涙の味は感情によって変わる、と、遠い昔に聞いたことがある。
悔し涙や怒りの涙はしょっぱくて、嬉し涙は甘い味がするのだという。
だとしたらきっと、今の俺が流す涙は、しょっぱくて塩辛いんだろうな……。
見慣れすぎた景色がだんだん歪んでいくのに気づかないふりをして、飛び跳ねて大はしゃぎする戦友たちにむりやり口角をあげて拍手を送りながら、やけに冷静な頭でそんなことを考えていた。
全国大会まで あと○日________
練習が終わり、他の部員たちが帰った後で、散らかった棚や床を片付ける。
部室の壁に無造作に貼られたカウントダウンカレンダーの数字を縁取る蛍光ペンの派手な色は、冷えきって雑然としたこの部屋で異質で浮いている。なんだか安心感を覚えながらぼんやりと眺めていると、
「今日さ、この後空いてる?」
ぽん、と肩を叩かれ、突然声をかけられた。
少し低めの、凛としたこの声は。
「水瀬先輩…!あ、えーっと…」
三年生の水瀬先輩は、このバドミントンのエースで、皆の憧れ。そして、ダブルスの相棒でもあり、今俺たちは県予選を勝ち進んでいる最中だ。天性のセンスに加えて、朝早く登校し、遅くまで残って熱心に練習をする努力家で、どこか人を惹きつける魅力もある、俺にはもったいないほどの、非の打ち所のないプレイヤー。”天才”とは、きっと彼の為の言葉だ。
「…特に、予定は、無いですけど……」
ああ、ダメだ、ちゃんと目を見て話せない。
「お、良かった。じゃあご飯行こう」
「えぇっ?!」
思わず声を上げた俺を見て、水瀬先輩は豪快に笑う。
「ねぇ、そんな驚く?あ、焼肉でいいよね?予約しとくわ」
頷くだけで精一杯の俺を、水瀬先輩は楽しそうに近くの焼肉店へと連れ出した。
先輩とチームを組んで約2ヶ月、俺の人見知りもあり、恐れ多くて未だにあまり上手く話せない。
それもそのはず、水瀬先輩はインターハイで史上初めての個人二連覇を果たしたバドミントン界の新星。バドミントンをやっている者はもちろん、大学の部活のスカウト関係者にも彼の名前を知らぬ者はいないだろう。
当然2人きりで食事なんて初めてで……、いや、2人きりでじっくり話すことも恐らくこれが初めてで、お店に滞在している間、一体何を話せば……と気が気じゃなかった。
けれど、そんな不安と緊張は、一瞬で解かれる。
「オリンピック、見た?」
俺が話せそうな共通の話題を選んでくれて、緊張で声が小さくても嫌な顔ひとつせずにずっと笑顔で聞いてくれて、話を広げてくれて、それでいて気を遣わせてしまっている感覚にもならなくて。
気づいた時には、会話が途切れることもなく盛り上がっていた。
オリンピックの話、憧れの選手のこと、やってみたいプレイング、今までで感動した試合の話……
どれをとってもバドミントンの話ばかりで、まるでバドミントンに取り憑かれてるみたいで、でも、夢中でそれを話す水瀬先輩の目があまりに綺麗なものだから、あぁ、先輩はこんなキラキラした顔で話す人なんだ、と嬉しくなってきて。
いつもクールでストイックで、近くにいるのに見ているだけの存在だった先輩が、こんなに笑いかけてくれるなんて夢のようだった。
一旦話のキリがついたところで、水瀬先輩は冷たいジュースを満杯に入れたコップを右手で持ち上げ、ぐっと流し込む。持ち上げた右腕に浮かぶ筋肉の筋は、高校生になったばかりの頼りなくて子供っぽい俺とは違い、目の前の先輩が大人に近づいている18歳の男なのだと思い出させる。見てはいけないものを見てしまったかのようで、ごくり、と唾を飲みこんだ。
「気分、晴れた?」
「えっ?」
思いもよらぬ言葉に、肉を焼こうと伸ばしていた手が止まる。
「泣きそうだったじゃん、さっき」
まさか、見抜かれていたなんて。
根暗で不器用などんくさい俺が、これ以上周りに迷惑をかけないようにできることは、負のオーラを出さないように取り繕うことだ。だから、心を押し殺して、常に口角を上げ、乾いた笑い声をあげて、明るく楽しそうな演技をする。
少なくとも、部活終わりに話をした顧問には、バレていなかったはずなのに。
来月行われる個人戦の出場権をかけたトーナメント戦が、今日部内で行われた。
最近、なんとなく上手くいかないことが多かった。トーナメント戦が始まってから、ずっとどこか胸騒ぎがしていて、そして悪い予感は的中した。
その日初めての試合、1回戦で俺は負けた。チーム代表になれなかった。
いや、憂鬱の原因は、単に試合結果ではない。むしろ、学校を背負って、それも1人で戦うなんて、プレッシャーに弱い俺はそんな大層な舞台に立ちたいとも思えなくて、安堵すらあった。
問題は、ここで勝てなかったことによる、「なんであんなやつが水瀬先輩と組んでるの?」と言いたげな周囲の視線だ。
本当は気弱でネガティブで、勝負事なんて大の苦手だ。勝気な人が多いこの部活の雰囲気に馴染めず、もうすぐ一学期も終わるというのに未だに一人でいる。大して強くもなく活躍もしていないのに、皆の憧れである絶対的エースの水瀬先輩と同じチームで、最も花形のインターハイを順調に勝ち進んでいる俺の事を、よく思わない人たちも多いことも分かっていた。
だからこそ、何としてでも結果を残したかった。勝たなければならなかった。
せめて、同級生たちと張り合うぐらいには…。
団体戦の時だってそうだ。1番年下で、1番頑張らなくちゃいけないのに、ずっと、1番何もできてない。
わかってる、そんなことは俺が1番よくわかっている。でも………
皆より早く部活に来て、夜も遅くまで勉強をして、やっとできるようになった課題は、他の人は大抵既にできているし、自分の強みだと思っていたものも、あっさり周りに越えられて。周囲に追いつこうと必死で、足を引っ張らないことだけを考えて、どんなにもがいても、何をやっても、いつもいつも、焦ってまた空回りする。
誰かに相談できれば楽になれるのかもしれない。でも、自分の心の内を晒すのが怖くて、こんな俺なんかに時間を取らせることが申し訳なくて、一人で立ち直らなきゃ、と、笑顔をはりつけて、平気なふりをして……。
「真剣に向き合ってるからこそ悩むんだよね」
独り言のような水瀬先輩の呟きが、ここ最近のことを思い出していた俺の心を見透かしたようなタイミングで降ってきた。驚いた拍子に思わず言葉が漏れる。
「………俺は、水瀬先輩のチームには、相応しくないと思います」
先輩は黙っている。その僅かな沈黙にも耐えられなくて、間髪入れずに続けた。
「相応しくないっていうか、俺普通に弱いし、メンタルも全然強くないし、チームに入る権利ないんじゃないかな?って。その、別に最近スランプなんじゃなくて、そもそも実力なんてないから……。今日のだって、きっとたまたま負けたわけじゃないんですよ」
「そりゃあ、たまたま負ける試合なんて無いからね。全てに理由がある」
水瀬先輩のハッキリとした物言いに、身体が冷えていくような感じがした。
本当は初めから全部気づいていた。チームのためにとどんなに努力したって、俺にはどうせ出来っこない。このままチームにいたって迷惑をかけるだけだし、俺のせいで先輩の3連覇を止めてしまうぐらいなら、俺が居なくなることが1番のチーム貢献なんじゃないか。
だって水瀬先輩と組めたのも、レギュラーを決めるトーナメント戦の日だけ、たまたま調子が良かったからで……
「でも、たまたま勝てる試合も無いよ。まぐれなんかじゃない。」
………どうしてこの人は、こうも俺の気持ちが手に取るように分かるんだろう。
おもむろに顔を上げると、澄んだ瞳がまっすぐに俺を捉えていた。
「オレの知り合いにさ、すごく真面目で優しくて、心の綺
麗な奴がいるんだよ」
先輩が、嬉しそうに目を細めた。
「そいつはさ、困難から絶対逃げないんだよね。諦めないんだよ。誰よりも早く部活に来て、課題から目を逸らさずに、いつでも向上心を忘れない」
息ができない。水瀬先輩が認めるその人は、今の自分とはあまりにもかけ離れている。やっぱり、何もかもが足りないと呆れられているのかもしれない。
「一生懸命なだけじゃなくてね、部活が終わったあと、誰も見てないところで1人、掃除をしたり、片付けをしたり、皆が気づかないような小さなことにも気を配れる心もある」
「…素敵な方なんですね」
一瞬目を見開いた後で、ふっと笑った水瀬先輩は、少し重ための前髪を軽くかき上げて続けた。
「そうだろ?だけどさ、そいつは、自分の長所を見落としてるの。いつも自信なさげに目を伏せて、俺なんか、ってそればかり言う。誰もが認めてる努力の天才なのに、俺はダメだから、いい所だって何もないから、って。挙句の果てに、俺は水瀬先輩のチームメイトにはふさわしくない、なんて」
「……えっ? あの」
今度は俺が目を見開く番だった。
「これから先、オレが大きな舞台で戦わなくちゃいけないって時にさ、一緒に戦ってほしいのは、内気でネガティブで、だけどキラキラした綺麗な目をしながらバドミントンの話をするような、何よりもこの競技を愛してて、妥協しない芯の強さもある、気配りできる奴なんだよ。尊敬しかないんだよ。まぁでも、ここ2ヶ月ぐらいかな、ずっと近くにいるのに、見てるだけなんだけど。情けないよなぁ、オレの方が先輩なのにさ」
息をのむ。心臓が暴れ、頭の中で鼓動がガンガン鳴り響く。隣の席の騒がしい笑い声も、店内を流れる流行りのJPOPも、遥か遠くから聞こえてくる。それなのに、水瀬先輩の言葉だけは、脳に直接語りかけられたかのように、はっきり捉えることが出来た。
「あ、あの…、どうして」
そんなに俺に優しくしてくれるんですか。
どうにか絞り出した言葉は、声になれないまま嗚咽と混ざって消えた。
何がなんだかわからず、俯いて座っているだけの俺に、向かいに座っていた水瀬先輩が席を立ちハンカチを渡してくれた。そこで初めて、自分が泣いていることに気づく。
「一つ、約束してほしい」
背中を撫でてくれる先輩の手が暖かい。
「これからは、つまんない遠慮なんか捨てて、真面目なことも下らないことも、すぐにオレに話すこと。一緒にやるためなら寝る時間だって惜しめるし、何か困ったことがあった時は、全力で先輩風吹かすからさ」
おどけて冗談を言う弾んだ声がなんだか可笑しくて思わず吹き出すと、俺の顔を覗き込んでいた水瀬先輩と目が合った。
「お、やっと笑ってくれた」
グッと目尻を下げた優しげな笑顔が向けられる。
「いいか?次にオレの前で泣くのは、夢を叶えた時にしろよ」
その言葉に、何度も何度も頷く。その度に、先輩は優しく頭を撫でてくれた。
「あの、先輩」
「ん?」
「俺、ずっと夢があるんです。まだ誰にとも言ったことがないんですけど。…聞いてくださいますか?」
時は過ぎ、蝉の声をよく聴く季節になった。
先程まであちこちから聞こえていた早押しボタンの音も、親や先生たちの声援も、騒がしいはずなのに、今はもう聞こえない。
インターハイ決勝、最終ラウンド。あと一点、あと一点だ。あと一歩で、俺達は……!
ゴクリ、と唾を飲み込んだ水瀬先輩が、隣にいる俺に目配せする。大丈夫、想いは1つだ。
全神経を集中させる。先輩がサーブを決める。相手が打ち返してくる。速い。でも……。
バシュッ!
脳に届いた風を切る音が、思考を引き裂く。
恐る恐る顔を上げると……落ちてる。相手のコートに落ちてる!!!
ハッとして横を向くと、固く結んだ口の端をほんの少しだけ上げた水瀬先輩が、自信と闘志にみなぎったギラギラした瞳でまっすぐ前を捉えていた。
__________沈黙。永遠よりも長いような一瞬。
再び俺の時間が動き出した時には、会場からの大歓声と、割れんばかりの拍手に包まれていた。
コート外で見ていた顧問やチームメイトたちが駆け寄ってきて、スポーツ新聞のカメラのフラッシュがたかれる。
訳も分からないままインタビューが始まった。水瀬先輩が数歩前に出て、カメラをゆっくりと見回した。
沢山の人達の涙、期待、想像もできないほどの大きなプレッシャーを背負い続けたその背中。俺が必死に追い続けて、押し潰されることのないよう、支えてきたその背中。
眩いスポットライト中で、深く、深く一礼した先輩は、この世の”美しい”を表現する全ての言葉をかき集めても、形容できないほどに美しかった。
大きなカメラとマイクを持った大人達が先輩を取り囲み、矢継ぎ早に質問をする。
〈水瀬さんは今回、個人として史上初のインターハイ3連覇を達成しましたが、現在の心境はどうですか?〉
「今まで自分を支えてくれた方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。そして何より、」
そこで先輩は振り返り、俺の手を取る。
「最高で最強の相棒に出会えたからこその結果だと思っています。一緒にやってきたのが彼だったから、ここまで来られた」
頭が、真っ白になった。
あの日、あの時から、一日でも、1試合でも、1秒でも長く、先輩と一緒に戦いたくて、水瀬先輩の隣にいたくて、ただそれだけを願って、目の前のことを一生懸命にやってきた。
壁にぶつかると、一人で思い悩まずすぐに水瀬先輩に打ち明けた。先輩も、俺に弱い部分を見せてくれた。
いつでもキラキラしていて、圧倒的なカリスマ性とリーダーシップで人を惹きつけ、常に羨望の眼差しが向けられていた水瀬先輩は、本当は人見知りで、なかなか人に心を開けず、周りを頼ることが苦手で、落ち込みやすくて、優柔不断で、繊細で、とても不器用な、俺に、そっくりな人だった。
俺も、先輩も、誰もが完璧じゃない。そう気づけてからは世界が変わった。自分のダメなところばかりではなく、積み上げてきたものに目を向けて、それを認められるようになった。その上で、足りないところはどこか、何故足りないのか、達成するにはどうしたらいいか、全てを前向きに捉えられるようになった。水瀬先輩と一緒なら、立ちはだかる壁の高さすらも楽しめるような気がした。
先輩がいたから。先輩が俺を救ってくれたから。水瀬先輩が俺をここに連れてきてくれたから。だから、俺は…、
「自分が3連覇という夢を叶えられたのは、大切な仲間のおかげです。先輩として、競技にまっすぐな後輩に、この景色を見せられてよかった」
光り輝くトロフィーに負けないぐらいのキラキラした笑顔でそう語る先輩の背中は、今も変わらず大きくて。
嗚呼、あの日誓った俺の夢は、叶わなかった。
「あの、先輩」
あの日、俺は何かに突き上げられたように、宣言してしまったのだ。
「俺の夢は、あなた以上のプレイヤーになることです。俺は、水瀬先輩を超えます」
大変な事を口走ってしまった。根暗で気弱な普段の俺からは、考えられないような大層なもの。
その言葉を聞いた水瀬先輩は、目を細めて優しく微笑んだ。
「そっか。……待ってる」
小さな成功体験を積み重ね、自分を少しだけ好きになれた俺は、見違えるように強くなって、誰もがトッププレイヤーだと認めるような人間になれた。でも、ただ1人、水瀬先輩にだけは勝てなかった。
そして今もまた見せつけられる。
スキルだけではない、人間的な大きさ、凛とした瞳の輝き、何にも負けない芯の強さ。追い続けたその背中に肩を並べることすら許されない。
彼がわずか16歳で…、今の俺と同じ歳で全国の高校生の頂点に立った日、当時中学生だった俺は、その、他を寄せ付けない破壊的なまでの強さに、ただただ愕然としてテレビ画面を見つめることしか出来なかった。
雷に打たれたかのような衝撃を受けたあの日から、あなたのようになりたくて、がむしゃらに練習に取り組んで。走って、走って、走り続けて、近づけたと思ったら突き放されて。
あの日誓った俺の夢は敗れた。背中を追いかけるんじゃなくて、背中を預け合いたかった。後ろから支えるんじゃなくて、最前列で引っ張りたかった。重荷に押し潰されそうならば、俺も一緒に背負いたかった。
俺は、水瀬先輩の隣にふさわしいチームメイトだっただろうか。
どうやっても敵わない、永遠に憧れの人。ずっと、ずっと変わらない、手に届かぬ絶対王者だ。
「ねぇ、先輩」
「ん?」
帰り道。
俺の呼びかけに振り返った先輩の澄んだ瞳は、いつかと同じようにまっすぐに俺を捉えた。
「俺もまた来年、今日と同じ景色を見られるかな」
艶のある短髪を片耳にかけながら、鼻に皺を寄せるクシャッとした笑顔で、あの日のように声を弾ませる。
「絶っ対できるよ。だって、俺のチームメイトじゃん?」
涙の味は感情によって変わる、と、遠い昔に聞いたことがある。
悔し涙や怒りの涙はしょっぱくて、嬉し涙は甘い味がするのだという。
いつもの曲がり角で先輩と別れた後、
俺の頬を伝った涙は、
ちょっとだけ塩辛い、
飴玉みたいな、甘い味がした。
〔塩辛い飴玉をひとつ〕 ________________完
悔し涙や怒りの涙はしょっぱくて、嬉し涙は甘い味がするのだという。
だとしたらきっと、今の俺が流す涙は、しょっぱくて塩辛いんだろうな……。
見慣れすぎた景色がだんだん歪んでいくのに気づかないふりをして、飛び跳ねて大はしゃぎする戦友たちにむりやり口角をあげて拍手を送りながら、やけに冷静な頭でそんなことを考えていた。
全国大会まで あと○日________
練習が終わり、他の部員たちが帰った後で、散らかった棚や床を片付ける。
部室の壁に無造作に貼られたカウントダウンカレンダーの数字を縁取る蛍光ペンの派手な色は、冷えきって雑然としたこの部屋で異質で浮いている。なんだか安心感を覚えながらぼんやりと眺めていると、
「今日さ、この後空いてる?」
ぽん、と肩を叩かれ、突然声をかけられた。
少し低めの、凛としたこの声は。
「水瀬先輩…!あ、えーっと…」
三年生の水瀬先輩は、このバドミントンのエースで、皆の憧れ。そして、ダブルスの相棒でもあり、今俺たちは県予選を勝ち進んでいる最中だ。天性のセンスに加えて、朝早く登校し、遅くまで残って熱心に練習をする努力家で、どこか人を惹きつける魅力もある、俺にはもったいないほどの、非の打ち所のないプレイヤー。”天才”とは、きっと彼の為の言葉だ。
「…特に、予定は、無いですけど……」
ああ、ダメだ、ちゃんと目を見て話せない。
「お、良かった。じゃあご飯行こう」
「えぇっ?!」
思わず声を上げた俺を見て、水瀬先輩は豪快に笑う。
「ねぇ、そんな驚く?あ、焼肉でいいよね?予約しとくわ」
頷くだけで精一杯の俺を、水瀬先輩は楽しそうに近くの焼肉店へと連れ出した。
先輩とチームを組んで約2ヶ月、俺の人見知りもあり、恐れ多くて未だにあまり上手く話せない。
それもそのはず、水瀬先輩はインターハイで史上初めての個人二連覇を果たしたバドミントン界の新星。バドミントンをやっている者はもちろん、大学の部活のスカウト関係者にも彼の名前を知らぬ者はいないだろう。
当然2人きりで食事なんて初めてで……、いや、2人きりでじっくり話すことも恐らくこれが初めてで、お店に滞在している間、一体何を話せば……と気が気じゃなかった。
けれど、そんな不安と緊張は、一瞬で解かれる。
「オリンピック、見た?」
俺が話せそうな共通の話題を選んでくれて、緊張で声が小さくても嫌な顔ひとつせずにずっと笑顔で聞いてくれて、話を広げてくれて、それでいて気を遣わせてしまっている感覚にもならなくて。
気づいた時には、会話が途切れることもなく盛り上がっていた。
オリンピックの話、憧れの選手のこと、やってみたいプレイング、今までで感動した試合の話……
どれをとってもバドミントンの話ばかりで、まるでバドミントンに取り憑かれてるみたいで、でも、夢中でそれを話す水瀬先輩の目があまりに綺麗なものだから、あぁ、先輩はこんなキラキラした顔で話す人なんだ、と嬉しくなってきて。
いつもクールでストイックで、近くにいるのに見ているだけの存在だった先輩が、こんなに笑いかけてくれるなんて夢のようだった。
一旦話のキリがついたところで、水瀬先輩は冷たいジュースを満杯に入れたコップを右手で持ち上げ、ぐっと流し込む。持ち上げた右腕に浮かぶ筋肉の筋は、高校生になったばかりの頼りなくて子供っぽい俺とは違い、目の前の先輩が大人に近づいている18歳の男なのだと思い出させる。見てはいけないものを見てしまったかのようで、ごくり、と唾を飲みこんだ。
「気分、晴れた?」
「えっ?」
思いもよらぬ言葉に、肉を焼こうと伸ばしていた手が止まる。
「泣きそうだったじゃん、さっき」
まさか、見抜かれていたなんて。
根暗で不器用などんくさい俺が、これ以上周りに迷惑をかけないようにできることは、負のオーラを出さないように取り繕うことだ。だから、心を押し殺して、常に口角を上げ、乾いた笑い声をあげて、明るく楽しそうな演技をする。
少なくとも、部活終わりに話をした顧問には、バレていなかったはずなのに。
来月行われる個人戦の出場権をかけたトーナメント戦が、今日部内で行われた。
最近、なんとなく上手くいかないことが多かった。トーナメント戦が始まってから、ずっとどこか胸騒ぎがしていて、そして悪い予感は的中した。
その日初めての試合、1回戦で俺は負けた。チーム代表になれなかった。
いや、憂鬱の原因は、単に試合結果ではない。むしろ、学校を背負って、それも1人で戦うなんて、プレッシャーに弱い俺はそんな大層な舞台に立ちたいとも思えなくて、安堵すらあった。
問題は、ここで勝てなかったことによる、「なんであんなやつが水瀬先輩と組んでるの?」と言いたげな周囲の視線だ。
本当は気弱でネガティブで、勝負事なんて大の苦手だ。勝気な人が多いこの部活の雰囲気に馴染めず、もうすぐ一学期も終わるというのに未だに一人でいる。大して強くもなく活躍もしていないのに、皆の憧れである絶対的エースの水瀬先輩と同じチームで、最も花形のインターハイを順調に勝ち進んでいる俺の事を、よく思わない人たちも多いことも分かっていた。
だからこそ、何としてでも結果を残したかった。勝たなければならなかった。
せめて、同級生たちと張り合うぐらいには…。
団体戦の時だってそうだ。1番年下で、1番頑張らなくちゃいけないのに、ずっと、1番何もできてない。
わかってる、そんなことは俺が1番よくわかっている。でも………
皆より早く部活に来て、夜も遅くまで勉強をして、やっとできるようになった課題は、他の人は大抵既にできているし、自分の強みだと思っていたものも、あっさり周りに越えられて。周囲に追いつこうと必死で、足を引っ張らないことだけを考えて、どんなにもがいても、何をやっても、いつもいつも、焦ってまた空回りする。
誰かに相談できれば楽になれるのかもしれない。でも、自分の心の内を晒すのが怖くて、こんな俺なんかに時間を取らせることが申し訳なくて、一人で立ち直らなきゃ、と、笑顔をはりつけて、平気なふりをして……。
「真剣に向き合ってるからこそ悩むんだよね」
独り言のような水瀬先輩の呟きが、ここ最近のことを思い出していた俺の心を見透かしたようなタイミングで降ってきた。驚いた拍子に思わず言葉が漏れる。
「………俺は、水瀬先輩のチームには、相応しくないと思います」
先輩は黙っている。その僅かな沈黙にも耐えられなくて、間髪入れずに続けた。
「相応しくないっていうか、俺普通に弱いし、メンタルも全然強くないし、チームに入る権利ないんじゃないかな?って。その、別に最近スランプなんじゃなくて、そもそも実力なんてないから……。今日のだって、きっとたまたま負けたわけじゃないんですよ」
「そりゃあ、たまたま負ける試合なんて無いからね。全てに理由がある」
水瀬先輩のハッキリとした物言いに、身体が冷えていくような感じがした。
本当は初めから全部気づいていた。チームのためにとどんなに努力したって、俺にはどうせ出来っこない。このままチームにいたって迷惑をかけるだけだし、俺のせいで先輩の3連覇を止めてしまうぐらいなら、俺が居なくなることが1番のチーム貢献なんじゃないか。
だって水瀬先輩と組めたのも、レギュラーを決めるトーナメント戦の日だけ、たまたま調子が良かったからで……
「でも、たまたま勝てる試合も無いよ。まぐれなんかじゃない。」
………どうしてこの人は、こうも俺の気持ちが手に取るように分かるんだろう。
おもむろに顔を上げると、澄んだ瞳がまっすぐに俺を捉えていた。
「オレの知り合いにさ、すごく真面目で優しくて、心の綺
麗な奴がいるんだよ」
先輩が、嬉しそうに目を細めた。
「そいつはさ、困難から絶対逃げないんだよね。諦めないんだよ。誰よりも早く部活に来て、課題から目を逸らさずに、いつでも向上心を忘れない」
息ができない。水瀬先輩が認めるその人は、今の自分とはあまりにもかけ離れている。やっぱり、何もかもが足りないと呆れられているのかもしれない。
「一生懸命なだけじゃなくてね、部活が終わったあと、誰も見てないところで1人、掃除をしたり、片付けをしたり、皆が気づかないような小さなことにも気を配れる心もある」
「…素敵な方なんですね」
一瞬目を見開いた後で、ふっと笑った水瀬先輩は、少し重ための前髪を軽くかき上げて続けた。
「そうだろ?だけどさ、そいつは、自分の長所を見落としてるの。いつも自信なさげに目を伏せて、俺なんか、ってそればかり言う。誰もが認めてる努力の天才なのに、俺はダメだから、いい所だって何もないから、って。挙句の果てに、俺は水瀬先輩のチームメイトにはふさわしくない、なんて」
「……えっ? あの」
今度は俺が目を見開く番だった。
「これから先、オレが大きな舞台で戦わなくちゃいけないって時にさ、一緒に戦ってほしいのは、内気でネガティブで、だけどキラキラした綺麗な目をしながらバドミントンの話をするような、何よりもこの競技を愛してて、妥協しない芯の強さもある、気配りできる奴なんだよ。尊敬しかないんだよ。まぁでも、ここ2ヶ月ぐらいかな、ずっと近くにいるのに、見てるだけなんだけど。情けないよなぁ、オレの方が先輩なのにさ」
息をのむ。心臓が暴れ、頭の中で鼓動がガンガン鳴り響く。隣の席の騒がしい笑い声も、店内を流れる流行りのJPOPも、遥か遠くから聞こえてくる。それなのに、水瀬先輩の言葉だけは、脳に直接語りかけられたかのように、はっきり捉えることが出来た。
「あ、あの…、どうして」
そんなに俺に優しくしてくれるんですか。
どうにか絞り出した言葉は、声になれないまま嗚咽と混ざって消えた。
何がなんだかわからず、俯いて座っているだけの俺に、向かいに座っていた水瀬先輩が席を立ちハンカチを渡してくれた。そこで初めて、自分が泣いていることに気づく。
「一つ、約束してほしい」
背中を撫でてくれる先輩の手が暖かい。
「これからは、つまんない遠慮なんか捨てて、真面目なことも下らないことも、すぐにオレに話すこと。一緒にやるためなら寝る時間だって惜しめるし、何か困ったことがあった時は、全力で先輩風吹かすからさ」
おどけて冗談を言う弾んだ声がなんだか可笑しくて思わず吹き出すと、俺の顔を覗き込んでいた水瀬先輩と目が合った。
「お、やっと笑ってくれた」
グッと目尻を下げた優しげな笑顔が向けられる。
「いいか?次にオレの前で泣くのは、夢を叶えた時にしろよ」
その言葉に、何度も何度も頷く。その度に、先輩は優しく頭を撫でてくれた。
「あの、先輩」
「ん?」
「俺、ずっと夢があるんです。まだ誰にとも言ったことがないんですけど。…聞いてくださいますか?」
時は過ぎ、蝉の声をよく聴く季節になった。
先程まであちこちから聞こえていた早押しボタンの音も、親や先生たちの声援も、騒がしいはずなのに、今はもう聞こえない。
インターハイ決勝、最終ラウンド。あと一点、あと一点だ。あと一歩で、俺達は……!
ゴクリ、と唾を飲み込んだ水瀬先輩が、隣にいる俺に目配せする。大丈夫、想いは1つだ。
全神経を集中させる。先輩がサーブを決める。相手が打ち返してくる。速い。でも……。
バシュッ!
脳に届いた風を切る音が、思考を引き裂く。
恐る恐る顔を上げると……落ちてる。相手のコートに落ちてる!!!
ハッとして横を向くと、固く結んだ口の端をほんの少しだけ上げた水瀬先輩が、自信と闘志にみなぎったギラギラした瞳でまっすぐ前を捉えていた。
__________沈黙。永遠よりも長いような一瞬。
再び俺の時間が動き出した時には、会場からの大歓声と、割れんばかりの拍手に包まれていた。
コート外で見ていた顧問やチームメイトたちが駆け寄ってきて、スポーツ新聞のカメラのフラッシュがたかれる。
訳も分からないままインタビューが始まった。水瀬先輩が数歩前に出て、カメラをゆっくりと見回した。
沢山の人達の涙、期待、想像もできないほどの大きなプレッシャーを背負い続けたその背中。俺が必死に追い続けて、押し潰されることのないよう、支えてきたその背中。
眩いスポットライト中で、深く、深く一礼した先輩は、この世の”美しい”を表現する全ての言葉をかき集めても、形容できないほどに美しかった。
大きなカメラとマイクを持った大人達が先輩を取り囲み、矢継ぎ早に質問をする。
〈水瀬さんは今回、個人として史上初のインターハイ3連覇を達成しましたが、現在の心境はどうですか?〉
「今まで自分を支えてくれた方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。そして何より、」
そこで先輩は振り返り、俺の手を取る。
「最高で最強の相棒に出会えたからこその結果だと思っています。一緒にやってきたのが彼だったから、ここまで来られた」
頭が、真っ白になった。
あの日、あの時から、一日でも、1試合でも、1秒でも長く、先輩と一緒に戦いたくて、水瀬先輩の隣にいたくて、ただそれだけを願って、目の前のことを一生懸命にやってきた。
壁にぶつかると、一人で思い悩まずすぐに水瀬先輩に打ち明けた。先輩も、俺に弱い部分を見せてくれた。
いつでもキラキラしていて、圧倒的なカリスマ性とリーダーシップで人を惹きつけ、常に羨望の眼差しが向けられていた水瀬先輩は、本当は人見知りで、なかなか人に心を開けず、周りを頼ることが苦手で、落ち込みやすくて、優柔不断で、繊細で、とても不器用な、俺に、そっくりな人だった。
俺も、先輩も、誰もが完璧じゃない。そう気づけてからは世界が変わった。自分のダメなところばかりではなく、積み上げてきたものに目を向けて、それを認められるようになった。その上で、足りないところはどこか、何故足りないのか、達成するにはどうしたらいいか、全てを前向きに捉えられるようになった。水瀬先輩と一緒なら、立ちはだかる壁の高さすらも楽しめるような気がした。
先輩がいたから。先輩が俺を救ってくれたから。水瀬先輩が俺をここに連れてきてくれたから。だから、俺は…、
「自分が3連覇という夢を叶えられたのは、大切な仲間のおかげです。先輩として、競技にまっすぐな後輩に、この景色を見せられてよかった」
光り輝くトロフィーに負けないぐらいのキラキラした笑顔でそう語る先輩の背中は、今も変わらず大きくて。
嗚呼、あの日誓った俺の夢は、叶わなかった。
「あの、先輩」
あの日、俺は何かに突き上げられたように、宣言してしまったのだ。
「俺の夢は、あなた以上のプレイヤーになることです。俺は、水瀬先輩を超えます」
大変な事を口走ってしまった。根暗で気弱な普段の俺からは、考えられないような大層なもの。
その言葉を聞いた水瀬先輩は、目を細めて優しく微笑んだ。
「そっか。……待ってる」
小さな成功体験を積み重ね、自分を少しだけ好きになれた俺は、見違えるように強くなって、誰もがトッププレイヤーだと認めるような人間になれた。でも、ただ1人、水瀬先輩にだけは勝てなかった。
そして今もまた見せつけられる。
スキルだけではない、人間的な大きさ、凛とした瞳の輝き、何にも負けない芯の強さ。追い続けたその背中に肩を並べることすら許されない。
彼がわずか16歳で…、今の俺と同じ歳で全国の高校生の頂点に立った日、当時中学生だった俺は、その、他を寄せ付けない破壊的なまでの強さに、ただただ愕然としてテレビ画面を見つめることしか出来なかった。
雷に打たれたかのような衝撃を受けたあの日から、あなたのようになりたくて、がむしゃらに練習に取り組んで。走って、走って、走り続けて、近づけたと思ったら突き放されて。
あの日誓った俺の夢は敗れた。背中を追いかけるんじゃなくて、背中を預け合いたかった。後ろから支えるんじゃなくて、最前列で引っ張りたかった。重荷に押し潰されそうならば、俺も一緒に背負いたかった。
俺は、水瀬先輩の隣にふさわしいチームメイトだっただろうか。
どうやっても敵わない、永遠に憧れの人。ずっと、ずっと変わらない、手に届かぬ絶対王者だ。
「ねぇ、先輩」
「ん?」
帰り道。
俺の呼びかけに振り返った先輩の澄んだ瞳は、いつかと同じようにまっすぐに俺を捉えた。
「俺もまた来年、今日と同じ景色を見られるかな」
艶のある短髪を片耳にかけながら、鼻に皺を寄せるクシャッとした笑顔で、あの日のように声を弾ませる。
「絶っ対できるよ。だって、俺のチームメイトじゃん?」
涙の味は感情によって変わる、と、遠い昔に聞いたことがある。
悔し涙や怒りの涙はしょっぱくて、嬉し涙は甘い味がするのだという。
いつもの曲がり角で先輩と別れた後、
俺の頬を伝った涙は、
ちょっとだけ塩辛い、
飴玉みたいな、甘い味がした。
〔塩辛い飴玉をひとつ〕 ________________完