約束の十六時。姿を現さない。十六時五分。まだ来ない。さらに五分待って、十六時十分。しびれを切らして佐古田はスマホを操作した。
指先で画面を強くタップする。メッセージアプリを起動させ、トーク画面を開く。キーボードの中。下、下、左、変換。
[遅い]
送信。待つ。既読がつかない。遅い遅い遅い──
これ以上は耐えかね、佐古田は受話器マークを押した。端末を耳に当てる。
何してるんだよ。どこほっつき歩いてんだよ。今日は放課後に会えるな、って昨日話したとこじゃんかよ。
約束忘れたの? 俺との待ち合わせだよ? 放課後だけど、今日はもう勉強会じゃない。デートだよ? あんたがあんだけキスしたがった俺だよ? 俺とのデート。まさか、すっぽかすわけ──
『もしもし?』
少しくぐもった声。佐古田はイライラと揺すっていた足を止める。
「もしもし? じゃねぇよ」
『ごめん』
「てか今どこ?」
風が打ちつけるような音が背後に聞こえる。『左に曲がります』というトラックのアナウンスも遠くに。
『それがさ──』
岩崎が躊躇いがちに始めた説明。話は途中だったが、全貌が見えてきて佐古田は立ち上がった。
うん、うん、と相槌を打ちながら住居のある奥へと入り、床に落ちていた上着と鍵を拾っていく。
「わかった。うん、すぐ行くから待ってて」
ごめん──と言いかけるのを最後まで聞かずに、佐古田は通話終了ボタンを押した。
「何やってんだよマジで……」
小言を言いながら、自転車を飛ばして学校への道を行く。少しでも早くしないと、と気持ちが急いで立ち漕ぎになる。
*
まだ登校するには早い時間帯だけど、佐古田の背中には通学リュックが背負われている。用件を解決するには時間がかかると思われるから。全く、手のかかる奴だな。
駅から南方向へ行き、住宅地へと入っていく。入り組んだ路地に入ってからはペダルを漕ぐ速度を落とした。
地元とはいえこの道を通ったのは小さいころのこと。それも、友達の家に遊びに行くために一度、二度程度。佐古田はこの辺りに土地勘がないので注意深く辺りを探す。
球形で黄色の大きな遊具がある公園。赤い屋根瓦の一軒家の近く。岩崎からの情報を元に辺りを見回した。
……あ、赤い屋根。目標を発見したところで、
「佐古田!」
制服に眼鏡姿の男。視力の悪い佐古田は目を凝らす。
岩崎だった。地面へとかがんだ体勢から、たけのこみたいににょきっと立ち上がる。そのそばには駐輪状態の自転車。
公園内に自転車で進入すると、岩崎の自転車の近くへ佐古田は自分のを着けた。
「あんたマジで何してんの?」
「ごめん……」
すっかり気落ちしている岩崎を残し、佐古田は自転車の前にしゃがみこむ。高校指定の自転車ステッカーがべた貼りされたそれ。記された三桁の番号は岩崎に振り分けられたもの。
佐古田はたずねる。
「チェーン取れたの、どっち?」
「前輪」
そう言って岩崎が指さす部分は触らずとも、明らか異常が起きている状態だった。鎖がだるんと弛んでしまっている。
「自分でどうにか直そうとしたんだけど、うまくいかなくて」
悲観にくれる岩崎は、太ももの付け根に沿わせて拳を作った。無意識の癖なのか、意識的なものなのか、親指を包む形で固めている。そのグーはちょうど佐古田の目線あたりに位置していた。
佐古田は上から手を重ねてそれを包む。これから人でも殴るのかというくらいにカチコチな手。
申し訳なさを感じているのだろう。馬鹿だなぁ、と思う。
かかる力を一本ずつ解いてやると、黒い汚れが岩崎の手に付着していて驚いた。
「もう、ほんと何やってんの……」
佐古田の言葉に岩崎は手を引っ込めようとしたが、ぎゅっと繋いで離してやらない。両手で挟んでさする。それだけでは弱いから、指先に息を吐きかける。
キンキンに手を冷やして、何をやっているんだ。寒空の下で、一人で。もっと早く呼んでくれたらよかったのに。
*
貸して、俺がやる。任してよ。多分すぐ終わるから。
高らかにそう宣言して始めた自転車修理だったが、佐古田と岩崎は悪戦苦闘を強いられた。昔、妹の自転車のチェーンをかけた経験があるから大丈夫だろうと思っていたが、意外と時間がかかった。
手こずってしまったな。十五分程度の作業を振り返りながら、水道の蛇口をキュッとひねる。二人の知識だけでは歯が立たず、結局はインターネット動画の叡智を借りて解決した。
手洗い場から戻る道すがら、遠くに見えた岩崎の姿に苦笑した。ベンチに腰掛ける岩崎は、がっくりとうなだれている。暗い。いつもの雰囲気に増して暗い。夜へと傾く空の色がその哀愁を助長させている。
歩み寄る数歩手前。ちょっかいを出してやろう、という企みが頭に浮かび、
「えいっ」
手についた水分を飛ばした。ぱっぱっ、と指の股を開く動作。
しかし岩崎は無反応。試合に負けたボクサーみたいな姿勢のままでいる。
面白くない。小石を投げ入れられた水面みたいな、いつものリアクションがない。
「チャリ直ったじゃん」
からかうのはやめにして、佐古田は岩崎の自転車のスタンドを足で払った。ハンドルを握って前後に動かすと、チェーンが作動してタイヤ同士が回る。
「……ありがとう佐古田」
「おう」
「本当にありがとう」
しみじみした岩崎の声を聞きながら、その場へもう一度自転車を立てた。
「お礼は?」
「え?」
「ちょうだいよ、お礼」
「お礼?」
「そ、お礼」
しつこく繰り返す唇が緩む。これこれこれ。やっとだ。あわあわとした岩崎の反応。
佐古田はベンチへ歩み、岩崎の正面に来たら中腰になって身をかがめ、
「キスでもいいよ」
と目をつぶる。それからちょっとだけ時間を置いて、慎重に、少しだけ、まぶたを持ち上げる。すると、視界の薄い隙間に──望んでいた光景。
自分の中の悪魔がささやき、今度は唇を軽く突き出してみた。そうしたら岩崎の顔がみるみる真っ赤になっていく。
正直な反応に満足してまぶたを開き、そして思わず、斜め下に顔を背けて吹き出した。
ツボすぎる。顔だけじゃなく、首筋までも朱に染めているなんて。
「冗談だし」
湯当たりしたみたいな岩崎は冷まして放っておくことにして、よっこいしょと佐古田はサドルにまたがる。岩崎は慌てたようにたずねた。
「え、もう帰るの」
「帰るよ。これから学校だもん」
公園の時計は十六時四十五分を指している。
「そっか」
短い呟き。落胆を隠しきれない声を聞きつけ、ひょっこりと悪魔は再来する。
「学校サボって、じゃないの?」
佐古田の知る岩崎史上、最速の速さで顔が上がった。
「もしそれで授業ついていけなくなっても、岩崎が勉強──」
「早く行けよ」
いきなり不機嫌になると、木製ベンチから岩崎はすっと腰を上げた。そして佐古田が乗る自転車の後ろに回ると、
「わっ、ちょっ!」
佐古田にはには見えないところ──サドル近くの荷物置き部分を掴んで、ぐいぐい前へと押してくる。
車体が揺れ、思わずペダルに足を乗せてしまった。不本意に自転車は走り出す。もういいや、と諦めて、佐古田はそのまま進む。
「じゃあな!」
後ろに向かって声を張る。届いているか確認はしない。だけど、岩崎なら自分の背中を見送っていることだろう。
公園出口に設置されたポールを抜け、佐古田は敷地をあとにした。
左方向に角を曲がり、再び住宅街へ合流したところで、
「佐古田!」
岩崎の声が響く。ブレーキをかけて上半身で振り返ると、病み上がりの自転車がこちらへとぜぇはぁと駆けてくる。
「どした?」
白い息を吐きながら真横へ停まった岩崎へ、白い息を吐きながら佐古田は聞いた。すると、自転車にまたがったままの岩崎がこちらに手を伸ばしてくる。
ハンドルを握る腕を引っ張られ、重心のバランスを車体ごと崩され──
「……お礼」
半透明な白が岩崎の前にもわんと浮かび、すぐに消えた。
全てを持っていく勢いでキスをしたくせに。佐古田からゆっくり離れた唇は、気弱に言葉を紡いだ。
わざわざ追いかけてまで求められた嬉しさ。しかし自分はキスを焦らされたのかもしれない、とムカつき。
交互に襲ってきては、佐古田をいじけた口調にさせた。
「もう直してやんないからな」
「え?」
「チェーン外れても、俺は知らない」
「自力で直せってこと? 無理だよ。俺、できないよ」
「じゃあもうチャリ乗んな」
えぇ……と岩崎は引いている。
「だってあんた、運転下手くそじゃん」
ぽかんとした表情の岩崎に、忘れたのか、と佐古田は呆れる。
少しの間考えて、佐古田が持ち出した過去にようやく思い当たったらしい。岩崎は焦って反論を始めた。
「あれは、たまたま転んだだけで! 顎から血流したのも人生で初めてだったし──」
「はいはい」
佐古田は地面を軽く蹴り、まだまだ弁解を聞いてほしそうな岩崎を置きざりにした。
自転車を漕ぎ始めた背中に、
「いってらっしゃい!」
別れの言葉。ふと立ち止まる。
振り返ると、さっき二人が話していた場所に岩崎は未だ留まっていた。
空を染めるオレンジと紫のマーブルが眩しいので、その姿はシルエットとして映る。表情はわからない。だけど、岩崎の瞳が自分を見つめていることはよくわかって、佐古田はくすぐったさに微笑んだ。
あの日、岩崎は知りたがった。
──……俺のこといつから好きだった?
──俺のどこを好きになった?
あの日の教室から数日が経つけれど、岩崎が気になるという記憶にはどうしてもアクセスができない。
いつの間にか好きだった、なんて。言われても嬉しくなかっただろうか。むしろ、岩崎を不安にさせただろうか。だけど。
佐古田は正面に向き直ると自転車から降りてハンドルを操縦し、ぐるんと反対方向に車体を回転させた。押し歩いて岩崎へと向かっていく。
「……いっぱいあるよ、あんたの好きなところ」
例えば、ありきたりだけれど優しいところ。気恥ずかしさから、ぷいっと素っ気なく帰ってしまった自分なのに、引き返すところをじっと見守ってくれている。こちらが手を振ったら、腰元で控えめに振り返してくる。
一見すると無愛想だけれど、決して岩崎は冷たい奴じゃない。
ちゃんと怒るし、ちゃんと笑う。佐古田が出来心で仕掛けるいたずらもそのほとんどに反応してくれて、思った通りか、それ以上のリアクションをくれる。
自分の心の内は表に出さないようにしている。以前、岩崎はそう言っていたが──
距離が近づくにつれ、岩崎の顔にかかっていた逆光のベールが薄れてくる。もう一度、今度は大きく手を振ってみせたら、佐古田の行動に岩崎は破顔した。
わざと無表情ってどこがだよ、と一瞬、佐古田は呆れた。だれど──もしこれが、自分の前限定の矛盾だとしたら?
また一つ、好きなところを見つけてしまったかもしれなくて、たまらず佐古田は走り出す。
「忘れ物?」
たどり着いたら、岩崎は不思議そうに首をかしげた。それがあまりにピュアな表情で──
「行ってきます」
佐古田は引き寄せ、顔を近づけた。
ハンドルを握る岩崎の腕、愛しい恋人の唇。
指先で画面を強くタップする。メッセージアプリを起動させ、トーク画面を開く。キーボードの中。下、下、左、変換。
[遅い]
送信。待つ。既読がつかない。遅い遅い遅い──
これ以上は耐えかね、佐古田は受話器マークを押した。端末を耳に当てる。
何してるんだよ。どこほっつき歩いてんだよ。今日は放課後に会えるな、って昨日話したとこじゃんかよ。
約束忘れたの? 俺との待ち合わせだよ? 放課後だけど、今日はもう勉強会じゃない。デートだよ? あんたがあんだけキスしたがった俺だよ? 俺とのデート。まさか、すっぽかすわけ──
『もしもし?』
少しくぐもった声。佐古田はイライラと揺すっていた足を止める。
「もしもし? じゃねぇよ」
『ごめん』
「てか今どこ?」
風が打ちつけるような音が背後に聞こえる。『左に曲がります』というトラックのアナウンスも遠くに。
『それがさ──』
岩崎が躊躇いがちに始めた説明。話は途中だったが、全貌が見えてきて佐古田は立ち上がった。
うん、うん、と相槌を打ちながら住居のある奥へと入り、床に落ちていた上着と鍵を拾っていく。
「わかった。うん、すぐ行くから待ってて」
ごめん──と言いかけるのを最後まで聞かずに、佐古田は通話終了ボタンを押した。
「何やってんだよマジで……」
小言を言いながら、自転車を飛ばして学校への道を行く。少しでも早くしないと、と気持ちが急いで立ち漕ぎになる。
*
まだ登校するには早い時間帯だけど、佐古田の背中には通学リュックが背負われている。用件を解決するには時間がかかると思われるから。全く、手のかかる奴だな。
駅から南方向へ行き、住宅地へと入っていく。入り組んだ路地に入ってからはペダルを漕ぐ速度を落とした。
地元とはいえこの道を通ったのは小さいころのこと。それも、友達の家に遊びに行くために一度、二度程度。佐古田はこの辺りに土地勘がないので注意深く辺りを探す。
球形で黄色の大きな遊具がある公園。赤い屋根瓦の一軒家の近く。岩崎からの情報を元に辺りを見回した。
……あ、赤い屋根。目標を発見したところで、
「佐古田!」
制服に眼鏡姿の男。視力の悪い佐古田は目を凝らす。
岩崎だった。地面へとかがんだ体勢から、たけのこみたいににょきっと立ち上がる。そのそばには駐輪状態の自転車。
公園内に自転車で進入すると、岩崎の自転車の近くへ佐古田は自分のを着けた。
「あんたマジで何してんの?」
「ごめん……」
すっかり気落ちしている岩崎を残し、佐古田は自転車の前にしゃがみこむ。高校指定の自転車ステッカーがべた貼りされたそれ。記された三桁の番号は岩崎に振り分けられたもの。
佐古田はたずねる。
「チェーン取れたの、どっち?」
「前輪」
そう言って岩崎が指さす部分は触らずとも、明らか異常が起きている状態だった。鎖がだるんと弛んでしまっている。
「自分でどうにか直そうとしたんだけど、うまくいかなくて」
悲観にくれる岩崎は、太ももの付け根に沿わせて拳を作った。無意識の癖なのか、意識的なものなのか、親指を包む形で固めている。そのグーはちょうど佐古田の目線あたりに位置していた。
佐古田は上から手を重ねてそれを包む。これから人でも殴るのかというくらいにカチコチな手。
申し訳なさを感じているのだろう。馬鹿だなぁ、と思う。
かかる力を一本ずつ解いてやると、黒い汚れが岩崎の手に付着していて驚いた。
「もう、ほんと何やってんの……」
佐古田の言葉に岩崎は手を引っ込めようとしたが、ぎゅっと繋いで離してやらない。両手で挟んでさする。それだけでは弱いから、指先に息を吐きかける。
キンキンに手を冷やして、何をやっているんだ。寒空の下で、一人で。もっと早く呼んでくれたらよかったのに。
*
貸して、俺がやる。任してよ。多分すぐ終わるから。
高らかにそう宣言して始めた自転車修理だったが、佐古田と岩崎は悪戦苦闘を強いられた。昔、妹の自転車のチェーンをかけた経験があるから大丈夫だろうと思っていたが、意外と時間がかかった。
手こずってしまったな。十五分程度の作業を振り返りながら、水道の蛇口をキュッとひねる。二人の知識だけでは歯が立たず、結局はインターネット動画の叡智を借りて解決した。
手洗い場から戻る道すがら、遠くに見えた岩崎の姿に苦笑した。ベンチに腰掛ける岩崎は、がっくりとうなだれている。暗い。いつもの雰囲気に増して暗い。夜へと傾く空の色がその哀愁を助長させている。
歩み寄る数歩手前。ちょっかいを出してやろう、という企みが頭に浮かび、
「えいっ」
手についた水分を飛ばした。ぱっぱっ、と指の股を開く動作。
しかし岩崎は無反応。試合に負けたボクサーみたいな姿勢のままでいる。
面白くない。小石を投げ入れられた水面みたいな、いつものリアクションがない。
「チャリ直ったじゃん」
からかうのはやめにして、佐古田は岩崎の自転車のスタンドを足で払った。ハンドルを握って前後に動かすと、チェーンが作動してタイヤ同士が回る。
「……ありがとう佐古田」
「おう」
「本当にありがとう」
しみじみした岩崎の声を聞きながら、その場へもう一度自転車を立てた。
「お礼は?」
「え?」
「ちょうだいよ、お礼」
「お礼?」
「そ、お礼」
しつこく繰り返す唇が緩む。これこれこれ。やっとだ。あわあわとした岩崎の反応。
佐古田はベンチへ歩み、岩崎の正面に来たら中腰になって身をかがめ、
「キスでもいいよ」
と目をつぶる。それからちょっとだけ時間を置いて、慎重に、少しだけ、まぶたを持ち上げる。すると、視界の薄い隙間に──望んでいた光景。
自分の中の悪魔がささやき、今度は唇を軽く突き出してみた。そうしたら岩崎の顔がみるみる真っ赤になっていく。
正直な反応に満足してまぶたを開き、そして思わず、斜め下に顔を背けて吹き出した。
ツボすぎる。顔だけじゃなく、首筋までも朱に染めているなんて。
「冗談だし」
湯当たりしたみたいな岩崎は冷まして放っておくことにして、よっこいしょと佐古田はサドルにまたがる。岩崎は慌てたようにたずねた。
「え、もう帰るの」
「帰るよ。これから学校だもん」
公園の時計は十六時四十五分を指している。
「そっか」
短い呟き。落胆を隠しきれない声を聞きつけ、ひょっこりと悪魔は再来する。
「学校サボって、じゃないの?」
佐古田の知る岩崎史上、最速の速さで顔が上がった。
「もしそれで授業ついていけなくなっても、岩崎が勉強──」
「早く行けよ」
いきなり不機嫌になると、木製ベンチから岩崎はすっと腰を上げた。そして佐古田が乗る自転車の後ろに回ると、
「わっ、ちょっ!」
佐古田にはには見えないところ──サドル近くの荷物置き部分を掴んで、ぐいぐい前へと押してくる。
車体が揺れ、思わずペダルに足を乗せてしまった。不本意に自転車は走り出す。もういいや、と諦めて、佐古田はそのまま進む。
「じゃあな!」
後ろに向かって声を張る。届いているか確認はしない。だけど、岩崎なら自分の背中を見送っていることだろう。
公園出口に設置されたポールを抜け、佐古田は敷地をあとにした。
左方向に角を曲がり、再び住宅街へ合流したところで、
「佐古田!」
岩崎の声が響く。ブレーキをかけて上半身で振り返ると、病み上がりの自転車がこちらへとぜぇはぁと駆けてくる。
「どした?」
白い息を吐きながら真横へ停まった岩崎へ、白い息を吐きながら佐古田は聞いた。すると、自転車にまたがったままの岩崎がこちらに手を伸ばしてくる。
ハンドルを握る腕を引っ張られ、重心のバランスを車体ごと崩され──
「……お礼」
半透明な白が岩崎の前にもわんと浮かび、すぐに消えた。
全てを持っていく勢いでキスをしたくせに。佐古田からゆっくり離れた唇は、気弱に言葉を紡いだ。
わざわざ追いかけてまで求められた嬉しさ。しかし自分はキスを焦らされたのかもしれない、とムカつき。
交互に襲ってきては、佐古田をいじけた口調にさせた。
「もう直してやんないからな」
「え?」
「チェーン外れても、俺は知らない」
「自力で直せってこと? 無理だよ。俺、できないよ」
「じゃあもうチャリ乗んな」
えぇ……と岩崎は引いている。
「だってあんた、運転下手くそじゃん」
ぽかんとした表情の岩崎に、忘れたのか、と佐古田は呆れる。
少しの間考えて、佐古田が持ち出した過去にようやく思い当たったらしい。岩崎は焦って反論を始めた。
「あれは、たまたま転んだだけで! 顎から血流したのも人生で初めてだったし──」
「はいはい」
佐古田は地面を軽く蹴り、まだまだ弁解を聞いてほしそうな岩崎を置きざりにした。
自転車を漕ぎ始めた背中に、
「いってらっしゃい!」
別れの言葉。ふと立ち止まる。
振り返ると、さっき二人が話していた場所に岩崎は未だ留まっていた。
空を染めるオレンジと紫のマーブルが眩しいので、その姿はシルエットとして映る。表情はわからない。だけど、岩崎の瞳が自分を見つめていることはよくわかって、佐古田はくすぐったさに微笑んだ。
あの日、岩崎は知りたがった。
──……俺のこといつから好きだった?
──俺のどこを好きになった?
あの日の教室から数日が経つけれど、岩崎が気になるという記憶にはどうしてもアクセスができない。
いつの間にか好きだった、なんて。言われても嬉しくなかっただろうか。むしろ、岩崎を不安にさせただろうか。だけど。
佐古田は正面に向き直ると自転車から降りてハンドルを操縦し、ぐるんと反対方向に車体を回転させた。押し歩いて岩崎へと向かっていく。
「……いっぱいあるよ、あんたの好きなところ」
例えば、ありきたりだけれど優しいところ。気恥ずかしさから、ぷいっと素っ気なく帰ってしまった自分なのに、引き返すところをじっと見守ってくれている。こちらが手を振ったら、腰元で控えめに振り返してくる。
一見すると無愛想だけれど、決して岩崎は冷たい奴じゃない。
ちゃんと怒るし、ちゃんと笑う。佐古田が出来心で仕掛けるいたずらもそのほとんどに反応してくれて、思った通りか、それ以上のリアクションをくれる。
自分の心の内は表に出さないようにしている。以前、岩崎はそう言っていたが──
距離が近づくにつれ、岩崎の顔にかかっていた逆光のベールが薄れてくる。もう一度、今度は大きく手を振ってみせたら、佐古田の行動に岩崎は破顔した。
わざと無表情ってどこがだよ、と一瞬、佐古田は呆れた。だれど──もしこれが、自分の前限定の矛盾だとしたら?
また一つ、好きなところを見つけてしまったかもしれなくて、たまらず佐古田は走り出す。
「忘れ物?」
たどり着いたら、岩崎は不思議そうに首をかしげた。それがあまりにピュアな表情で──
「行ってきます」
佐古田は引き寄せ、顔を近づけた。
ハンドルを握る岩崎の腕、愛しい恋人の唇。