お人好しの性格が悪いのだと、萌香(もか)は暗い道を走りながら思った。
 アルバイト先のカフェが某インフルエンサーに紹介され、店の前に長蛇の列ができるようになったのが一カ月前のこと。客が殺到したせいで勤務時間が延びることになり、外が真っ暗になってから職場を後にする日が増えた。
 収入は増えるから悪くはないかなと思っていたけど……。

 ちらっと後ろを振り返ると、黒いパーカーを着た男が早足で歩いてくる。
 店の裏口を出た辺りですれ違った男だ。いつの間にか同じ方向に歩いていると気づいたのは、踏切で電車が通り過ぎるのを待っていたときだった。
 人通りが少ない道で後ろからついてこられるのは気持ち悪い。萌香はわざと最寄り駅へと続く道をそれた。だが、男はついてきた。
 何度も道を曲がって、普段は通らない川沿いの土手道にまできてもとなると、明らかに萌香を狙っている。

 萌香の脳裏に最近起きた通り魔事件がちらついた。夜遅く、一人で歩いていた女性が襲われて斬りつけられたという。犯人はたしかまだ捕まっていない……。
 疑いを持って見ると、ますます男は怪しい。
(どうしよう。助けを呼ぶにも近くに家はないし、人通りもない)
 ごくりと唾を飲みこんだ萌香は二世代前のスマホを取り出した。充電は15パーセント。残りわずかだが惜しんではいられない。明るく点灯する画面を耳に当てる。

「もしもし? お母さん?」

 わざと大声を出すと、男は歩調をゆるめて細い脇道を下っていった。
 諦めたようだ。立ち止まった萌香は、ほっとしてスマホを下ろした。
 壁紙では今呼んだ母親と父親が笑いあっている。家族愛にあふれた自慢の両親だ。もしも不審者に追われていると電話をかけたら、大急ぎで迎えに来てくれただろう。
 まだ、二人が生きていた頃は――

「おい」

 真横から話しかけられて、背筋がぞっとした。
 振り向けば、先ほど脇道を下っていった男が真横に立っていた。かぶったフードで顔は見えないが声は若い。そして、どこかよどんだ響きをしていた。
 萌香は、声を上ずらせて後ずさる。
「な、何か用ですか……」

「見つけたぞ〝甘贄(あまにえ)〟」

 男は突然、ナイフを突き出した。
 腕を切りつけられた萌香はよろけて倒れる。
「きゃあっ」
「通話の演技までして、逃げられると思ったかよ!」
 仰向けになった萌香の上に男が馬乗りになった。
 大きな手が制服の衿にかかる。
 荒い息が、フードの奥の暗がりで光る眼が、萌香に抵抗すれば殺すと告げてくる。
 萌香の体は恐怖で硬直した。
 怖い、怖い。こめかみを涙がこぼれ落ちる。

(誰か、助けてっ!)

 祈るように心のなかで叫んだとき、
「その手を離せ」
 闇を裂くように、強い声が響いた。

 はっとして目を開くと、黒いロングコートを着た青年が険しい表情で立っていた。
 夜風に揺れる黒髪は闇を塗りこめたように暗く、熱を帯びてぎらついた赤い目はライフルについたレーザーライトみたいにまっすぐこちらを見つめていた。
 冴え冴えとした美貌に一瞬で心を撃ち抜かれたのは、萌香を襲っていた男も同じだ。
 手を止めて青年に見惚れている。いや、恐れているのか。
 カタカタと震えているのが掴まれた衿を通して伝わってきた。

「聞こえなかったか? 彼女を離せ」
 青年が腕を伸ばして手を開くと、男の体が吹き飛んだ。桜色の光が散る花びらのようにはらはらと落ちる。男は「ぐあっ」と蛙のような悲鳴を上げて、自動車にでも追突されたように斜面を転がっていった。
 起き上がった萌香は、男の姿が草むらにまぎれて見えなくなるのを確認して、青年を振り返った。
 強大な力を放ったというのに、当人は涼しい顔で汗一つかいていない。
(さっきのは神力だよね。ってことは、この人は華族なの?)

 大昔、八百万の神々が暮らしていたこの日本には、神様の血を受け継ぐ一族がいる。
 華族と呼ばれる高貴な人々で、ずば抜けた身体能力と頭脳、神々しいまでの美貌を持ち、財政界だけでなくアスリートや芸能人としても多く活躍している。
 そして、人智を超えた神力も持っている。といっても、萌香のような平民は華族と関わることがないので神力というのが何なのか、よくわからないのだけど……。
 青年を見た萌香は、漠然と理解していた。あれは神様の力なのだと。

 とにかくお礼を言わないと。立ち上がった萌香は深く頭を下げる。
「助けていただいてありがとうございましたっ!」
「……君は」
 青年は眉をひそめて萌香の腕をとった。傷から流れる血が袖を赤く染めている。
 手当てでもしてくれるのかと思いきや、青年は長いまつ毛を伏せて、傷口に口づけた。
「ひゃっ!?」
「甘い……。そうか、君が」
 うっとり微笑んだ青年は、唇についた血もぬぐわずに萌香を両手で抱き上げた。
「あ、あの、一人で歩けます!」
「気にするな。俺がこうしたいだけだ」

 青年は上機嫌で斜面をくだる。下の道には黒塗りの高級車が停まっていた。
(私が襲われているのに気づいて助けにきてくれたんだ)
 吹き飛ばされて転がっていった男の姿はない。
 車の外で待っていた運転手は「取り逃がしました」と青年に報告する。
「逃げ足が速くてわたしではとても」
「向こうは連続通り魔だ。仕方ない」
 手慣れていると思ったら、はやり最近起きている事件の犯人だったようだ。

 青年が来てくれなかったらどうなっていたか。萌香は死んでいたかもしれない。
 感謝の気持ちがこみ上げて、萌香は青年の胸に頬を寄せた。
「本当にありがとうございました。私は萌香。野宮(ののみや)萌香です」
「俺は桜鬼壱岐(さくらぎいつき)という。詳しい話はあとだ。早く傷の手当てをしなければ。君は――」
 後部座席に私をのせて、自分も乗り込んだ壱岐は扉を閉じた。

「――大事な〝甘贄〟なのだから」

「?」
 囁く声はあまりにも小さく、萌香は聞き取ることができなかった。