちる瞬間みたいに心地よくて、目蓋が自然と落ちてくる。
(なに、これ……)
 よく知らない男の人に初めてのキスを奪われている。
 それなのに、萌香の心にわき上がるのは不快感ではなく快感だった。

(キスって、こんなに気持ちいいの?)
 甘いしびれが萌香の体をかけめぐる。全身から力が抜けて、もう立っていられない。
 くたりと弛緩した体を抱きかかえた壱岐は、いくども角度を変えて夢中で萌香の唇を味わう。
 それはまるで、長い間さまよい歩いた獣が、やっと見つけた食糧にむさぼりつくよう。
(このまま食べられちゃいそう……)
 おもむろに壱岐の頬に手を伸ばすと、彼ははっと我に返って口を離した。

「……甘い……」

 情熱的なキスの間、壱岐は甘さを感じていたらしい。
 息を吐いた彼は、まだ夢見心地にひたる萌香を見て、勝ったような顔で微笑んだ。
「飢鬼に求められた甘贄は歓喜を覚えるそうだ。その様子だと、気持ちよかったようだな?」
「ち、ちがっ」
「否定しないでくれ。俺は、君を味わえて幸せだった」
 壱岐の得も言われぬ表情に、萌香は真っ赤になった。

(は、恥ずかしい!)
 ファーストキスで快感を覚えただけでなく、した相手に幸せだとまで言われてしまった。
 恋人でもないのにおかしいけれど、たしかに萌香の体は、壱岐――飢鬼に求められた喜びに包まれていた。
 彼にすべてを捧げてもいい、そんな気にさえなるキスだった。
 熱い頬に手を当てる萌香を、壱岐はもう離さないというように強く抱きしめる。
「俺が飢鬼になったのはもう五年も前だ。味がしない日々は空虚で、苦しくて、覚めない悪夢のようだった。やっと、やっと解放される……」
「壱岐さん……」

 味覚を失って五年も苦しんできた壱岐。
 自分が甘贄だと言われてもすぐには信じられないけれど、ほんの一瞬でも彼の苦痛を和らげられるのが自分だけなら、萌香は協力したいと思った。
 壱岐には通り魔から助けられた恩がある。そう自分に言い訳して。
「たまにキスするくらいでよければ、私がお力になります」
 すると、壱岐はほっとした表情になった。
「ありがとう、萌香。よければこの屋敷にいてくれないか。大切な君を、ひどい環境に帰したくない。保護者への話はこちらでつける」
「それは……難しいかもしれません。話が通じない人たちなので」

 居候している又従兄弟一家は金にがめつい。
 バイト禁止の学校に通う萌香を働かせるくらいに。
 桜鬼家が萌香を引き取りたいと話したら、大金をせびられるだろう。
 心配する萌香の頭を撫でて、壱岐は口角を上げた。
「俺が上手くやる。萌香は安心して待っていてくれ」
「……はい」
 こうして、萌香は桜鬼家に身を落ち着けることになった。

 その後、案内されたのは客間だった。
 温かなシャワーを浴びて、女中が用意してくれた浴衣に着替えた萌香は、真っ白いシーツをかけたベッドに飛び込んだ。
 親戚の家はせんべい布団ばかりだったので、ふかふかの寝床は久しぶりだ。
(これでよかったのかもしれない。壱岐さんを助けられるし、私も居場所ができたし)
 そう思わないとやっていられなかった。

 甘贄。飢鬼。華族に神力。
 初めて聞く話で頭がパンク寸前だ。
 とにかく今は休みたい。体を横たえるとすぐに睡魔が襲ってくる。
(明日も、壱岐さんとキスをするのかな)
 ぼんやり考えながら、萌香は深い眠りに落ちていった。


     ◇◇◇


 ――ぴちゃ、ぴちゃ。

 なまめかしい音がする。
 雨音より粘着質で執拗な音。それに、首の付け根がくすぐったい。
 温かく湿った何かが肌をかすめるとゾクゾクして、萌香は眠ったまま身を震わせた。
(舐められてる?)

 全身にのしかかる重みは、巨大な犬を思わせた。
 昔、近所で飼われていたハスキーを思い出す。
 その犬は子どもが好きらしく、幼い萌香に飛びかかってきては顔中を舐めてきた。
 たしか、あの子の名前は――

「もう、やめてよニア……」
 寝言を漏らしたら、のしかかった誰かの動きが止まった。
「どうして知ってるの」
 響いた男性の声に、萌香はパチッと目を開いた。
 体の上に美しい青年がのっていて、壱岐と同じ色の瞳で萌香を見下ろしてくる。

(この人、誰!?)