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 翌日。帰宅しようと校舎を出たら、見えない糸で引き止められた。
「岩崎くーん」
 意地の悪い声に振り返ると、例のサッカー部三人が少し離れたところで自分を待ち構えていた。岩崎を呼んだらしい小島がこてっとこちらに首を傾けてくる。ぶりっこみたいな仕草。うまいこと作りきれていない笑顔。気色悪い。
 漫画にありがちな展開だと俺は人気のない場所に連れて行かれ──と予想した通りに小島は遠くを顎で示し、あっち、と岩崎を促した。
 九月末の連休から変わった気温。衣替えが追いつかない早さで季節は一気に冷え込んだ。歩きながら、岩崎は紺カーディガンの袖を指先まで伸ばす。校舎裏へ着くと、びゅうっと強く風が吹いて鳥肌が立つ。
 ひとけのないところで小島は足を止めて振り返り、そして岩崎に問いかけた。
「お前、何で呼ばれたかわかる?」
 知るかよ──とは言えないので首を振る。
「わかる? って」
 うるせぇな、繰り返されなくても聞こえてるわ──と言い返す妄想を膨らませながら、反抗心を悟られまいと岩崎はうつむいた。目は口ほどに物を言うらしいからまぶたも閉じ、体全体でだんまりを決め込む。
 しかしその態度も反抗と思われるのか、ごちゃごちゃと小島たちは吠えている。
 じゃあ俺はどうすればいいんだよ。文句を言いたくなったが、騒ぎ立てるのを聞きたくないのでやはり黙っておく。
 すると小島は堪忍袋の緒を切らし、
「お前、告げ口しただろ」
「……え?」
「担任にチクっただろって」
 それは身に覚えのない容疑で岩崎はぱっと目を開けた。小島は片足に体重を乗せ、横柄に腕組みしながら軽蔑の目でこちらを睨んでいる。
「担任にチクった? 俺が?」
 発言全文がわからなくて、発言全文をそのまま返した。間抜け顔だろう岩崎に小島はさらにイライラとし始める。
「昨日の数学だよ! 山本呼びに行くの俺らが止めたって、担任にチクっただろ?」
 ぷるぷると首を振り、身の潔白を岩崎は主張する。チクるだなんてとんでもない。昨日のうち担任と話したのは面談時間だけだ。
 しかし小島は納得してくれず、控え選手だったツレ二人まで出動する事態となる。
「しらばっくれんなって」
「今日の昼休み、小島が担任に呼び出されたんだよ」 
「呼び出された?」
「あぁそうだよ。岩崎くんとは友達なの? って」
 あぁ嘘、信じられない──
 視界が暗転して、ふらっと倒れそうになった。貧血というやつだろうか。
 あと一歩で後頭部にたんこぶを作るところだったが、担任への不信感を杖になんとか踏みとどまる。
 誰の目にもいびつな岩崎と小島らとの交友関係。だというのに担任は、どうしてそうもストレートなナイフを振りかざしてしまう──
「ナメてんの?」
 さらに怒りを深めた口調で小島が距離を詰めてきた。靴裏と小石とをジャリジャリ擦り合わせながら岩崎は後ずさる。
「……ナメてない」
「調子乗ってるとしか思えないけど」
 なぁ? と小島が岩崎の襟を掴む。第一ボタンまで留めた制服シャツで首が絞まり、窒息寸前となる。
 きつく目を閉じ、歯を食いしばった。こめかみとエラを固くする。
 わりと本気で殴られると思ったから。
 でも、殴られなかった。すんでのところで制止が入ったのだ。
「まぁまぁ小島、落ち着いてって!」
「でもよ」
「百パーこっちが悪くなるからさ」
「それに、殴ったら手痛いよ?」
 まぶたを開いたとき目にしたのはツレ二人が小島をなだめる光景で、舌打ちのあとに岩崎は解放された。

 *

 覚えとけよ、なんて捨て台詞。現実で使う人がいるのか。
 ふとそんな感想を抱いたのは、小島らが立ち去ってから移動した屋外駐輪場でのことだ。
 首にピキピキと筋を立てて興奮した様を思い返す。キレる小島といえば呼び出されて見るに値する滑稽さだった。
 その姿は何かに似ているのだが、なんだったか……あ、パーティーグッズ。眼鏡のレンズ部分が青い瞳の目玉になっていて、窓のブラインドの要領で紐を引っ張ったらまぶたが見開かれるやつ。やばい、めちゃくちゃそっくりだ。
 時間が経つほど冷静になるぶん面白味は増して、くつくつとウケてきて、それが限界だった。
 無自覚のところで、心には大きなダメージが入っていたらしい。
 校門を出て自転車を漕いでいたら、横転した。
 十数メートル先の信号を見据え、あぁもう少ししたら赤だなと思っていた矢先の出来事。
 地面に落ちていたプラコップを避けようと左にハンドルを切ったら、そのままバランスが取れなくなったのだった。ぐらぐら手元が揺れるのを立て直せないまま、あれよあれよと一瞬だった。
「痛ってててててて……」
 そろそろと体を起こしていく。
 辺りを見渡す。幸いにも目撃者はいなかった。車道だったので通りがかりの運転手には見られたかもしれないが、走り去っていっただろうからセーフ。
 地面に目を落とす。
 自分の体を巻き込んで倒れた車体。前カゴに入れていたはずのリュックサックがアスファルトにごろりと転がっている。
 それから岩崎愛用の黒縁眼鏡。一瞬のうちに、どういう転倒の仕方をしたんだろう。だいぶ離れたところに吹き飛んでしまっていた。
 頑張って腕を伸ばし、手に取り、装着。鼻骨に乗るわずかな重量が岩崎にようやくの落ち着きを連れてきてくれる。
 起き上がってからしばらくは左半身への痛みに気を取られていた。
 しかし顔面に走る刺激を感知したとたん、思わず岩崎の表情は歪む。
 コンクリートで擦りむいたらしい。顎から血が出ていた。そよ風が吹いたときに妙な清涼感を顎先に覚え、確認してみるとその指先が赤く濡れた。
「最悪だ……」
 呟くと鉄の味がする。唾を飲み込もうとしたタイミングだったが躊躇するほどに。
 口内を舌先で触れてみると、より濃い血の味が染みて広がった。うげっと顔の下半分を押さえる。
 傷口と当たるちょうどの位置には下の犬歯。倒れた拍子に刺さってしまったのだろうか。
「くそっ」
 痛くない右手をついて岩崎は立ち上がり、ジリジリジリ……と余韻が回る自転車を乱暴に起こした。

 *

『安心・親切! よしおか歯科医院(歯のマーク)』
 岩崎の家は近所名物である巨大看板を曲がった先にあるのだが、無視して通り過ぎる。くそ。
 口の中が血で生臭い。とにかくズキズキして、これは白く膨れて口内炎になるパターンだ。くそ。もう血は止まり、表面も乾いているが顎の擦り傷もなかなかに痛い。くそ。とにかく左半身。打ち身というんだろうか。まぁ頭を打たなかったのはよかったけど……って、全然よくない。
「あー! くそ!」
 誰もいないのをいいことに、岩崎は短くシャウトした。むしゃくしゃするから手元のベルをかき鳴らしてやろうかとも思ったが、ここは閑静な住宅街と思い直す。
 自転車でコケたのは胸ぐらを掴まれて動揺したから。胸ぐらを掴まれる原因は担任の余計なひと言。担任のちょっとずれた正義感というのは個人面談のときから窺えたもので、それが働いたのはいじめの予兆を岩崎に感じたからだろう。担任は山本から報告を受けたという。山本は数学教師で、昨日の授業に遅れてきて──
「全部、あいつらのせいじゃねぇかよ……」
 苛立ちが最高潮に高まり、岩崎の口角はピクピクと引きつった。本当は思いっきり歯を食いしばりたかったが、そうすると顎の皮膚が突っ張るから我慢した。
 でも抑えの効かない感情はどうにかして発散させたい。ともすればペダルを踏む足に力が籠もる。
 秋風と怒りをエネルギーにして走らせた自転車。店の外壁に沿わせて停める。
 ここはエビスドラッグ◯✕駅前店。
 オープンしたのは一年ほど前だったか。長らくテナント募集していた敷地にいつの間にか建っていた、全国チェーン展開のドラッグストア。
 初めは違う店に寄るつもりだった。
 駅前だと母親から買い出しを頼まれて訪れたことのあるヒノキ薬局があったな──と思い出しながら通学路を走行していたのだが、信号待ちに発見したエビスドラッグが駐輪しやすそうな店の造りで、岩崎は気軽にハンドルを向けた。
『何でも揃うよ! さんっはい、せーの! お薬、コスメ、お菓子に雑貨……』
 入店前から聴こえていた大特価を宣伝する音楽は店内に入ると嫌がらせレベルの音量で、耳を塞ぎたくなった。
 まず最初に足を止めたのは消毒液コーナー。擦り傷はとりあえず消毒殺菌、と腰をかがめ、そこに唯一あったボトルを手に取る。
 そのあとは近くの絆創膏コーナーへ。こっちには色んなメーカーの商品があったが、適当に大判のものを選んだ。傷を保護できるなら何でもいい、じゃあ安いやつという思考回路。
 他に用はないので、商品二点を手に会計へと向かう。二台体制で稼働するレジはどちらも三、四人が並んでいた。岩崎は適当に左列へと寄り、その最後尾につく。
 平日の夕方なのに、店内には思っていたよりも多くの客。ドラッグストアって儲かるだろうな。だから駅前に乱立するのかな。そんな下世話なことを考えていると──
 あ、と気がつく。隣のレジで商品の精算をしているのが同校の男子生徒だた。岩崎には後ろ姿しか見えないが、着ているカーディガンがそうだ。
 何年生だろうとわずかな興味が湧き、しかしそれは一瞬で消え失せる。男子生徒の肩に提げられるサッカーバッグ。岩崎は目を逸らしてうつむいた。
 うちのサッカー部員にはろくな奴がいない。全くの偏見だが、少なくとも岩崎のクラスはそう。小島とそのツレ二人。
 あいつらは姑息だ。人を笑い者にしても証拠は絶対に残さない。
 さっきの校舎裏もそう。かっとなった小島が手を上げそうになったら、ツレ二人がうまく機嫌を取って諌めた。クズとクズとクズの連携プレー。
 その後、岩崎は怪我をしたわけだが、自転車ですっ転んだのは自分の運転ミスであり、あいつらは関与していない。当然、納得はできないが。
 小島たちが向けてくるのは、あくまで岩崎が被害を訴えるには満たない程度の攻撃。自称進学校に通う生徒だ。大学進学に必要な調査書へ傷をつけたくないんだろう。
 でもまぁ俺が学校に言ったら一発アウトだけどな。岩崎はいつも心の中で鼻を鳴らしている。
 ときどき実施される生活アンケートの一つ。それこそ、岩崎から担任への密告一つ。あいつらを追い込むなど簡単だ。俺が大人な対応をしてやっているだけで、お前らはいつだって瀬戸際にいるんだぞ。
 そうやって馬鹿にすることで保たれる心の均衡がある。
 それでも、昨日今日と最悪の出来事が続いてしまうと辛い。強気なメンタルも、所詮はまがい物と痛感させられるからだ。
「──お客様ぁー、こちらレジ空いてまーす」
 一人落ち込んだ岩崎を揺り起こしたのは、くだけた店員の呼びかけだった。
 はっとしてレジへと進むと、同い歳くらいか少し年上に見える店員が手を挙げていた。会計こちらです、と。
 男で茶髪で痩せ型で、今風の若者だなと思った。あと、ちょっとチャラいかも。以上。
 普通、買い物に行っても自分を接客するレジ店員のことをじろじろ見たりしない。台にカゴを置くとき、ちらっと姿を確認するかどうか。それで終了。商品を受け取るときも視線は常に自分の手元。
 今しがたバーコードリーダーを握った店員についても、岩崎は一切として顔など見ていなかった。だから、
「こちらの商品でよろしいでしょうか?」
 唐突に声をかけられ、顔を上げたとき。店員と岩崎とでばっちり目が合い、声が出そうになった。
 店員の目が自分を待ち構えていたことにも驚いたし、なぜか消毒液が差し出されていて意味がわからない。
 そんな岩崎に店員はたずねた。
「こちらの商品、お買い上げになられますか?」
「は?」
「こちらの消毒液でお間違いありませんか?」
 ……何? どういうこと? どういう日本語? 買っちゃいけないのか?
 いまいち理解できないでいる岩崎に、店員はひとつ喉を鳴らした。
「この消毒液、正直買わないほうがいいですよ」
 いきなりのフランクな敬語。いつもを忘れ、岩崎は店員の顔を凝視した。
「買わないほうが、いい?」
「はい。だってこれ効かないんですもん」
 二重とセットで備わったような涙袋を持ち上げながら、店員は内緒話のトーンで岩崎に告げる。
「エタノールの匂いはするけど、全然効果ないです」
「……効果がないんですか?」
「実はね。それに、その傷だと超染みると思いますよ」
 と視線が注がれる先は顎。岩崎が怪我の箇所に手をやると、痛そう、と店員は顔をしかめた。
「でも、消毒液ってだいたい染みるものなんじゃ──」
「転んだんですか?」
 店員はカウンターに手をついた。
「は?」
「すごい擦り傷」
 身を乗り出す勢いな店員とのやり取り。隣のレジに立つ高校生か大学生っぽい女性店員と、会計中のサラリーマンがちらっと岩崎を見る。
 顔やら耳やら首筋やらが、ぶわぁっと急速に赤くなる。
「チャリとかで?」
 空気を読まない店員がたずねてくる。
「まぁ……そんなところです」
「うわぁ……ずてーんって、顔からいっちゃったみたいな?」
 黙れ黙れ黙れ黙れ──
 噛み合わせた前歯と前歯の隙間からすぅっと息を吐き、腹が立つのをなんとか鎮める。
 おい店員、周り見ろやめっちゃみんな俺のこと見てんだろうが声でかいんだよ配慮を知らねぇのか──
「棚に一種類しかなかったので。これにしておきます」
 割り切って、岩崎は店員の手中からボトルを奪おうとした。まだバーコードを読み取られていないそれだから、改めて会計に出そうとしたのだ。
 しかし店員は俊敏な動きで消毒液をぱっと上に取り上げる。岩崎の手はすかっと宙を掻く。
「そこにヒノキ薬局あるの知ってます?」
 店員は明後日の方角を指した。
「それが何か?」
「ここよりもっと駅近のところにあるんですけど、あそこはなかなか品揃えいいですよ」
「は? いや、だから──」
「あと近所にはウメモトツヨシもありますし、国道沿いに行ってもらったらドコカラファインも──」
「もう結構なんで!」
 荒げた語気で言葉を遮った。店員の口はようやく止まる。
『何でも揃うよ! さんっはい、せーの! お薬、コスメ、お菓子に雑貨……』
 流れっぱなしの明るい店内放送が自分と店員とを繋いでいる。
 唇を噛む自分とは真反対の表情。店員の口はあんぐりと開きっぱなしだ。この店員は悪気なくデリカシーがないらしい。
「……会計お願いします」
 がばっと財布の小銭入れを開くと、ぴったりの額を勘定してトレーに置く。本当は札を崩すつもりでいたが、余計な会話をこの店員と交わしたくなかった。
 それ以降は改心したのかマニュアル通りの接客となったが、
「お大事に!」
 商品を手渡すとき店員に声をかけられた。しかし岩崎は、それを一切無視して店を出た。
 心配を無下にしてしまっただろうかとわずかに申し訳なく思ったが、いや恥をかかされてから気遣われても、とすぐに気持ちを切り替えた。
 その足で駅構内のトイレに向かい、手洗い場の鏡の前。
 あの店には行かない。二度と行くか。少なくともあいつがいるレジには並ばない。絶対だぞ、と心に刻む。
 だけどあの若い店員の勧めは正しく、垂らした消毒液はピリピリと傷口に染みて痛かった。