那智くんとは、翌週の日曜日に会う約束をした。期末テストの少し前だが、那智くんはさほど気にしていないようだったので僕もそれに合わせた。
友達とどこかへ遊びに行くなんて久しぶりだな、と思いながら僕はホームであれこれ考えを巡らせたながら電車を待っていた。
そうだ、友達だ。だから何も心配ない。
さっきは突然の恋の予感に、揺さぶられてしまったけれど、僕のなかに巣喰う絶望がうまくブレーキをかけてくれた。
僕は佐伯さんに恋をしていた。同性を好きになることを何のためらいもなく受け入れてくれたのは、佐伯さんが初めてだった。女の子を好きになれないことに対して、思い悩まなくていいと云ってくれたのは、佐伯さんだけだった。十六年間報われることのなかった恋心が、許しを受けて、佐伯さんに向かって一気に解放されていった。
『人を好きになるのに性別なんて関係ないよ』
恐らく、佐伯さんは本気でそう思っていたのだろう。そのときはそれが嘘偽りないあの人の本音だったのだ。人間というのは、自分の内面を誰よりも分かっているのは自分自身だと信じている。だから、いざ眼の前に容赦のない現実がやってきたとき、その破壊力に打ちのめされてしまうのだ。
現実を目の当たりにした途端、佐伯さんは僕を突き放し、そのあとは徹底して僕を避けつづけた。裏切りじゃない。仕方のないことなんだと僕は自分に云い聞かせた。
決して佐伯さんを恨まないと僕は心に決めていたが、半年に渡る恋の代償は重く、それから三か月のあいだ、僕は碌に眠れず、碌に食べられず、何も楽しいと思えなかった。特に、感情が鈍化していた。
失恋の痛手から立ち直るために新しい恋を探す、という人もいるというが、僕はもう当分、誰にも恋するつもりはない。いつかはするだろうが、それは今ではない。
やってきた電車に乗り、たまたま空いていた出入口に近い席に座る。
向かいの扉の入口に立っていた、黒い服の女の子に眼が奪われた。彼女はレースがふんだんにあしらわれた黒いワンピース、というよりドレスを着ていて、髪には大きなリボンをつけていた。ハート型の、恐らく携帯電話ぐらいしか入らない大きさのバッグや、足の甲が痛くなりそうな黒い靴にも、レースやリボンがこれでもかというほどついている。
流行だけがすべてじゃない人もいるんだなあ。
そんな感想を抱きながら、その夢のような服装に見入っていると、彼女が携帯電話から顔を上げて僕の方を見た。色素を薄く見せるためか、眼にはグレーのカラーコンタクトが入っていて、肌は砂糖菓子のように仕上がっていた。僕は咄嗟に俯いて、鞄の中を整理するふりをする。だが、しばらく経ってもその子の視線が離れる気配がないので、僕は違和感を覚えながらも一度も顔を上げなかった。結局、そのまま電車を降りた。何だったろうとは思ったが、そのことはすぐに別の思考に紛れて消えていった。
そうだ、服だ。何を着ていこう。服なんてここ最近、一枚も買っていない。せっかくいい友達ができそうなのに、外見も中身もぼろは出したくない。僕は携帯電話を取り出し、同世代がどんな服を着ているのか検索しはじめた。
つまらない奴だと思われないように、いくつか話題を用意しておこう。とりあえず映画に行こうということになっているが、そのあとお茶ぐらいはするだろうし、カラオケやボウリングに行く可能性もある。あとはやはり、今日、おごってもらったフラペチーノのお礼をしておきたい。
楽しみだけど、やっぱり少し緊張もするな、と思ったところで僕は頭を抱えた。
だめだ、だいぶ浮かれている。
「時丘くん、今週の日曜日出れないかな?」
そう店長に訊かれたのは翌週の水曜日のことだった。
「ほら、日曜日、もともとシフト希望入れてくれてたじゃん。前日の土曜日に勤務してくれてるから外したんだけど、やっぱり入ってほしいなと思って」
どきりとしながらも、
「すみません、期末試験が近いもので」
とやんわり伝える。云ったあとでふと気づいた。もしかして、店長の頼みを断るのって初めてじゃないかな。残念そうな顔をされたらどうしよう、と思っておずおずと顔色を窺うと、
「そっかあ、いいんだ。訊いただけだから」
と店長はあっさり引き下がって行った。
あのあとの那智くんとの連絡で、日曜は映画を観に行こうという予定になっていた。
確か今週の日曜日は、日雇いの派遣アルバイトが来ることになっていたはずだが、と僕は思い出す。
これまで店長は、奥さんがいない二か月間だけ頑張ればいいのだからと、新たにアルバイトを募集しなかった。
『夏のあいだだけ、平日の日中と土日どちらか来てくれる派遣の人をお願いしたら?』
そう奥さんにも云われていたが、店長は、
『どんな人が来るか分からないから、あまり使いたくないんだよね』
と、一人で頑張っていた。しかし、先々週、そうもいっていられない事態が起きた。
その日は平日でいつも通り店長は一人で店を回していたのだが、そこへ保育園から、上のお子さんが突然熱を出した、という内容の電話が入った。熱がどんどん上がっているのでなるべく早く迎えに来て欲しいと云われたものの、僕たちが出勤する時刻までには三時間以上あったため、仕方なく店長は一旦店を閉めて、子供たちを迎えに行くことにした。その際、既に店内にいるお客さんたちに事情を話して退店を促すかたちになり、かなり大変だったらしい。それで、翌日には大手人材派遣所に事業者登録したのだということだった。だがその日雇いの派遣について訊ねると、
「日曜日にも来てもらおうと思ったけどね、断ったんだ。実はもう何回か、平日の日中に人を派遣してもらってたんだけど……来る人来る人、全然だめ。いらっしゃいませも云わなけりゃ、愛想もない。おまけに電話もとれない。みんな最初の二時間で帰ってもらったよ。やっぱり面接もなしに人を使うものじゃないね。運が良ければ良い人が来るんだろうけど、あの派遣所はもう利用しないよ」
という答えが返ってきた。
「そうだったんですか……」
「ああ、でも日曜のことは気にしないで。僕の友達に手伝い頼めないか当たってみるから」
困っている店長の役に立ちたいのはやまやまだったが、今回はごめんなさい、と心のなかで謝ってその日の仕事に精を出した。
そのあとで、いつも通りの時間帯に那智くんがやってきた。彼はカウンターの中にいた僕に向かって手を振り、案内を待たずにいつもと同じ洗い場近くの席に座った。僕は棚からカップを選び、珈琲を注ぐ。運が味方してくれたのか、そのとき理央は別のお客さんと談笑中だったので、今度は那智くんのところへ珈琲を持って行くことができた。
「明後日だね」
僕が珈琲をテーブルに置いたあと、那智くんはにこっと笑って云った。
「うん」
「予報では晴れるみたいだね。体調気をつけてね。楽しみにしてるから」
「ありがとう、那智くんもね」
けれど伝票を置き、トレイを抱えたあとも僕はその場を立ち去ることができなかった。那智くんの視線が、僕を放さなかったのだ。
那智くんの瞳は、チョコレートのような茶色をしていて、光が当たると、瞳孔との色の差がよりはっきりした。
一体、何秒間見つめあっていただろう。
片付けられていないテーブル、洗い場にたまっているカップや皿、補充しなければならないストローや紙ナプキン。一瞬、そういったすべてのものが、ずっとずっと遠くにあるように感じられた。こんな眼で見られたのはすごく久しぶりのことだった。
「時丘さん、レジお願いします」
理央の声が飛んできて、一気に現実が僕の上に降りかかってきた。途端に、顔から火が出るほどの恥ずかしさが襲ってきて、僕はその場を離れた。
その日の閉店後、レジの金額合わせをしていると、理央が話しかけてきた。
「珍しいじゃないですか。時丘さんが店長の頼み断るなんて」
「え?」
「来週の日曜のことですよ」
「ああ、うん……期末試験が近いからね」
「本当は?」
僕はほんの一瞬だけ考えを巡らせて、嘘をひねり出した。
「実は友達と塾の体験授業に行くんだ。もう申し込んじゃったから断れなくて」
「何だ、つまんね。デートとか、そういうのだったら面白かったのに」
僕は、んー、と適当に唸ってその話題を流そうとした。何でこの子は大して興味もない僕について詮索してくるのだろう。
「ていうか、時丘さんてデートとかしたことあるんですか?付き合ってる人います?」
「うーん、まあ……」
「絶対無理でしょ。こんだけバイト入っててそんな暇あるわけないじゃないですか」
何なんだ、この子は。
「でもでも、もしほんとにデートするときは教えて下さいね。俺、場所とか服とか、その他もろもろアドバイスしてあげますから。ほっといたら時丘さん、あらゆる面で事故りそうなんだもん」
「ご心配ありがとう」
余計なお世話だ、と云いたいのを何とか喉の奥で留め、僕は精一杯微笑んだ。顔面の皮一枚下までこみ上げてきている苛立ちを、うまく隠せていればいいのだが。
「時丘さん、藤咲学園に通ってるのにマジでもったいないですよ。あすこ、美人やイケメンが多くて評判なのに。男も女もどっちも選び放題じゃないですか」
確かに那智くんからも、藤咲の生徒は上品だと云われていたっけ。でも実際に中にいる生徒としてはあまり実感がない。それより、僕を驚かせたのは理央の後半の言葉だった。思わず仕事中だということも忘れて訊いた。
「……えぇ?何それ、付き合うのに男は選ばないでしょう?」
なるべく軽い調子に聞こえるように、ほんの少し途惑ったような笑いを混ぜた。
「ああ、女じゃないと嫌な人ですか、時丘さんって」
「え……だって、みんなそうじゃないの?」
「何勝手に決めつけてるんですか。まあ、割合として多いことは認めますよ。でも俺の場合、今は彼女がいるけど、別に機会があれば男とも付き合うし」
「えっ、嘘でしょ?」
「うるさ、声抑えてください」
「ごめん……ちょっとびっくりして」
「ガチで驚いてるんですか?時丘さんて何時代の人?」
笑われたが、それはどうでも良かった。信じられなかった。理央は本気で云っているのだろうか。本当に、ただ僕が時代遅れなことを云っているだけなのだろうか。
「でも……ほら、男同士だと、周りの眼とか気になるものなんじゃないの?」
「別にそんなこともないけど。今時珍しくもないし」
「だって、友達とはしないことをするわけでしょ?」
当たり前じゃないかというような顔で理央は僕を見た。
「そんなに知りたいなら試してみます?」
「えっ?」
「もちろん、ごっこ遊びで、ってことですけど。キスまでなら大丈夫ですよ。それより先は流石に彼女に悪いからできないけど」
まったく思いがけないことを云われて僕は動揺し、レジカウンターの上にあったコインケースをばらばらと落としてしまった。
「うろたえすぎでしょ」
理央はあきれたようにそう呟き、使っていたほうきを掃除用具入れに戻しに行った。
「ていうか、今日来てた、あの東林大高校の人。あれ、彼氏じゃなかったんですか?最近よく来てるし」
「はっ?違うよ。あの人は友達だって云ったじゃない」
「はいはい、友達ね。てか、やばっ。もう九時じゃん。じゃ、お先でーす」
理央は例によってごみをそのままにし、バックヤードに消えていった。僕は呆気にとられたまま、しばらく動けなかったが、やがて足許に落ちたコインケースを拾いはじめた。
もし世界が、理央の云う通り、そこまで偏狭なものでないとしたら僕を苦しめているものは何なのだろう。昔から抱えているこの罪の意識は、いらないものだったというのか。それならどうして佐伯さんは、あのとき、まるで恐れるように僕から離れていったのだろう。
すべてを受け入れてくれた佐伯さんと別れるのは、僕にとって体の一部をもぎ取られるようにつらいことだった。別れの言葉すらもらえなかった僕は何故連絡をくれないのかと、何度も電話かけ、メッセージを送信し、手紙まで出した。それに対し、一切何の返答もないことがひどく堪えた。もう佐伯さんとは終わりなのだと理解したとき、僕の眼からは意思とは関係なく涙が流れ出し、それは一週間近く止まらなかった。僕は風邪をひいたと云って学校を欠席し、同じ理由で店にも迷惑をかけてしまった。何を食べても味がせず、体が重く、漫画を読もうと思っても、まるで字が頭に入ってこず、絵は分解された記号のように見えた。もう一度あんな思いをしたら、きっと僕は生きていられないと思う。
那智くんが非常にいい人であることに間違いはなく、はっきり云えば彼は僕のタイプであり、自制を働かせなければあっという間に恋に落ちてしまうことは経験上分かっていた。特に、今日のような、あんな眼で見つめられつづけたら、いつか僕の心には火が点いてしまうだろう。
那智くんの優しさや明るさに触れるたびに、かつて佐伯さんに抱いたのと同じような感情を呼び起こされそうになる。けれど僕は、恋の病の深さを、人を愛することが天国にも地獄にも繋がっていることを、もう知っている。佐伯さんから受けた完璧な拒絶は今も僕の内面に暗い影を落としている。もうあんなふうに誰かを好きになることは怖い。
もし、那智くんが女の子しか好きにならない男であれば、すぐに諦めもつくのだけれど。