3

 顎に貼った絆創膏は近くで見ても、洗面所の鏡から一歩下がって俯瞰で見ても目立った。
 マスクをつけて隠そうかとも一瞬思ったけれど、傷が悪化しても嫌なので絆創膏むき出しの状態で登校することにした。
 校門をくぐって自転車を降りてからは周りの視線が気になり、下向き加減の早足で岩崎は歩く。
 高校生にもなって顔面に絆創膏って。
 恥ずかしい、と思っていたが、岩崎は自分が透明人間なことをすっかり忘れていた。その思い上がりのほうがよっぽど赤面ものだ。
 特に誰からも絆創膏について触れられずに時間は流れ、唯一、心配の言葉がかけられたのは昼休み。廊下ですれ違った担任だった。
 あろうことか、昨日は疎ましく思った正義感に救われてしまう悲しみ。岩崎には友達がいない。
 大丈夫です、とかわして教室に戻ると、なぜか自席に小島たちが集まっていた。しかし、三人は岩崎の帰着に気づいたとたん、席からぱっと離散する。
  警戒アラートが脳内に鳴り響く。嫌な予感。あいつらがすることは大抵くだらないことで──
「……何これ」
 机の中に手を入れると、ノート二冊が出てきた。
 しかし二冊といっても一冊と一冊じゃない。左開きと右開きにされた二冊の紙が互い違いに噛まされている。
 解こうと思って試しに引っ張ってみる。
 だが、ページが細かく重なったそれらは抜けない。
 あいつらに聞こえないよう、岩崎は静かにため息を吐いた。呼吸にさえ神経をすり減らす必要があるのか、とげんなりする。
 ノートをしっかり持ち、もう一度左右に引っ張る。
 しかし取れない。どれだけの力をかけようが、がっちり噛まれた二冊が取れるはずない。ノートに摩擦力がかかっているからだ。科学の実験で見たことがある。
 潔く諦めた岩崎は、表紙から一枚ずつ紙をめくることにした。
 どこまでが狙ってのことなのか、小島たちは肩を震わせて笑っている。メガネフレームと柄越しに感じる気配に、岩崎は心の中で怒りを燃やした。
 ノート同士を取れないようにして遊ぶ? やってることがガキなんだよ。くそどもが。勉強はそれなりにできても、頭の中身は小学生止まりだな。こうやって俺にこき下ろされてることも知らないで──
 ビリッ。
「……あ」
 ぴたっと手が止まる。左右、左右とテンポよくページをめくっていた手が。
 ……やばい。紙が破れた。
 まだまだ言い足らないあいつらの悪口を並べていたら、左手がつい勢い余ってしまった。
 咄嗟にノートから手を離す。するとノートが形状記憶で元の形に戻った。青色のノートだ。ということは、岩崎が化学用にしているノートだ。
 汚いものを触るわけではない。しかし見るのが嫌で、岩崎は指二本で紙の端を摘まんだ。
 すると、左側に組まれていたノートの半ページがありえない方向に持ち上がってしまう。岩崎は天を仰いだ。
 あぁ、もう最悪。完全にやらかした。
 指先の感覚的に、破損は一ページだけでない気がして紙に目を落とす。そしてぎょっとする。
 自分のノートじゃない。
 ……嘘だろ、信じたくない、嘘であれ。
 神にすがる気持ちでシャーペンの文字をなぞったが筆跡からして違ったし、罫線に沿って埋められているのは岩崎が知らない英語の板書だった。
 慌てて岩崎は机に手を突っ込む。中に入れていた荷物を全て出すと、化学の教科書とともに青色のノートはあった。無事でよかったはずなのに、なんで無事なんだよ、と岩崎は頭を抱える。
 表紙、裏表紙とくまなく探したが、例のノートには氏名がどこにも書かれていない。確認のために右手側のノートに触れると、黄色のそれには岩崎の名前があったが──
 誰かの持ち物である青のノート。
 これは衝撃からくる勘違いで、もう一度ノートを開いたらちゃんと紙は綴じられている。
 そんな期待を抱いてはみたが、やはり数枚にわたるページはべろんと剥がれ、絶望した。

 *

 動揺した人間は、どんな行動を起こすかわからない。
 誰かの所有物を壊した張本人だというのに、岩崎は例のノートを持ち出して下校しようとしている。
 だが何も考えていない、というわけでもない。
 昼休みに事件が発生してからというもの、岩崎の脳は煙が出そうなほどにフル稼働し続けている。これはまずい、どうにかしなければ。
 あの席に座る人間は限られる。岩崎のクラスが移動教室で使われるのは世界史の時間だけ。でも今日は当該の授業がなかった。昨夕は六限終了時点で机の中を空にした。盗難防止のために決められているルールだ。
 じゃあ誰のノートだ? と疑問に思うが、それはあとから悩めばいいことで、まずは謝罪。持ち主が現れたとして、損壊してしまったノートをそのままの形で返すのは非常識すぎる。謝罪は誠意とセットでないと逆効果だろう。
 じゃあその誠意を伝えるには──と悩んだ結果、岩崎は学校最寄りのコンビニへと自転車を走らせた。
 コンビニ。中国語だと便利店。
 書いて読んで字のごとしなそこには日用品も揃っており、岩崎は文房具の棚にB5の大学ノートを見つける。あいにく同じメーカーのはなかったが、同じ色ならあって、少しだけ気が楽になる。
「もしもーし。今? うーん、まぁ大丈夫」
 男がふらりとやってきたのは、岩崎がそのノートに手を伸ばそうかというときだった。
 電話片手に店内を回る男。岩崎の隣で立ち止まり、うんうん、と相槌を打っている。
「コンビニ、学校近くの。あ、なんか欲しいものある? 言ってくれたら俺が買って立替え……メロンパン? 見てないけど。あるかわかんない。あったら買っとけばいい?」
 男は通話相手からおつかいを頼まれたらしい。
 メロンパンなら多分、置いてありますよ──と、ノート一冊を持ち上げながら、岩崎は心の中で男の通話に飛び入り参加した。
 さっき自転車を走らせていたときに、配送の大型トラックとすれ違ったので、確実にあると思います──
 しかしそのアドバイスは岩崎の脳内世界での独り言に過ぎず、男と通話相手の会話は次の話題に移行していく。
「そうそう、聞こうと思ってたんだった。俺のノート持って帰ってない?」
 タイムリーな単語に背筋が伸びた。
「持って帰ってないか……いや、なんか鞄に入ってなくて、机に置き忘れたみたいでさ」
 手元から幻聴が聞こえる。商品の青いノートが岩崎に話しかけてくる。どこかで聞いた話じゃない? と。
「英語の授業で使ってるキャンバスのノート。え? 英語は紫かピンクだろって? それ今どうでもいいって」
 電話相手とは気心知れているのか、男はへらりと笑った。
「席はー、窓際の後ろから二番目。あっ、後ろの人に聞いたらわかるかな? 俺がどこにノートやったか見てたかもしんないよね!」
 すっかり岩崎の耳はダンボだ。早く、早く続きを──
「無理ある? あー、たしかに。昼間に高校の子がどっか持ってったかもしんないかー」
 思わず隣の男を見た。
 一七八センチある岩崎より、少し背の低い男。もともとそういうデザインなんだろうが、ハーフジップのトップスをだぼっと着こなしている。細身なんだろう。スマホを耳に構える指が筋っぽい。
 横からの角度なので顔はよく見えず、話し方と内容と茶髪から覗くピアスで若者だと判断した。
 男は岩崎の視線に気づかないのか、話を続ける。
「帰りには気づいてたから取りに戻りたかったんだけど、教室の鍵すぐ閉まんじゃん? 日中は俺ら入れないし、こういうとき定時ってめんどいよなー」
 定時。定時制高校。自分たち生徒が下校したあとに開校する。
 そうだった。すっかり抜け落ちていたが、あの席には定時制高校の生徒も座るじゃないか。
「もし今日学校行って見つかんなかったらさ、これまでの内容写させてくんない? うん。大変だけど、しゃーないよ」
 ははは、と電話相手に男は笑いかけるのだが、無理をしている響きだった。
 物を失すと精神にくること。これまでの人生経験上、岩崎もよく知っている。
 どうでもいいと思っていたものでも、紛失したら自分自身の一部が欠けたような喪失感が生まれること。それが自分が授業で使っているノートとなれば──
「わかったって、メロンパンね。プロテインも? はいはい」
 切るね、と男はスマホを耳から離す。
 そして岩崎のほうへと振り向いた。
 通話をしながらも、男が岩崎の視線を感じ取っていたことに驚く。押さえ込んだばねから指を離すみたいに心臓がひゅんと跳ねる。
 そのあと、男への既視感を覚える。
 それは男も同じだったそうで、顔と記憶とを合致させる間のあと、
「……あ、消毒液の?」
 人差し指をこちらに向けながら、男はたずねた。岩崎がうなずくと、
「えっ、めっちゃ偶然ですね!」
 眉の筋肉をぐっと上方向に動かして、二重の幅を見せるかのように男は大きく目を見開いてみせた。
 あのときは特に注目していなかったが、初対面で客だった岩崎によく喋りかけた唇は口角がきゅっと上がっている。
 愛嬌がある顔立ちはくだけた話し方と相まって、人懐っこそう、というイメージを岩崎の中に作る。
 そんな男が、ふいに自分の髪を触った。
「何?」
 直球で聞かれて戸惑った。男の茶髪も岩崎の記憶には残っていたのだが、自分と同じ学生だとは思っていなかったのだ。
 岩崎が通う高校は近隣の学校に比べて校則が厳しいが、定時制高校に規則はないんだろうか。そんなことを考えながら男の頭を見ていたなんて──まさか言えるはずがない。
「それじゃあ」
 無言を貫いて怪しかったろう岩崎に対して、男はぺこりと頭を下げる。
 香水の香りだけをふんわり残し、立ち去っていく後ろ姿。
「あの!」
 男の手首を掴んだのは、とっさの判断だった。男の肩がびくん、と跳ねる。
 それから男は振り返り、引き留められた意味を問う視線を岩崎に向ける。
 申し訳なくてたまらなくなった。