日曜日の夜。
仕事を終えた葵は、職場から歩いて15分のアパートに足早に帰ると、あらかじめ玄関に用意しておいたボストンバッグを手に持って、そのまま最寄りの駅に向かった。
アパートがある京浜東北線の大森駅から、電車に乗り、川崎で湘南新宿ラインに乗り換えた。そして私は、夜の横浜を抜ける電車に揺られ、2時間で熱海に着いた。
駅からバスに乗り換え、彼女が目的地に着く頃には、夜空に星が瞬いていた。
私の遅い週末が始まろうとしている。
葵は足を止め、大きく息を吸う。
そして、目の前にずんと佇んでいる古いリゾートホテルを見上げた。
『ホテル ニュービクトリアン』
バブル期に建てられた5階建てのホテルは、名前の通りヨーロッパの宮殿を模している。中央に門があり、そこから左右伸びるようにして建物が建っていた。葵の部屋は410号室、4階の角部屋だ。
葵が自動ドアをぬけてホテルに入ると、異国感漂うムスクの香りに包まれた。
フロントに視線をむけると、「おかえりなさいませ、三日月様」と、背の高いコンシェルジュがにこやかに声をかけてくれる。
宿泊客なら、ここで部屋の鍵を受け取るはずだ。だけど葵はフロントマンにお辞儀をして「こんばんは」と挨拶したあと、そのまま410号室に向かった。
手に持ったスマホが震えて、お母さんからの着信に出る。
『葵ちゃん元気? 風邪引いてない?』
「うん。大丈夫」
『今、おうち?』
「熱海の方だよ。おばあちゃんの別荘」
『あぁそうなのね、住み心地はどう?』
「うーん、まだ慣れないかな」
4階フロアの赤い絨毯を歩きながらキーケースを取り出すと、リングに繋いでいるいくつかの鍵の中から、一番大きくてざらついたものを手探りでさがす。
突き当たりの410号室の前まで来ると、葵は手にした鍵を確認した。
雑貨屋さんで売っているようなアンティーク調の鍵は、錆びた真鍮で鈍く金色に輝いている。
葵は部屋の鍵を開けて、木製のドアを押し開けた。
安堵のため息をついて、部屋の灯をつける。
葵の目の前には、昨年亡くなった祖母が遺してくれたワンルームが広がっていた。
『あんたさ、来週ツムギちゃんの誕生日だって覚えてる?』
「あ、そうだっけ。ごめん忘れてた。今度で2歳だっけ?」
『3歳だよ。可愛い姪っ子にプレゼント忘れないようにね』
「うん。教えてくれてありがとう。あのさ、最近忙しくて……」
『じゃあ、そういうことだから。お母さん、葵が元気そうで安心したわ。また電話するわね、おやすみなさい』
「……またね。おやすみ」
葵が言い終わるのと同時に通話が切られた。
まぁ、いいや。
相変わらず、私の話になんて興味がないのね。
「疲れたぁ……」
寝る準備を整えた葵は、独り言を呟いてベッドに横になった。リビングの一角にあるベッドは、部屋全体が見渡せる位置にある。今はベッドの横に置いたテーブルランプのオレンジ色で、暗い部屋がぼんやりと照らされていた。
これまでの疲れがどっと出て、急に体が重く感じる。時計の針は午前1時をさしていた。
葵は、サイドテーブルに置いたiPad miniのアプリを起動して、読みかけの本を手にとった。
本を読むなら電気つけなさい! 実家だったらそんなふうに怒られてしまいそうなことでも、一人暮らしなら誰にも文句を言われなくて最高だ。
しばらくして、iPadからラジオの音が聞こえてきた。
《『ーー迷える子羊の皆さん。こんばんは。
こんな夜更けにひっそりと、今夜も始まります、このコーナー。
「マッスル清香の眠れない夜の幸福論」
この番組では、オネェ哲学者こと、パーソナリティーのマッスル清香が、今夜もあなたのお悩みにぴったりな、哲学者の名言を処方します。今夜の子羊さんは……ラジオネーム、限界女子ハリネズミさん』
清香先生こんばんは。
『はいこんばんはー』
いつも、清香先生のラジオ楽しみにしてます。
『あら、ありがとう。私、そういう社交辞令、嫌いじゃないわ』》
葵は上半身を起こすと、本をテーブルに戻し、その横に置いていたマグカップを手にとった。ホットココアに生クリームとハチミツをトッピングした。一口飲むと、ほんのりと甘い香りが広がった。
《私には最近モヤモヤしていることがあります。それは周りの人と比べて、自分のダメなところが心底嫌になってしまうことです。特に夜、寝る前に一人反省会をやっていると、色々考えてしまって暗い気持ちになって眠れません》
うん、その気持ちすごくわかる。
《あなたの気持ち、わかるわよ。だって、私だって一人反省会する人種だからね》
《そのたびに自分なんてダメだって思ってしまいます。どんな人も悩みながら生きていることはわかっているから、自分のそんな考えも甘いってことくらいわかります。
『なるほどね』
ただ、どうしても人と比べてしまいます。そんな、一人反省会しすぎる私に効く言葉を処方してほしいです。
『はいはいはい。限界女子ハリネズミさんそういうことね。私はね、何度も言うようだけど、一人反省会好きよ。だから、このままウジウジずぅーーーっと悩んでいなさいよ。アンタ! って言いたいところだけど、限界女子ってラジオネームでわざわざ自分でつけているところが気になっちゃうのよね、私。
限界な人には優しくしちゃいたくなっちゃうのよ、私。だから、今日のあなたには、こういう優しめの言葉にしといたわ。
『最も後悔されること。それは自分に対する敬意の欠如だ』
これがニーチェの言葉なんだけど、私、この言葉、中学生の野球小坊主だった頃に出会って、心底感心したのよね。それで、サードのレギュラーになれたんだから、たいしたもんよ。ま、高校生になって、女装のお店に通うようになったんだけどね。
限界女子ハリネズミさんのお悩みが明るい夜明けを迎えられますように》
ふふ。
思わず笑った私は、まあいっかと思いながら、もう一口ココアを飲んだ。
あー、最高。ココアを飲むだけで、今日から休日が始まったと思うと嬉しくなった。
◇月曜日の昼
私は今、ホテルの中庭が見えるカフェスペースでカフェオレを飲んでいる。古びた赤い長ソファの右側を見る。
さっき雑貨屋で小さいテディベアを買った。
もちろん、可愛い姪っ子のためだ。そのテディベアは、私の右側に置いてあるトートバッグの中に入っている。そのトートバッグのロゴには【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】という黄色い明朝体で書かれている。さらに三日月マークもついていて、パッと見た感じでは、あのマッスル清香の番組トートだってことはわからないと思う。
そんな私も、半年前に悩みを放送してもらって、このトートバッグをもらうことができた。
「三日月様」
声がする方を見ると、フロントマンのカミムラさんが立っていた。整えられた白髪に黒縁のメガネ、すらっとした体は190センチくらいで背が高いけど、威圧感を感じないのは、カミムラさんの朗らかな雰囲気の賜物だ。
「なんですか?」
「しばらくクローズしていた温室の整備が終わりました。もしよろしければ、お飲み物を持ちながら、そちらをご覧になってください」
「ありがとう」
じいやって言いそうになるくらい、穏やかで落ち着くトーンだ。
私はトートバッグを肩にかけ、カフェオレを持って、中庭へ向かった。
コスモスが風で揺れている中庭を歩いていると、一匹の黒猫が飛び出してきた。
ーーホテルの中なのに黒猫?
黒猫も私の存在に気がついたのか、数秒間、私のことを見つめ、固まったあと、またゆっくりと歩き出した。黒猫が向かう先には、温室が見えていた。黒猫もそっちの方へ、歩き始めたから、私は黒猫のあとをついていくことにした。
黒猫は時折、止まっては、私の方を振り向き、歩いている。まるで、黒猫が私のことを温室へ道案内しているようだ。
温室のドアにたどり着くと、黒猫はそのドアが開くのを待っているかのように見えた。
「あー、そういうことね。私を使って入ろうとしていたんだ」
私がゆっくりとガラス戸を開けると、さっきまで私のことを気にしていた黒猫は、そそくさと私を置いて、奥の方へ走って行った。
温室は、簡素な作りだった。植物はいくつかの植木がある程度で、あとは白いタイルが張られているだけだった。てっきり植物園のように、わさわさと植物が生い茂っているのかと思ったら、そうではなかった。
温室の中央には、向かい合って、白いガーデンチェアが二脚と、ウッドテーブルが置いてあった。そこに一人の小柄な女の人が座っていた。テーブルにスケッチブックを広げて、絵を描いていた。
「あっ」
私はまさか、人がいるなんて思わなかったから、声を出してしまった。すると、私の声に気がついたのか、座っていた女の人も顔を上げて、私を見て、会釈をした。
「絵、綺麗ですね。不思議な色ですね」
「変でしょ。だけど、私にはこういうふうに見えちゃってるから仕方ないんだけどね」
「すごく素敵だと思います」
「ありがとう」
五十代くらいの小柄な女の人は笑顔でそう言った。確かに、この女の人が描いている絵は、アーティスティックな雰囲気が出ている。だけど、それが彼女の作風なんだと思う。もしかして、プロかなって思うほど、その絵は上手だった。
左側にベンチがあった。そこには、女の人のトートバッグが置いてあった。だから、私も同じようにトートバッグをそのベンチに置くことにした。
私はカフェオレを持ったまま、端にある植木を点検するように見ながら、歩き始めた。
ちらっと女の人を見ると、女の人は、スケッチブックを閉じた。席を立ち、トートバッグが置いてあるベンチの方へ向かい、トートバッグを手に取った。
「私はこれで」
「どうも」と女の人に返すと、女の人はそそくさと、温室を出て行った。
「悪いことしたかも」
そんなことを言って、カフェオレを飲んだら、さっきの黒猫が足元に擦り寄ってきたから、私は屈んで黒猫の頭を撫でた。
温室でカフェオレを飲んだあと、さっき姪っ子に買ったテディベアを送るために郵便局へ行った。
明日、ホテルをチェックアウトした時に送ろうかと思ったけど、気分が乗ったから、このまま今日中に済ませてしまうことにした。
郵便局につき、トートバッグの中身を見るとーー。
あれ?
トートバッグの中には、スケッチブックと大きな封筒が入っていた。
え、私の荷物じゃない。
だけど、私のバッグのはず。そう思い、トートバッグのロゴを見ると、【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】と書かれていた。
やっぱり私のトートバッグじゃん。もしかして、さっき、温室であの女の人と、トートバッグが入れ替わったのかな。
慌てて私は郵便局を出て、ホテルの方へ走り始めた。
ホテルに着くと、フロントの方から大きな声が聞こえた。フロントでは、カミムラさんがさっきの女の人をなだめているように見えた。
「一条様、落ち着いてください。わたくしが最善を尽くしますから」
「落ち着いていられるわけないでしょ! だってあの中に、絵本の原稿が入っているのよ。それもスランプ中でようやく描けた原稿なのに」
私はそれを聞きながら、慌ててフロントに駆け寄ると、二人は私の方を見た。私はトートバッグをフロントのカウンターに置くと、女の人は神経質そうにトートバッグを手に取った。
「あ、あの。これ、私のバッグに入ってました。スケッチブックと封筒」
「え、だけど、このバッグって……」
女の人もフロントのカウンターにトートバッグを置いた。そこには、全く同じロゴの【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】が書かれたトートバッグが二つ並んでいた。
「「マッスル清香!」」
二人揃って、同じことを言って、見つめ合うと、私たちは満面の笑みでなぜか抱き合った。
「あたしの名前、一条小春っていうの。今はスランプ中の絵本作家。何年か前にこのホテルの一室を分譲で買って、熱海で療養中って感じかな」
そう言うと、小春さんは二皿目のサイコロステーキを口に運んだ。
「それで、葵ちゃんは週末にホテル暮らしの二拠点生活をしてるってことでしょう? 若いのにすごいね」
私は、グラスに入った炭酸水を一口飲んでから答える。
「ホテルの部屋は、小春さんと一緒で、分譲で買ってた祖母の遺産なんです。私の仕事って一日の勤務時間が長い代わりに週休三日なので片道2時間かかっても熱海でゆっくりできるかなって思って」
親子ほど歳の離れた小春さんとは、職場にいる同年代の同僚よりも不思議と自然体で話ができる気がした。
「へぇ、今時はそんな働き方もあるんだ」
小春さんは、驚いたような、感心したような表情で私を見つめた後、にっこり微笑んだ。
私は、ニュービクトリアンに住み始めてから、初めてこのホテルの住人とこうやっておしゃべりをして、初めてホテル内のレストランでディナーを食べている。一人でレストランにくる勇気がなかった私を、小春さんがさらりと誘ってくれた。
「でもさぁ、まさかこんな近くにマッスル清香のトート持ってる人がいるなんて思わなかった」
「ほんとですよねぇ、小春さんどうしてあの非売品のトート持ってたんですか?」
「ふふ。決まってるでしょ。あたしマッスル清香に、相談乗ってもらったことあるんだぁ。葵ちゃんも?」
小春さんに聞かれて、私は半年前のことを思い出した。元彼にフラれたショックで、夜涙が止まらなくなって、ちゃんと眠れない日が何日も続いていたあの頃の記憶。
「私も、半年前に……。失恋引きずってた時すごく辛くて番組に応募したら読んでもらえました。処方はルソーだった気がします」
「うんうん。あたしはカントだったかな。どんな名言だったかはっきり覚えてないけど、なんか人に言えない悩みとかを哲学っていうちょっと遠い視点から見てみると、目の前のモヤモヤがちょっとスッキリしてさ、その先にある大切なことに気持ちを持っていけるようになる気がするんだよね。まぁ、だからって自分で勉強しようとしたら挫折しちゃうんだけど」
「わかります。すぐ前向きに気持ちを切り替えられるってわけじゃないけど、気持ちが落ち着いて夜眠れるようになるんです」
私は、職場の人間関係で心が消耗していく中で、失恋がトドメになって、一気に人と深く関わるのが嫌になってしまった。それで他人に期待するから勝手に裏切られた気持ちになって凹んだりする自分の心の揺れに疲れ果てて「あ、私って人間関係向いてないんだ」って諦めがついたら気持ちが楽になった代わりに、今度は急に虚しくなる瞬間が定期的にくるようになったりしてこれが孤独感なのかなってうっすら気づきはじめていた。だから、ここにきて、波長の合う人と出会ってすごく久しぶりにわくわくしている。
「なんだか不思議。葵ちゃんとは昔からの友達みたいな感じがする。ねぇ、明日一緒にホテルのカフェでランチしない?」
◇火曜日の昼
待ち合わせの十分前にホテルのロビーに降りた。十一時を過ぎ、チェックアウトが一通り終わったホテルは、いつもなら静かなのに、今日のホテルは忙しそうな雰囲気だった。
工事が入るのか、何人かの作業着の人が資材を持って、行き来している。
私がソファに座っている間、ずっと、そんな感じだった。
「葵ちゃん、お待たせ」
「あ、小春さん。おはようございます。それに全然待ってないですよ。まだ、約束の五分前です」
私は腕時計をちらっと見ながら、そう返した。小春さんは私の隣に座った。
「ねえ、見てよ。あの人」
小春さんが指差し方を見ると、入口の方で、業者の人と、黒いドレスの女の人がやり取りしているのが見えた。
「美人ですね」
「だけど、あの人、業者の人よりも身長高いよね」
小春さんは右手の親指と小指を開き、定規みたいに大きさを測り始めた。
「やっぱり、絵本作家さんですね」
「うーん。多分、二人とも大きい気がする」
「大きいって、どれくらいですか」
「男の人が180センチで、女の人は、その10センチ上くらいだからーー」
「190くらいってことですか」
「そう、それくらいだと思う」
「なんか、遠近法で頭の中、バグりそうです」
「私は絵描きだから、違う意味でバグってるけどね」
そんなことを言っていると、急に女の人が声が辺りを支配した。
「ふざけないでよ!」
私はその声で思わず、ビクッとした。隣にいる小春さんを見ると、小春さんも私と同じようにビクッとしていた。
「だいたい、あんたらね。私が金払っているのよ! なのに、無理無理ばかり言うって、話が違うじゃないの。私はね、誰もが癒される相談室を作りたいだけなの」
「まあまあ、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないじゃない!」
私と、小春さん以外、ホテルにいなくてよかったねと思った。というか、このホテルに相談室って、どう言うことだろう。
このホテルで威圧感ある女の人のカウンセリングを受けられるってこと?
コツコツと靴の音を立てて、カミムラさんが珍しく慌てた様子で、大きい女の人と、業者の方へ、フロントから小走りで向かっているのが見えた。
「清志おぼっちゃま、おやめください。お客様があちらでお休みになっています。気性が荒いのは、わたくしだけにしてください」
「カミムラ、私はおぼっちゃまじゃないの」
カミムラさんが高身長の二人の前にたどりついた。そして、高身長のカミムラさんが並ぶと、まるでNBAのゴール下のような雰囲気になった。
「カミムラさんも190センチくらいだね。それより、あの声ってさ。あの人じゃない?」
小春さんは私が持っているトートバッグを指差した。
「そんなわけないですよ。だって、マッスル清香さんってもっと、優しいはずです。プライベートでこんなに当たり散らしてたら、ちょっと嫌かも」
「確かにねぇ。声が似てるだけかも。だけど、あんなこと入口の前でされたら、ホテル出ずらいから、もう少し見守ってましょう。もしかしたら、本当にーー」
そう小春さんが言っている途中で、
「もう!」とまた大きな声がした。
「だから、カミムラ。私はもう『おぼっちゃま』じゃないの! 私はアレと一緒に切除して、『おじょうちゃん』になったの!」
「これは失礼。つい癖でお呼びしてしまいました。清香おじょうさま」
「それでよし。私は清香よ」
え? と思い、再び小春さんを見ると、小春さんも驚いた表情をしていた。
「ねえ、やっぱりマッスル清香かも」
「ですよね」
「だって、見てよこれ」
小春さんはいつの間に持っていたのか、スマホに表示されたマッスル清香のウィキペディアのページを見せてくれた。
そこには、身長193センチ。静岡県熱海市出身。父は実業家の渡嘉敷忠志。トカシキリゾート開発の会長である。と書かれている。
「だから、おぼっちゃんって呼ばれてるんですか。カミムラさんに」
「そうだと思う。これは絵本作家の名推理」
「絵本作家にミステリーは似合いません」
「そうね。同じ作家だけど」
ふふっと、小春さんは上品に笑った。再び騒がしい方を見ると、カミムラさんがマッスル清香に何か耳打ちをした。そして、一瞬、マッスル清香と目があったような気がした。
「あ、今、マッスル清香と目が合いました」
「私も今、合った」
そんなことを小声で小春さんと話していると、急にマッスル清香は笑顔になり、そして、私たちの方に向かってきた。
「おぼっちゃま。お待ちを」
またカミムラさんが慌てた様子で、マッスル清香の腕を掴むと、マッスル清香は腕を払った。
「どうします? こっち来ますよ」
「どうするも何も、あれを見て、ファンです。ラジオ聴いてますって言ってもね」
「逃げますか?」
「逃げても、追いかけてきそう」
お互いに閣僚同士が耳打ちしているようなことをしていると、あっという間にマッスル清香は私たちのパーソナルエリア目前まで来た。
「こんにちは〜。いつもありがとうございます。一条様と三日月様」と言って、私たちの向かいのソファに座った。
名前を言われた瞬間、私はまたビクッとした。
「あぁ……。どうも」
小春さんが弱々しくそう返したから、私もとりあえず、会釈しておいた。
「あらー。ごめんなさいね。本当に騒がしくて。それに一条様も三日月様も、私の番組のリスナーさんなんですってね。ソクラテスはこう言いました。『汝自身を知れ』と」
「はあ……」
私はマッスル清香がそう言った意図が分からなくて、それしか言えなかった。
「つまり、私ね。短気なところがあるのよ。ラジオ聴いてくれてるからわかるかもしれないけど。つまり、みっともないところ見せて、ごめんなさいねって言いたかったの」
「あたし、短気な哲学者がいてもいいと思いますよ。だって、この言葉って、確か『己の分をわきまえぬ自惚れ屋』って意味もあるでしょう」
小春さんはそんなことまで知っているんだと思って、私はただ、黙ってうんうんと頷いた。哲学のことなんて何も知らないけど。
「一条様、お気遣いありがとうございます。私、新しいこのホテルのオーナーになりました。年老いた親戚から譲り受けてね。それで、カウンセリングルームを中庭に作り、オーナーが使っていた書斎も、オープンな図書室にするので、できたらぜひ、いらしてださい。それでは、ごゆっくりされてくださいね」
マッスル清香はソファを立ち上がった。
「あ、あのっ!」
私が声を出すと、マッスル清香はもう一度、私に目線を合わせるように、屈んでくれた。
「その……。マッスルってつけた意味、聞きたかったんですけど」
そう聞くと、なんだそう言うことかと言いたげにマッスル清香は微笑んだ。
「筋肉は裏切らないって哲学的だと思わない?」
マッスル清香は右腕で力こぶを作ったあと、立ち上がり、また業者の方へゆっくり歩いて行った。
そのマッスル清香の足元に、私が昨日、中庭で出会った黒猫がするよって行くのが見えた。
「あらぁ、ルナちゃん。どこ行ってたの?」
黒猫がマッスル清香を見上げてニャーと返事すると、清香は黒猫を愛おしそうに抱き上げた。
私は小春さんを見ると、小春さんも微笑んでくれた。
「ランチ食べに行きましょうか」
そう言われたから、
「はい!」としっかり目に返事をした。
なんだか、素敵な遺産をもらえたみたいだ。
こうして、私の週末リゾートホテル暮らしが始まった。
仕事を終えた葵は、職場から歩いて15分のアパートに足早に帰ると、あらかじめ玄関に用意しておいたボストンバッグを手に持って、そのまま最寄りの駅に向かった。
アパートがある京浜東北線の大森駅から、電車に乗り、川崎で湘南新宿ラインに乗り換えた。そして私は、夜の横浜を抜ける電車に揺られ、2時間で熱海に着いた。
駅からバスに乗り換え、彼女が目的地に着く頃には、夜空に星が瞬いていた。
私の遅い週末が始まろうとしている。
葵は足を止め、大きく息を吸う。
そして、目の前にずんと佇んでいる古いリゾートホテルを見上げた。
『ホテル ニュービクトリアン』
バブル期に建てられた5階建てのホテルは、名前の通りヨーロッパの宮殿を模している。中央に門があり、そこから左右伸びるようにして建物が建っていた。葵の部屋は410号室、4階の角部屋だ。
葵が自動ドアをぬけてホテルに入ると、異国感漂うムスクの香りに包まれた。
フロントに視線をむけると、「おかえりなさいませ、三日月様」と、背の高いコンシェルジュがにこやかに声をかけてくれる。
宿泊客なら、ここで部屋の鍵を受け取るはずだ。だけど葵はフロントマンにお辞儀をして「こんばんは」と挨拶したあと、そのまま410号室に向かった。
手に持ったスマホが震えて、お母さんからの着信に出る。
『葵ちゃん元気? 風邪引いてない?』
「うん。大丈夫」
『今、おうち?』
「熱海の方だよ。おばあちゃんの別荘」
『あぁそうなのね、住み心地はどう?』
「うーん、まだ慣れないかな」
4階フロアの赤い絨毯を歩きながらキーケースを取り出すと、リングに繋いでいるいくつかの鍵の中から、一番大きくてざらついたものを手探りでさがす。
突き当たりの410号室の前まで来ると、葵は手にした鍵を確認した。
雑貨屋さんで売っているようなアンティーク調の鍵は、錆びた真鍮で鈍く金色に輝いている。
葵は部屋の鍵を開けて、木製のドアを押し開けた。
安堵のため息をついて、部屋の灯をつける。
葵の目の前には、昨年亡くなった祖母が遺してくれたワンルームが広がっていた。
『あんたさ、来週ツムギちゃんの誕生日だって覚えてる?』
「あ、そうだっけ。ごめん忘れてた。今度で2歳だっけ?」
『3歳だよ。可愛い姪っ子にプレゼント忘れないようにね』
「うん。教えてくれてありがとう。あのさ、最近忙しくて……」
『じゃあ、そういうことだから。お母さん、葵が元気そうで安心したわ。また電話するわね、おやすみなさい』
「……またね。おやすみ」
葵が言い終わるのと同時に通話が切られた。
まぁ、いいや。
相変わらず、私の話になんて興味がないのね。
「疲れたぁ……」
寝る準備を整えた葵は、独り言を呟いてベッドに横になった。リビングの一角にあるベッドは、部屋全体が見渡せる位置にある。今はベッドの横に置いたテーブルランプのオレンジ色で、暗い部屋がぼんやりと照らされていた。
これまでの疲れがどっと出て、急に体が重く感じる。時計の針は午前1時をさしていた。
葵は、サイドテーブルに置いたiPad miniのアプリを起動して、読みかけの本を手にとった。
本を読むなら電気つけなさい! 実家だったらそんなふうに怒られてしまいそうなことでも、一人暮らしなら誰にも文句を言われなくて最高だ。
しばらくして、iPadからラジオの音が聞こえてきた。
《『ーー迷える子羊の皆さん。こんばんは。
こんな夜更けにひっそりと、今夜も始まります、このコーナー。
「マッスル清香の眠れない夜の幸福論」
この番組では、オネェ哲学者こと、パーソナリティーのマッスル清香が、今夜もあなたのお悩みにぴったりな、哲学者の名言を処方します。今夜の子羊さんは……ラジオネーム、限界女子ハリネズミさん』
清香先生こんばんは。
『はいこんばんはー』
いつも、清香先生のラジオ楽しみにしてます。
『あら、ありがとう。私、そういう社交辞令、嫌いじゃないわ』》
葵は上半身を起こすと、本をテーブルに戻し、その横に置いていたマグカップを手にとった。ホットココアに生クリームとハチミツをトッピングした。一口飲むと、ほんのりと甘い香りが広がった。
《私には最近モヤモヤしていることがあります。それは周りの人と比べて、自分のダメなところが心底嫌になってしまうことです。特に夜、寝る前に一人反省会をやっていると、色々考えてしまって暗い気持ちになって眠れません》
うん、その気持ちすごくわかる。
《あなたの気持ち、わかるわよ。だって、私だって一人反省会する人種だからね》
《そのたびに自分なんてダメだって思ってしまいます。どんな人も悩みながら生きていることはわかっているから、自分のそんな考えも甘いってことくらいわかります。
『なるほどね』
ただ、どうしても人と比べてしまいます。そんな、一人反省会しすぎる私に効く言葉を処方してほしいです。
『はいはいはい。限界女子ハリネズミさんそういうことね。私はね、何度も言うようだけど、一人反省会好きよ。だから、このままウジウジずぅーーーっと悩んでいなさいよ。アンタ! って言いたいところだけど、限界女子ってラジオネームでわざわざ自分でつけているところが気になっちゃうのよね、私。
限界な人には優しくしちゃいたくなっちゃうのよ、私。だから、今日のあなたには、こういう優しめの言葉にしといたわ。
『最も後悔されること。それは自分に対する敬意の欠如だ』
これがニーチェの言葉なんだけど、私、この言葉、中学生の野球小坊主だった頃に出会って、心底感心したのよね。それで、サードのレギュラーになれたんだから、たいしたもんよ。ま、高校生になって、女装のお店に通うようになったんだけどね。
限界女子ハリネズミさんのお悩みが明るい夜明けを迎えられますように》
ふふ。
思わず笑った私は、まあいっかと思いながら、もう一口ココアを飲んだ。
あー、最高。ココアを飲むだけで、今日から休日が始まったと思うと嬉しくなった。
◇月曜日の昼
私は今、ホテルの中庭が見えるカフェスペースでカフェオレを飲んでいる。古びた赤い長ソファの右側を見る。
さっき雑貨屋で小さいテディベアを買った。
もちろん、可愛い姪っ子のためだ。そのテディベアは、私の右側に置いてあるトートバッグの中に入っている。そのトートバッグのロゴには【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】という黄色い明朝体で書かれている。さらに三日月マークもついていて、パッと見た感じでは、あのマッスル清香の番組トートだってことはわからないと思う。
そんな私も、半年前に悩みを放送してもらって、このトートバッグをもらうことができた。
「三日月様」
声がする方を見ると、フロントマンのカミムラさんが立っていた。整えられた白髪に黒縁のメガネ、すらっとした体は190センチくらいで背が高いけど、威圧感を感じないのは、カミムラさんの朗らかな雰囲気の賜物だ。
「なんですか?」
「しばらくクローズしていた温室の整備が終わりました。もしよろしければ、お飲み物を持ちながら、そちらをご覧になってください」
「ありがとう」
じいやって言いそうになるくらい、穏やかで落ち着くトーンだ。
私はトートバッグを肩にかけ、カフェオレを持って、中庭へ向かった。
コスモスが風で揺れている中庭を歩いていると、一匹の黒猫が飛び出してきた。
ーーホテルの中なのに黒猫?
黒猫も私の存在に気がついたのか、数秒間、私のことを見つめ、固まったあと、またゆっくりと歩き出した。黒猫が向かう先には、温室が見えていた。黒猫もそっちの方へ、歩き始めたから、私は黒猫のあとをついていくことにした。
黒猫は時折、止まっては、私の方を振り向き、歩いている。まるで、黒猫が私のことを温室へ道案内しているようだ。
温室のドアにたどり着くと、黒猫はそのドアが開くのを待っているかのように見えた。
「あー、そういうことね。私を使って入ろうとしていたんだ」
私がゆっくりとガラス戸を開けると、さっきまで私のことを気にしていた黒猫は、そそくさと私を置いて、奥の方へ走って行った。
温室は、簡素な作りだった。植物はいくつかの植木がある程度で、あとは白いタイルが張られているだけだった。てっきり植物園のように、わさわさと植物が生い茂っているのかと思ったら、そうではなかった。
温室の中央には、向かい合って、白いガーデンチェアが二脚と、ウッドテーブルが置いてあった。そこに一人の小柄な女の人が座っていた。テーブルにスケッチブックを広げて、絵を描いていた。
「あっ」
私はまさか、人がいるなんて思わなかったから、声を出してしまった。すると、私の声に気がついたのか、座っていた女の人も顔を上げて、私を見て、会釈をした。
「絵、綺麗ですね。不思議な色ですね」
「変でしょ。だけど、私にはこういうふうに見えちゃってるから仕方ないんだけどね」
「すごく素敵だと思います」
「ありがとう」
五十代くらいの小柄な女の人は笑顔でそう言った。確かに、この女の人が描いている絵は、アーティスティックな雰囲気が出ている。だけど、それが彼女の作風なんだと思う。もしかして、プロかなって思うほど、その絵は上手だった。
左側にベンチがあった。そこには、女の人のトートバッグが置いてあった。だから、私も同じようにトートバッグをそのベンチに置くことにした。
私はカフェオレを持ったまま、端にある植木を点検するように見ながら、歩き始めた。
ちらっと女の人を見ると、女の人は、スケッチブックを閉じた。席を立ち、トートバッグが置いてあるベンチの方へ向かい、トートバッグを手に取った。
「私はこれで」
「どうも」と女の人に返すと、女の人はそそくさと、温室を出て行った。
「悪いことしたかも」
そんなことを言って、カフェオレを飲んだら、さっきの黒猫が足元に擦り寄ってきたから、私は屈んで黒猫の頭を撫でた。
温室でカフェオレを飲んだあと、さっき姪っ子に買ったテディベアを送るために郵便局へ行った。
明日、ホテルをチェックアウトした時に送ろうかと思ったけど、気分が乗ったから、このまま今日中に済ませてしまうことにした。
郵便局につき、トートバッグの中身を見るとーー。
あれ?
トートバッグの中には、スケッチブックと大きな封筒が入っていた。
え、私の荷物じゃない。
だけど、私のバッグのはず。そう思い、トートバッグのロゴを見ると、【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】と書かれていた。
やっぱり私のトートバッグじゃん。もしかして、さっき、温室であの女の人と、トートバッグが入れ替わったのかな。
慌てて私は郵便局を出て、ホテルの方へ走り始めた。
ホテルに着くと、フロントの方から大きな声が聞こえた。フロントでは、カミムラさんがさっきの女の人をなだめているように見えた。
「一条様、落ち着いてください。わたくしが最善を尽くしますから」
「落ち着いていられるわけないでしょ! だってあの中に、絵本の原稿が入っているのよ。それもスランプ中でようやく描けた原稿なのに」
私はそれを聞きながら、慌ててフロントに駆け寄ると、二人は私の方を見た。私はトートバッグをフロントのカウンターに置くと、女の人は神経質そうにトートバッグを手に取った。
「あ、あの。これ、私のバッグに入ってました。スケッチブックと封筒」
「え、だけど、このバッグって……」
女の人もフロントのカウンターにトートバッグを置いた。そこには、全く同じロゴの【マッスル清香の眠れない夜の幸福論】が書かれたトートバッグが二つ並んでいた。
「「マッスル清香!」」
二人揃って、同じことを言って、見つめ合うと、私たちは満面の笑みでなぜか抱き合った。
「あたしの名前、一条小春っていうの。今はスランプ中の絵本作家。何年か前にこのホテルの一室を分譲で買って、熱海で療養中って感じかな」
そう言うと、小春さんは二皿目のサイコロステーキを口に運んだ。
「それで、葵ちゃんは週末にホテル暮らしの二拠点生活をしてるってことでしょう? 若いのにすごいね」
私は、グラスに入った炭酸水を一口飲んでから答える。
「ホテルの部屋は、小春さんと一緒で、分譲で買ってた祖母の遺産なんです。私の仕事って一日の勤務時間が長い代わりに週休三日なので片道2時間かかっても熱海でゆっくりできるかなって思って」
親子ほど歳の離れた小春さんとは、職場にいる同年代の同僚よりも不思議と自然体で話ができる気がした。
「へぇ、今時はそんな働き方もあるんだ」
小春さんは、驚いたような、感心したような表情で私を見つめた後、にっこり微笑んだ。
私は、ニュービクトリアンに住み始めてから、初めてこのホテルの住人とこうやっておしゃべりをして、初めてホテル内のレストランでディナーを食べている。一人でレストランにくる勇気がなかった私を、小春さんがさらりと誘ってくれた。
「でもさぁ、まさかこんな近くにマッスル清香のトート持ってる人がいるなんて思わなかった」
「ほんとですよねぇ、小春さんどうしてあの非売品のトート持ってたんですか?」
「ふふ。決まってるでしょ。あたしマッスル清香に、相談乗ってもらったことあるんだぁ。葵ちゃんも?」
小春さんに聞かれて、私は半年前のことを思い出した。元彼にフラれたショックで、夜涙が止まらなくなって、ちゃんと眠れない日が何日も続いていたあの頃の記憶。
「私も、半年前に……。失恋引きずってた時すごく辛くて番組に応募したら読んでもらえました。処方はルソーだった気がします」
「うんうん。あたしはカントだったかな。どんな名言だったかはっきり覚えてないけど、なんか人に言えない悩みとかを哲学っていうちょっと遠い視点から見てみると、目の前のモヤモヤがちょっとスッキリしてさ、その先にある大切なことに気持ちを持っていけるようになる気がするんだよね。まぁ、だからって自分で勉強しようとしたら挫折しちゃうんだけど」
「わかります。すぐ前向きに気持ちを切り替えられるってわけじゃないけど、気持ちが落ち着いて夜眠れるようになるんです」
私は、職場の人間関係で心が消耗していく中で、失恋がトドメになって、一気に人と深く関わるのが嫌になってしまった。それで他人に期待するから勝手に裏切られた気持ちになって凹んだりする自分の心の揺れに疲れ果てて「あ、私って人間関係向いてないんだ」って諦めがついたら気持ちが楽になった代わりに、今度は急に虚しくなる瞬間が定期的にくるようになったりしてこれが孤独感なのかなってうっすら気づきはじめていた。だから、ここにきて、波長の合う人と出会ってすごく久しぶりにわくわくしている。
「なんだか不思議。葵ちゃんとは昔からの友達みたいな感じがする。ねぇ、明日一緒にホテルのカフェでランチしない?」
◇火曜日の昼
待ち合わせの十分前にホテルのロビーに降りた。十一時を過ぎ、チェックアウトが一通り終わったホテルは、いつもなら静かなのに、今日のホテルは忙しそうな雰囲気だった。
工事が入るのか、何人かの作業着の人が資材を持って、行き来している。
私がソファに座っている間、ずっと、そんな感じだった。
「葵ちゃん、お待たせ」
「あ、小春さん。おはようございます。それに全然待ってないですよ。まだ、約束の五分前です」
私は腕時計をちらっと見ながら、そう返した。小春さんは私の隣に座った。
「ねえ、見てよ。あの人」
小春さんが指差し方を見ると、入口の方で、業者の人と、黒いドレスの女の人がやり取りしているのが見えた。
「美人ですね」
「だけど、あの人、業者の人よりも身長高いよね」
小春さんは右手の親指と小指を開き、定規みたいに大きさを測り始めた。
「やっぱり、絵本作家さんですね」
「うーん。多分、二人とも大きい気がする」
「大きいって、どれくらいですか」
「男の人が180センチで、女の人は、その10センチ上くらいだからーー」
「190くらいってことですか」
「そう、それくらいだと思う」
「なんか、遠近法で頭の中、バグりそうです」
「私は絵描きだから、違う意味でバグってるけどね」
そんなことを言っていると、急に女の人が声が辺りを支配した。
「ふざけないでよ!」
私はその声で思わず、ビクッとした。隣にいる小春さんを見ると、小春さんも私と同じようにビクッとしていた。
「だいたい、あんたらね。私が金払っているのよ! なのに、無理無理ばかり言うって、話が違うじゃないの。私はね、誰もが癒される相談室を作りたいだけなの」
「まあまあ、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないじゃない!」
私と、小春さん以外、ホテルにいなくてよかったねと思った。というか、このホテルに相談室って、どう言うことだろう。
このホテルで威圧感ある女の人のカウンセリングを受けられるってこと?
コツコツと靴の音を立てて、カミムラさんが珍しく慌てた様子で、大きい女の人と、業者の方へ、フロントから小走りで向かっているのが見えた。
「清志おぼっちゃま、おやめください。お客様があちらでお休みになっています。気性が荒いのは、わたくしだけにしてください」
「カミムラ、私はおぼっちゃまじゃないの」
カミムラさんが高身長の二人の前にたどりついた。そして、高身長のカミムラさんが並ぶと、まるでNBAのゴール下のような雰囲気になった。
「カミムラさんも190センチくらいだね。それより、あの声ってさ。あの人じゃない?」
小春さんは私が持っているトートバッグを指差した。
「そんなわけないですよ。だって、マッスル清香さんってもっと、優しいはずです。プライベートでこんなに当たり散らしてたら、ちょっと嫌かも」
「確かにねぇ。声が似てるだけかも。だけど、あんなこと入口の前でされたら、ホテル出ずらいから、もう少し見守ってましょう。もしかしたら、本当にーー」
そう小春さんが言っている途中で、
「もう!」とまた大きな声がした。
「だから、カミムラ。私はもう『おぼっちゃま』じゃないの! 私はアレと一緒に切除して、『おじょうちゃん』になったの!」
「これは失礼。つい癖でお呼びしてしまいました。清香おじょうさま」
「それでよし。私は清香よ」
え? と思い、再び小春さんを見ると、小春さんも驚いた表情をしていた。
「ねえ、やっぱりマッスル清香かも」
「ですよね」
「だって、見てよこれ」
小春さんはいつの間に持っていたのか、スマホに表示されたマッスル清香のウィキペディアのページを見せてくれた。
そこには、身長193センチ。静岡県熱海市出身。父は実業家の渡嘉敷忠志。トカシキリゾート開発の会長である。と書かれている。
「だから、おぼっちゃんって呼ばれてるんですか。カミムラさんに」
「そうだと思う。これは絵本作家の名推理」
「絵本作家にミステリーは似合いません」
「そうね。同じ作家だけど」
ふふっと、小春さんは上品に笑った。再び騒がしい方を見ると、カミムラさんがマッスル清香に何か耳打ちをした。そして、一瞬、マッスル清香と目があったような気がした。
「あ、今、マッスル清香と目が合いました」
「私も今、合った」
そんなことを小声で小春さんと話していると、急にマッスル清香は笑顔になり、そして、私たちの方に向かってきた。
「おぼっちゃま。お待ちを」
またカミムラさんが慌てた様子で、マッスル清香の腕を掴むと、マッスル清香は腕を払った。
「どうします? こっち来ますよ」
「どうするも何も、あれを見て、ファンです。ラジオ聴いてますって言ってもね」
「逃げますか?」
「逃げても、追いかけてきそう」
お互いに閣僚同士が耳打ちしているようなことをしていると、あっという間にマッスル清香は私たちのパーソナルエリア目前まで来た。
「こんにちは〜。いつもありがとうございます。一条様と三日月様」と言って、私たちの向かいのソファに座った。
名前を言われた瞬間、私はまたビクッとした。
「あぁ……。どうも」
小春さんが弱々しくそう返したから、私もとりあえず、会釈しておいた。
「あらー。ごめんなさいね。本当に騒がしくて。それに一条様も三日月様も、私の番組のリスナーさんなんですってね。ソクラテスはこう言いました。『汝自身を知れ』と」
「はあ……」
私はマッスル清香がそう言った意図が分からなくて、それしか言えなかった。
「つまり、私ね。短気なところがあるのよ。ラジオ聴いてくれてるからわかるかもしれないけど。つまり、みっともないところ見せて、ごめんなさいねって言いたかったの」
「あたし、短気な哲学者がいてもいいと思いますよ。だって、この言葉って、確か『己の分をわきまえぬ自惚れ屋』って意味もあるでしょう」
小春さんはそんなことまで知っているんだと思って、私はただ、黙ってうんうんと頷いた。哲学のことなんて何も知らないけど。
「一条様、お気遣いありがとうございます。私、新しいこのホテルのオーナーになりました。年老いた親戚から譲り受けてね。それで、カウンセリングルームを中庭に作り、オーナーが使っていた書斎も、オープンな図書室にするので、できたらぜひ、いらしてださい。それでは、ごゆっくりされてくださいね」
マッスル清香はソファを立ち上がった。
「あ、あのっ!」
私が声を出すと、マッスル清香はもう一度、私に目線を合わせるように、屈んでくれた。
「その……。マッスルってつけた意味、聞きたかったんですけど」
そう聞くと、なんだそう言うことかと言いたげにマッスル清香は微笑んだ。
「筋肉は裏切らないって哲学的だと思わない?」
マッスル清香は右腕で力こぶを作ったあと、立ち上がり、また業者の方へゆっくり歩いて行った。
そのマッスル清香の足元に、私が昨日、中庭で出会った黒猫がするよって行くのが見えた。
「あらぁ、ルナちゃん。どこ行ってたの?」
黒猫がマッスル清香を見上げてニャーと返事すると、清香は黒猫を愛おしそうに抱き上げた。
私は小春さんを見ると、小春さんも微笑んでくれた。
「ランチ食べに行きましょうか」
そう言われたから、
「はい!」としっかり目に返事をした。
なんだか、素敵な遺産をもらえたみたいだ。
こうして、私の週末リゾートホテル暮らしが始まった。