7

 必死だった。繋いでいないほう、空いている左手には汗をかいていた。
 でも無我夢中、とは違う。
 興奮状態でありながらも、客観的な視点は手放していない。今から自分には授業が控えていること。全日制の生徒である岩崎は下校しなければいけないこと。総合的に考えたうえで、この瞬間を離してはならないと強く思っている。
 行く当てなく見切り発車したにもかかわらず、大股で歩んだ先には、まるで佐古田のために用意されていたみたいな空き教室があった。
 半開きになっていた扉を大きく開けると、佐古田はその中へと岩崎を連れ込む。同時進行でぴしゃりと戸を閉め、その勢いのままに岩崎の手首を離す。一連すると、太いロープを遠くに投げるみたいな雑さになった。
「どういうつもり?」
 自分と岩崎は場所を変えて再びの膠着状態に陥るが、今度は岩崎のほうから切り出した。
「俺、帰るところなんだよ」
「……うん」
「佐古田だって授業がある」
 正論すぎてぐうの音も出ない。
 岩崎の疲れたようなため息が静かな教室に響いてようやく、取り急ぎで謝る考えにいたる。
「空気読めなくてごめん」
 謝罪に付け足したのは角が立たないようにするための自虐だった。なのに、
「そうだね」
 すんなりと認められてしまい、佐古田は動揺した。
「全然、空気読めてない」
 喧嘩じゃない普通の会話において、岩崎がここまではっきり物を言うことがあっただろうか。
「でも、ちょっと救われたかも」
「……どういうこと?」
 たずねたら、岩崎はふっと笑みを作った。
「いつもの俺なら多分、佐古田とばったり出くわしてもそのまま帰ってた」
 佐古田もそんな気がしていた。
「だから、ありがとう。さっき強引に引っ張ってもらわなかったら、自分から話す機会設けるなんてできなかったと思う」
 校則違反な行動のどこに感謝される要素があるのか。言葉のままに解釈するなら、岩崎にも話したいことがあるということになるけれど。
 リュックの肩紐をかけ直すと、岩崎は口を開いた。
「おめでとう」
「え?」
「期末考査、いい成績だったんでしょ?」
 反応のない佐古田に、違うのか? と目で聞いてくる。
 違う。いや、違わない。期末考査において佐古田は大健闘を果たした。
 でもその話題は端末の中だけで終了したんじゃないのか。それも、岩崎のほうから会話の流れをぶち切ったんじゃないのか。どうして今になって掘り起こす。
「ちゃんと祝えなかったから」
 またしても願いが通じたかのように、佐古田の疑問は拾われた。
「どんな文章にすればいいのかわからなくて、そっけない感じになったから」
 淡白な自覚はあったらしい。
「おめでとうしか言えなくてごめん」
「……ほんとだよ」
「ごめん」
「うさぎのスタンプ一つで済ませてさ」
「それは、俺が初期のスタンプしか持ってなくて」
 とことんずるい論法を使っている。岩崎を悪者に仕立て上げている。
 つまり、自分は焦っている。自分がしたかった話をし終えたら岩崎が帰ってしまうのではないか、と。
「実は俺も、中間考査のときより成績上がったんだ」
 佐古田のおかげ、と言って岩崎は微笑んだ。話にはまだ続きがあるようで安心する。なんの教科が、どれくらい点数アップしたんだ。
「……えっと、終わりなんだけど」
「は?」
「え?」
 同時に驚き、佐古田たちは顔を見合わせた。
「あぁ……ありがとう?」
 勘で感謝されても全く嬉しくない。佐古田は途方に暮れた。
 そもそも会話の構造からして成っていない。起、直結で結、はおかしいだろ──
 とは思うが、まぁいい。岩崎が終わりというならテストの話は終了だ。
 佐古田には聞かないといけないことがある。
「廊下で一緒にいた人って、先生?」
 佐古田がたずねると岩崎は首を傾げた。そして、
「あぁ、担任」
 だと思った。遠回りは好まないので単刀直入に聞く。
「何の話してたの?」
「何って……」
 わざわざ学生相談室を選ぶほどだ。一対一の状況が適する話なんだろう。立ち話じゃできない内容なんだろう。
 だけど、岩崎は体の前で手を振ってみせた。
「そんな、大したことは喋ってないよ」
「何かされたのか」
 進まない会話が待ちきれなかった。
「文化祭のときの男?」
 岩崎がわずかに瞳を震わせる。そうなんだな、と佐古田は確信する。
「真鍋から聞いたんだ。あんたとあの男が言い合ってたって」
「だから、言い合いなんて大げさな──」
「何があったんだよ」
 畳み掛けたら、岩崎の口が止まる。表情がすっ、と真面目なものになる。
「佐古田には関係ないことだから」
「あるだろ。俺はあの場にいた」
「それはそうだけど……」
「じゃあ、何があったか教えて」
 答えるに十分な時間を取ったのに、断じて口を利こうとしないから詰め寄る。
「怪我は?」
 優しい口調で聞いた。が、無視。しかし見る限りは無事そうだ。
「私物、また勝手に触られた?」
 無視。違うならいいのだが、岩崎のクラスには手癖の悪い人間がいるらしいから、一応聞いておいた。
「じゃあ、嫌なこと言われた?」
 うつむいていた岩崎が顔を上げる。図星なのか? 図星なんだろうな。感情表現こそ貧しいが、態度としてはわかりやすい奴だから──
「……無神経すぎる」
 岩崎が何かを呟いた。ん? と佐古田は聞き返す。急な発声だからか、音がかすれていてうまく聞こえなかった。
 カンペを見るみたいに、岩崎は再び目線を落とした。下を向かれると機嫌がわからないので覗き込もうとしたら、
「佐古田はどこまで無神経なんだよ」
 衝撃だった。まず、言われた内容。
 それから、岩崎が静かに怒りを表したこと。揉めたクラスメイトにでなく、岩崎を心配している佐古田に対して。
「……どういう意味」
 弱々しい声になった。岩崎の吐露に傷ついている。
 何かを諦めたみたいに岩崎は一つ息を吐き、今度はいつもみたいにぽそぽそと話し出した。
「言い合いになったのは、佐古田のこと悪く言われたからだよ」
「……は?」
「自分の陰口なら無視できるんだけど」
 その場面を思い返すのか、岩崎は自嘲と苦笑の中間みたいな笑い方をした。
「佐古田が定時制の生徒だって。どっから情報仕入れたのか知らないけど、あいつらが噂話しててさ。たまたま聞こえたんだけど、それが馬鹿にする言い方だったんだよ。クラスで浮いてる岩崎とは釣り合うよな、って」
 ムカつくでしょ、と誘うように言うが──
 怒っているポイントのズレは置いておいて、きっと岩崎は事の大部分を隠している。
 文化祭で対峙した男は、おそらく佐古田の存在をけなしていたんだろう。
 それはモザイク処理的な佐古田への配慮だろうが、正直どっちでもいい。結果的に男たちの会話は佐古田の耳に入ったが、別に腹立ちやしない。取り合うに満たないこと。ただ、
「俺のことで騒ぎなんか作んなよ」
「……え?」
「目つけられたらどうすんの、って」
 佐古田がキレてくるとは思わなかったらしい。
 急な展開に岩崎は黙り込んだ。機転を利かせるところが間違っている……と、佐古田は頭を抱えた。
 話が一旦中断となったあと、
「大丈夫。やりとりはすぐに終わったんだ」
 佐古田の友達にはたまたま見られただけで……と、ばつが悪そうに岩崎は頭を掻いた。呆れてしまう。
「時間の長さは問題じゃない」
 佐古田が斬ると、岩崎は咄嗟に笑みを用意した。
「でも、もうすぐクラス替えだから」
「いや、そういう問題でも……」
 語尾にかけて佐古田の声は小さくなる。
 会話はキャッチボールなはずなのに。今日の岩崎とは、まるでドッジボールの泥試合だ。ふいに剛速球が飛んでくるし、こちらが投げたボールはほとんどが避けられる。
「……今のはごめん。無神経は言い過ぎた」
 ごめん、岩崎はそう繰り返す。
 でもこれは『えっと』とか『あのー』と同列の繋ぎ言葉。無意味な謝罪。だから反応しない。だけど、
「変なことに巻き込んでごめん」
 油断した。
 顔を上げたら姿がなかった。
 目線で視界を確認したのち、慌てて振り返り、
「……佐古田?」
 背中の後ろから手を回すと、自分の元へ岩崎を引き寄せた。腕ごと挟んでぎゅっと抱きしめ、教室のドアを引かさせない。
「何、離して」
 困惑する声。無視はするが、ちゃんと聞こえている。岩崎の背中に耳をつけているから、話し声と一緒に振動も。
「ちょっと佐古田」
「離さない」
「手解いて」
「嫌」
「聞いてる?」
「うるさい」
「……佐古田、頼むから」
「無理」
 わがままな単語の連発に、自分でもゲシュタルト崩壊しそうだった。
 腕の中で体が膨らみ、一定のところまでしぼんでいく。岩崎がため息をついたのだ。
「佐古田にした説明が全部だ。包み隠さず全部言った。俺にはもう、何も話すことない」
 安心させるために優しく言ったんだろうが、佐古田にとってその発言は、岩崎をさらに強く抱きしめる材料にしかならなかった。
「……俺、帰らないと」
 そんな佐古田の振る舞いに本格的な不安を感じ始めたのか、岩崎は佐古田の手に自分の両手を置く。そして腰元に巻かれる腕を剥がしてこようとするから、
「帰んないで!」
 佐古田は全力で拒否をした。映画か何かで観た漂流中の人みたいに、死に物狂いで岩崎の胴に捕まる。
「帰らないと怒られるから」
 岩崎が身をよじりだす。岩崎のほうが背が大きいため、動かれると振りほどかれてしまいそうだ。
「もうとっくに下校時間超えて──」
「好きだよ」
 岩崎の動きが止まる。
 頭上の見えないところで、岩崎がこちらを向く気配がした。
「……そういうのいいから」
「よくない。俺は岩崎のことが──」
「もう終わったんだろ!」
 岩崎は叫び、驚いたこちらの隙をついて腕から逃れた。反動で佐古田は後ろに下がる。
「……佐古田も、結局そうなんじゃん」
 喉で引っかかったような、震える声で責められた。
「何が?」
「俺のことナメてかかって、おちょくって楽しんでるんだろ」
「そんなわけないでしょ」
 見当違いな決めつけを笑ったら、異なる種類で上書きされる。岩崎のは、うんざり、という笑い方だった。
「佐古田もあいつらと変わらないんだな。いや、あいつらよりもっとタチ悪い」
 二段階で侮辱されてムカついた。
「……ふざけんな」
 腹の底から低い声を出す。いじめ同然の扱いで岩崎を苦しめるあの男たちと、そんな岩崎のことを真剣に考える自分とが一緒? たまったものじゃない。ふざけんなふざけんなふざけんな──
「だったら、なんであんな態度取ったんだよ」
 音が出そうなほどの大きな動作で振り返ると、岩崎は佐古田を冷たく見据えた。
「好きっていうのが本音なら、なんで俺が告白したときに鬱陶しがったんだよ」
 鋭い指摘だった。
「一人には慣れてるって、思ってたのに」
 岩崎は悔しそうに唇を噛み、
「一人って他の人の目には惨めかもしれないけど、俺には何も辛くなかった。むしろ楽だった。一人はそれ以上に一人にならないから」
 そのあと一息でまくし立てる。
「……佐古田のことは割り切ろうって、頑張ってたのに」
「……ごめん」
「正月に送ってきたメッセージ。勘弁してくれって思いながら俺は返事してた」
「そう、なんだ」
「え……俺が嫌がってることわからなかったの?」
 佐古田が答えないでいると、岩崎は焦ったようになる。
「じゃあ、今日俺が会話早く切り上げようとしてたのも気づいてなかったの?」
「それは気づいてたよ。ただ、下校時間過ぎてるから焦ってるだけだと思ってた」
「……本当に空気読めないんだ」
 しらけたように言われた。
「これ以上がっかりさせないで」
 それを最後に言葉を継げなくなるまで。佐古田を批判しながらも、岩崎は終始悲しそうだった。
 時期を見計らって岩崎を盗み見たら、がくんと頭が垂れていた。自分よりタッパがある男の、しゅんと小さくなった姿。
 しばらく見つめ、佐古田は呟いた。
「……セーブかけてたんだよ」
 岩崎が聞いてくれていることを信じ、話し続ける。
「あんたへの気持ちを自覚したくなかったんだと思う。認めたら、不安になるから」
 岩崎の頭部がわずかに上を向いた。
「今のところ岩崎は俺のこと好いてくれるけど、前の人みたいに愛想つかされたらどうしようって」
 秀太くんが比較対象として挙がると、ぱっと目の前で顔ごと上がる。
「わかってる。これは岩崎じゃなくて、俺の勝手な都合」
「……本当にわかってんのかよ」
「理解してるよ。あのときは否定したけど、岩崎が俺を恋愛対象として見てくれてることも、自分の気持ちも」
 含みが生まれないよう、きちんと佐古田は釈明したのだが──
「……だったら、俺のこといつから好きだった?」
「えっ?」
「俺のどこを好きになった?」
 立て続けに聞かれた。
「えっと、それは」
「それは?」
 岩崎は緊張の面持ちで佐古田を見つめているけれど、気持ちは先行してしまうのか、瞳の奥で光が膨らんでいる。
 そんな相手に、この事実を告げていいものなのか。 潔い性格の佐古田が珍しく返答に躊躇してしまうのは──
「覚えてない」
「え?」
「覚えてないし、わかんない」
 ……やばい。一人の人間が現在進行形で青ざめていく。
「俺、嘘つけないんだって!」
 大急ぎで佐古田はフォローした。
「思ったことはすぐ口に出すし、思いついたら即行動に移しちゃう。なんかもう、馬鹿正直にしか生きらんないみたい」
 短所であるお節介もそう。誤解を招きやすいところもそう。佐古田が感じる生き辛さの大部分は、生まれ持った厄介なこの性格に由来している。
「だからさ、俺が言うことはマジなんだよ。気づいたら惚れてた」
 プラスチックレンズの奥で岩崎が目を見開く。
 ピアスのことで秀太くんに呼び出されるまで、佐古田はその存在を思い出さなかった。あれだけ辛かった別れなのに、だんだんと秀太くんを考える頻度は減っていった。
 それは岩崎と出会ったから。だんだんと、岩崎のことを想う時間が増えたから。
「時期とかきっかけとかはわかんない。だからって、あんたを喜ばせるような嘘も言えない。でも絶対あんたのことは好きなの」
 支離滅裂な、だけど心からの言葉。
 やっと岩崎には伝わったのか、リュックの紐を握りしめたままこちらへ歩んでくる。そして佐古田にぶつかる直前のところで両手を開くと──
「わっ……」
 突然、佐古田を抱きしめた。
 体当りされそうだった勢いのまま、容赦なく。逃げる気なんて佐古田にはさらさらないのにきつく、潰れてしまいそうなほどきつく、かき寄せられる。
 不意打ちで宙に浮いたままだった手を岩崎に回し、肩に顔をうずめたら、その力はさらに強くなった。
 隙間なく抱き合いながら、存在を確かめるようにときどき体を揺らす。そうやってしばらくの時間を過ごしていたけれど、
「ちょ……ギブかも」
 息ができなってきた。肋骨全体が圧迫されている。苦しい。
 岩崎はまだ理解っていないようだが、佐古田は白黒はっきりした人間でもある。
 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。無理と音を上げるときは本当に無理なときで、だから離せと言ったらすぐに離せ──
 痛い痛い痛い痛いと背中をばしばし叩いて、ようやく岩崎は抱擁の力を緩める。
「力加減とか知らねぇのかよ……」
「ごめん、なんか夢みたいで」
「だからって俺で確かめんな」
 佐古田がツッコむとそこで笑いが起きた。シリアスに張り詰めていた空気が緩み、ふっと岩崎が辺りを見渡す。
「やっと同じ教室だ」
 佐古田が呟くとこちらに振り返った。意味がわかっていなさそうな岩崎に笑って抱きつく。
「俺たち、一緒の教室使って一緒の座ってんのにすれ違ってるじゃん?」
 だから嬉しいなって。甘える心地で佐古田がそうこぼすと、
「え? ここはたまたま空いてた教室だけど」
 鬼のような添削がせっかくの雰囲気をぶち壊しにした。
「俺らの教室は三階にあるし、これから授業だから使われてるよ?」
「……あんたさ、ロマンチックとか知らねぇの?」
 体と体に余白を作り、間近で岩崎を見つめた。すると初めは苦笑いだった顔が、だんだんと真剣なものに変わっていく。
 首筋にそっと手を添えられる。熱の籠もった瞳を注がれる。
 陶器に触れているみたいな慎重な動き。いじらしいと思っていたけれど、
「……キスしていい?」
 それはただの痩せ我慢だと知った。いいよ、と答えるより前に岩﨑は顔を寄せてきて、あっ、こっちが首を傾けないと──そう察知した瞬間にはもう、唇が触れていた。
 しかし、おそらく不慣れなのだ。
 岩崎のキスはキスじゃなくて、まるで口封じだった。真っ直ぐぴったり重なっているだけ。
 動いてくれてもいいのに。そう思ってしまうほど、岩崎の唇は佐古田を密閉するみたいに離れない。
 そんな触れ方だから、すぐに自分たちは持たなくなった。二人ほぼ同時に顔を背ける。酸素が足りない。
 ──と、そのタイミングで校内アナウンスが鳴り渡る。
「あ……授業」
 始まってしまったな、ふと思い出して呟いただけだった。だというのに、
「今日は学校サボって」
 岩崎は首に当てていた手を佐古田の顎に滑らせて強引に自分のほうを向かせ──再び唇を重ねる。
 だけど、今回は違った。軽く触れるとすぐに離れ、また触れ、角度を変えて食んでくる。
「勉強なんかどうでもいいよ」
 キスの合間に岩崎が囁いた。
「え──」
 聞き返す単音がキスに飲まれる。
「もし授業ついていけなくなったら、俺が何時間でも教えてあげる」
「……い、岩崎?」
 また口づけられる。
「だからよそ事考えないで」
 岩崎は佐古田の肩に手を置くと、目線を合わせて大胆な発言を繰り出した。
「佐古田は好きになった時期もきっかけもわからないんでしょ?」
 言いながら、自然な動作で岩崎は足元にリュックを下ろす。いつの間にかコートを脱いで、荒っぽく近くの机に放り投げる。ブレザーのボタンも外してしまう。
「だったら余計な考え事しないで。今日の俺とのこと、絶対忘れないで」
 さっきは唇だけに集中していた勢いが、全身に分散されて迫ってくる。
 キスをしたまま、あっという間に佐古田は追い詰められてしまった。背中を打ち付けた衝撃でドアが振動する。
「ちょっと、バレるって……」
 定時制は小規模だとはいえ、ここは職員室と地続きだ。廊下に近い入口間際は危険すぎる。
 そういう意味で佐古田は制したのに、岩崎はノールックでドアに内鍵をかけた。
 これでいいでしょ、と言いたげなキスをされる。小さな音が響き、それをかき消すようにまたキスをされる。
 身を委ねているうち、もうなんでもいいや、という気持ちになってくる。誰にバレてもいい。先生に怒られてもいい。一度は拒んだ自分なのに、岩崎は許してくれたのだ。まだ好きでいてくれたのだ。
 せっかく二人きりの時間なのだから、もっと近くに感じていたい。岩崎の手は佐古田の頭を撫でているけれど、向こうからだけじゃ足りない。彷徨っていた手を岩崎の腰元に回す。指先でコートの生地を掴む。
「……ん?」
 夢の終わりみたいに、突然、唇が離れた。……なんで?
「邪魔」
 と言うと、佐古田に触れる手はそのままに、岩崎は片手で乱暴に眼鏡を取った。変装用の伊達眼鏡。岩崎は自分の胸を支えにして柄を器用に折りたたみ、ブレザーの胸ポケットに引っ掛ける。
 この男の素顔を初めて見た。装飾なしに合う目はすっきりとした奥二重で、こちらを見つめる角度によっては切れ長にも映る。鼻根は前髪に、鼻筋は眼鏡に遮られていたが、至近距離だと骨の質感が立体的にわかった。
 順番に視点を下ろして、唇。厚みが薄いそれは無口の現ればかり思っていたけれど──佐古田の視線を合図と解釈し、スローで近づいてくる。
 どうしよう、めっちゃタイプかも。気づいてしまった瞬間、柔らかな情熱に思考ごと噛まれて壊された。