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 昇降口の掃き掃除を終えて階段を上っていると、
「あれっ」
 すれ違いざまに小島が呟く。
「岩崎、生徒玄関の掃除は?」
「終わったけど」
「え、もう?」
 こいつ本当に掃除したのかよ。してないだろ。サボったな。
 そういう類の嫌疑がかけられている言い方だったので、
「……ちゃんと裏にゴミ捨てまでしてきた」
 先手を打って言いがかりを潰してやった。すると小島は感心したように、
「へぇ、早。仕事できんじゃん」
 と、大股で階段を下っていく。
 本来はお前が担当する掃除だったんだからな──
 岩崎は後ろを振り返って奥歯をぎりぎりと噛んだのだが、はっとする。
 こいつの意地の汚さに構っている暇はない。
 自分には早く下校しないといけない用事があること。思い出してさっさと階段を進んだ。
 教室に戻って向かうは自席。置いていた鞄を開けると、誰もいないことを確認し、ナイロン製の暗闇の中でこっそりスマホを起動させた。
 [今からそっち行きます]
 短く入力して、紙飛行機のボタンを押す。送信先は佐古田だ。
 初めて勉強会を開いたあの日、自分と佐古田は連絡先を交換した。
 意外なことに、それは佐古田からの提案だったのだが、
 ──あんた、どうせ自分から言い出せないんでしょ
 と、QRコードを仰向けに差し出された。
 知り合って間もないのに、自分の扱いをよく熟知しているものだ。
 よくわからない視点で感心しながら岩崎はスマホを取り出し、ありがたくその白黒を読み取らせてもらった。

 *

 思い出すと、猛烈に恥じ入りたくなる。
 コンビニにて佐古田と誰かの通話内容が聞こえてきたとき、定時制高校を柄が悪そうという印象に結び付けてしまったこと。
 岩崎にとっての佐古田がいちドラッグストア店員であったとき、チャラそうな若者と見た目だけで判断したこと──
 最初に男と会った日から二週間ほどが経った。
 男とは放課後に週二回程度の頻度で会っている。その勉強会一回につき、二、三度。岩崎はチラ見で前方にいる佐古田の様子を確認する。
 疑念を抱くのだ。長時間、あまりに静かにしているから。もしかして寝ているんじゃないか、ノートに落書きでもしているんじゃないか、と捻くれた自分が思うのだ。
 しかし岩崎の予想はことごとく外れ、ただの失礼な言いがかりになる。
 こっそり正面を盗み見るとき、佐古田の視線はいつも教科書やテキストに落ちている。プラスして唇を尖らせ、小さな声で何かを呟いていることもある。
 それは思考の過程なのか、書かれている内容の音読なのか不明だが、どちらにせよ岩崎に見られている自覚がないからできるんだろう。すごい集中力。
 夕方四時から、佐古田が学校へ向かうまでの約一時間。
 開店前の居酒屋は誰もいないみたいだ。
 目的は勉強なので雑談で盛り上がることはないし、そもそも自分は人見知りだから佐古田に話しかけられはしない。自分たちが会話するといえば佐古田が話しかけてくるとき。それも、設問のわからない部分を岩崎に質問するタイミングだけだ。だから、
「……え」
 ドサッと、いきなり手元に置かれた少年漫画。十冊はありそうなタワー。頂上の一冊が滑り落ちそうで、岩崎は慌てて保護した。
「退屈でしょ」
「これ──」
「読んでいいよ」
 男が置いた漫画の表紙をじいっと見る。少年漫画の単行本だ。
「俺に?」
 たずねると、下から掬い上げるみたいに顎先を動かして佐古田はうなずいた。
 そういえば数分前。佐古田はふらりと席を立ち、店の奥のどこかへ消えた。
 目的を岩崎に告げずに離れたけれど、特に行方は気にしてはいなかった。トイレだろうか。それくらいに考えていた。
「俺が勉強してる間、あんた気遣ってスマホ触んないじゃん」
 さらりと男が言った。驚きとある種の気恥ずかしさで、耳が赤くなるのを感じる。
「知ってたの?」
「まぁな」
「よく見てるんだ」
「いや、そんなん目の前でぼうっとされたら誰だって気になるし」
「……」
 自意識過剰。炙り出してしまった意識があるのか、佐古田は空気を換気するみたいに、ぱっと笑った。
「それ読んだことある? 超おもろいよ」
「ありがとう。楽しみ」
 うんうんと佐古田がうなずくのを眺めたところで、あっ、と思いつく。
「今日はないんだけど、宿題がある日はここで済ませて帰っていいかな? 勉強の邪魔しないから」
「全然。俺が代わりに解いてやってもいいよ」
「……」
「いや、何か言えよ」
 佐古田はそうツッコミを入れて、
「はい、もうおしまい。没収」
 がばっと椅子から立ち上がるとクレーンゲームのアームみたいに漫画をまるごと抱え、どこかへ持って行こうとする。
「ごめん、ごめんなさい。すみませんでした」
「無理。漫画禁止」
 やめろ、嫌だ。攻防を繰り広げているうちに、腹から笑いが弾けてくる。
「やっと笑った」
 ふと、佐古田がこぼした。
「え?」
 よくわかっていない岩崎に、佐古田は自分の口角あたりを指先でつついてみせる。笑顔、と。
「ごめん」
「なんで謝んの」
「……わからない」
「あんたよく謝るよね」
「そう?」
「自分が悪くないのに謝ってたら、簡単にナメられるぞ」
 さばさばとした佐古田の口調。
「ぺこぺこ頭下げられても、こっちがリアクション困るし」
「ごめん」
「だからそれを──」
 こいつには何を言っても無駄だ。佐古田がついた息の主成分はそんな諦観で、
「いつも何をぶすっとしてんの? 感情出せばいいじゃん」
 半笑いで佐古田は言った。
 その場の雰囲気を明るくするように言ったつもりなんだろう。でも岩崎は、説教を受けているような気分になって黙り込んでしまう。
 会話運用能力の高い佐古田が、次の一手に困っている。
 うざったそうに頭を掻く仕草を目の前にして、メーターが振り切れるギリギリのところまで岩崎のストレス値は上昇した。
「……不安になる」
「不安?」
 聞き返した佐古田がこちらを向いているよう気がして、見つめ返す。
 だけどそれは数秒と持たなくて、降参するみたいに岩崎は目線を外した。
「謝らないと、不安になる」
「なんで?」
 自動オペレーションみたいな速さ。再びたずねられた。
 顔立ちからして愛嬌に溢れていて、竹を割ったような性格の佐古田。
 だけどときどき、佐古田と話していると機械相手にチャットしている気分になる。
 ストレートな言いぐさは、きっと深い考えなしなのだ。軽々と正論を突きつけることができるのは、こっちの感情を汲み取る気がないからだろう。
「……佐古田みたいに振る舞えないよ」
「俺?」
「みんながみんな、佐古田みたいにはなれない」
 裏返った。一度目はなんとか平常心でいけたのに、二度目は情けない声色になった。豆鉄砲を食らったみたいに佐古田は戸惑ってしまっている。
「思ったことすぐ口に出すって、俺には到底できない」
「どうして?」
 あれだけ切れ味良かった佐古田が困惑気味にたずねた。接し方に困る様子は、担任との面談の時間を思い出す。
「怖いから、かな」
「怖い?」
 繰り返されてうなずいた。
「昔から、嫌な役回り引き受けること多くて……あっ、俺がお人好しってなわけじゃなくて、言い返せない性格のせいでそうなってるんだけど」
 苦笑いをしてみたが変な空気になった。佐古田になれない自分が佐古田の真似をして、うまくいくはずがない。いつも通り話すことにする。
「相手に思うことがあっても、耐えるほうが楽でいられるというか」
「楽?」
「無表情は文句のつけようがないから。変な方向に受け取られたり、理不尽な目に遭う確率は下がるかなって、思ったり」
 反応を見るため、視点を佐古田のほうに向けた。
 さっきまでは岩崎の顔を見ていた佐古田だが、今は物思いにふけるように斜め下をぼうっと眺めている。だけど注目が逸れているほうが、口下手な自分には話しやすかった。
「……もともと人が苦手で。誰かと会話してても『この人は何考えてるんだろう』とか考える。余計に真顔になって、今度は悪印象になるのかもしれないけど」
 言葉が切れてしばらくしたあと。佐古田は岩崎の顔へと視点を上げた。
「わざと無表情でいるってこと?」
「意識はしてる」
「それ自分が辛くなるだけでしょ」
「え?」
「自分の気持ちにぴったり蓋してさ。そのときはそれで済むのかもしれないけど、いつか取り出せなくなったらどうすんの」
 大げさだと思ったが、
「それに、あんたに限んないよ? この人は何考えてるんだろうって、みんな心のどこかで思いながら会話してんじゃない?」
「……佐古田も?」
「当然。今もそう」
 今?
「あんたがずっと仏頂面だから、感情読めなくて困ってる」
 じとっとした目で見られ、岩崎は立場を追いやられるが──
「でも、そうやって自分のこと守ってきたんだよな」
 目線は一度も自分から離れないまま、だけど、意味合いが変わった。
 あの日と同じ温もりに、岩崎は佐古田を見つめた。
「我慢が逃げ道なら仕方ないけど、笑いたいときくらい笑えよ」
 そう岩崎に伝える佐古田の顔は優しいが、いつもの笑顔はない。真剣ということだ。
 そんな佐古田は右手を垂直方向に伸ばすと、岩崎の頭頂部に手のひらを置いた。
「楽しいときにあんたが笑って怒る奴いないって。もしいたら、そいつ頭おかしいよ」
 頭にかかる重みを感じながら、岩崎は少しだけ笑ってしまった。相変わらずのさばさばした物言いだ。
「耐えるほうが楽とか、そんなこと言うな」
 また場当たり的な発言をしているのか、それとも──
 判断はつかずに岩崎は身をよじらせ、佐古田の手から抜け出した。
 手が寂しく思え、持ってきてくれた漫画本を一冊開く。
 心にかかっていた分厚いカーテンが端に寄せられ、薄い布だけになり、それに和らいだ光が差し込んでくる。
 コンビニで佐古田と再会した日に感じた不思議な感覚。さっきは二度目。
 その正体は居心地のよさではないか。
 わかってしまった。