桜鬼家の贄花嫁 純血の四兄弟は甘き婚約者を奪いあう

 少年は、目じりが切れ上がった大きな瞳で萌香をじっと見つめる。
 四方にはねた髪は銀色だが、ミステリアスな雰囲気はどことなく壱岐に似ていた。
「モカ、これ」
 鞄とともに差し出されたマスコットは、萌香が幼稚園の頃に母が作ってくれたもので、『もかちゃんへ』と刺繍が入れられている。
 赤く染まった鞄と違ってこちらは汚れていなかったので、萌香は笑顔で受け取った。
「拾ってくれてありがとう! どうして私が持ち主だってわかったの?」
「んー……」

 少年は、もの憂げにあごに手を当て、ゆっくりした動作で小首を傾げた。
 手首にはめた赤い腕輪が揺れる。
壱岐兄(いつきにい)が写真を見せてくれた。昨日、離れで夕餉をとったときに」
「離れって、桜鬼家の敷地の端にある建物だよね。人が住んでたんだ……」
 大きな池のある日本庭園を歩くと、枝ぶりの大きな紅葉に隠れるように建てられた家が見える。
 萌香はそれを茶室だと思い込んでいた。まさか、住人がいたとは。
「母屋は広くて空いてる部屋もたくさんあるのに、どうして離れに?」
 悪気なく聞いたら、少年は子犬のようにシュンとうなだれた。
「オレ、妾の子だから……」
「え?」
「あそこは、愛人が住む家」

 少年の目から光が消え、テニスコートに、そして体育館に向ける視線がじっとりとした影を帯びる。
 日陰にいるせいか、瞳の色が乾いた血のように黒ずんで見えた。
 けれど、目に浮かんでいるのは憎しみではなかった。
 純粋な憧れだ。
(この子、お兄さんを応援に来たんだ)
 人気のない場所にいるのは、誰かに見られると変な噂を立てられて兄たちに迷惑がかかるからだろう。
 少年のけなげな姿は萌香の胸を打った。

「あなたの名前を聞いてもいい?」
「……オレは四葉(よつば)。壱岐兄とは母親が違うけど認知されてる。桜鬼本家はオレを入れて四兄弟」
 壱岐には、弐亜と参悟の他にも弟がいたらしい。
 萌香は離れに近づかないし、教えてくれる人もいなかった。
 桜鬼家の事情に首を突っ込むなと言われればそれまでだけど、線を引かれているようで少し寂しい。
「四葉くんは、いつから離れで暮らしているの?」
「去年。父さんの葬儀に出たら、壱岐兄が同じ屋敷で暮らそうと言ってくれた。オレも桜鬼家の子どもだからって。だけど、当主のお爺様が認めてくれなくて。落としどころを作るために、オレと母さんは離れで暮らしてる……」
 壱岐、弐亜、参悟、そして四葉の父親は病気で儚くなり、彼が率いていた桜鬼グループは壱岐が受け継ぐことになった。
 桜鬼家の当主は存命の祖父だ。萌香はまだ会ったことがない。
(いつか、ご挨拶することになるのかな)

 その日がちょっとだけ怖い。
 四葉のような子どもですら陰に追いやる人物が、甘贄である萌香を受け入れてくれるとは思えなかった。
 壱岐の重荷になるのであれば、萌香はすぐにでも離れる。
 たとえ、彼がそれを望まないとしても。

「モカは、ずっと母屋にいる?」
 四葉はじいっと瞳をのぞき込んでくる。
 澄んだ赤い瞳に心の奥まで見透かされそうで、萌香は少し身がまえた。
「い、いるよ。私、他に行くあてがないところを壱岐さんに拾われたの」
 甘贄として、という部分はぼかしたが、四葉はそのまま受け入れてくれた。
「そうなんだ。オレと同じ、だね」
 微笑む顔は嬉しそうだ。無垢な反応に、萌香は安堵する。

(四葉くんはまだ飢鬼にはなっていないみたい)
 弐亜のように噛みついてくることはなさそうでほっとする。
 あんな獣が周りに二人もいたら大変だ。
「モカ。今度、離れにお茶しに来て。オレも母さんも喜ぶ」
「学校がお休みの日でもいいなら行くよ。連絡先も交換しよう」
「うれしい。モカ、好き」
「大げさだなぁ」

 あっという間に仲良くなるそばで、ピピ―ッと試合終了の笛が慣らされた。
 二人で顔を見合わせて、こっそり通気口から体育館をのぞく。
 シャツの首をのばして顔の汗をぬぐう弐亜のチームが勝利。
 テニスコートの方も参悟の勝ちでゲームセットしていた。
弐亜兄(にあにい)も、参悟兄(さんごにい)も、かっこいい……」
 四葉はぼそっとつぶやいた。
 あまり感情が表に出ない性格のようだが、瞳はキラキラ輝いていた。

 横目でそれを見ながら萌香は思う。
(四葉くんもかっこいいよ)
 本人に言わないその気持ちは、そのまま萌香の心に残った。
 無事に球技大会が終わり、清蘭学園のテストシーズンがやってきた。
 萌香を悩ませたのは試験範囲の広さ。
 生徒の多くが有名塾や家庭教師に勉強を教わっているため、清蘭では普通の学校の二倍の速度で授業が進んでいく。三年生になったとき、受験勉強だけに集中するためだという。
 予習、復習してもなにがなにやらわからない萌香は、当然ながら赤点連発だった。
 一週間後には追試がある。
 萌香は、恥を忍んであの人に泣きついた。

「――この公式は暗記してください。大問で必ず出ます」
 母屋のライブラリールームで、萌香は眼鏡をかけた参悟から勉強を教えてもらっていた。
 全教科で満点をとっているだけあって教え方が上手だ。
 問題は、萌香の理解力である。
 苦手な数学の問題集を解いてもう一時間がたつ。
 集中力切れを起こして目玉をぐるぐるさせていたら「少し休憩しましょうか」と甘いティーラテを取りにいってくれた。
 一人残された萌香は、ペンを置いてはぁとため息をつく。
「また赤点だったらどうしよう……」

 寝る間も惜しんで机に向かっているが、勉強するほどに効率が落ちている気がする。
 参悟のすすめで、テストに出やすい箇所に集中する方針に切り替えてからも、萌香はがんばりすぎてから回っていた。
(留年したら、学費を払ってくれてる壱岐さんに失礼だよ。がんばらないと)
 そよそよ吹く風に頬をなでられて眠くなってきた。参悟はまだ戻ってくる気配がない。
(ほんの少しだけ目を閉じていてもいいかな)
 萌香は、ノートの上に伏せるように目を閉じた。


「お待たせしました。……萌香さん?」
 二人分のティーラテを盆にのせてライブラリールームに入った参悟は、萌香がテーブルにつっぷして眠っているのを見て肩をすくめた。
(お疲れのようですね)
 盆を置き、彼女の隣の椅子に腰かけて寝顔をながめる。
 カールしたまつ毛はモカ色の髪と同じ色。
 健やかな寝息にあわせて上下する体は細く、これでよく今まで生きてこられたと感心する。

 壱岐の話では、萌香は両親を亡くして親戚の家を転々としてきた。
 恵まれた生活をしてきた参悟には思いもよらない苦労があったに違いない。
(ここ数年の間に、甘贄が襲われる事件が増えてきているそうです。萌香さんのご両親も、その被害者かもしれない)
 襲っているのは飢鬼だと思われる。
 すでに鬼化している参悟にとって他人事ではないし、壱岐が萌香を保護したのも同じ理由だろう。

 華族には飢鬼が多い。
 萌香の両親を殺したのが同族なら、華族の上にたつ桜鬼家には彼女を保護する責任がある。
(本当にそれだけでしょうか?)
 鼻をかすめる甘い匂いが参悟の思考をくもらせた。
 甘贄が発する独特の香りは飢鬼にしかわからないという。
 強い飢餓感にさいなまれた飢鬼が、甘贄を見つけて我慢できるとは思えない。

 参悟は知っている。
 壱岐が週に一度、萌香を自室に呼んでいることを。
 凛々しく気高い兄が人払いをさせてまで彼女と何をしているのか、考えたくない。
「……萌香さんはそれでいいんですか」
 薔薇色の頬に指をすべらせる。
 壱岐はここに触れただろうか。
 唇を寄せて、舌でなぞって、この少女で飢鬼としての渇きを癒したのだろうか。

 穢らわしい。
 そう思うのに、なぜか参悟の胸は高揚していた。
 飢鬼になったのは半年前だ。
 死なない程度に食物は口に入れているが、味がしないと心が飢える。
(壱岐お兄様が夢中になるくらい、萌香さんはおいしいのでしょうか)

 そんなに甘いのなら、そんなに満たされるのなら、自分も少しでいいから味見をしてみたい――。

 参悟は顔を近づけて、萌香の頬に控えめに唇を落とした。
 ほんの少し触れただけなのに口内に甘みが広がって、脳がグラッと揺れる。
(おいしい)
 参悟の目つきが変わった。
 理性は一瞬で吹き飛び、萌香を味わうことしか考えられなくなる。

 もっと食べたい。飲み込みたい。
 この甘贄を自分だけのモノにしてしまいたい――

「ん……? 参悟さん?」
 萌香が目をこすって起き上がった。
「あ……」
 参悟は我に返って驚愕した。
 萌香にキスしてしまった。蜜蜂が花に吸い寄せられるように、欲望にあらがえなかった。
 自分のなかに眠っていた暴力性が恐ろしくなって、口元に手を当てて立ち上がる。
 このまま萌香のそばにいたら、彼女に何をするかわからない。
「すみません。用事を思い出しました」
 廊下に出ようとすると、出口を塞ぐように弐亜が立っていた。
(見られていた)

 血の気が引く。弐亜はそんな参悟をさらに追い詰めるように口角を上げた。
「優等生ぶってても飢鬼は飢鬼だね。お前は僕らと同じだ。萌香ちゃんを食べたくてたまらないんだよ」
「違う!」
 参悟は声を荒らげた。
 壱岐は許せるが、弐亜と同類扱いされるのは我慢ならない。
「私は貴様のように萌香さんを傷つけたりしない……!」
 手のひらに神力を集めて、弐亜へ向けて放つ。
 その瞬間、弐亜をかばうようにして萌香が割り込んできた。

「だめっ!」
「萌香ちゃん!」
 弐亜が抱きとめる。神力で頬や足に怪我をした萌香は、痛そうに顔を歪めながら「平気です」と笑った。
 あからさまな笑顔は弐亜の心に火をつけた。
 萌香を一人で立たせると、言葉を失っていた参悟につかみかかる。
「こんな場所で神力を放ったらどうなるか考えなかったわけ!?」
「萌香さんを傷つける気はありませんでした。お前がよけたのが悪いんでしょう」
「ふざけんなよ!」
 殴り合いに発展しそうになって、萌香はうろたえた。
「弐亜さんも参悟さんも落ち着いてください!」

「そうだよ。モカが困ってる」
 氷を叩いたような声が加勢して、三人はいっせいに戸口を見た。
 入ってきたのは四葉だった。
 彼は、白い指先で萌香の手を握ると、喧嘩する兄二人を冷たく見すえる。
「放っておくならオレがもらう。モカ、行こう。手当てしてあげる」
 感情の読めない声で告げて四葉は歩き出した。
 引っ張られた萌香はついていかざるを得なくて、あわあわと振り返る。
「私は大丈夫ですから、仲直りしてくださいー!」

 残された弐亜は、バツが悪そうな表情で手を下ろした。
「……腹が立つけど、あの子の言う通りだ。萌香ちゃんの手当てを優先するべきだった」
「先に、萌香さんに謝るべきでした」
 参悟もまた自分の間違いを認めて反省した。
 兄弟のなかでも弐亜と参悟は仲が悪く、普段は顔を合わせないようにしている。
 それなのに、なぜ今回はお互いに衝突してしまったのか。

 理由は漠然とわかっていた。二人とも飢鬼だからだ。
 甘贄を前にすると、ひとりじめしたい欲を抑えられなくなる。
 萌香に近づく飢鬼は滅せよという本能からの警告が冷静さを失わせた。
「四葉くんに一本取られちゃった。今日は痛み分けにしよう、参悟。萌香ちゃんにはちゃんと謝るんだよ?」
「こんなときだけ兄貴風を吹かさないでください。言われなくてもそうします。手当てはあの子がしてくれるそうですから、夜にでも」
 肩をすくめる弐亜も、暗い表情で反省する参悟も、欲にかられない四葉がうらやましかった。
 飢鬼でない彼であれば、きっと打算なく萌香を大切にできるから。


 ――四葉に手を引かれて離れにやってきた萌香は縁側に座らされた。

 いつもなら四葉の母が挨拶に出てくるが、今日は外出しているらしい。
 数名の使用人も母屋の手伝いに行っている時間で、正真正銘の二人きりだ。
 そのせいか、四葉は腰を下ろしても手を離そうとしない。
「あ、あの四葉くん?」
「弐亜兄も参悟兄もひどいね……」
 もの憂げに目を伏せた四葉が、手首にはめていた腕輪を外す。
 途端に、握られた手が熱くなって、伝わった温度が萌香の全身を包み込んだ。
(神力だ!)
 壱岐も使っていた治癒の法で、参悟につけられた傷は綺麗に消えてしまった。

「ありがとう。四葉くんにも神力があったんだね。飢鬼になっていないから、持ってないかと思ってた」
「これで抑え込んでた。強い神力があるとお爺様に知られたらいけないからって。でも……モカに会って覚悟ができた」
「覚悟って?」
 萌香が首を傾げたと同時に、四葉の腕輪にピシッとひびが入る。
 ひびはあっという間に広がって、腕輪は粉々になってしまった。
「割れちゃった!」
「……大人になる日がきた。つっ」
「四葉くん!?」

 四葉は苦しそうに背を丸めた。
 不思議なことに、彼の体は桜色の光に包まれていき、光が広がるごとに四葉はうめいた。
「い、たい、痛い……」
 萌香はたまらず彼を抱きしめて助けを求める。
「誰か! 誰かいませんか!」
「呼ばないで、モカ」
 顔を上げた四葉は、涙をためた目に萌香を写して、苦しくも幸せそうに微笑む。
「モカにだけ見てほしいから……」

 カッと光が強くなり、萌香の視界が真っ白に染まった。
(まぶしい!)
 思わず目を閉じるが、何も起こらない。
 そうっと目蓋を開けると光はすっかり消えていて、萌香の肩に手を置いた四葉はうつむいていた。
「よ、四葉くん。大丈夫?」
「モカ――」
 白い指にあごをすくいあげられる。
 はっとしたときには、萌香の唇は四葉のそれと重なっていた。
(四葉くん!?)

 どうしてキスしているんだろう。四葉と萌香は、友達だったはずなのに。
 喧嘩の場から連れ出して、傷の手当てをしてくれた優しい四葉。
 それが今は、食物連鎖の上にいる肉食獣みたいに萌香に食らいついている。
「ん……」
 萌香の動揺をよそに、夢中で口内を味わった四葉は、唇を離してあやしく笑った。
「モカが甘い……。オレも、やっと飢鬼になれたんだ……!」
 瞳孔をぱっくり開け、白皙の頬を染めて、四葉は歓喜に包まれる。
 その様子に、萌香はゾッとした。
 壱岐や弐亜は飢鬼になってあんなに苦しんでいるというのに、四葉もそうなりたかったというのか。
 急に、四葉が正体不明な怪物のように思えてきて、体の震えが止まらない。

 逃げたい。
 だけど、逃げても意味がないとわかっている。
 四葉は、桜鬼四兄弟のなかでもっとも獰猛な鬼だ。
 萌香が逃げたら地の果てまで追ってきて、この体を食べつくすだろうと、甘贄の本能が警告してくる。
(こわい。四葉くんが、すごくこわい)
 おびえる萌香の濡れた唇を指でなぞって、四葉は甘ったるく目を細めた。
「おいしかったよ、モカ」
 窓の外に桜色の光が見えて、壱岐は表に走り出た。
(今のは桜鬼家の者が鬼化するときの光だ)
 光が放たれたのは離れの方角である。
 離れは異母弟の四葉が住んでいる家で、数名の使用人以外は立ち入らせないようにしていた。
 四葉の神力の強さを周囲に悟らせないためだ。

 桜鬼家の当主である祖父は、華族の血を重んじる純血思想を持っていて、平民の母親から生まれた四葉を疎んでいる。
 彼が壱岐に匹敵するほどの強さを秘めていると知れば、何をしてくるかわからない。
(封じの腕輪を渡していたのに。まさか、外したのか!?)
 庭園を突っ切って離れに向かう。
 大きな紅葉が近くなると、その向こうに信じたくない光景が広がっていた。

 ――萌香が四葉と口づけをかわしている。

 こちらに背を向ける萌香の表情はわからないが、四葉は静かに目を閉じて真摯に彼女を感じていた。
 彼の足元に散らばった腕輪の欠片を見て、壱岐は察する。
(ああ、四葉も俺と同じ飢鬼になってしまった)
 末の弟だけは、この苦しい運命から逃れさせたかったのに。

 桜鬼グループ内の製薬会社には飢鬼を研究する秘密部署がある。
 鬼化を食い止めるのに紅葉から採取された物質が有効だとわかり、試験的に製作したのがあの腕輪だ。
 有効成分を絶えず発するほか、神力を抑え込んで体の成長を阻害する術もほどこした。
 引っ越しもさせた。
 桜の木に囲まれた母屋ではなく、紅葉の植わった離れで暮らさせているのは、四葉を鬼化から守るためだった。
(結局、俺は弟たちを守ってやれなかった……)

 落胆に身をつまされていたら、四葉が目を開けて萌香から離れた。
 彼女の唇で指をなぞった彼は、遠くの壱岐に視線をすべらせて挑発するように笑った。
 その表情は、獲物を見事に仕留めた狩人のようだった。
(まさか……四葉は自ら望んで鬼化したのか?)
 封じの腕輪を外して、欲望の枷を取り払い、甘贄に食らいつくのが、四葉の本望だったとでもいうのだろうか。
 壱岐は、四葉という人間を見誤っていたのかもしれない。
 彼は、壱岐が庇護するべき弱者ではなく、壱岐の幸せをおびやかす敵対者だったのだ。

(萌香は渡さない)
 ぐっとこぶしを握りしめて四葉を見すえる。
 四葉は、早々に壱岐への興味をなくして萌香を愛でているが、その姿もまた壱岐の嫉妬心に油を注いだ。
 甘贄を独占したい想いに、思考が焼ききれそうだ。
 気をやるすんでのところで踏みとどまって、深呼吸をする。
(萌香を独占したい。これは恋か? それとも食欲か?)
 わからない。
 どちらにせよ、萌香は悲しむだろうなと壱岐は思った。
 萌香が壱岐に唇を許すのは、壱岐を愛しているからではない。
 どんな感情を抱いても、彼女の重荷にしかならない。

「さっき光が見えたような……」
「それよりも、私の話を聞きなさい」
 弐亜と参悟が母屋を出てきたので、壱岐は反対方向にきびすを返した。
 残酷な問いへの答えは保留して。
 萌香への想いを胸に秘めて。
 壱岐が運転する高級車の助手席で、萌香はしょぼんとしていた。
「すみません、壱岐さん。私が寝坊したせいで送らせてしまって」
「かまわない。俺は萌香が困っているなら何でもする」
 ハンドルを握った壱岐は、赤信号で停止すると腕を伸ばして萌香の髪をなでた。
「寝ぐせがついている」
「ええっ! 本当だ……はねちゃってる」
 手鏡を見ながら手で撫でつけるけれど、一晩かけてついた寝ぐせはしつこくて、すぐにぴょこんと戻ってくる。
 悪戦苦闘する萌香に、壱岐はクスリと喉を鳴らした。
「そのままでも可愛いから大丈夫だ」

 清蘭学園の駐車場に入って車を停めた壱岐は、シートベルトを外す萌香に覆いかぶさった。
(キスされる)
 萌香は体をこわばらせて唇を奪われる瞬間を待つ。
 だが、あと五センチで触れるというところで壱岐の動きが止まった。
(あれ?)
 普段と違う壱岐に萌香は戸惑う。
 いつもなら、性急に食らいついてくるのに、どうしたんだろう。

 不思議そうにまばたきする萌香の瞳をのぞき込んだ壱岐は、眉を下げて身を引いた。
「……遅れるぞ」
「そうだった! 送っていただいてありがとうございました、壱岐さん!」
 車を降りて校舎まで全速力で走る。
 その間、頭のなかでは疑問符が浮かんでいた。
(お腹が空いたような顔をしてたけど、キスしなくてよかったのかな?)

 最近の壱岐は少しおかしい。
 定期的なお呼ばれの日もキスより雑談する時間の方が長くなったし、離れに行く日を減らして萌香と食事をとってくれるし、今日みたいに仕事よりも萌香を優先してくれることが増えた。
 考えていたら、チャイムの音がして飛び上がる。
「授業が始まっちゃう!」
 慌てて校舎に入る萌香は気づかなかった。
 その後ろ姿をながめる、狡猾な視線に。
「そういえば今朝、野宮さんが車で送られてくるのを見たんだけど――」
 唐突なつるし上げは昼休みにはじまった。
 異国風情あるカフェテリアに入った萌香は、テーブルにお菓子を広げていた女子たちにあっと思う。
(この間、ロッカーを汚してきた人たちだ)
 芸能人を親に持つ彼女たちは、持ち前の人目を引く外見で生徒たちの注目を集め、目立ちたくない萌香を取り囲む。
「あれってさー、桜鬼家の壱岐様だよね?」
「車中でキスしてたの見たんだけど。付き合ってんの?」

 ざわっと場内に動揺が広がった。
 桜鬼グループを率いる壱岐の名前は、清蘭学園では有名なのだ。
「ち、違います。遅刻しそうになって送ってもらっただけです!」
 萌香は慌てて否定するが、女子たちのいじりは止まらない。
「あやしい。愛人だったりして」
「野宮さん、地味な顔してやることやってんだ~」
「弐亜様や参悟様も騙されてそう。平民の可哀想な女の子って得だよね」
「そんなことしてない……」

 か細い反論は、彼女たちの笑い声にかき消された。
 視線を感じて振り向くと、カフェテリア中が萌香を疑いの目で見つめている。
「ひっ」
 思わず声が漏れた。
 彼女達の話はありもしないことばかり。だけど、誰も信じてくれない。
 黙っているのは肯定も同じだ。だけど反論するのが怖い。
 冷たくかじかんだ手をポケットに入れると、母が作ってくれたマスコットに触れた。

「君たち、何をしているんですか」
 参悟と生徒会がカフェテリアにやってきた。
 女子の言い分を信じ込んだ生徒たちは、彼にもうろんな目を向けてにやにやする。
「会長、あの子をいいようにしてるって本当ですか?」
「何の話です?」
 わけがわからない表情で参悟は萌香の方に向かってくる。助けてくれるのだろう。
(だめ。ここは、私自身が戦わないと!)

 萌香は立ち上がって、すうっと息を吸い込んだ。
「言いがかりは止めてください! 私が桜鬼家にお世話になっているのが気に入らないとしても、いじめはやりすぎです」
「いじめてないけど」
 しらばっくれる女子に、萌香は取り出したマスコットを突きつけた。
「な、なによこれ」
「私の私物です。あなたたちは球技大会の日、私のロッカーに赤いスプレーを噴いて、鞄を体育館裏に捨てましたよね。その鞄につけていたんです。ここにいる三人は、その様子を撮影して友達と共有していました。皆さんも見てみてください。パスワードは――」

 清蘭学園には独自のSNSがある。
 学校からの情報を素早く伝達し、炎上がつきものの外部サービスを使用させないためだ。
 友達とつながれる他、個別のパスワードを入力した者だけが使えるプライベートルームで複数でのメッセージのやりとりも可能だ。
 女子たちはこれで萌香をいじめた写真を共有していた。
 萌香が話したパスワードを入力した生徒たちは、赤く染まったロッカーや鞄の写真を目にして騒ぎだした。

「本当にいじめられてたんだ。可哀そうに」
「鞄の横に、あのマスコットが映ってる。彼女のもので間違いないよ」
 犯行が明るみに出た女子たちは、顔を真っ赤にして萌香に突っかかる。
「どうしてアタシたちのパスを知ってんのよ!」
「スマホのケースが教えてくれました」
 半透明の保護ケースには、流行りの男性アーティストのコレクトカードと英語のシールが挟まっていた。
 推しはそれぞれ違っても、シールの文字は同じ。
 授業中もスマホを触ってばかりいる彼女たちは、よくシールの文字を確認していたので、誰の目から見てもパスワードだと丸わかりだった。

「あなたたちのルームを確認して、いざとなったら公にするつもりでいじめに耐えてきたんです。桜鬼家の皆さんは私を保護して、こうして勉強する機会も与えてくださった素晴らしい方々です。彼らを悪く言うなら容赦しません! あなたたちには、きちんと処分を受けてもらいます!」
 萌香は勇敢に告げた。だけど、最後の方では涙がにじんでいた。
 いじめを告発している間、体の震えが止まらなかった。
 黙って見守ってくれた参悟は、騒ぎを聞いて駆けつけた教師に事情を説明する。
 女子は教師に連れられてカフェテリアを出た。
 彼女たちの姿が見えなくなると、萌香はその場にぺたんと座り込む。
「か、勝てた……」

 達成感に震えていると、参悟が目の前にしゃがみこんだ。
「なぜ相談してくれなかったんですか。私に話してくれれば、もっと早く解決しました」
「一人で解決したかったんです。桜鬼家の皆さんには十分にお世話になっていますから、余計な心配をかけたくありません」
「私がかけてほしいと言っても?」
「え……?」
 思わぬ言葉に萌香が目を丸くする。
 参悟は渋面を作ってから「忘れてください」と首を振った。
「……萌香さん、昼食をとりましょう。生徒会と一緒に食べませんか?」
「はい。よろこんで」
 萌香と参悟、生徒会の面々での昼食は楽しくて、萌香は先ほどの嫌がらせなどすぐに忘れてしまった。
 しかし、いじめと戦った萌香の評判は学園中に広まったのだった。
 桜鬼家では、本家の屋敷に集まって桜鬼一族が一堂に会する宴がある。
 萌香は留守番のはずだったが壱岐たっての要請により出席することになった。
 当日、壱岐たちと一緒に会場に入った萌香は、生まれて初めて振袖を着た。
 桜が描かれた豪華なもので、髪もセットして壱岐たちの待つ部屋に向かう。
「お待たせしました」
 ソファに座っていた四人は、現れた萌香を見て破顔した。

「萌香ちゃん、可愛いね」
「とてもお似合いです」
 手放しでほめてくれたのは弐亜と参悟。二人ともスーツを着ていて締めたネクタイが凛々しい。
 上着の襟には、桜鬼本家の家紋をあしらった金のバッジがきらめいていた。
「モカ……」
 言葉をなくして萌香に見とれているのは四葉だ。彼は中等部の制服を着ていて、家紋のバッジもない。
 これまで宴には招待されていなかったが、萌香と同じく壱岐の強い要望で参加が決まったという。
(たぶん、四葉くんが悪目立ちしないように私を連れてきたんだ)
 そうでなければ、桜鬼家とは何のゆかりもない萌香のために豪勢な着物一式を準備するはずがない。

 今日の仕掛け人である壱岐の方を見ると、彼は兄弟の誰よりも感極まった表情で瞳を揺らしていた。
「すごく綺麗だ、萌香。俺の見立ては間違っていなかったな」
 自画自賛する壱岐は、五つ紋付の羽織袴だった。
 風格ある着姿に思わずドキドキしてしまう。
 壱岐の美しさに比べたら、床の間にかけられた桜の掛け軸や上等な生け花もかすんで見える。
 他の三人も同じだ。
 兄弟が顔を揃えているだけで美術館に展示される国宝のような神々しさ。
 華麗なる兄弟に混ぜてもらった萌香は肩身が狭くて、恐縮してしまう。

「褒められると恥ずかしいです。でも、この振袖、すごく可愛くて好きです。ありがとうございます」
「お礼はいらない。俺が萌香を飾りたかったんだ――」
 立ち上がった壱岐は、頭を下げる萌香の手を取って「すまない」と囁いた。
「――これから起きることは、ぜんぶ俺のわがままだ」
 どういう意味だろう。
 問い返す間もなく、宴の会場である大広間へエスコートされた。

「本家のご兄弟が到着されました」
 侍従が壱岐たちの入室を知らせると、晴れ着で集まった人々は惜しみない拍手を送った。
 何十畳あるのか見当もつかない和室。そこに無数に置かれたテーブルでご馳走や高級酒が振る舞われている。
 桜鬼家の分家とそれに連なる一族が勢ぞろいで、平民の萌香には圧巻の規模だ。
 萌香のように振袖を着た令嬢たちは、ギラギラした視線を壱岐や弐亜に送り、手を引かれる萌香に気づくと鬼の形相になった。
(こ、こわい……あれ?)
 首をすくめた萌香は、同じように険しい表情でこちらを見る白髪の老人に気づいた。
 上座の金屏風のまえで、渋い羽織を着て座った老人の周囲は、そこだけ別世界みたいに静まっていた。

(あの人、もしかして……)
 桜鬼家の当主である、桜鬼萬治郎(まんじろう)ではないだろうか。
 睨まれているのは萌香か、それとも四葉か、両方か。
 わからないなりに、萌香は首をすくめて壱岐の手をはなれた。
「壱岐さんが挨拶している間、端にいます」
「わかった。だが、四葉たちのそばにいてくれ」
 壱岐は舞台に上がり、弐亜、参悟、四葉の順で舞台袖に並ぶ。
 萌香は四葉から距離をとって、壁に背を向けて立った。

「桜鬼家の宴にお集まりいただきありがとうございます。桜鬼グループが代替わりしても変わらず栄えているのは一族の皆のおかげです。どうぞ、本日の宴を楽しんでください。これより本家当主よりご挨拶を賜りますが、その前に紹介したい人がいます――」
 壱岐が萌香へ視線をすべらせる。
 スポットライトが動いて、萌香がパッと照らされた。
「――彼女は野宮萌香。縁があり、この春から私の屋敷で暮らしています。いずれ、彼女を桜鬼本家に花嫁として迎え入れるつもりです」
「えっ!?」
 事実上の婚約者紹介に、萌香はびっくりした。

(花嫁にされるって、私が?)
 参加者も驚いたようでざわめいたが、弐亜と参悟、四葉は平然としている。
 壱岐と打ち合わせしていたようだ。
「……もっとも、私たち四兄弟の誰が彼女を射止めるかはまだわかりませんが」
「許さんぞ、壱岐!」
 萬治郎が杖に寄りかかって立ち上がり、壇上の壱岐を指で刺した。
「その女は平民だというではないか。桜鬼の本家に穢らわしい血を入れるのはならん!!」
「彼女は穢らわしい存在ではありません」

 断言した壱岐は、不安そうな萌香を視界に入れて、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「私を癒し、ときに励ましてくれる、素晴らしい女性です。彼女以外の誰にもその役割は務まらない。私たちには彼女が必要です」
 話しかけてくる声は痛いくらいに優しい。
 萌香が必要とされるのは甘贄だからだと思っていた。
 しかし、壱岐のまなざしは愛してやまない女性に送るそれだ。
 彼は目で、声で、態度で、萌香への愛を表明していた。

 揺れる萌香の心に、弐亜たちの声が染み入ってくる。
「僕にも萌香ちゃんが必要だよ」
「あなたと一緒にいたいです。萌香さん」
「だいすきだよ、モカ」
 三人に笑いかけられて、じわっと涙があふれてきた。
(私、勘違いしてもいいのかな)
 一人の人間として愛されているって。

 もしもそうなら、萌香の答えは――

「貴様ら、絶対に許さんからな!」
 萬治郎はそう言って、怒り心頭で大広間を出て行ってしまった。
「お爺様が……」
「昔かたぎで差別的な人なんだ。いつまで平民を見下すつもりなんだか」
 ぼやく弐亜が目で合図する。
 壱岐はそれを受けて、挨拶をこう締め切った。

「いずれ、当主にも認めていただく。私たちは彼女を諦めるつもりはありません」
 一口サイズのデザートに舌鼓を打った萌香は、外の空気を吸いに廊下に出た。
 壱岐は世間話が商談に発展して席を外している。
 弐亜は本家に嫁入りを企む令嬢たちに捕まり、参悟は学園OBの長話を抜けられず、四葉は休憩室で昼寝している。
(一日がかりのパーティーだと疲れちゃうよね)
 萌香は一人きりで窓ごしの満月を見上げる。
 桜鬼家に世話になると決まったときには、宴に同行させてもらえるまでになるとは思っていなかった。
 ましてや、花嫁にするつもりだなんて……。
(夢みたい)

「野宮様、お手伝いをお願いしてもよろしいですか?」
 呼びかけてきたのは人が良さそうな執事だった。
 振袖だけど荷物運びくらいならできるので、頷いて彼についていく。
 執事はどんどん屋敷の奥に進み、和室に入った。
 後に続いた萌香は、なかで待っていた人物に驚いた。
「当主様と……おじさん?」
 なぜか、萬治郎の隣には最後に世話になっていた親戚の従叔父がいた。
 思わず顔をしかめると、萬治郎は「保護者が探していたぞ」とまるで家出少女を前にしたように話し出した。

「そなたは壱岐に一目ぼれして、無理やり桜鬼家に居座っているらしいな。保護者を呼んでやったから帰るように」
「居座っているわけではありません。おじさん、引っ越しについては壱岐さんと話がついたはずですよね」
「いやぁ? どうだったけなぁ」
 ニヤニヤと笑う従叔父のポケットは膨らんでいる。隙間から札束が見えたので、萌香は買収されたのだと悟った。
 萬治郎は萌香を意地でも壱岐たちから引き離すつもりだ。
「さあ、行くぞ。萌香。表に車を待たせてある」
 従叔父にぎゅうっと腕を掴まれて、萌香は悲鳴を上げた。
「離してください!」
「おれに抵抗するとは何様のつもりだっ」

 バチン!
 従叔父は萌香の頬を平手で打った。
 すごく痛い。けれど、萌香は足に込めた力を抜かなかった。
(壱岐さんたちと離れるなんて嫌!)
 彼らは萌香を甘贄ではなく、一人の人間として必要としてくれた。
 親戚の家をたらいまわしにされていた頃には感じられなかった愛を与えて、慈しんでくれた。
 ここにいたい。それは、萌香が心の底から想う願い。

「私は、絶対に桜鬼家を離れない……! みんなを愛しているから!!」
 高らかに宣言する。と、萌香の胸の辺りから桜色の光が放たれた。
「うわあああっ!」
 光は巨大な流れになって従叔父の体を跳ね飛ばす。
 萬治郎は度肝を抜かれた様子で、震える唇を開いた。
「なぜ桜鬼家の神力が宿っているのだ……。まさか、あの兄弟に番がいるのか!?」
 萌香は桜吹雪のように舞う光を手のひらにのせた。
 花びらの形をしていて、壱岐や参悟、四葉が放った神力と同じ気配を感じる。
(これは、何?)

 見とれていたら、部屋に壱岐が駆け込んできた。
「この甘い匂いは……萌香!」
「壱岐さん!」
 萌香が手を伸ばすと力いっぱい抱きしめてくれる。
 心細かった萌香は、それだけで泣きそうになった。
 壱岐は、床に倒れた従叔父と呆けた萬治郎を見て何が起きたか察し、ぎりっと唇を噛んだ。
「当主様、あなたがどんな手を使おうと萌香は俺の――桜鬼家の甘贄だ」
「わかっているのだろうな。運命の番となったら最後、飢鬼は甘贄に一生を狂わされる。かつては家を乗っ取られて滅んだ華族もいるのだぞ!?」
 つばを飛ばして説得する萬治郎を、壱岐は月に似た冷たい瞳で一蹴した。
「萌香に人生を狂わされるというなら本望だ。萌香――」

 呼びかけられて顔を上げる。
 壱岐は切なげな表情でぽつり、
「愛している」
 と告げて口づけてきた。
 結婚式で愛を誓うような清らかな触れ合いに、萌香もそっと目を閉じる。
 彼が運命の番だったらいいのに、と心の奥で思いながら。
 後から聞いた話では、運命の番に出会う確率はごく稀らしい。
 運命の番というのは、飢鬼と本能でひかれあう甘贄のことだ。
 番の契約を交わすことで、飢鬼に味覚を取り戻させることができるし、神力を補助して強くすることもできる。
 番である飢鬼のそばにいる甘贄は、その身に危険が迫ったときに番の神力によって守られるという。
(私が桜色の神力を放ったのは、桜鬼家にいる誰かの番だからってことだよね)

 桜鬼家で鬼化しているのは、壱岐、弐亜、参悟、四葉の四人。
 そのうちの一人が、萌香の運命の番だ。

     ◇◇◇

 宴を切り上げて母屋に帰ってきた萌香は、泥のように眠った。
 翌朝、朝餉の席にいくと四兄弟が勢ぞろいしていた。
 起き抜けのコーヒーを口にしていた壱岐は、まず萌香の体調を気遣った。
「おはよう、萌香。もう平気か?」
「おはようございます。すっかり元気です。四葉くんもいるのは珍しいですね」
 もぞっと身じろぎした四葉は、心配そうな顔で壱岐の方を見た。
「本当にオレもいていいの?」
「もう当主に遠慮する必要はない。桜鬼家の運命の番に危害を加えようとした当主は、しばらく療養することになった」

「認知症ぎみってことにしないと、お爺様も捕まっちゃうからね~」
 テーブルに肘をついた弐亜は、ふわあとあくびをした。
 あの後、従叔父は桜鬼家に侵入して萌香をかどわかそうとした現行犯で、かけつけた警察に逮捕された。
 壱岐は萌香を連れて帰ることになり、代わりに混乱する宴を取りまとめたのが弐亜だった。普段はだらけていても桜鬼家次男の名は伊達ではなく、大きなトラブルなく解散したと聞いている。
「萌香さんが帰った後、お爺様は萌香さんの親戚を桜鬼家の一員だと思ったと証言して罪を逃れました。家名に傷はつかなかったとはいえ、華族の当主としては情けない隠居ですよ」
 呆れ顔で首を振った参悟は、弐亜の補佐として招待客のフォローにあたったという。
 有能さをいかんなく発揮した後だが、偉ぶるそぶりもなく壱岐に熱い視線をそそいでいる。
「まあ、次の当主は壱岐お兄様で決まりですから、何も問題はありませんが」

「そう? 番を得た飢鬼がいたら、そっちが当主になるんだよね?」
 四葉の言葉によって、部屋にピリッと電流が走る。
 運命の番を得た飢鬼は、一族最強の神力を得るから当主にすえるのが伝統なのだ。
 萌香が誰の番なのかは、まだわからない。
 四人とも、それぞれ萌香に運命を感じているからである。
「あの!」
 焦れた萌香は、張り詰めた表情の壱岐たちを順番にながめた。

「弐亜さんと参悟さんはまだ高校生だし、四葉くんは飢鬼になったばかりで、当主としての勉強をしている暇はありません。人を率いる才能のある壱岐さんがなるのが、一族にとっても安心だと思います」
「萌香……。ありがとう」
 壱岐は感慨深そうにうなずいた。
 むくれる弐亜に視線をうつして萌香は続ける。
「私自身、誰が番なのかまだわからないんです。本能で引かれ合うというけれど、皆さんはそれぞれ魅力的で、翻弄されてばかりですから」
 照れくさくて笑ってしまったら、参悟も恥ずかしそうに頬を染めた。
「だから、しばらくここでゆっくり考えさせてください。運命の番について」

「モカは、この四人なら、誰のお嫁さんになってもいいんだね?」
 瞳を光らせた四葉の念押しに、萌香は胸に手を当てて考える。
 心の奥にぽうっと灯った想いの火。
 桜鬼家に引き取られた日から、そして彼らの新たな面を知るたびに火はいきおいを増した。
 彼らを愛しいと想う、この気持ちは嘘じゃない。
「はい。私、皆さんが大好きです!」


 ――野宮萌香が正式に桜鬼家の花嫁になるのは、この二年後。
 四兄弟のなかから運命の番を見つけ出した彼女は、桜鬼家を繁栄させた〝贄花嫁〟として後世に語り継がれることになる。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:4

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア