僕の首の後ろには、ちょっと大きめのほくろがある。
 自分では気づかない位置にあるので、一年ほど前に人から指摘されるまで気づかずにいた。膨らみはないが、色が濃いのだという。気になって合わせ鏡で確認すると、確かに首の少し下の方に二ミリほどの黒っぽいほくろが見つかった。意外だったのは、そのほくろの下に、もう一つ、同じ濃さの二つ目のほくろがあり、更にそれとまったく同じ間隔をあけて三つ目のほくろが存在していたということだった。普段、人から見えるのは、襟からのぞく一番上のほくろだけだ。
 服の襟から背中を覗き込んだ恋人が、
「オリオン座の三つ星みたいだな」
 と云ったのを憶えている。

 そう、あれは去年の夏のことだったなと思い出す。あの人が僕の背中の三つ星を見つけたのは確か八月だった。今は六月だ。去年の六月はどんなだっただろうか。そうだ、雨の多い夏のはじまりだった。僕が傘を貸して、あの人が笑った美しい雨の日。
 今年は、去年ほど雨が降らない。思い出したように、どしゃ降りになる日もあるが、細く長く続く梅雨らしい雨の日はやってこない。今年は空梅雨になるだろうとどこかで聞いた。
 去年とは違う夏のはじまりが、僕にもうあの人はやってこないと告げている。

 かろんかろん、と木製の扉につけたベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
 と理央(りお)の明るい声がフロアに響く。僕は洗い場から顔を出して、お客さんを見た。やってきたのはこの近くにある着付け教室に通う常連客の女性だった。
「あっ、鈴木さぁん」
「こんにちは、理央くん」
 鈴木さんがやってきたということは、午後四時を過ぎたな、と僕は壁の時計を確認する。そろそろ、僕は休憩に入る時間だ。
「今日は着付け教室のお友達も連れてきたの。私入れて六人。大丈夫かしら?」
「もちろんですよー。ありがとうございます」
 理央の声が微妙に変化したが、それは鈴木さんにはまったく気取られることのないほどのものだった。間もなく扉の外に控えていた和服の女性たちがわらわらと入ってきた。
「お席くっつけて広くしますね。ちょっとだけお待ちくださーい」
 明るく元気よく応対する理央を、孫でも見るように女性たちは眺めている。手伝うほどでもないと思いつつも、一応、僕も彼の方を気にしてやる。たまに理央が目配せで出す無言の指示に僕が気づかないでいると、彼はひどく不機嫌になるから。だからといってこちらが気を回して求められていないときに手を出すと、それはそれで余計なお世話だという態度を彼はとるのだ。
 この店のフロアは現在、今年の四月に新しく入ってきた戸川(とがわ)理央の天下となっている。理央は僕より一つ年下で、近くの公立高校に通う一年生だ。もちろんアルバイトは初めてなのだが、そうは思えないほど明るくて感じのいい接客をする。お客さんの名前を覚えるのが早い。笑顔を惜しまない。言葉を濁さない。接客のテンションにぶれがない。表情が豊かでおまけに童顔で身長も一七〇センチに届かないくらいなので、何となく可愛がりたくなる人の気持ちも分かる。今や、常連客のほとんどは男女関係なく理央の顔を見たくて来店している。
 席につくと、女性客たちは注文より先におしゃべりをはじめた。
「鈴木さんの云う通り、素敵なお店ねえ」
「ほんと、こんな喫茶店があるなんて知らなかった」
「ここのおすすめはチーズケーキなの。良かったら是非頼んでみて」
「当店の人気商品なんですよ。かなり濃厚なベイクドチーズケーキなんですけど、週末だとお昼過ぎにはぜんぶなくなっちゃうぐらいで」
 理央がそう説明すると、何故か鈴木さんは満足そうな表情を浮かべて友人たちを見た。
「そうそう。この理央くんね、いつ来ても感じのいい店員さんなのよ。チーズケーキと同じくらい、私のお気に入りなの」
「ありがとうございます。理央でーす。宜しくお願いしまーす」
 まったく、お客さんに下の名前で呼ばせるなんて。店長は気にしていないけれど、僕だったら絶対にしない。というか、誰にも呼ばせたいとは思わないのだけれど。
 (なぎさ)という自分の名前が嫌いになった理由は、小学生のとき、図体と声ばかりでかいクラスメイトに、
『女の名前じゃん』
 とからかわれたことがきっかけだ。その静かな笑いは緩やかに、しかし確実に友人たちに伝染していき、徐々に僕をちゃん付けで呼ぶクラスメイトが現れはじめた。からかいながら僕を一段低く見るような空気に僕は辟易していた。流石にこの歳になって人の名前をからかうような人間はいないだろうけれど、僕は未だに下の名前を名乗ることに躊躇してしまう。
『いい名前だと思うけどな。じゃあ二人のときだけ、渚って呼ぶよ』
 あの人の声を思い出して、すうっと胸が苦しくなる。
 あの人には、もう一度名前を呼んでほしい。
 嫌いだった名前が、あの人が呼ぶときだけ、まったく違って聞こえた。
 たとえどんな喧騒のなかでも、あの人が僕の名前を呼んでくれたら、聞こえる気がする。
 今でも。どこにいても。
 でもたぶん、もう彼が僕の名前を呼ぶことはないんだろうと思う。
「オーダー入りました」
 カウンターに戻ってきた理央は、僕の顔を見ずに素っ気なくそう云うと、実に緩慢な動きでアイスコーヒーやアイスティーをつくりはじめた。彼は手間のかかるオーダーをつくりたがらないので、カプチーノやシナモンラテなどは僕が急いで取りかからなければならない。
 結局、ほかの僕が四人分の飲み物をつくり、六人分のチーズケーキを皿に並べた。僕がトレイに最後の皿を載せた途端、理央は急かすようにそれを手に取った。フロアに出て行く直前、別人のような完璧な営業スマイルに切り替える様には、いつもながら感心してしまう。
「お待たせしましたぁ。ベイクドチーズケーキとお飲み物です」 
 僕は黒子のようにあとからついて行き、飲み物が配られた客から順にケーキの皿を置いていった。
「これね、一見、小さいケーキだけど、意外と満足感あるのよ」
 と鈴木さんが云うと、
「実はこれ、広島の完熟レモンを使ってるんですよお」
 と理央がすかさずつけ加える。
 うちで出しているケーキはすべて洋菓子の製造工場から仕入れているものだが、理央はちゃんとそのカタログを読んでいるらしい。そうか、こういうときのためなのかと納得する。
 カウンターに戻ると、洗い場の奥にあるバックヤードから、既に着替えを終えた店長が顔を覗かせた。
時丘(ときおか)くん、じゃああとは任せたからね。お疲れ様」
「あ、はい。お疲れ様です」
 店長は大抵夕方五時前後になると退勤してしまう。いつもは閉店時刻の八時半までいることが多いが、今は奥さんがいないので仕方ないのだ。
 ここは店長とその奥さんが約十年前に開いた喫茶店だ。駅から少し離れた、こじんまりとした店ではあるが、陶芸家でもある奥さんのつくった食器や置物が店内を飾り、温かみのある雰囲気をつくり出している。店の表には、青い瞳をした陶器の猫が鎮座していて、お客さんの眼をひいてくれる。一つとして同じものがない珈琲カップやケーキ皿はこの店の魅力で、僕も気に入っている。
 奥さんは普段、開店の朝八時から午後三時頃までは店長と共に店を回しているが、二日前から実家へ帰っている。毎年この時期はいない。去年もそうだったのだが、六月の下旬から八月の二十日ぐらいまでは、陶芸家として秋の展覧会に出品する作品の追い込みにかかるため、人里離れた実家のアトリエにこもるのだという。
 だから、店長は僕たち学生アルバイトが夏休みに入るまでの約半月、自分の子供たちを保育園に預けてから店へ出勤し、朝から昼まで一人で店を回さなければならない。午後に僕たちがやって来ると事務処理に入る。もっとも、そこまで忙しい店ではないから、毎年何とかなっているのだと思うが。
 そんなわけで五時以降に夜八時半に店を閉めるのは、僕と理央に任せられているのだった。
 少しして鈴木さんたちとのおしゃべりを終えた理央が僕のいる洗い場にやって来て、
「俺、先に休憩もらってくるんで」
 と碌に僕の顔を見ずに云った。彼は僕に対してはいつもこうなのだ。彼よりも僕の方が一つ年上で一年長くこの店で働いているのに、あからさまに軽んじられている。たった一人のアルバイト仲間とうまくいかないのは、僕に何かしら足りない部分があるからなのだろうと初めはうろたえていたけれど、最近はもうそのことについて考えるのはやめた。世界には自分の力では変えられないことがあって、他人の心というのがその一つなのだ。
「はい、行ってらっしゃい」
 理央は携帯電話と、自分でグラスに入れたジンジャエールを持ってバックヤードの方へ姿を消した。それとほぼ同時に、かろんかろん、と音を立ててまた扉が開き、次の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 反射的にそう声を出したが、理央に較べると僕の声は何て響かないんだろうと思う。この三か月間、接客をする機会も減っているから、一人のときはミスをしないか、ちゃんと笑えているかと、少し不安になる。しかし、そんなことは云っていられない。気合いを入れて、笑顔をつくる。
 ところが、カウンターを出て入口の方へ向かった僕の足は、たった今入ってきた客の傍へ行きつく前にぴたりと止まってしまった。
「一人なんですけど」
 その客は、僕と同じ高校生だった。一目で分かったのは、彼が制服を着ていたからだ。僕はその制服をよく知っている。あの人の制服だ。
 佐伯(さえき)さん。
 そう心のなかで呼びかけて、口を開きかけた次の瞬間、
「あのー……もしかして勝手に座っちゃっていい感じですか?」
 という屈託のない声に理性が呼び戻された。待て、違う、制服が同じなだけだ、とすぐに思い直した。
「あっ……はい、ええと、こちらへどうぞ」
 一番奥の空いている席に案内すると、彼は、どうも、と云って腰を下ろした。
「お冷お持ちしますので、メニューご覧になってお待ちください」
 僕はそう告げてから水とおしぼりを取りにカウンターへ戻った。
 馬鹿だ。
 佐伯さんは来ないと分かっているのに、もしかしたら、と毎回思ってしまう自分が情けない。
 確かに制服は同じだけれど、背格好も顔も声も全然違うじゃないか。第一、佐伯さんが今現れたとしても、制服で来るわけがないのだ。あの人は三月で高校を卒業して、今は大学生のはずだ。希望の大学に受かったのかどうか、僕は聞けないまま別れてしまったのだけれど。
 水の入ったグラスとおしぼりをトレイに載せ、先ほどの学生のテーブルへ持って行った。
「失礼します」
 水とおしぼりをテーブルの上に置いている最中、その学生は僕の襟あたりを見ていたが僕はさほど気にしなかった。
「ご注文お決まりでしたらお伺いしますが」
「ええと、じゃあ、珈琲をお願いします」
 そう云って彼は僕の眼を見て微笑んだ。髪型は今風にしているが、表情に素朴さが感じられる。答え方も丁寧で、しかもその声色にはこの人の持つ快活な気質がにじみ出ていた。珈琲、などとぞんざいに云い放つ客もいるなか、たまにこういうお客さんが来てくれると嬉しくなる。
「はい」
 と返事をしたとき、自分の声がいつもより明るくなっていることに気づいた。それは、誰かと眼を合わせて会話したのが、ものすごく久しぶりだったからだ。
 その学生は、三十分はいたと思う。鞄のなかから取り出した何かの書類をテーブルの上に広げ、そこに何か書き込んでいた。時折、彼は顔を上げて、店内を確認するような素振りを見せた。珈琲のおかわりかトイレの場所の確認だろうかと思い、近くを通ってみたが呼び止められることはなかった。
 五時を少し過ぎたところで、彼は席を立った。タイミングを合わせて、僕もレジへ向かう。
「ありがとうございます。伝票お預かりします」
 僕がレジを打って金額を出すと、
「これで」
 と、その男子高校生は財布から現金ではなく、珈琲チケットのつづりを取り出してきた。
 これはちょっと意外だった。このチケットは常連客限定のもので一見さんには販売していない。何度か来店してくれているお客さんのなかでも、うちの店のルールと雰囲気を尊重してくれそうな人にだけ、僕たち店員側からそっとおすすめするというかたちをとっている。だから、店内に貼るポップなどでは告知していない。このチケットだと、メニューに書かれている値段より一杯あたりの値段が安くなる上に、十杯分の値段で十一杯飲める。
 僕は、お預かりします、と云ってチケットを受け取った。
 僕は理央ほど人の顔を憶えるのが得意なわけではないが、常連客かそうでないかの見分けぐらいはつく。特にうちは制服を着た男子高校生が一人で入ってくるのは珍しいので、何回か来店していれば記憶にあるはずだと思う。
 このお客さんは誰かからチケットをプレゼントされたのかもしれないな。
 店としてはなるべく購入した常連さん本人に使ってもらいたいのだが、誰かに譲渡するのを制限することはできない。チケットが有効期限内であればそれでいい。
 ところが、受け取ったチケットの裏面を見て、僕は愕然とした。そこには、僕しか分からないしるしが入っていたのだ。
 これはあの人のものだ。僕が佐伯さんに贈ったものだ。
 ということは、この客は佐伯さんの知り合いなのか?
 僕は眼の前の客を少し観察してから、最大限の自然さを装って話しかけた。
「すみません、こちら、いつ頃ご購入されたものでしょうか?」
「これですか?知り合いからもらったものですけど」
 彼は気さくな雰囲気のまま答えた。
 もらったと云うのであれば間違いない。同じ学校の制服。この人は、佐伯さんを個人的に知っている。
「え、もしかして使えない?」
 訊かれて僕は慌てて首を振った。
「いいえ、あの……裏面に汚れがあったので。もし気になるようでしたら、つづりごとお取替えしますが」
「どれ?ああ、この青いのね。別に気にしないので、使えればいいですよ」
「恐れ入ります……ええと、ポイントカードはお持ちですか?珈琲チケットご利用の場合でも、一ポイント押させていただきますが」
「じゃ、もらっとこうかな」
 僕が同い年ぐらいだと彼も察しているからだろう。少しくだけた感じを見せた。
 僕はポイントカードにスタンプを押し、日付を記入して、発行者の欄に自分の苗字の印を押した。それを見た客が、あれ、と呟いた。
「時丘さんて……もしかしてあなた、ですか?」
「えっ?」
 突然、じっと見つめられてどきりとして僕は動きを止めた。
「良かったあ、もし今日いたら、声をかけようと思ってたんです。でも名札つけてないから分からなくて」
「あ、名札は今年の四月から廃止したので……」
 つい律儀に説明してしまう。いや、そうじゃなくて、と直後に思い直した。
「あの、どうして僕の名前……」
「ああ、突然すみません。このチケットをくれた知り合いから、時丘さんの名前を聞いていたので」
「えっ」
「佐伯さんっていう人が、今年の初めぐらいまでよくここに来てたと思うんですけど。佐伯(じゅん)。俺の先輩なんです。憶えてないかな?」
 その名前を聞いただけでやはり呼吸が苦しくなった。
「……はい、あの……憶えてます。確かに以前、よくいらしてました」
「ああ、やっぱり」
 先ほどから感じのいい人だったが、今ははっきりと笑顔を浮かべていた。
「時丘さんていう、親切な店員さんがいるって聞いてたんです。佐伯さん、自分はもうこの店には行けないからって、卒業するときに余った珈琲チケットをくれて」
「そう、だったんですか」
「ほんとはこのチケット、常連さんじゃないと買えないんですよね?俺が使っていいのかなとは思ったんですけど」
「それは、もちろん……是非使って頂いて」
 僕はポイントカードを手渡す動作に紛れて何気なく訊ねた。
「佐伯さんはお元気ですか?」
「だと思いますよ。大学が忙しいみたいであんまり連絡とれないけど」
 そうか、元気で大学生活を送ってるんだ。
 心の凍りついていたある部分が、ほんの少し温かみを帯びた。第一志望だった大学に合格したのかどうかも知りたかったが、店員の立場でこちらから訊くのはためらわれた。
「佐伯さん、画塾行く前にここに必ず寄ってたんでしょう?俺も美大志望で、来月から佐伯さんが通ってたのと同じ画塾に入るんです。だからここにも寄ってみようと思って」
「そうなんですか……」
「あ、すみません。名前云ってなかった。俺、ナチっていいます。こういう字」
 彼はレジカウンターにあったペンを使い、ポイントカードの『Name』という欄を大幅にはみ出して【那智(なち)】という二文字の漢字を書いた。
「那智さん、ですね」
「さんはいらないかな。だって実は同い年だよね?佐伯さんから聞いてる」
 人懐こい笑顔で、彼は言葉遣いを崩した。ついさっき知り合ったばかりなのに、嫌な気はしない。むしろ親しみを覚えるのは、表情に裏表のなさを感じるからだ。とってつけたような理央の笑顔とは違う。
 あなたは今も佐伯さんと連絡をとっているんですか?
 そう訊こうとしたとき、タイミング悪く、鈴木さんとその連れの人たちがぞろぞろと席を立ち、会計へやって来るのが見えた。
「それじゃあ、また来ます」
 那智と名乗るその学生は、最後にもう一度、はっきりと僕と視線を合わせてから、店を出ていった。かろんかろん、と彼の背後でベルが鳴る。まもなく僕は、鈴木さんたち六人分の個別会計に追われることになった。
 佐伯さんの後輩か。
 さっきの人は佐伯さんとは全然タイプが違うように見えるけれど、チケットを譲られるぐらいだから、そこそこ仲は良かったのだろう。そういえば、佐伯さんから学校の人間関係について聞いたことはほとんどないな、と思う。
 佐伯さんは一見するとちょっと近寄りがたい雰囲気で、お世辞にも表情豊かな人とは云えない。けれど、でも話すととても優しい人だから。それが分かる人にはとても好かれると思う。

 僕が佐伯さんと知り合ったのは去年の四月だった。彼は僕が店で働きはじめる前からの常連客で、決まって週に月、水、土の三回、五時からまでのあいだに現れた。そして珈琲を注文したあとはいつも難しそうな美術書を読んだり、クロッキー帳に描き込んだり、時折自分のスケッチブックに手を加えたりしていた。
 初めのころ、僕は佐伯さんが着ていた制服ばかりに気をとられていた。それはかつて兄が受験した、第一志望の高等部の制服だったからだ。
 僕には離れて暮らす二つ年上の兄がいる。兄は都内でも指折りの進学校に通っていて、僕とは頭のできが違う。昔から母のお気に入りは兄で、僕はおまけみたいなものだった。でも優秀であるということは兄を幸せにしなかった。
 両親が中学受験を半ば強制的に勧めたときも、兄はやる気を見せていた。が、やればやっただけ結果を出す兄に対し、母は過剰な期待をかけ続け、父の制止にも耳を貸さずに追い込んだ。結果、兄は第一志望に不合格、第二志望で受けていた中高一貫の進学校に入ることになった。母は失望を露にし、それが兄を更に傷つけたことは云うまでもない。見かねた父は兄の学校の近くにマンションを借り、兄だけを連れて出て行ってしまった。離婚はしていないが、兄の受験に対する考え方の相違が原因で、夫婦関係が破綻していることは僕も知っている。ただ、僕たちが学生のうちは終止符を打つ気はないのだろう。
 常連客の佐伯さんの制服を眼にするたび、僕は連絡をくれない兄に思いを馳せていた。
 兄だったら絶対に受かったはずなのだ。この人と同じ制服を着られたはずなのに、連日の体調不良と、当日の激しい緊張感のために実力を出せなかっただけなのだ。
 佐伯さんは、雰囲気が少し兄に似ていた。人を寄せつけない表情もそうだが、何となく後ろ姿が似ている気がした。
 あるとき、スケッチブックを開いていた佐伯さんに、後ろの席にいた大学生と思われる女性客が話しかけているのを見たことがあった。こんな人に話しかけられたら、男はみんな嬉しいだろうな、と思うような可愛らしい雰囲気の女性だった。
『絵、お上手なんですね』
 彼女は友人たちと来ていて、入店したときからちらちらと佐伯さんを気にしていた。彼女が絵ではなく、佐伯さんに関心を持っていることは見ていて分かった。佐伯さんは声をかけてきた女性の方を振り返ると、軽く会釈をしたが何も云わなかった。
『さっきから見ててすごいなって思ってたんです。美大生なんですか?』
 佐伯さんは土曜日だけは私服で来ていたから、恐らく彼も大学生だと思われたのだろう。
 彼女の質問に佐伯さんは、いえ、と短く答えた。
『え、違うんですか?すみません、すごく素敵な絵だったからてっきり……』
『ありがとうございます。でも、覗くのはやめてください』
 女性の笑顔が凍りついたのを見てしまった。佐伯さんの事務的な態度は照れ隠しなどではなく、踏み込むなという警告の表れであることはすぐに感じ取れた。僕は単純に彼を怖いと思い、決してこの人に余計な会話は持ちかけないようにしようと心がけたのだった。
 そんな僕たちの関係性が変化しはじめたのは、六月のある雨の日がきっかけだった。
 その日は朝からずっと晴れていたのに、四時を過ぎたあたりから徐々に雲行きが怪しくなり、佐伯さんが珈琲を呑み終える直前に雨が降りはじめてしまった。ぱらぱらと窓枠を打つ大粒の雨音に反応して顔を上げたのは、僕も佐伯さんも一緒だった。
 そのとき、たまたま僕は佐伯さんの向かいの席のテーブルを拭いていたところで、店内にはほかのお客さんや店長もいなくて、ほぼ同時に同じ行動をとったお互いの存在が視界に入っていたから、そのあと自然に眼が合ったのだと思う。
『降りはじめちゃいましたね』
 そう声をかけてきたのは佐伯さんの方だった。まさか彼の方から喋りかけてくるとは思わなず、僕は少し反応が遅れた。すぐに営業用の笑みを浮かべて、
『あ……ですね、困りましたね』
 と再び外を眺めながら応えた。窓から視線を戻したとき、もう一度佐伯さんと眼が合った。すぐに眼を伏せて、かすかに笑みを浮かべる表情を見ていると、なぜだか胸が掴まれたようにうまく呼吸ができなくなった。同時に、もしかしたら思っていたほどこの人は怖くないのかもしれない、とも思った。
 とはいえ、まだこのときは緊張感が抜けなくて、次に何を喋っていいのか分からなかった。それで咄嗟に、
『良かったら、お帰りの際はうちにある傘をお貸ししますが』
 と僕は申し出た。
『いいんですか?』
『はい、取ってきますね』
 確かバックヤードには忘れ物の傘が山ほどあったはずだと思い、僕は安請け合いした。だが実際にそれらを手に取ってよくよく見てみると、そのほとんどが埃をかぶっていて、どこかしらに傷や汚れがあった。仕方なく、僕はロッカーに置いてあるまだ新しい自分のビニール傘を取りに行って佐伯さんに貸し出した。
『ありがとう、助かります。明後日、返しに来ます』
 佐伯さんとまっすぐに向かい合ったのは、そのときが初めてだった。なんて濃い瞳の色をしているんだろう。珈琲よりも深い黒の二つの眼。彼が店を出て行ったとき、僕は傘と一緒に自分の心の一部も連れて行かれたような気がした。
 その雨の日を境に少しずつ、僕と佐伯さんは店で言葉を交わすようになった。夏休みがはじまる前には、僕たちはいい友達になっていた。夏の終わりに、恋がはじまった。そして年が明けてすぐに起きた、あることが致命傷となって、それきり僕たちは会わなくなった。去年の今頃は佐伯さんとどんな会話を交わしていたか、二人でどこへ行ったか、最近は店でそんなことばかりを考えている。
 その日、閉店後にレジ閉めをしているときのことだった。受け取った珈琲チケットの枚数を確認していて、改めて、今日やってきた那智という客のことを思い出した。
 佐伯さんが通っていたのと同じ画塾に入る。確かそう云っていた。じゃあ、きっとあの人も絵が上手なんだろうな、と思う。
「今日来てた人、時丘さんの知り合いなんですか?」
 後ろから理央にそう声をかけられて、僕ははっと振り返る。
「えっ?」
東林(とうりん)大付属高校ですよね、あの制服」
「ああ……よく知ってるね」
「電車で十五分のとこに学校あるんだから、知らないわけないでしょ。そうじゃなくたって、あそこ、超有名進学校だし」
 フロアの掃除を終えた理央は、冷蔵庫からレモンティーを取り出し、グラスに注いだ。
「で、友達か何かなんですか?時丘さんに会いに来た感じ?」
「いや、そんなんじゃなくて、知り合いの知り合い、みたいな。でも今日が初対面だよ」
「初対面?えーそれにしちゃ、めちゃ楽しそうに喋ってたじゃん」
 そんなに興味を持たなくてもいいのに。理央は唇に笑みを浮かべてはいるが、接客しているときとはまったく違う。
「愛想のいい人だから、そう見えたのかも。この近くの画塾に通いはじめたから、ここにもたまに寄るかもって挨拶してくれただけ」
「ガジュク?」
「あー……美術専門の予備校のことだよ。主に美大受験する人が行く」
「美大?うわ、金かかりそう」
「そう、なのかもね」
「はいはい。いいですよ、別に合わせなくて」
「そんなつもりはないけど」
「そうでしょうね。じゃあ、お疲れでーす」
 最後の方は笑っていなかった。理央はバックヤードに消えてしまった。