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勉強教えてよ。小指を絡ませたまま男はそう言い、岩崎は自分を見上げる瞳に言葉の真意を求めた。
「あんたの学校、結構偏差値高いよね」
「……え」
「有名大学に合格する人も多いんでしょ? ここらじゃ有名な進学校じゃん」
「それは……まぁ、でも」
なんとも歯切れの悪い受け答えになる。
たしかに、岩崎の通う学校はいわゆる地元の進学校。例えば近所の人に高校名を聞かれて答えたら、勉強得意なのねと反応され、ときどきポストに投入されている学習塾のチラシでも『◯✕高校 合格者多数!』みたいに広告塔として名前が載る。
だけど、岩崎の学校がポジティブな評価を受けるのは推薦入試を経て集まる国際コースの生徒が偏差値全体を底上げしているから。普通科単体で見ると県内でもそこそこの学校であり、進学実績についてもそうであるといえる。
それに。普通科に所属する自分はそのうちの、中の中の成績だ。決して優秀じゃない。
しかし男は岩崎個人のことなど一つも知らないから、
「じゃあ俺に勉強教えて」
こちらの戸惑いをよそに小指を抜き取ると、決まりねと言わんばかりの調子ですくっと立ち上がった。バニラ系の甘い匂いが再び押し寄せてくる。
「あんたの好きな教科だけでいいよ。何の科目が得意?」
「得意って……」
「もし無理なら自習に付き合ってくれるだけでもいいや」
数センチ差の視点で再び対峙した男は、うん? と岩崎に返事を催促したが、
「……ど、どうしてなんですか」
頑張って自分から話しかけた。
「どうしてって?」
ボールの壁打ちみたいに質問が跳ね返ってきた。そのあまりの早さに、首を引っ込めて身を守る亀みたいに岩崎は萎縮してしまう。
「あ、あなたの勉強に付き合うことが、ノートを破ったことの弁償になるとは思えないんだけど」
咳でむせたみたいに軽く笑ったのち、男は岩崎を一蹴した。
「だから弁償は求めてないんだって」
「でも」
「弁償とか言うな。お前が悪者になるだろ」
淡々と男は言ってのけた。
「わざとかわざとじゃないかくらい判断できるよ」
「……」
「馬鹿だけど、俺そういうのはわかんの」
男に自虐を言わせてしまった。後ろめたさでまたも下を向きそうになったが、男が微笑む気配に顔を上げる。
「俺はタダで勉強教えてもらえてラッキー。あんたはあんたで罪悪感減るんだから、なかなかフェアだって思わない?」
「そう、かな」
「物じゃだめなら、せめてお金とか言われても困るし」
いかにも、な提案だった。窮地に追い込まれた自分が苦し紛れに提案しそうな。
昨日のドラッグストアでは失礼な奴とばかり思ったが、岩崎は脳内で情報を訂正し、上書きした。見かけによらず、この男は、クレバー……と。
それが昨日のことで──
*
「……」
スマホ一台があれば相手と会話できて、声を出せない状況下でもテキストでやりとりができて、なんなら位置情報でお互いの現在を把握することができる。
片手で全てが完結するこの現代。まさか、自分がこんなにも不安な待ち合わせをすることになろうとは。
──明日の四時、店の外
指定された時間が、訪れてしまったのだ。
岩崎は男の命じた言いつけを遵守し、エビスドラッグ〇×駅前店でその到着を待っている。ここは男のバイト先。
買い物をするわけでもないのに自動ドアのそばに突っ立ち、開閉するたびに振り向いてその正体を確認する。そんな岩崎に、入退店する客はみな不審な顔を向け、過ぎ去っていく。
怪しくてすみません、と恐縮しながらも、仕方ないんですよ、と言い訳をしたい。岩崎には昨日の記憶だけが頼りなのだ。
駐車場で男と別れ、わりとすぐの段階で失態に気づいてはいた──男の名前と連絡先を聞いておくべきだったんじゃ。
コンタクトを取ろうと思えばできた。岩崎に手を振ったあと、男は電話で頼まれたメロンパンを買いに店内へと戻っていった。追いかけて話しかけるのはきっと容易かった。が、追いかけはしなかった。
まだ信用ならない、というのが正直なところだったから。
一切興味がないだろう身の上話を親身に聞いてもらい、無償で勉強を教えるという救済措置まで用意してもらい、至れり尽くせりだったくせに。薄情だろうか。
でも警戒心を抱くのは悪じゃない。今どきの若い子は初対面の人と連絡先を交換する用のSNSアカウントを持っているらしい(テレビの特集コーナーで知った)が、岩崎のスマホにそんなものは存在しない。
それに、自分たちはただの初対面じゃない。こちらは加害者、男が被害者。
連絡先を渡す、という行為に気が引けてしまうのは自然な心の働きなのでは?
だっておかしいじゃないか。勉強を教えてくれたら解決なんて、あまりに岩崎側に都合がよすぎる。
勉強は口実で、自分はこれからどこかへ連れていかれるのかもしれない。防犯カメラもないような公園のトイレ、錆び朽ち果てた廃工場、風吹きつけるビルの屋上、遠くの沖へと出るおんぼろマグロ漁船──
「おーい、俺いるんだけどー」
「うわぁ!」
声をかけられて意識を現実に戻すと、身をかがめた昨日の男に顔を覗き込まれていた。仰天した岩崎は後ろ手をついて、ヤモリみたいに壁に貼り付く。
「うるさい」
片目を眇めて男は嫌そうな顔をした。
「ご、ごめん」
冷静に注意され、怯えて目線を外す。
しかし男は岩崎を逃がさないとばかりに中腰になっては、再び視界にフレームインしてくる。
「な、何か?」
「ちょっと待って」
「……何でしょうか」
至近距離でじっと見られ、たじろいだ。表情やパーツなどの表面的なところじゃなく、真皮や皮下組織までもスキャンするような目つき。
「あんただよね?」
「え?」
「俺ら、待ち合わせしてるよね?」
この男は何を言っている。自分から岩崎を呼びつけておいて、記憶力が悪いのか?
「えっ、ノートの人だよね?」
質問の意味を考えていたら自信なさげにたずねられた。
意味が通じたとたんに、ショックだった。昨日は消毒液、今日はノート。男は岩崎をエピソードだけで覚えている。
「あんた怪我大丈夫なの?」
昨日は絆創膏してたじゃん。呆然とする岩崎に男は聞いた。
「……あぁ、一応」
男に応えながら顎に触れる。そこにある怪我の名残は、晒した傷口だけ。家の中では傷が早く治癒する絆創膏を貼っていたため、外出時に絆創膏を貼らないでいいまでの回復傾向にある。
「よかったね」
「……はい」
「じゃあ行こ」
そう言い、男は歩き出す。もしかして絆創膏も目印にされていたんだろうか──そんなことを考えていたら、男から少し遅れをとってしまった。慌てて自転車を起こし、押して歩く。
しばらく男と道を共にしたところで、ふと気になったことがある。
「行くって、どこにですか?」
「んー? 付いてくればわかるよ」
駅前をすたすた行きながら男は言うのだが、いやそれがどこなのかを俺は聞いているんですよ──
飄々とした受け答えで行先ははぐらかされるので岩崎は観念し、大人しくナビゲートされることにした。
ただいつでも逃げ出せるよう、男の斜め後ろというポジションは死守する。片手ぶん数十センチ以上の、ある程度の距離も確保。
男に気づかれないよう、リュックサックからこっそりとスマホを取り出した。危険な空気を察知したらそのときは即通報だ。警察は一一〇、救急は一一九。
あれこれと一通りシュミレーションした岩崎だったが、結局それは無駄な心配に終わることとなる。
「ここ」
立ち止まり、男は振り向いた。駅から北方面へ徒歩数分、石畳風の車道に面する建物。三階建て構造のテナントビル。
「居酒屋?」
一階部分を見て岩崎がこぼすと、男はその呟きを拾う。
「そ、俺の家」
「家?」
「自営業の息子なんだよね。入って」
自宅らしいから躊躇することなく男は店へ近づき、ガラッと引き戸を開けた。
本当にここは男の家なんだ。しみじみ建物を見上げていると、
「早く」
男に手招きされ、岩崎は急いで近くに自転車を停めた。
居酒屋という空間に来たのは人生で初めてだった。
店内に足を踏み入れたとき、真っ先に目に入ったのは奥に向かって設置された木製のカウンター席。厨房との仕切りみたいな配置になっているそれは、五、六人が横並びで座れそうな規模感。
店員が料理やグラスを置いたりするんだろう部分にはなぜか商売繁盛の熊手がぽんっと置かれており、思わず凝視してしまう。あれって、吊るして飾るものなんじゃないか?
毛筆で手書きのメニューの札がびっしり整列した壁面を見回していると、ふいに視界が暖色に切り替わる。反射的に天井を見上げれば、ぱちぱちと時間差で灯りがついていく。
入口近くにある照明のスイッチを男が操作したらしい。フロアを進みながら岩崎に声をかける。
「適当に座っといて」
「えっと……」
「あー、じゃああそこの四人がけ」
立ち往生する岩崎に、シルバーリングのはまる人差し指で男は座席を指さした。
そのあと男が店の奥へと消えていくのを見送ったのち、岩崎はゆっくりと座席に近づいて腰を下ろす。
ざっと見渡して四人がけテーブルが八つと、カウンター席。外観からの予想とは異なって、店舗は広々とした造りだった。
こういう店を大衆居酒屋と呼ぶんだろうか。壁全体がお品書きみたいにな上にビールのポスターまで貼られていて、提灯やら大漁旗やら招き猫やら、とにかく雑多な空間であるのに──なんだろう、包まれるようなこの安心感。
「あー! 誰⁉」
緊迫感。突如として空気が変わった。
「こんなところに熊手置いたの!」
つんざくような声に肩が跳ねた。止まりかけた心臓の脈を制服越しに測りながら、岩崎は声がしたほうを確認する。
振り返った先にはグレーのパーカーを身にまとい、華やかな化粧を顔に施した女の人が、仁王立ちでそこにいた。
「あんた! ちょっと!」
無造作におろしていた金に近い茶髪を一つに結びながら、その人が店の奥に向かって叫ぶ。
すると数秒後。岩崎と約束をしている男が、店の奥とフロアとを繋ぐ暖簾からひょっこりと顔を出す。「ちょっと!」と女の人が催促し、男は面倒くさそうに頭を掻きながらフロアへと現れる。
「あんたでしょ、これ落としたの」
熊手を片手に女の人は言った。
「は? 違うし。俺は落っこちてたのを拾っただけ」
「拾ったんなら、壁にかけるまでしなさいよ」
「……めんどくさ」
「あんたね、縁起物が床に落ちてていいわけないでしょうが!」
激昂した女の人が熊手をカウンターに叩きつけ、男は心底嫌そうに顔をしかめる。
「うるせぇな、縁起物そんな扱いしていいのかよ」
「あんたねぇ──」
「それとさー、今、来客中なんだけど?」
男が岩崎を顎でしゃくり、女の人はこちらを向いた。注目が集まったことで岩崎は一気に緊張してしまい、両膝に置いたそれぞれの手をぎゅっと握りしめる。
「えっ、あっ……やだ! 友達連れてきてるなら言ってよ!」
恥ずかしい……! と女の人は両手で頬を挟んだのち、片手で冗談っぽく男を叩く仕草をすると、
「どうもぉ、初めまして。ゆっくりしていってね!」
岩崎へ穏やかに笑いかけ、男と入れ替わるように暖簾のちりめん生地を揺らした。まぁ、なんと華麗な態度の変わりようでしょう。
「ごめんね、うるさくて」
店の奥で男は飲み物を用意してくれていたらしい。岩崎の前に麦茶が入ったガラスコップを置くと、正面の椅子を引いてどさっと座る。
「お姉さんですか? さっきの人」
「は? まさか」
純粋な疑問を男は鼻で笑い飛ばす。
「あれは母ちゃん」
「えっ」
「俺の母親だよ」
ほんと、と男は笑ってみせた。熊手の扱いを注意したさっきの人はどこからどう見ても三十代の女性だったが──
「本人に言ってきてやんな。多分すげぇ嬉しがる」
「わかりました」
「ちょ! ちょちょちょ」
男が勧めたことなのに、立ち上がりかける岩崎の腕を男は慌てて掴んだ。
「ジョークとかわかんない人?」
「そんなことはない……と思います」
嘘つけと呆れた表情を浮かべる男。
「でも、似てる」
「俺と母ちゃん?」
「はい。目元とか」
「そうか?」
二重の印象が強くて華やかだけれど、目尻はきゅっと上がってクールさもある瞳。あと、会話の相手を『あんた』と呼ぶところ。
言おうかと思ったが、男が気にした様子で首をかしげるからやめた。
「まぁどうでもいいや。それより早く勉強教えて」
と、男の参考書とワークブックとがテーブルの上に置かれる。お茶と一緒に持ってきていたらしい。店の奥は住居に繋がっているんだろう。
「古文なんだけど」
本の上部からひょいと頭を出す付箋を迎えに、男はぱらぱらとページをめくった。
勉強を教えてほしいというのは、表向きの理由でも何かの手段でもなかったらしい。三十分ほどが経ったころ、
「何?」
集中力を見せていた男が顔を上げる。何も、と岩崎が首を振ったので、男は再び手元に目を落とす。
髪が下向きに垂れているので男の顔は見えない。
話しかけるには絶好のチャンスだった。こちらへ向けられた男のつむじに、何気ない感じでぶつけてみる。
「勉強、好きなんですか?」
「あんたは?」
即座に聞き返される。
「えっ、いや……」
しどろもどろになっていると、
「俺、頭悪そうに見える?」
男が顔を覗き込んできた。
「定時制高校の奴が勉強してたら意外?」
「そんなことは……」
「ごめん。今のは性格悪かった」
男は眉を下げて笑った。
「俺は、その、意外って思ってるわけではなくて……」
「ごめんって」
そんな顔すんな、とシャーペンのノック部分で額をこつかれる。
「学校いるのが日中か晩かって違いだけで、みんな真面目に勉強してるよ」
全日制の高校通ったことないから知らねぇけど、と男は付け足す。
「……そっか」
「もしかしたら、あんたらより熱心かもね。わざわざ働きながら学生してるくらいだし」
「みんながみんな両立させてるわけじゃないけど」とも男は言ったが──
男は駅前にあるエビスドラックの店員だ。前提として知っているじゃないか。
男がドラッグストアで働いているからこそ、自分たちには面識があったんじゃないか。
自分の発言がいかに配慮のないものだったかを痛感し、岩崎は口をつぐむ。
「俺はね、平日の昼間はあそこのドラッグストアで店員やって、夕方になったら学校行くの。バイトだからシフト調整は効いてさ、だからあんたには放課後ここで勉強付き合ってほしいなって」
沈黙の穴を補修するかのよう、すらすらと男は自己紹介をしてみせた。
質問受付中、という感じで男の姿勢が前傾だったから、たずねてみようかと思う。
「……何年生なんですか」
「二年」
「そう、なんですね」
「あんたもでしょ?」
このタイミングに乗じて言ってしまおうか、やめておこうか。迷っていた自分に関する情報。
カードの絵柄を見抜くトランプマジックみたいだ。卒ない感じで男に当てられて驚いた。
「なんで知ってるんですか」
「あんたのとこの教室に書いてあるよ。二年三組って」
単純なトリックだった。
「……そうでしたね」
なんとか返事を絞り出す。
そうなんですね。そうなんですか。へぇ。なるほど。
岩崎の相槌のバリエーションは数パターンが限界なので、会話は自然と男主導になる。
「勉強は好きでも嫌いでもないけど、頑張りたいなって思ってる。進学したいって、自分から言い出したからさ」
「……どうして定時制の高校に?」
岩崎が聞くと、男はうーんと宙を見上げて、思案の表情を浮かべた。
通信制の高校だったり、例えば高校にこだわらなくても専門学校だったり。
一言で進路選択といっても世の中には色々な選択肢があるだろうに、男が定時制高校に進むことを選んだ理由が気になった。
考えるに費やした時間のわりに、あっさりとしたテンション感で男は答えを明らかにする。
「辞めそうだったからじゃない?」
「どういうことですか」
「通信制にしようかなって一瞬は考えたんだけどね? でも俺、学校サボりまくったまま中学卒業したからさ。無理やりでも学校行くように自分のこと持ってかないと、中途半端に高校辞めんじゃないかなーって」
自然な感じで流された『サボり』が気になっていると、
「馬鹿すぎて中学の授業ついていけなくなって、そのまま登校しなくなったんだよね」
と男は自分から補った。
コンビニでも男は口にしていたが、自虐は勘弁してくれよ、と岩崎は内心で思っている。
岩崎には取り扱いが難しいのだ。親しい間柄ならイジることで笑いに昇華できるのかもしれないが、男と自分にはウン億光年級の距離がある。
「まぁ、ちゃんと学生生活送ってみたかったってのもあるし、約束しちゃったからね」
「約束?」
それは思わず出てしまった単語なのか。岩崎が繰り返したことで、男はわずかな表情の揺らぎを見せた。
まぁいいじゃん、と男が言及を避けたので、その点についてはうやむやのまま流されてしまう。
あくまで話の手綱を握っているのはこの男だ。
「聞きたいこと、他にはないの?」
テーブルの下で男は足を組み替え、岩崎の心に直接問いかけた。
目の前の相手について興味津々なくせに、地雷を踏むことを恐れて岩崎が聞けないでいること。男は察知していたんだろうか。
「……名前」
「名前?」
「俺、あなたの名前まだ聞いてないです」
控えめに岩崎が申告すると、今さっき組んだ足をがばっと広げて男は前のめりになった。勢いのよさに岩崎は体をのけぞらせる。
「言ってなかったっけ?」
「……はい」
「いやいやいや! 自分から聞けよ!」
「すみません」
「え、じゃあ名前もわからない人間と過ごしてたってこと?」
「はい……怖かったです」
「俺はあんたが怖いわ」
ぶるりと寒気を感じたように、男は服の上から腕を擦る。
「……すみません」
岩崎が謝ると、男が笑う気配がした。顔を上げると、どうしようもない奴だなぁという目で男が自分を見ていた。
よかった。機嫌を損ねたわけじゃなかった。
柔らかく形成されゆく空気に胸を撫で下ろしていると、
「サコタハル」
唐突に男は名乗り、テーブルの上に設置されたペーパーナプキンを一枚引き抜いた。
口でも拭くのかな。思っていたら、男はざらざらした白い紙を机に乗せた。そしておもむろにボールペンを手に取ると、何かを書き始める。
「好きなように呼んで」
テーブルの上で滑らせて岩崎に渡す。
止め、跳ね、はらいがしっかりとつけられた、大きな字。そこには男の名前が記されていた。
佐古田温。
忘れないようにしよう。岩崎はまじまじと見つめ、心に強く濃く書き留めた。
勉強教えてよ。小指を絡ませたまま男はそう言い、岩崎は自分を見上げる瞳に言葉の真意を求めた。
「あんたの学校、結構偏差値高いよね」
「……え」
「有名大学に合格する人も多いんでしょ? ここらじゃ有名な進学校じゃん」
「それは……まぁ、でも」
なんとも歯切れの悪い受け答えになる。
たしかに、岩崎の通う学校はいわゆる地元の進学校。例えば近所の人に高校名を聞かれて答えたら、勉強得意なのねと反応され、ときどきポストに投入されている学習塾のチラシでも『◯✕高校 合格者多数!』みたいに広告塔として名前が載る。
だけど、岩崎の学校がポジティブな評価を受けるのは推薦入試を経て集まる国際コースの生徒が偏差値全体を底上げしているから。普通科単体で見ると県内でもそこそこの学校であり、進学実績についてもそうであるといえる。
それに。普通科に所属する自分はそのうちの、中の中の成績だ。決して優秀じゃない。
しかし男は岩崎個人のことなど一つも知らないから、
「じゃあ俺に勉強教えて」
こちらの戸惑いをよそに小指を抜き取ると、決まりねと言わんばかりの調子ですくっと立ち上がった。バニラ系の甘い匂いが再び押し寄せてくる。
「あんたの好きな教科だけでいいよ。何の科目が得意?」
「得意って……」
「もし無理なら自習に付き合ってくれるだけでもいいや」
数センチ差の視点で再び対峙した男は、うん? と岩崎に返事を催促したが、
「……ど、どうしてなんですか」
頑張って自分から話しかけた。
「どうしてって?」
ボールの壁打ちみたいに質問が跳ね返ってきた。そのあまりの早さに、首を引っ込めて身を守る亀みたいに岩崎は萎縮してしまう。
「あ、あなたの勉強に付き合うことが、ノートを破ったことの弁償になるとは思えないんだけど」
咳でむせたみたいに軽く笑ったのち、男は岩崎を一蹴した。
「だから弁償は求めてないんだって」
「でも」
「弁償とか言うな。お前が悪者になるだろ」
淡々と男は言ってのけた。
「わざとかわざとじゃないかくらい判断できるよ」
「……」
「馬鹿だけど、俺そういうのはわかんの」
男に自虐を言わせてしまった。後ろめたさでまたも下を向きそうになったが、男が微笑む気配に顔を上げる。
「俺はタダで勉強教えてもらえてラッキー。あんたはあんたで罪悪感減るんだから、なかなかフェアだって思わない?」
「そう、かな」
「物じゃだめなら、せめてお金とか言われても困るし」
いかにも、な提案だった。窮地に追い込まれた自分が苦し紛れに提案しそうな。
昨日のドラッグストアでは失礼な奴とばかり思ったが、岩崎は脳内で情報を訂正し、上書きした。見かけによらず、この男は、クレバー……と。
それが昨日のことで──
*
「……」
スマホ一台があれば相手と会話できて、声を出せない状況下でもテキストでやりとりができて、なんなら位置情報でお互いの現在を把握することができる。
片手で全てが完結するこの現代。まさか、自分がこんなにも不安な待ち合わせをすることになろうとは。
──明日の四時、店の外
指定された時間が、訪れてしまったのだ。
岩崎は男の命じた言いつけを遵守し、エビスドラッグ〇×駅前店でその到着を待っている。ここは男のバイト先。
買い物をするわけでもないのに自動ドアのそばに突っ立ち、開閉するたびに振り向いてその正体を確認する。そんな岩崎に、入退店する客はみな不審な顔を向け、過ぎ去っていく。
怪しくてすみません、と恐縮しながらも、仕方ないんですよ、と言い訳をしたい。岩崎には昨日の記憶だけが頼りなのだ。
駐車場で男と別れ、わりとすぐの段階で失態に気づいてはいた──男の名前と連絡先を聞いておくべきだったんじゃ。
コンタクトを取ろうと思えばできた。岩崎に手を振ったあと、男は電話で頼まれたメロンパンを買いに店内へと戻っていった。追いかけて話しかけるのはきっと容易かった。が、追いかけはしなかった。
まだ信用ならない、というのが正直なところだったから。
一切興味がないだろう身の上話を親身に聞いてもらい、無償で勉強を教えるという救済措置まで用意してもらい、至れり尽くせりだったくせに。薄情だろうか。
でも警戒心を抱くのは悪じゃない。今どきの若い子は初対面の人と連絡先を交換する用のSNSアカウントを持っているらしい(テレビの特集コーナーで知った)が、岩崎のスマホにそんなものは存在しない。
それに、自分たちはただの初対面じゃない。こちらは加害者、男が被害者。
連絡先を渡す、という行為に気が引けてしまうのは自然な心の働きなのでは?
だっておかしいじゃないか。勉強を教えてくれたら解決なんて、あまりに岩崎側に都合がよすぎる。
勉強は口実で、自分はこれからどこかへ連れていかれるのかもしれない。防犯カメラもないような公園のトイレ、錆び朽ち果てた廃工場、風吹きつけるビルの屋上、遠くの沖へと出るおんぼろマグロ漁船──
「おーい、俺いるんだけどー」
「うわぁ!」
声をかけられて意識を現実に戻すと、身をかがめた昨日の男に顔を覗き込まれていた。仰天した岩崎は後ろ手をついて、ヤモリみたいに壁に貼り付く。
「うるさい」
片目を眇めて男は嫌そうな顔をした。
「ご、ごめん」
冷静に注意され、怯えて目線を外す。
しかし男は岩崎を逃がさないとばかりに中腰になっては、再び視界にフレームインしてくる。
「な、何か?」
「ちょっと待って」
「……何でしょうか」
至近距離でじっと見られ、たじろいだ。表情やパーツなどの表面的なところじゃなく、真皮や皮下組織までもスキャンするような目つき。
「あんただよね?」
「え?」
「俺ら、待ち合わせしてるよね?」
この男は何を言っている。自分から岩崎を呼びつけておいて、記憶力が悪いのか?
「えっ、ノートの人だよね?」
質問の意味を考えていたら自信なさげにたずねられた。
意味が通じたとたんに、ショックだった。昨日は消毒液、今日はノート。男は岩崎をエピソードだけで覚えている。
「あんた怪我大丈夫なの?」
昨日は絆創膏してたじゃん。呆然とする岩崎に男は聞いた。
「……あぁ、一応」
男に応えながら顎に触れる。そこにある怪我の名残は、晒した傷口だけ。家の中では傷が早く治癒する絆創膏を貼っていたため、外出時に絆創膏を貼らないでいいまでの回復傾向にある。
「よかったね」
「……はい」
「じゃあ行こ」
そう言い、男は歩き出す。もしかして絆創膏も目印にされていたんだろうか──そんなことを考えていたら、男から少し遅れをとってしまった。慌てて自転車を起こし、押して歩く。
しばらく男と道を共にしたところで、ふと気になったことがある。
「行くって、どこにですか?」
「んー? 付いてくればわかるよ」
駅前をすたすた行きながら男は言うのだが、いやそれがどこなのかを俺は聞いているんですよ──
飄々とした受け答えで行先ははぐらかされるので岩崎は観念し、大人しくナビゲートされることにした。
ただいつでも逃げ出せるよう、男の斜め後ろというポジションは死守する。片手ぶん数十センチ以上の、ある程度の距離も確保。
男に気づかれないよう、リュックサックからこっそりとスマホを取り出した。危険な空気を察知したらそのときは即通報だ。警察は一一〇、救急は一一九。
あれこれと一通りシュミレーションした岩崎だったが、結局それは無駄な心配に終わることとなる。
「ここ」
立ち止まり、男は振り向いた。駅から北方面へ徒歩数分、石畳風の車道に面する建物。三階建て構造のテナントビル。
「居酒屋?」
一階部分を見て岩崎がこぼすと、男はその呟きを拾う。
「そ、俺の家」
「家?」
「自営業の息子なんだよね。入って」
自宅らしいから躊躇することなく男は店へ近づき、ガラッと引き戸を開けた。
本当にここは男の家なんだ。しみじみ建物を見上げていると、
「早く」
男に手招きされ、岩崎は急いで近くに自転車を停めた。
居酒屋という空間に来たのは人生で初めてだった。
店内に足を踏み入れたとき、真っ先に目に入ったのは奥に向かって設置された木製のカウンター席。厨房との仕切りみたいな配置になっているそれは、五、六人が横並びで座れそうな規模感。
店員が料理やグラスを置いたりするんだろう部分にはなぜか商売繁盛の熊手がぽんっと置かれており、思わず凝視してしまう。あれって、吊るして飾るものなんじゃないか?
毛筆で手書きのメニューの札がびっしり整列した壁面を見回していると、ふいに視界が暖色に切り替わる。反射的に天井を見上げれば、ぱちぱちと時間差で灯りがついていく。
入口近くにある照明のスイッチを男が操作したらしい。フロアを進みながら岩崎に声をかける。
「適当に座っといて」
「えっと……」
「あー、じゃああそこの四人がけ」
立ち往生する岩崎に、シルバーリングのはまる人差し指で男は座席を指さした。
そのあと男が店の奥へと消えていくのを見送ったのち、岩崎はゆっくりと座席に近づいて腰を下ろす。
ざっと見渡して四人がけテーブルが八つと、カウンター席。外観からの予想とは異なって、店舗は広々とした造りだった。
こういう店を大衆居酒屋と呼ぶんだろうか。壁全体がお品書きみたいにな上にビールのポスターまで貼られていて、提灯やら大漁旗やら招き猫やら、とにかく雑多な空間であるのに──なんだろう、包まれるようなこの安心感。
「あー! 誰⁉」
緊迫感。突如として空気が変わった。
「こんなところに熊手置いたの!」
つんざくような声に肩が跳ねた。止まりかけた心臓の脈を制服越しに測りながら、岩崎は声がしたほうを確認する。
振り返った先にはグレーのパーカーを身にまとい、華やかな化粧を顔に施した女の人が、仁王立ちでそこにいた。
「あんた! ちょっと!」
無造作におろしていた金に近い茶髪を一つに結びながら、その人が店の奥に向かって叫ぶ。
すると数秒後。岩崎と約束をしている男が、店の奥とフロアとを繋ぐ暖簾からひょっこりと顔を出す。「ちょっと!」と女の人が催促し、男は面倒くさそうに頭を掻きながらフロアへと現れる。
「あんたでしょ、これ落としたの」
熊手を片手に女の人は言った。
「は? 違うし。俺は落っこちてたのを拾っただけ」
「拾ったんなら、壁にかけるまでしなさいよ」
「……めんどくさ」
「あんたね、縁起物が床に落ちてていいわけないでしょうが!」
激昂した女の人が熊手をカウンターに叩きつけ、男は心底嫌そうに顔をしかめる。
「うるせぇな、縁起物そんな扱いしていいのかよ」
「あんたねぇ──」
「それとさー、今、来客中なんだけど?」
男が岩崎を顎でしゃくり、女の人はこちらを向いた。注目が集まったことで岩崎は一気に緊張してしまい、両膝に置いたそれぞれの手をぎゅっと握りしめる。
「えっ、あっ……やだ! 友達連れてきてるなら言ってよ!」
恥ずかしい……! と女の人は両手で頬を挟んだのち、片手で冗談っぽく男を叩く仕草をすると、
「どうもぉ、初めまして。ゆっくりしていってね!」
岩崎へ穏やかに笑いかけ、男と入れ替わるように暖簾のちりめん生地を揺らした。まぁ、なんと華麗な態度の変わりようでしょう。
「ごめんね、うるさくて」
店の奥で男は飲み物を用意してくれていたらしい。岩崎の前に麦茶が入ったガラスコップを置くと、正面の椅子を引いてどさっと座る。
「お姉さんですか? さっきの人」
「は? まさか」
純粋な疑問を男は鼻で笑い飛ばす。
「あれは母ちゃん」
「えっ」
「俺の母親だよ」
ほんと、と男は笑ってみせた。熊手の扱いを注意したさっきの人はどこからどう見ても三十代の女性だったが──
「本人に言ってきてやんな。多分すげぇ嬉しがる」
「わかりました」
「ちょ! ちょちょちょ」
男が勧めたことなのに、立ち上がりかける岩崎の腕を男は慌てて掴んだ。
「ジョークとかわかんない人?」
「そんなことはない……と思います」
嘘つけと呆れた表情を浮かべる男。
「でも、似てる」
「俺と母ちゃん?」
「はい。目元とか」
「そうか?」
二重の印象が強くて華やかだけれど、目尻はきゅっと上がってクールさもある瞳。あと、会話の相手を『あんた』と呼ぶところ。
言おうかと思ったが、男が気にした様子で首をかしげるからやめた。
「まぁどうでもいいや。それより早く勉強教えて」
と、男の参考書とワークブックとがテーブルの上に置かれる。お茶と一緒に持ってきていたらしい。店の奥は住居に繋がっているんだろう。
「古文なんだけど」
本の上部からひょいと頭を出す付箋を迎えに、男はぱらぱらとページをめくった。
勉強を教えてほしいというのは、表向きの理由でも何かの手段でもなかったらしい。三十分ほどが経ったころ、
「何?」
集中力を見せていた男が顔を上げる。何も、と岩崎が首を振ったので、男は再び手元に目を落とす。
髪が下向きに垂れているので男の顔は見えない。
話しかけるには絶好のチャンスだった。こちらへ向けられた男のつむじに、何気ない感じでぶつけてみる。
「勉強、好きなんですか?」
「あんたは?」
即座に聞き返される。
「えっ、いや……」
しどろもどろになっていると、
「俺、頭悪そうに見える?」
男が顔を覗き込んできた。
「定時制高校の奴が勉強してたら意外?」
「そんなことは……」
「ごめん。今のは性格悪かった」
男は眉を下げて笑った。
「俺は、その、意外って思ってるわけではなくて……」
「ごめんって」
そんな顔すんな、とシャーペンのノック部分で額をこつかれる。
「学校いるのが日中か晩かって違いだけで、みんな真面目に勉強してるよ」
全日制の高校通ったことないから知らねぇけど、と男は付け足す。
「……そっか」
「もしかしたら、あんたらより熱心かもね。わざわざ働きながら学生してるくらいだし」
「みんながみんな両立させてるわけじゃないけど」とも男は言ったが──
男は駅前にあるエビスドラックの店員だ。前提として知っているじゃないか。
男がドラッグストアで働いているからこそ、自分たちには面識があったんじゃないか。
自分の発言がいかに配慮のないものだったかを痛感し、岩崎は口をつぐむ。
「俺はね、平日の昼間はあそこのドラッグストアで店員やって、夕方になったら学校行くの。バイトだからシフト調整は効いてさ、だからあんたには放課後ここで勉強付き合ってほしいなって」
沈黙の穴を補修するかのよう、すらすらと男は自己紹介をしてみせた。
質問受付中、という感じで男の姿勢が前傾だったから、たずねてみようかと思う。
「……何年生なんですか」
「二年」
「そう、なんですね」
「あんたもでしょ?」
このタイミングに乗じて言ってしまおうか、やめておこうか。迷っていた自分に関する情報。
カードの絵柄を見抜くトランプマジックみたいだ。卒ない感じで男に当てられて驚いた。
「なんで知ってるんですか」
「あんたのとこの教室に書いてあるよ。二年三組って」
単純なトリックだった。
「……そうでしたね」
なんとか返事を絞り出す。
そうなんですね。そうなんですか。へぇ。なるほど。
岩崎の相槌のバリエーションは数パターンが限界なので、会話は自然と男主導になる。
「勉強は好きでも嫌いでもないけど、頑張りたいなって思ってる。進学したいって、自分から言い出したからさ」
「……どうして定時制の高校に?」
岩崎が聞くと、男はうーんと宙を見上げて、思案の表情を浮かべた。
通信制の高校だったり、例えば高校にこだわらなくても専門学校だったり。
一言で進路選択といっても世の中には色々な選択肢があるだろうに、男が定時制高校に進むことを選んだ理由が気になった。
考えるに費やした時間のわりに、あっさりとしたテンション感で男は答えを明らかにする。
「辞めそうだったからじゃない?」
「どういうことですか」
「通信制にしようかなって一瞬は考えたんだけどね? でも俺、学校サボりまくったまま中学卒業したからさ。無理やりでも学校行くように自分のこと持ってかないと、中途半端に高校辞めんじゃないかなーって」
自然な感じで流された『サボり』が気になっていると、
「馬鹿すぎて中学の授業ついていけなくなって、そのまま登校しなくなったんだよね」
と男は自分から補った。
コンビニでも男は口にしていたが、自虐は勘弁してくれよ、と岩崎は内心で思っている。
岩崎には取り扱いが難しいのだ。親しい間柄ならイジることで笑いに昇華できるのかもしれないが、男と自分にはウン億光年級の距離がある。
「まぁ、ちゃんと学生生活送ってみたかったってのもあるし、約束しちゃったからね」
「約束?」
それは思わず出てしまった単語なのか。岩崎が繰り返したことで、男はわずかな表情の揺らぎを見せた。
まぁいいじゃん、と男が言及を避けたので、その点についてはうやむやのまま流されてしまう。
あくまで話の手綱を握っているのはこの男だ。
「聞きたいこと、他にはないの?」
テーブルの下で男は足を組み替え、岩崎の心に直接問いかけた。
目の前の相手について興味津々なくせに、地雷を踏むことを恐れて岩崎が聞けないでいること。男は察知していたんだろうか。
「……名前」
「名前?」
「俺、あなたの名前まだ聞いてないです」
控えめに岩崎が申告すると、今さっき組んだ足をがばっと広げて男は前のめりになった。勢いのよさに岩崎は体をのけぞらせる。
「言ってなかったっけ?」
「……はい」
「いやいやいや! 自分から聞けよ!」
「すみません」
「え、じゃあ名前もわからない人間と過ごしてたってこと?」
「はい……怖かったです」
「俺はあんたが怖いわ」
ぶるりと寒気を感じたように、男は服の上から腕を擦る。
「……すみません」
岩崎が謝ると、男が笑う気配がした。顔を上げると、どうしようもない奴だなぁという目で男が自分を見ていた。
よかった。機嫌を損ねたわけじゃなかった。
柔らかく形成されゆく空気に胸を撫で下ろしていると、
「サコタハル」
唐突に男は名乗り、テーブルの上に設置されたペーパーナプキンを一枚引き抜いた。
口でも拭くのかな。思っていたら、男はざらざらした白い紙を机に乗せた。そしておもむろにボールペンを手に取ると、何かを書き始める。
「好きなように呼んで」
テーブルの上で滑らせて岩崎に渡す。
止め、跳ね、はらいがしっかりとつけられた、大きな字。そこには男の名前が記されていた。
佐古田温。
忘れないようにしよう。岩崎はまじまじと見つめ、心に強く濃く書き留めた。