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 コンビニの店内から店外へ。変化したのは岩崎と男のいる場所。状況は進展も後退もしていない。
 しかし時間が経過すればするほど、自分についてくる男がよくわからない存在になっていく。
「どうかしましたか?」
 入退店の邪魔にならないところに立ち止まると、男は岩崎に問いかけた。
 少し顎を突き出す顔の角度は、身長差の数センチぶん岩崎を見上げている。構図でいうと、岩崎は男を見下ろしている。
 だというのに、なんだか怖い。
 盗み聞いた電話の内容で男の解像度は高まったのに、いちドラッグストアの店員だったほうがよほど話しやすかった。
 男が定時制高校の生徒と知ったからだろうか。実態の掴めない定時制高校。
 これも本人には言えないことだけれど、やんちゃな生徒が通っていそうというイメージが岩崎にはある。認めざるを得ない。
 その表れとして岩崎は会話を省略し、ノートを取り出すことで、男に行動の意図を示そうとしている。得体の知れない男を前にして、まともな説明ができる自信がない
 ひと言でまとめるなら──恐怖。それに尽きた。
「あ、それ!」
 表紙の青がちらりと覗くなり、それまでより明るい反応を男が示す。やっぱりそうなんだ、と岩崎は罪悪感で潰れそうになる。
「その制服、あそこの高校ですよね?」
 学校の方面を男は指さした。
「俺の席に、日中はあなたが座ってるってことですか?」
「……はい」
「そうなんですね。そっかそっか……」
 それきり男は静かになった。
 一体何を考えている間なのか。迫りくる恐怖から気を逸らしたくて、岩崎は指先でできていたさかむけの芽をいじる。
 痛っ。深く剝けてしまった──と思ったところで、
「よかったぁ、預かっててくれたんですね!」
「え?」
 これから告げる内容の酷いこと。
 知っているから見きれないでいた顔を仰ぐと、疑いを知らない目がそこにはあった。
「すみません。俺がうっかり置き忘れたまま帰っちゃったから」
 陽光が反射する水面みたいな瞳。
「ご迷惑おかけしました。でも、ありがとうございます!」
 謝罪と感謝のあと、男は両手で岩崎の手を取った。ぎゅっと包み込んだまま、ぶんぶんと上下にシェイクされる。
「今日の宿題で必要だったからどうしようって思ってたんですけど……助かりました」
 あぁどうしよう。勘違いしたまま、事が遠くへと運ばれていってしまう。
「机の中に俺のノートあって、邪魔じゃなかったですか?」
 前髪の下で脂汗が噴き出る。違う違う、それ勘違いなんです──
 しかしその焦りは岩崎の顔色に出ていないのか、気にしない様子で男は続ける。
「すみません。忘れ物しないように、いつも荷物は鞄の中に入れてるんですけど──」
「すみませんでした!」
 慌てて男から手を引き抜いた。
 そして握手のまま空中で固まった男の手のそばを通過すると、顔と膝頭がぶつかる勢いで岩崎は謝罪した。
「え、何なになに?」
 突発的な動きを見せた岩崎に、男は困惑した様子だった。謝らないでくださいよ、と男が気遣いを見せる。
 おろおろと促されて頭を上げるとき、空中で体を支えるように男が手を添えてくれていたことに気がつく。さらなる申し訳なさが募っていく。
 これ以上引き延ばしたらますます言い出せなくなりそうで、思いきって岩崎は男にノートを渡した。
 渡したというよりは男の腹にノートを押し付ける、ぶしつけな形になってしまった。
「……破ってしまって」
 消え入りそうな声色。思い通りに喉の筋肉が動かなかった。
「破った?」
 中を確認してほしいとこちらが言わずとも、男は自発的にページをめくりだす。そして、岩崎が壊したあたりで止まる。
「すみません。これは、わざとじゃなくて──」
「あんたがしたの?」
 それまでとは全く違う、感情を読み取れないトーンだった。喜怒哀楽の怒でも哀でもない。
 恐縮しきってしまって無反応な岩崎に、男が長く深い息を吐く。
 コミュニケーション能力が著しく低い岩崎でも、それが憤りを噛み殺すものであることはわかった。
「わざと?」
 震える。教室内の三十数人に嘲笑されたときよりずっと。小島たち三人に言いがかりをつけられたときの比じゃなくもっと。
 目の前のたった一人によって、岩崎の身体は細胞から氷漬けになったみたいに萎縮していく。が、
「違うでしょ」
 冬場のホットコーヒーみたいに温かな言葉。俯く視界に差し出された。
「知らないけど、何か事情はあるんじゃない?」
 簡潔に言うと、男はその場に座り込む。ゆらゆらと揺れる旗の横、ガラス越しに雑誌コーナーの前あたり。
「怒らないから。言えよ」
 言えよ、なんて傲慢だ。こちらに選択肢がないじゃないか。
「聞いてる?」
 聞いているけれど……と、岩崎はカーディガンの袖口を握り込む。
「疑ってんでしょ?」
 いきなりの指摘に男の顔を見た。
「やめてよ。怒らないって言っときながら、すぐ裏切るパターンじゃないからさ」
 自分の命令に従わおうとしない岩崎なのに、なぜか笑いかけてくる。
 この瞬間を振り返ると、岩崎は催眠術にかかっていたとしか思えない。
 気づいたときには一歩が出ていて、勝手に足が男のほうへと進み、少しだけ間隔を空けて隣に腰を下ろしていた。
 この人には事の次第を話さないといけないし、この人になら話しても大丈夫。なぜだか、そう思えたのだった。
 今まで他人に感じたことのない不思議な感覚に乗せられながら、岩崎はゆっくりと言葉を紡ぐことに努める。
「……俺、学校で浮いてて」
「浮いてる?」
 早速詰まったラリーに焦った。
 カースト上位代表みたいな外見の男には、ちょっと異国の言葉だったかもしれない。翻訳がうまくできそうにないから、慌てて他の言葉を探す。
「浮いてるっていうか、友達がいなくて」
 友達がいないってのもどうなのとは思うが、この男にとってその点は重要でないだろうから話を進める。
「……クラスのリーダー格みたいな奴からは目つけられてて」
「そのリーダー格がこれを?」
 ノートを手に男がたずねた。こくりと首を縦に振る。
「昨日俺がそいつらのこと怒らせたから、その腹いせなんだと思います。そのノートが俺の私物だって勘違いして、こう、摩擦のあれで取れないようにいたずらされて……元に戻そうと思ったら、こんなことに」
 二冊のノートが交互に嚙まされて外れなくなった状況を身振り手振りで説明する。
 必死になる自分、なんとか理解してくれようとする男。なんだこれ。あほくさすぎて泣きたい。
「あんたのは?」
 男が聞いた。
「え?」
「あんたのはどうなったの?」
 ノートを揺らしながら男は聞いた。言い出しにくさを感じつつ被害のないことを伝えたら、ふうん、の一言で流される。
 そりゃそうだよな、と岩崎の唇は苦笑いのへの字に曲がる。
 忘れ物こそ男のミスだが、そんなの誰にだってあること。うっかりミス。
 悪いのは岩崎だ。男の席が岩崎の座席でもあったがために、この流れ弾は暴発したのだ。
「……本当にすみませんでした。悪いのは俺です」
「別にいいよ。破れたものは元に戻らないんだし」
 現実主義者なのか、男はあっさりと言ったが、
「せ、責任取ります」
「責任?」
 岩崎はうなずいた。
「ちょっと待っててもらえますか?」
「なんで?」
 即座に聞き返される。自分を試すような言い方に聞こえた。
「……すぐに、絶対戻ってくるので」
 男が自分を目で追うのを感じながら、体を起こして立ち上がる。
 これから男には、せめてもの償いをしようと思う。
「同じ種類のはなかったんですけど、同じサイズと罫線の幅のノートならあったので──」
「いらない」
 硬い声。こちらの思考までも粉々にした切れ味のよさに、自分は何を耳にしたのかと振り返る。
「弁償とかいらないから」
 そこには、さっきまで軽快に言葉を繰り出していた唇。岩崎に向かって軽薄な笑みを結んでいた。
 ヤンキー座りの大っぴらに開いた脚。その左膝あたりに肘を置き、男は気怠そうに頬杖をついている。
「あんた名前は?」
「……岩崎崇人」
 意図せずタメ口になってしまった。です、を付け足そうか迷っていると、すいっと男の右手が伸びてくる。薄い手のひらが岩崎の前に滞在する。
 お前も? そう解釈して右手を前に出すと、ううん、と男が首を振る。
 じゃあ何だ。今度はあてずっぽうで左手を出した。すると男の手が岩崎のに近づいていく。
 握手でもするんだろうか。そんなことを思っていると、男の手が小指だけを伸ばす形に変わって、岩崎の小指をからめとった。
「明日の四時、店の外」
「え?」
「明日の十六時、ドラッグストアの外」
 二十四時間の言い方に直して男は微笑んだ。
「約束」
 あ然として見下ろす岩崎と、どこか面白そうに見上げる男の間。
 ぶわぁっと風が吹き抜ける。音を立てて旗がはためく。誰かが捨てたおにぎりのフィルムが、踊りながら駐車場を駆けていく。
 あらゆる物が風に煽られようと、消えようと。
 男が差し出した『約束』は、鼓動したまま岩崎の耳に残り続けた。