萌香は車中で傷の手当を受けた。口づけられた際に血は止まっていたのだが、壱岐は丁寧に包帯を巻いてくれた。
そのまま連れてこられたのは和風の大邸宅だった。
門をくぐって車を降りると、ずらっと並んだ使用人に迎えられる。
「ここが俺の住まいだ」
萌香は度肝を抜かれたが、壱岐は気にもせず旅館のような建物に入っていった。
そこでも女中が並んでいて、先頭で若い執事が一礼する。糸目で細身の男性だった。
「おかえりなさいませ、壱岐様。運転手から連絡が来ていましたが、その方が……」
執事は靴を脱いだ壱岐の後ろに回り、自然な動作でコートを脱がせながら、狐のような細い目で萌香を見る。
「っ」
ドキッとした。急にここにいてはいけない気がしてきた。
男に押し倒されたせいで制服は汚れているし、普段カフェで時給千円で働いている高校生に、このお屋敷は場違いだ。
大きすぎるスリッパのなかで足を泳がせていると、背中に壱岐の手が触れた。
「家人用の応接間を使う。茶と菓子を用意しろ」
壱岐は執事の目から守るように萌香を屋敷の奥へエスコートしてくれた。
「立派なお屋敷ですね」
「しょせん別邸だ。本家と比べたら大したことはない」
ここよりすごいお屋敷……萌香には想像できなかった。
通されたのは、品のいい和室だった。ベルベット張りのソファと巨大な樹を輪切りにしたテーブルが置かれていて、カーペットの下の畳からい草の匂いが香ってくる。
萌香は勧められるままソファに腰かけた。壱岐は向かいに座り、執事が運んできた日本茶と和菓子が置かれるのを赤い目で見つめる。
闇のなかでは発光して見えた瞳は、照明の下では高価なルビーのようにきらめいていた。
(本当に綺麗な人……)
柳を思わせる眉は細く、まつ毛は白い頬に影を落とすほど長い。鼻筋は筆で描いたようにまっすぐで、薄い唇はほのかに桜色だ。
萌香のまえに茶碗を置き、壱岐に革のカバーをつけたタブレットを渡して執事は部屋を出ていった。
襖が閉じられると、萌香は心細くなる。
壱岐は先ほどの男とは違うと分かっていても襲われたあとだ。
異性と二人きりになるのはまだ怖い。
「壱岐さん、本当にありがとうございました。お茶をいただいたら帰ります」
「帰る家はあるのか?」
「え?」
顔を上げると、壱岐はタブレットを操作して読み上げる。
「野宮萌香、年は十六。両親と死別して以降は親戚の家をたらいまわしにされている。親権者は父親の姉になっているが、今いるのは又従兄弟の家だな。アルバイト禁止の学校にもかかわらず夜遅くまで働いているのは、家主に生活費を無心されているから。払う金額が少ないと殴られて家を追い出され、公園で眠って警察に補導されたこともある」
「どうしてそれを……?」
「桜鬼家の情報網をあなどらないでもらいたい」
壱岐はタブレットを閉じてお茶を一口飲んだ。
萌香も喉が渇いていたが、茶碗に手を伸ばす気にはなれなかった。この短時間で萌香が虐げられていると調べ上げられたのも衝撃的だが、なぜ調べたのか壱岐の意図がわからない。
黙る萌香を、壱岐は赤い視線で刺す。
「野宮萌香、俺だけの〝甘贄〟になれ。そうすれば、今の家から救い出してやる」
「あまにえ……?」
思わず眉根を寄せてしまった。
「さっきの通り魔にも同じことを言われました。甘贄というのは何ですか?」
「やはり知らなかったか。甘贄は遺伝の要素が多いが、ご両親や祖父母から話を聞いたこともないのか?」
「ありません。父と母は家に強盗が入って亡くなりましたし、祖父母はその前に……」
「思い出させてすまない」
第一発見者として目にした凄惨な記憶は、壱岐の声でさえぎられた。
「では、俺が教える。甘贄というのは〝飢鬼(きき)〟を癒せる唯一の存在だ。君は華族というものをどれだけ知っている?」
「学校で習ったくらいです。華族はかつて日本にいた神様の末裔で、普通の人間より強くて美しくて、不思議な力を持っているんですよね」
「一般的にはそう伝わっているようだ。しかし、華族には秘密がある。俺のような神力の強い華族は、元服を迎える頃に一切の味覚を失う。甘み、塩気、苦さ、旨味を感じられなくなるんだ。そうなった華族を飢鬼と呼ぶ」
「味覚を失う……ご飯を食べても味がしないんですか?」
驚く萌香に、壱岐は寂しそうにうなずいた。
「食感しかわからない。だから、飢鬼は食欲を失っていく。死なない程度に栄養補助剤を口に入れるし水も飲むが、この瞬間ほど空虚なものはない」
そう言って壱岐は再び茶碗に口をつけた。
こくりと喉は動くが、少しもおいしそうではない。
味を感じていないのだ。壱岐も。
「飢鬼は味覚を失っているが、唯一甘さを感じる存在がいる。それが甘贄――萌香、君だ」
「し、信じられません」
味覚を失っているなら人体にだって味を感じないはずだ。
いきなり甘贄だ飢鬼だといわれて鵜呑みにするほど萌香は愚かではない。両親が亡くなってから、甘いことを言って萌香を懐柔しようする汚い大人をたくさん見てきた。
恩人である壱岐に失望したくない。
「変なお話を続けるならもう結構です。私もう帰ります!」
「待て」
壱岐は立ち上がって、部屋を出ようとする萌香の腕を掴んだ。
「甘贄だとわからせてやる」
「え……?」
振り払う間もなく引き寄せられて、壱岐の唇が萌香のそれと重なった。
そのまま連れてこられたのは和風の大邸宅だった。
門をくぐって車を降りると、ずらっと並んだ使用人に迎えられる。
「ここが俺の住まいだ」
萌香は度肝を抜かれたが、壱岐は気にもせず旅館のような建物に入っていった。
そこでも女中が並んでいて、先頭で若い執事が一礼する。糸目で細身の男性だった。
「おかえりなさいませ、壱岐様。運転手から連絡が来ていましたが、その方が……」
執事は靴を脱いだ壱岐の後ろに回り、自然な動作でコートを脱がせながら、狐のような細い目で萌香を見る。
「っ」
ドキッとした。急にここにいてはいけない気がしてきた。
男に押し倒されたせいで制服は汚れているし、普段カフェで時給千円で働いている高校生に、このお屋敷は場違いだ。
大きすぎるスリッパのなかで足を泳がせていると、背中に壱岐の手が触れた。
「家人用の応接間を使う。茶と菓子を用意しろ」
壱岐は執事の目から守るように萌香を屋敷の奥へエスコートしてくれた。
「立派なお屋敷ですね」
「しょせん別邸だ。本家と比べたら大したことはない」
ここよりすごいお屋敷……萌香には想像できなかった。
通されたのは、品のいい和室だった。ベルベット張りのソファと巨大な樹を輪切りにしたテーブルが置かれていて、カーペットの下の畳からい草の匂いが香ってくる。
萌香は勧められるままソファに腰かけた。壱岐は向かいに座り、執事が運んできた日本茶と和菓子が置かれるのを赤い目で見つめる。
闇のなかでは発光して見えた瞳は、照明の下では高価なルビーのようにきらめいていた。
(本当に綺麗な人……)
柳を思わせる眉は細く、まつ毛は白い頬に影を落とすほど長い。鼻筋は筆で描いたようにまっすぐで、薄い唇はほのかに桜色だ。
萌香のまえに茶碗を置き、壱岐に革のカバーをつけたタブレットを渡して執事は部屋を出ていった。
襖が閉じられると、萌香は心細くなる。
壱岐は先ほどの男とは違うと分かっていても襲われたあとだ。
異性と二人きりになるのはまだ怖い。
「壱岐さん、本当にありがとうございました。お茶をいただいたら帰ります」
「帰る家はあるのか?」
「え?」
顔を上げると、壱岐はタブレットを操作して読み上げる。
「野宮萌香、年は十六。両親と死別して以降は親戚の家をたらいまわしにされている。親権者は父親の姉になっているが、今いるのは又従兄弟の家だな。アルバイト禁止の学校にもかかわらず夜遅くまで働いているのは、家主に生活費を無心されているから。払う金額が少ないと殴られて家を追い出され、公園で眠って警察に補導されたこともある」
「どうしてそれを……?」
「桜鬼家の情報網をあなどらないでもらいたい」
壱岐はタブレットを閉じてお茶を一口飲んだ。
萌香も喉が渇いていたが、茶碗に手を伸ばす気にはなれなかった。この短時間で萌香が虐げられていると調べ上げられたのも衝撃的だが、なぜ調べたのか壱岐の意図がわからない。
黙る萌香を、壱岐は赤い視線で刺す。
「野宮萌香、俺だけの〝甘贄〟になれ。そうすれば、今の家から救い出してやる」
「あまにえ……?」
思わず眉根を寄せてしまった。
「さっきの通り魔にも同じことを言われました。甘贄というのは何ですか?」
「やはり知らなかったか。甘贄は遺伝の要素が多いが、ご両親や祖父母から話を聞いたこともないのか?」
「ありません。父と母は家に強盗が入って亡くなりましたし、祖父母はその前に……」
「思い出させてすまない」
第一発見者として目にした凄惨な記憶は、壱岐の声でさえぎられた。
「では、俺が教える。甘贄というのは〝飢鬼(きき)〟を癒せる唯一の存在だ。君は華族というものをどれだけ知っている?」
「学校で習ったくらいです。華族はかつて日本にいた神様の末裔で、普通の人間より強くて美しくて、不思議な力を持っているんですよね」
「一般的にはそう伝わっているようだ。しかし、華族には秘密がある。俺のような神力の強い華族は、元服を迎える頃に一切の味覚を失う。甘み、塩気、苦さ、旨味を感じられなくなるんだ。そうなった華族を飢鬼と呼ぶ」
「味覚を失う……ご飯を食べても味がしないんですか?」
驚く萌香に、壱岐は寂しそうにうなずいた。
「食感しかわからない。だから、飢鬼は食欲を失っていく。死なない程度に栄養補助剤を口に入れるし水も飲むが、この瞬間ほど空虚なものはない」
そう言って壱岐は再び茶碗に口をつけた。
こくりと喉は動くが、少しもおいしそうではない。
味を感じていないのだ。壱岐も。
「飢鬼は味覚を失っているが、唯一甘さを感じる存在がいる。それが甘贄――萌香、君だ」
「し、信じられません」
味覚を失っているなら人体にだって味を感じないはずだ。
いきなり甘贄だ飢鬼だといわれて鵜呑みにするほど萌香は愚かではない。両親が亡くなってから、甘いことを言って萌香を懐柔しようする汚い大人をたくさん見てきた。
恩人である壱岐に失望したくない。
「変なお話を続けるならもう結構です。私もう帰ります!」
「待て」
壱岐は立ち上がって、部屋を出ようとする萌香の腕を掴んだ。
「甘贄だとわからせてやる」
「え……?」
振り払う間もなく引き寄せられて、壱岐の唇が萌香のそれと重なった。