壱岐が運転する高級車の助手席で、萌香はしょぼんとしていた。
「すみません、壱岐さん。私が寝坊したせいで送らせてしまって」
「かまわない。俺は萌香が困っているなら何でもする」
 ハンドルを握った壱岐は、赤信号で停止すると腕を伸ばして萌香の髪をなでた。
「寝ぐせがついている」
「ええっ! 本当だ……はねちゃってる」
 手鏡を見ながら手で撫でつけるけれど、一晩かけてついた寝ぐせはしつこくて、すぐにぴょこんと戻ってくる。
 悪戦苦闘する萌香に、壱岐はクスリと喉を鳴らした。
「そのままでも可愛いから大丈夫だ」

 清蘭学園の駐車場に入って車を停めた壱岐は、シートベルトを外す萌香に覆いかぶさった。
(キスされる)
 萌香は体をこわばらせて唇を奪われる瞬間を待つ。
 だが、あと五センチで触れるというところで壱岐の動きが止まった。
(あれ?)
 普段と違う壱岐に萌香は戸惑う。
 いつもなら、性急に食らいついてくるのに、どうしたんだろう。

 不思議そうにまばたきする萌香の瞳をのぞき込んだ壱岐は、眉を下げて身を引いた。
「……遅れるぞ」
「そうだった! 送っていただいてありがとうございました、壱岐さん!」
 車を降りて校舎まで全速力で走る。
 その間、頭のなかでは疑問符が浮かんでいた。
(お腹が空いたような顔をしてたけど、キスしなくてよかったのかな?)

 最近の壱岐は少しおかしい。
 定期的なお呼ばれの日もキスより雑談する時間の方が長くなったし、離れに行く日を減らして萌香と食事をとってくれるし、今日みたいに仕事よりも萌香を優先してくれることが増えた。
 考えていたら、チャイムの音がして飛び上がる。
「授業が始まっちゃう!」
 慌てて校舎に入る萌香は気づかなかった。
 その後ろ姿をながめる、狡猾な視線に。