夜十時前に帰宅すると、リビングでは母が電話をしながら食事をしていた。母も帰りが遅かったのだろう。テーブルにはデパ地下の惣菜が並んでいる。いつものことだ。
母は都心でビューティークリニックを経営している。エステと健康美容食の販売をやっていることは聞いているが、それ以外にも何かやっているのか、そしてどのくらい収益を上げているのかは知らない。僕が把握しているのは、兄と僕の学費については、父と母で折半していることぐらいだ。
父がいなくなってから、母は家じゅうのインテリアをすべて自分好みに統一した。そのせいで、何となく僕は居心地が悪い。
電話中の母は身振りで、パックに入った料理を指し、これを食べろと伝えてきたが、僕はその前にシャワーを浴びたかった。一旦、二階に上がって荷物を下ろし、スウェットを手に取って、階段を降りる。だが、浴室に向かう途中の廊下で電話を済ませた母に呼び止められた。
「おかえり。いつもより遅かったね」
「そう?電車一本見送ったからかも」
「ねえ、見てもらいたいものがあるんだけど、ちょっと来て」
既にこのとき嫌な予感がしていたものの、僕は仕方なく浴室にスウェットを置いてリビングへ向かった。
温めたから食べて、と先ほどのパック詰めの料理を示される。
「先にシャワー浴びようと思ってたんだけど」
「あとででもいいでしょ。それよりこれ見て」
僕は諦めてウーロン茶をグラスに注いだ。母がテーブルに広げていたのは、僕が通う学校で開かれている放課後授業のパンフレットだった。英会話クラス週二回コースというところと、英語文法クラス週二回というところにそれぞれ付箋がついている。
「何これ」
「この前、いくつか塾を勧めたけど、何だかあんまり気乗りしないみたいだったじゃない?だからせめて、放課後授業はどうかと思って。夏休みのあいだも開講してるんだって。あなたの学校に問い合わせたら、資料を郵送してくれたのよ」
このパンフレットなら、入学時から進級のたびに毎年もらっている。読もうと思えばクラスのロッカーの上にも、常時置いてある。
「それで、このコースを受けろって?」
「受けろなんて云ってないでしょ。どうかなって提案してるのよ」
母の提案は強制と同意義だ。僕は返事を引き延ばすために、パンフレットに眼を通すふりをした。
「英語の成績なら安全圏内だよ。ほかの教科も」
「これは成績の心配というより、大学より先の、あなたの将来のためよ。英語はできた方が選べる仕事の範囲が広がるでしょ」
「……うん」
僕ははっきりしない態度を示し、食事を続けた。
「何だってやるなら早いうちがベストよ。あなたの学校は学費ばっかり高くて、校舎がきれいなことぐらいしか取り柄がないと思ってたけど、良かったわ、こういうオプションコースがちゃんとあるんじゃない。忙しくってちゃんと見てなかった。ホームスティの案内も一緒に送られてきたんだけど、行き先がすごくたくさんあるのね。羨ましい」
僕はちらりと案内をめくって確認してから、またテレビへ視線を戻した。
「学費とは別に月謝がかかるよ」
「そう、だから頑張ってね」
小学校の低学年ぐらいまでは、母のこういうお節介も息子である自分のためなのだと思っていた。幼い頃の空手や体操教室などの、明らかに僕の適性から外れた提案も、母はなるべく息子の視野を広げようとしてくれているのだと信じていた。けれど兄に対する態度を見ていて気づいた。この人は子供たちをただ自分の理想通りにしたがっているだけなのではないかと。
「今決めなくてもいい?急に云われてもそこまでやる気出ない」
母はため息を吐いた。
「ねえ、社会勉強のためにアルバイトするのも少しならいいと思ってた。でも土日も含めて週に五日も働くなんて聞いてない。苦学生じゃないんだから」
「別に成績に支障が出てるわけじゃない」
「時間を無駄にしてる。周りからも無理して私立に行かせてると思われるわ。何かほしいものがあるなら云いなさい」
「ほしいものはないけど、プレッシャーはかけないでほしい」
僕は喋るのも面倒になって、食器を片付けた。
「お兄ちゃんの受験のときほど、かけてないと思うけど。大体、お兄ちゃんが通ってた学校ならともかく、あんたの学校じゃ何か一つ取り柄でもないと、世間で通用しないんだから」
バタンと音を立ててリビングを出る。
こういうとき、兄だけを連れて出て行った父を恨みたくなる。消化に良くないとは思いつつも、僕はそのまま浴室へ向かった。手早くシャワーを浴びて、部屋で宿題を終わらせよう。とにかく静けさが欲しくてたまらない。
僕は今までのバイト代をなるべく無駄にせず、貯金するようにしている。足りないかもしれないが、いつか家を出るときに役立てたいと思っている。
もちろん僕だって、自分の将来について不安を感じていないわけではない。
僕が通う藤咲学園は歴史と知名度こそあるが、進学校として名高いわけでなく、世間では金持ちが行く学校というイメージで定着している。たいていのクラスメイトの親は有名企業のエリートサラリーマンか会社経営者で、芸能人や政治家の二世三世も同級生に数人在籍している。平均的な中高一貫の私学に較べて学費はかなり高く寄付金の納入率も高いので、それが質の高い放課後授業や多種多様な部活動、様々な留学先への斡旋、そして設備の良さと見栄えする校舎に活かされているのだと思う。多大な教育費をかけてもらっていることに頭では感謝すべきだとは思いつつも、自分が望んだわけではないという反発心もある。
『あんたにはお兄ちゃんのような進学校は無理だけど、まあ、この学校なら兄弟で並んで見劣りしないでしょう。ここにしようね』
受験前の学校見学会でそう問いかけてきた母に対し、小学校五年生の僕は、うん、としか答えようがなかった。本当はきれいすぎる校舎や、明らかにブランドものと分かる小物を身に着けている在校生たちの様子にただ気後れしていた。入学後、何とか環境に馴染もうと努力した結果、数人の友達に恵まれることができ、高等部に上がった今でも彼らとは仲良くしている。彼らのほとんどは内部進学で大学へ行き、公務員を目指すか親の事業を継ぐというようなことを云っていた。僕も漠然とそれが最良と思っていた時期があった。
でも佐伯さんに出会ったときに、何かが違う、本当にそれでいいのか、と考えるようになったのだ。
僕も佐伯さんも、中高一貫の私学に通っているという点では一緒で、中高の在学時の成績に問題がなければ、外部からの受験生に較べてずっと有利に大学進学できるというのも同じだった。それを捨ててまで他大学を受験するというのは、リスクを背負ってでもやりたいことがあるからできることだ。僕はやりたいことのために何かを捨てるという決断をしたことがない。だから佐伯さんのその姿勢をすごいなと思った。そして羨ましいとも思った。そう、僕には夢がないから。
何か欲しいものがあるなら云いなさい。
違う。そうじゃない。与えてもらいたいんじゃない。
僕は感じ取りたい。何かのために時を忘れたい。心をふるわせたい。これなら、と思える夢の片鱗を見つけたい。命を縮めても構わないと思えるような。
シャワーを止めて、バスルームを出る。扉一枚を隔てたリビングでは、母がまた誰かと電話をしているようだ。
タオルに手を伸ばしたとき、自分の半身が洗面台の鏡に映り込んだのを見て、僕は眼を逸らした。それからスウェットに着替えて、歯を磨き、母の電話が終わらないうちに、二階へと退散した。
どうして絵を描くの、という愚かな質問を、かつて僕は佐伯さんにしたことがある。
『それしかないからかな』
『そんなことないでしょ』
『どう答えたらいいんだろう。でもほかのことは考えられないよ』
それだけだった。僕は、きみのことも考えられない、と云われたように感じて、勝手に傷ついていた。そんなふうに受け取ったのには理由がある。
お互いの気持ちを確認したあとも、僕たちの関係は友情の極限から動かなかった。佐伯さんのふとした眼差しや思いやりから愛情を受け取ることはあっても、いざ恋人らしい触れ合いにもっていこうとすると、
『そういうことは受験が終わってから』
の一点張りで、決してそれ以上先に進もうとはしなかった。もともと、僕もそこまで積極的な性格ではないのと、受験生に不要なストレスを与えてはいけないという思いから、僕は佐伯さんの意向を尊重することにした。それに、
『志望校に合格したら、ちゃんと付き合おう』
という彼の言葉を信じてもいた。
事実、佐伯さんほどストイックな人に、僕はこれまでの人生で出会ったことがない。筆がのっているとデートの約束をしていてもキャンセルされてしまうし、携帯電話にメッセージを送っても返信がないことはしょっちゅうだった。自宅敷地内にアトリエを持っていて、学校と画塾に行く時間以外はほとんどそこで絵を描いて過ごしているような人だった。僕は何度もそこを訪ねていった。今でも絵を描くあの人の背中が脳裏に焼きついて離れない。祈るように絵を描くあの人の背中。あとから、兄の背中に似ているのだと気づいた。
その二日後の水曜日、いつもの通り、僕はフロアを理央に任せて食器を洗っていた。すると、いきなり正面から、
「時丘くん」
と呼ばれ、僕は驚いて顔を上げた。食器の返却口のところに、見覚えのある顔が覗いていた。
「那智さん?」
会うのは二度目だったが、自然と名前が口からこぼれた。
「さんはいいって。良かった、今日はいないのかと思った」
「はあ、すみません……」
「珈琲お願いしてもいい?」
「あ……はい」
そこから近い席に那智くんは腰を下ろした。僕は洗い場用の手袋を外してカウンターへ向かい、カップを選んで珈琲を注ぐ。
そういえば最初に会ったときにも、同い年だから、さん付けはいらないと云われたっけ。
試しに喉の奥で、那智くん、と呼んでみる。その響きはすごくしっくりくる気がした。
とはいえ、いくら同い年でもやっぱりお客様に、くん付けで呼びかけたりするわけにはいかないな、と考え直す。ただ、僕は那智くんの親しみを込めた態度に少し途惑ってはいたものの、馴れ馴れしいとか厚かましいとかはまったく思わなかった。まるで旧友に再会したかのような安心感を彼は与えてくれる。僕がうまく会話できなかったのは、理央に見られていたからだ。
伝票を切り取り、珈琲やミルクをトレイに載せて持ち上げようとしたところ、カウンターにやって来た理央がそれをさっと持って行ってしまった。
「あ」
「何ですか?」
「ううん……それ、五番テーブルなんだけど」
「知ってます」
理央はつんとした態度でその場を離れた。僕は諦めて洗い場へ戻るしかなかった。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
那智くんの顔をかすかに覗き込むように理央は小首を傾げて笑顔を送った。可愛げを売りにできる理央だから似合う手法だ。その様子はすべて僕がいるところから見えていた。
理央はこの店に入ってくる人間をすべて自分の客にしてしまわないと気が済まないらしい。今のような牽制はいつものことだ。返却口越しに那智くんと交わした、短いやりとりでさえ、気に入らないのだろう。一年かけてそれなりの信頼関係を築いた常連客は、今やみんな理央のものになってしまった。そういうことはどうしようもない。世の中には人の心を吸い寄せるのがうまい人間がいて、僕はそうではないというだけだ。
そして、一度近づいてきてくれた心も、ずっと傍にいつづけてくれるとは限らない。あの人の心も、わずか半年で僕から離れてしまったのだから。
理央が退店した客のテーブルを軽やかに片付け、返却口に次々と食器を置いていく。洗い終えたと思ったら置かれるのでいつまで経っても、シンクのなかは空にならない。もう少し早く洗い終えたらいいのだろうけど、この店のカップはすべて一つとして同じものがない奥さんの作品で、万が一割ったりしたら同じものは二度と手に入らないから、どうしても気を遣ってしまう。
僕が食器を洗っているあいだ、那智くんは学校のワークブックらしきものに取り組んだり、それに飽きると何かの画集を眺めたりしていた。ケーキのショーケースを拭くためにカウンターの外へ出たところ、一度だけ那智くんと眼が合った。にこにこと手を振ってくる彼に対し、僕はふきんを持ったまま軽く会釈を返す。入店してから三十分ほど経ったところで那智くんは画集を閉じて席を立った。そして珈琲カップを返却口まで持ってきてくれた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。でも、うちはテーブルに置いたままでいいんですよ」
「うん、でも時丘くんに声をかけてから帰ろうと思って」
僕は内心ちょっと途惑いながらも、なんとか微笑んだ。せっかく向こうが親しみを見せてくれているのだから、ちゃんと応えなければと思った。
「わざわざすみません。またいらしてくださいね」
「うん、明後日また来る」
レジには理央が立っている。僕のいる位置からは理央の背中しか見えないけれど、
「ありがとうございまーす」
という彼の明るい声色から、完璧な笑顔が想像できる。僕は胸が塞がれるような自己嫌悪に陥りながら、再び蛇口をひねって水を出す。
那智くんという人は、きっと、知り合った人には誰にでも親切なのだ。普段から気さくで人懐こくて、誰に対してもフラットで、クラスでも部活でも人気者なんだろう。
実は佐伯さんと出会う前まで、僕が最も惹かれる人間が彼のようなタイプだった。いや、本当は今でもああいう同性には弱い。佐伯さんだけが、たまたま特別だったのだ。
そうだ。那智くんは僕が佐伯さんの知り合いだったから、仲良くしようとしてくれているだけだ。
胸のなかに那智くんの笑顔が住みつきそうな気がするのを振り払い、僕は返却口に置かれたカップを引き寄せて水に浸けようとした。
そのとき、カップとソーサーのあいだに折り畳んだ紙が敷いてあることに気づいた。端っこの見える部分に、
【時丘くんへ】
と書いてある。手袋を外して紙切れを開いてみる。どうやらクロッキー帳を切り取ったもののようだ。
【佐伯さんのことで話したいことがあります。良かったら連絡ください。那智】
その下にはメッセージアプリのIDが書かれていた。
母は都心でビューティークリニックを経営している。エステと健康美容食の販売をやっていることは聞いているが、それ以外にも何かやっているのか、そしてどのくらい収益を上げているのかは知らない。僕が把握しているのは、兄と僕の学費については、父と母で折半していることぐらいだ。
父がいなくなってから、母は家じゅうのインテリアをすべて自分好みに統一した。そのせいで、何となく僕は居心地が悪い。
電話中の母は身振りで、パックに入った料理を指し、これを食べろと伝えてきたが、僕はその前にシャワーを浴びたかった。一旦、二階に上がって荷物を下ろし、スウェットを手に取って、階段を降りる。だが、浴室に向かう途中の廊下で電話を済ませた母に呼び止められた。
「おかえり。いつもより遅かったね」
「そう?電車一本見送ったからかも」
「ねえ、見てもらいたいものがあるんだけど、ちょっと来て」
既にこのとき嫌な予感がしていたものの、僕は仕方なく浴室にスウェットを置いてリビングへ向かった。
温めたから食べて、と先ほどのパック詰めの料理を示される。
「先にシャワー浴びようと思ってたんだけど」
「あとででもいいでしょ。それよりこれ見て」
僕は諦めてウーロン茶をグラスに注いだ。母がテーブルに広げていたのは、僕が通う学校で開かれている放課後授業のパンフレットだった。英会話クラス週二回コースというところと、英語文法クラス週二回というところにそれぞれ付箋がついている。
「何これ」
「この前、いくつか塾を勧めたけど、何だかあんまり気乗りしないみたいだったじゃない?だからせめて、放課後授業はどうかと思って。夏休みのあいだも開講してるんだって。あなたの学校に問い合わせたら、資料を郵送してくれたのよ」
このパンフレットなら、入学時から進級のたびに毎年もらっている。読もうと思えばクラスのロッカーの上にも、常時置いてある。
「それで、このコースを受けろって?」
「受けろなんて云ってないでしょ。どうかなって提案してるのよ」
母の提案は強制と同意義だ。僕は返事を引き延ばすために、パンフレットに眼を通すふりをした。
「英語の成績なら安全圏内だよ。ほかの教科も」
「これは成績の心配というより、大学より先の、あなたの将来のためよ。英語はできた方が選べる仕事の範囲が広がるでしょ」
「……うん」
僕ははっきりしない態度を示し、食事を続けた。
「何だってやるなら早いうちがベストよ。あなたの学校は学費ばっかり高くて、校舎がきれいなことぐらいしか取り柄がないと思ってたけど、良かったわ、こういうオプションコースがちゃんとあるんじゃない。忙しくってちゃんと見てなかった。ホームスティの案内も一緒に送られてきたんだけど、行き先がすごくたくさんあるのね。羨ましい」
僕はちらりと案内をめくって確認してから、またテレビへ視線を戻した。
「学費とは別に月謝がかかるよ」
「そう、だから頑張ってね」
小学校の低学年ぐらいまでは、母のこういうお節介も息子である自分のためなのだと思っていた。幼い頃の空手や体操教室などの、明らかに僕の適性から外れた提案も、母はなるべく息子の視野を広げようとしてくれているのだと信じていた。けれど兄に対する態度を見ていて気づいた。この人は子供たちをただ自分の理想通りにしたがっているだけなのではないかと。
「今決めなくてもいい?急に云われてもそこまでやる気出ない」
母はため息を吐いた。
「ねえ、社会勉強のためにアルバイトするのも少しならいいと思ってた。でも土日も含めて週に五日も働くなんて聞いてない。苦学生じゃないんだから」
「別に成績に支障が出てるわけじゃない」
「時間を無駄にしてる。周りからも無理して私立に行かせてると思われるわ。何かほしいものがあるなら云いなさい」
「ほしいものはないけど、プレッシャーはかけないでほしい」
僕は喋るのも面倒になって、食器を片付けた。
「お兄ちゃんの受験のときほど、かけてないと思うけど。大体、お兄ちゃんが通ってた学校ならともかく、あんたの学校じゃ何か一つ取り柄でもないと、世間で通用しないんだから」
バタンと音を立ててリビングを出る。
こういうとき、兄だけを連れて出て行った父を恨みたくなる。消化に良くないとは思いつつも、僕はそのまま浴室へ向かった。手早くシャワーを浴びて、部屋で宿題を終わらせよう。とにかく静けさが欲しくてたまらない。
僕は今までのバイト代をなるべく無駄にせず、貯金するようにしている。足りないかもしれないが、いつか家を出るときに役立てたいと思っている。
もちろん僕だって、自分の将来について不安を感じていないわけではない。
僕が通う藤咲学園は歴史と知名度こそあるが、進学校として名高いわけでなく、世間では金持ちが行く学校というイメージで定着している。たいていのクラスメイトの親は有名企業のエリートサラリーマンか会社経営者で、芸能人や政治家の二世三世も同級生に数人在籍している。平均的な中高一貫の私学に較べて学費はかなり高く寄付金の納入率も高いので、それが質の高い放課後授業や多種多様な部活動、様々な留学先への斡旋、そして設備の良さと見栄えする校舎に活かされているのだと思う。多大な教育費をかけてもらっていることに頭では感謝すべきだとは思いつつも、自分が望んだわけではないという反発心もある。
『あんたにはお兄ちゃんのような進学校は無理だけど、まあ、この学校なら兄弟で並んで見劣りしないでしょう。ここにしようね』
受験前の学校見学会でそう問いかけてきた母に対し、小学校五年生の僕は、うん、としか答えようがなかった。本当はきれいすぎる校舎や、明らかにブランドものと分かる小物を身に着けている在校生たちの様子にただ気後れしていた。入学後、何とか環境に馴染もうと努力した結果、数人の友達に恵まれることができ、高等部に上がった今でも彼らとは仲良くしている。彼らのほとんどは内部進学で大学へ行き、公務員を目指すか親の事業を継ぐというようなことを云っていた。僕も漠然とそれが最良と思っていた時期があった。
でも佐伯さんに出会ったときに、何かが違う、本当にそれでいいのか、と考えるようになったのだ。
僕も佐伯さんも、中高一貫の私学に通っているという点では一緒で、中高の在学時の成績に問題がなければ、外部からの受験生に較べてずっと有利に大学進学できるというのも同じだった。それを捨ててまで他大学を受験するというのは、リスクを背負ってでもやりたいことがあるからできることだ。僕はやりたいことのために何かを捨てるという決断をしたことがない。だから佐伯さんのその姿勢をすごいなと思った。そして羨ましいとも思った。そう、僕には夢がないから。
何か欲しいものがあるなら云いなさい。
違う。そうじゃない。与えてもらいたいんじゃない。
僕は感じ取りたい。何かのために時を忘れたい。心をふるわせたい。これなら、と思える夢の片鱗を見つけたい。命を縮めても構わないと思えるような。
シャワーを止めて、バスルームを出る。扉一枚を隔てたリビングでは、母がまた誰かと電話をしているようだ。
タオルに手を伸ばしたとき、自分の半身が洗面台の鏡に映り込んだのを見て、僕は眼を逸らした。それからスウェットに着替えて、歯を磨き、母の電話が終わらないうちに、二階へと退散した。
どうして絵を描くの、という愚かな質問を、かつて僕は佐伯さんにしたことがある。
『それしかないからかな』
『そんなことないでしょ』
『どう答えたらいいんだろう。でもほかのことは考えられないよ』
それだけだった。僕は、きみのことも考えられない、と云われたように感じて、勝手に傷ついていた。そんなふうに受け取ったのには理由がある。
お互いの気持ちを確認したあとも、僕たちの関係は友情の極限から動かなかった。佐伯さんのふとした眼差しや思いやりから愛情を受け取ることはあっても、いざ恋人らしい触れ合いにもっていこうとすると、
『そういうことは受験が終わってから』
の一点張りで、決してそれ以上先に進もうとはしなかった。もともと、僕もそこまで積極的な性格ではないのと、受験生に不要なストレスを与えてはいけないという思いから、僕は佐伯さんの意向を尊重することにした。それに、
『志望校に合格したら、ちゃんと付き合おう』
という彼の言葉を信じてもいた。
事実、佐伯さんほどストイックな人に、僕はこれまでの人生で出会ったことがない。筆がのっているとデートの約束をしていてもキャンセルされてしまうし、携帯電話にメッセージを送っても返信がないことはしょっちゅうだった。自宅敷地内にアトリエを持っていて、学校と画塾に行く時間以外はほとんどそこで絵を描いて過ごしているような人だった。僕は何度もそこを訪ねていった。今でも絵を描くあの人の背中が脳裏に焼きついて離れない。祈るように絵を描くあの人の背中。あとから、兄の背中に似ているのだと気づいた。
その二日後の水曜日、いつもの通り、僕はフロアを理央に任せて食器を洗っていた。すると、いきなり正面から、
「時丘くん」
と呼ばれ、僕は驚いて顔を上げた。食器の返却口のところに、見覚えのある顔が覗いていた。
「那智さん?」
会うのは二度目だったが、自然と名前が口からこぼれた。
「さんはいいって。良かった、今日はいないのかと思った」
「はあ、すみません……」
「珈琲お願いしてもいい?」
「あ……はい」
そこから近い席に那智くんは腰を下ろした。僕は洗い場用の手袋を外してカウンターへ向かい、カップを選んで珈琲を注ぐ。
そういえば最初に会ったときにも、同い年だから、さん付けはいらないと云われたっけ。
試しに喉の奥で、那智くん、と呼んでみる。その響きはすごくしっくりくる気がした。
とはいえ、いくら同い年でもやっぱりお客様に、くん付けで呼びかけたりするわけにはいかないな、と考え直す。ただ、僕は那智くんの親しみを込めた態度に少し途惑ってはいたものの、馴れ馴れしいとか厚かましいとかはまったく思わなかった。まるで旧友に再会したかのような安心感を彼は与えてくれる。僕がうまく会話できなかったのは、理央に見られていたからだ。
伝票を切り取り、珈琲やミルクをトレイに載せて持ち上げようとしたところ、カウンターにやって来た理央がそれをさっと持って行ってしまった。
「あ」
「何ですか?」
「ううん……それ、五番テーブルなんだけど」
「知ってます」
理央はつんとした態度でその場を離れた。僕は諦めて洗い場へ戻るしかなかった。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
那智くんの顔をかすかに覗き込むように理央は小首を傾げて笑顔を送った。可愛げを売りにできる理央だから似合う手法だ。その様子はすべて僕がいるところから見えていた。
理央はこの店に入ってくる人間をすべて自分の客にしてしまわないと気が済まないらしい。今のような牽制はいつものことだ。返却口越しに那智くんと交わした、短いやりとりでさえ、気に入らないのだろう。一年かけてそれなりの信頼関係を築いた常連客は、今やみんな理央のものになってしまった。そういうことはどうしようもない。世の中には人の心を吸い寄せるのがうまい人間がいて、僕はそうではないというだけだ。
そして、一度近づいてきてくれた心も、ずっと傍にいつづけてくれるとは限らない。あの人の心も、わずか半年で僕から離れてしまったのだから。
理央が退店した客のテーブルを軽やかに片付け、返却口に次々と食器を置いていく。洗い終えたと思ったら置かれるのでいつまで経っても、シンクのなかは空にならない。もう少し早く洗い終えたらいいのだろうけど、この店のカップはすべて一つとして同じものがない奥さんの作品で、万が一割ったりしたら同じものは二度と手に入らないから、どうしても気を遣ってしまう。
僕が食器を洗っているあいだ、那智くんは学校のワークブックらしきものに取り組んだり、それに飽きると何かの画集を眺めたりしていた。ケーキのショーケースを拭くためにカウンターの外へ出たところ、一度だけ那智くんと眼が合った。にこにこと手を振ってくる彼に対し、僕はふきんを持ったまま軽く会釈を返す。入店してから三十分ほど経ったところで那智くんは画集を閉じて席を立った。そして珈琲カップを返却口まで持ってきてくれた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。でも、うちはテーブルに置いたままでいいんですよ」
「うん、でも時丘くんに声をかけてから帰ろうと思って」
僕は内心ちょっと途惑いながらも、なんとか微笑んだ。せっかく向こうが親しみを見せてくれているのだから、ちゃんと応えなければと思った。
「わざわざすみません。またいらしてくださいね」
「うん、明後日また来る」
レジには理央が立っている。僕のいる位置からは理央の背中しか見えないけれど、
「ありがとうございまーす」
という彼の明るい声色から、完璧な笑顔が想像できる。僕は胸が塞がれるような自己嫌悪に陥りながら、再び蛇口をひねって水を出す。
那智くんという人は、きっと、知り合った人には誰にでも親切なのだ。普段から気さくで人懐こくて、誰に対してもフラットで、クラスでも部活でも人気者なんだろう。
実は佐伯さんと出会う前まで、僕が最も惹かれる人間が彼のようなタイプだった。いや、本当は今でもああいう同性には弱い。佐伯さんだけが、たまたま特別だったのだ。
そうだ。那智くんは僕が佐伯さんの知り合いだったから、仲良くしようとしてくれているだけだ。
胸のなかに那智くんの笑顔が住みつきそうな気がするのを振り払い、僕は返却口に置かれたカップを引き寄せて水に浸けようとした。
そのとき、カップとソーサーのあいだに折り畳んだ紙が敷いてあることに気づいた。端っこの見える部分に、
【時丘くんへ】
と書いてある。手袋を外して紙切れを開いてみる。どうやらクロッキー帳を切り取ったもののようだ。
【佐伯さんのことで話したいことがあります。良かったら連絡ください。那智】
その下にはメッセージアプリのIDが書かれていた。