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「めちゃ懐かしくね?」
「何が?」
「こうやって俺の家でゲームするの」
 言いながら、真鍋はコントローラーのボタンを連打する。
「前は昼飯食い終わったらうちに集合で、夕方までだらだらゲームしてたじゃん」
「懐かし」
「だから懐かしいなっつってんじゃん」
 画面では真鍋がめった打ちにした敵キャラクターがばたんきゅーといった感じで後ろに倒れ、自身の奮闘に真鍋は賛辞の拍手を送った。
 バイトのシフトも他の予定も特に入っていないある日の平日。昼間から佐古田は真鍋の実家にお邪魔している。
「あのときは楽しかったなー。バイトし始めたらそうもいかなくなったけど」
「今なんのバイトしてんの」
 次のステージに進んだアバターを操作しながら佐古田はたずねた。
「先週からはカラオケ」
「社割目当てだっけ?」
「まぁねー。俺、夢追い人だから」
 はぁ? と、たっぷりの呆れを込めて佐古田は目下のカチューシャ前髪全上げ男を見た。
 床に尻をつけ、ソファのシートクッションに体重を預け、リクライニングチェアに座っているような体勢で真鍋はだらけている。ソファの座面にきちんと腰掛ける佐古田にその表情は見えないが、きっとふざけた笑いを口元に作っているんだろう。
「バンドメンバーに武道館の景色見せてやるんだ、俺が」
「それまだ言ってんのかよ」
 どこの誰に刺激されたのか。ロックバンドで天下を取るんだと、真鍋がギターの練習を始めたのは佐古田が中二の夏だった。指先が痛すぎる、コード進行とか意味不明すぎると、白旗を上げたのは同年の夏の終わりだった。
「佐古田も仲間入れるけど、どうする?」
「俺を勧誘するな」
「今なら好きな楽器選べるぞー」
 通販番組かよ、と思ったところで「でも」と真鍋が、
「カラオケで働くのいいな、とは前から思ってたよ。社割もらえるところも含めて」
「やっぱそうなんじゃん」
「前に佐古田と俺と眼鏡くんとでカラオケ行ったっしょ? 覚えてるかな。あんとき受付にいた店員さん、二人とも若い人だったじゃん?」
「へぇ、よく見てるな。全然気にしてなかったわ」
「働くなら同世代多い環境がよかったし、それに俺がシフト入れるのって昼間じゃん? 昼間っておじいちゃんおばあちゃんメインだから──あ、佐古田! 後ろ回って!」
 雑談をしながらも真鍋は動きの指示を出した。佐古田は言われた通りにアバターを走らせる。装備の金属音が重たい音を立てる。
「ていうか、眼鏡くん大丈夫なの?」
 たった今思い出したみたいな調子で真鍋は問いかけた。
「大丈夫って?」
 佐古田が聞き返すと、え? と真鍋は動揺を見せた。
「昨日俺がちょっと早めに学校着いたんだけど、そしたら校門のところで眼鏡くんが喧嘩してたっぽくて」
 喧嘩してた?
「それ岩崎じゃないだろ」
 人違いだろう。だって岩崎だぞ? 揉めるにしても相手が必要で、でも岩崎はクラスで──
 とにかく。岩崎は静かな性格だ。喧嘩なんてありえない。
「いーやいや、俺の記憶力のよさナメんな。あれは絶対に眼鏡くんだったね。黒い眼鏡かけてたし間違いない」
 黒縁眼鏡の高校生なんていくらでもいる。しかもあの高校は進学校だ。眼鏡着用率が高そうじゃないか。
 その旨を真鍋に伝えたが、首の横振りで否定される。
「だって俺はこの目で見たからさ。喧嘩っていうか、口論になってたのよ」
「それ本当に岩崎?」
「多分ね。暗かったからよく見えなかったんだけど、文化祭のときに佐古田がシメた男といたよ」
「……は?」

 *

 どういうことだ。レジカウンターの中、佐古田は考えを巡らせる。
 真鍋の見たものが正しいなら、岩崎はあの男からまた悪さをされているというのか。
 数か月前に招待してもらった文化祭。教室前での場面を佐古田は回想する。
 直前までリアルタイムで取れていた連絡が途絶え、そのわけを岩崎に問いただしていたところ、廊下の向こうから走って現れた男。
 責任感のかけらもない薄っぺらい笑みからは白い歯が覗き、部活で日によく焼けた肌のせいでよく目立った。その対比は、胸糞悪い奴、という印象を佐古田に残す。
 こいつが岩崎に落ちる影だ。直観でそう思った。
 コンビニでの説明ではそれが具体的に誰であるがぼやかされていたが、佐古田にはなんとなく事の全容が見えた。岩崎の机を漁ったのも、勝手に私物を触っていたずらをしたのもきっとこいつだ、と。
 もしそれが佐古田の考えすぎだとしても、あの男は岩崎に向かって『ぼっち』と、ひどい単語を平気で浴びせた。それは佐古田の怒りに触れる発言。
 誰が誰といようと、何人でいようと、そんなのは個人の自由だというのに。
 佐古田はある意味で男を哀れみ、鼻で笑ってお見舞いしてやった。
 ぼっちか、ぼっちじゃないか。そんなくだらないことで相手への態度を変える奴は、たとえ大勢が周りにいようと寂しい奴なのだ。
 一発痛い目を見せてやるかと男を釣り上げたが、正体が分かった瞬間に即刻でリリースした。こちらが長く取り合ってやるに値しない雑魚だった。
 ちょっと、佐古田がほんのちょっと凄んだだけなのに、岩崎に用事を押し付けるときのニヤついた顔とは打って変わって、男は表情筋をカチコチにさせた。
 その後がどうなったかについては知らない。佐古田から深堀りはできなかったし、元より、一緒にいるとき岩崎が佐古田の私生活についてたずねることはあっても、その逆はあまりない。岩崎にとっての学校は居心地悪い場所なんだろうと察するからだ。
「合計七点で、二〇八五円です」
 真鍋が語る目撃談の信ぴょう性はどれほどだろうと思いつつ、おばあちゃんが小銭をゆっくりと数えるのを佐古田は見守る。受け取ったら精算。二、一、〇、〇。ピッピッピッピッとレジスターを操作する。
「こちらレシートと十五円のお返しです」
 べぇっと吐き出されたインク紙を切ると佐古田はお釣りをトレーに置き、商品を手渡そうと──
「お兄ちゃん、ちょっと」
 ……俺? 俺だ。おばあちゃんと目が合った。給食マスクにくぐもった声で呼び止められた。
「どうされましたか?」
 何か不手際があっただろうかと焦る。
「それ、その、ぐるぐるやめていただける?」
 物柔らかな喋りをゆっくりと咀嚼したのち、佐古田は首を傾げた。
 指示語の特定に苦労する。ぐるぐるってなんですか? とおばあちゃんを見つめたが、両手は手押し車のグリップ、目元には薄紫のサングラス。
 参考にならなかったので、小柄なおばあちゃんの背丈に合わせて佐古田は腰をかがめる。
「あの、ぐるぐるって……あ」
 質問しかけて、ようやく気づく。手元。白のレジ袋。
「……すみません」
 佐古田は慌てて手持ち部分を解いた。二本あるレジ袋の持ち手だが、ぐるぐるとねじって一本の輪の形にしていた。
 改めて渡したレジ袋は、おばあちゃんによってがさっと外から鷲掴みにされる。
「どうせレジ袋の封は全部縛っちゃうのよ。買い物した荷物は全部この中に入れるから」
 と、おばあちゃんは愛車のハンドルを軽くひと叩きした。ごめんなさいね、と申し訳なさそうに言われたので、いえ……と応じる。
「……ありがとうございました」
 キルティングコートの丸い背中が小さくなるまでを見届けると、佐古田は深く息を吐く。
 よかれと思ってしたことだった。無意識のミスじゃないから凹む。
 高齢のお客さんに商品を渡すときはいつもああしてきた。会計に時間が掛かることを申し訳なさそうにするから、少しでも負担が減るようにと。レジ袋はそのまま渡すより、持ち手を一つにまとめたほうがカウンター越しに手を伸ばしても受け取りやすいんじゃないかと──
 たまたま指摘されてこなかっただけで、佐古田のひと手間は迷惑だっただろうか。
 ──温のストレートな話し方には好感持つけど、自分がそうだからってみんながみんな、温にはっきりした態度とってくれるとは限らないよ
 ──大人なんて特にそう、本心は隠すんだよ
 秀太くんの言葉がふと思い出され、夕立みたいな不安が心に広がった。
 真鍋が見たという場面に自分は無関係じゃないのかもしれない。文化祭における自分の振る舞いが引き金だったらどうしよう。
 そう考えると気が気でなく、佐古田は残りの勤務時間を晴れない気持ちで過ごした。

 *

 店の外に駐輪した自転車。開錠してスタンドを蹴り上げる。すると、タイヤ半回転分ほど車体は前方に進んで、がたん! と揺れた。肘の辺りまで伝わる振動。いつもより動きが大雑把になったのはフラストレーションのせい。
 聞きたくても聞けない。聞きたいのに連絡できない。
 岩崎、お前、大丈夫なのかよ。あの男と言い合いになってたって、それマジなの? なんで? あんたが何も言わないのは無事なサインだって思ってたのに。
 胴と腕の内側。ダウンコートのつるつるした表面同士を滑らせ──冷静になる。
 違う。違うんだって、これは。
 俺はポケットに鍵をしまおうとしただけ、それだけ。スマホを取り出そうなんて思っていない。
 心の中で誰かに言い訳をすると、佐古田はそそくさとサドルにまたがった。
 空を染める濃いグレーとオレンジの境目、そこを狙うみたいに自転車を走らせる。一月ももう終わり。日没の時間は前より少しだけ遅くなった。冬の中でも季節は移ろっている。
 もうすぐで到着完了──だった学校の校門手前。佐古田はブレーキをかけて自転車を減速させ、植え込みに添わせるようにして車体を停止させた。
 校舎側からシルバーの車が発進してきたのだ。運転席にいたのはおじさんで、ハンドルから右手を離すと、軽く挙げ、礼の意を伝えてくる。こちらは軽く頭を下げる。
 高校関係者だな。思いながら佐古田は再びペダルを踏む。するとまた教師らしき、今度は細身の男の人がビジネスバッグ片手に歩いてくる。会釈されたので、会釈を返した。あの人は前も見たことがあって、そのときも挨拶を交わした。律儀な人だったから覚えている。
 照明が眩しい校舎に入ると、佐古田は下駄箱に歩んだ。
 落とす。曇り、晴れ。曇りのまま、やっぱり雨。すのこの上でスリッパが横転する。
 足先で状態を整えてつっかけると、佐古田は姿勢をかがめ、脱いだばかりのスニーカーを持ち上げた。立方体の形になったロッカーの空洞に突っ込む。がごん、と重たい音が響く。
 辺りはしんと静かだ。
 時間に余裕を持って登校しているから、というのもあるが、全日制に比べて定時制は生徒数が少ないのだ。
 一クラスに在籍するのは二十人と少し。佐古田が授業を受ける教室は、いつも約半分が空席のまま使われない。生徒数が少なければ教師の数も少ない。
 誰もいないからいいよね、と佐古田は顎関節が外れる寸前の大あくびをした。眠たい。労働後に四時間勉強しなければいけないのはきつい。
 自転車通学は有酸素運動だ。ぽかぽかと高まった体温が眠気を助長させる。化学繊維によって閉じ込められた熱に体が汗ばんでくる。
 上着の前を開けようかと思ったところで──
 どこかから物音。佐古田は顔を上げる。
 そうしたら前方の視界で引き戸がスライドして開き、若い女の人と制服の男子とが連続して現れた。会議室の隣なので、たしか学生相談室。
 普段は素通りする場所について思い出していると、こちらに背を向ける──おそらく女性教師が小さく何かを言った。
 その呟きに、扉を後ろ手で閉めていた男子高校生が振り返る。
 佐古田は目を見開く。
 数メートルの向こうで、同じ表情変化が起きる。
 お互いが、お互いの心で名前を呼んだ。
 閃光のようだった驚きは、光の粉となって二人の間に舞い、膠着状態へともつれ込む形で緩やかに積もっていく。
 女の人はそのまま進行方向へと歩いていったので、廊下には佐古田と岩崎とが残された。
 長引く沈黙は動物的なものだった。少なくともこちらはそう。
 何を思っている。じっとこちらを見てくる岩崎の瞳に、佐古田はその意図を探った。
 しばらくすると、根負けしたように岩崎が目線を外す。それは自分から取ったアクションなのに、岩崎は落ち着きをなくす。ここまでは佐古田の想定内。肝心なのはここから。
 この男が次にどう出てくるのか。今が重要な局面。その一挙手一投足を見逃さない、と佐古田は瞬きを我慢する。
 ふと、こちらに向かって岩崎が一歩を踏み出してくる。二歩、三歩。自分たちは近づいてくる。
 声を張ったら届く距離。自然に会話できる距離。表情がはっきりと見える距離、を過ぎて、交差──
 させない。
 通り過ぎようとする手首を、佐古田は強く掴んだ。
 ウールの生地越しに手首を握ったまま、佐古田は岩崎に選択の猶予を与えた。
 振り払う。逃げ出す。好きにしていい。だけど、岩崎は足裏に根が張ったみたいに動こうとしない。
 無言は肯定。佐古田は強引に解釈し、岩崎を連れてずんずんと廊下を進んでいく。