3
岩崎に語った通り、秀太くんとの別れは突然だった。
いつものデートと変わらない誘われ方で訪ねたワンルームの部屋。ドアを引き開けた瞬間。
サンダルの穴から覗く甲をひんやり撫でたエアコンの冷気に、ふと佐古田は足を止めた。
違和感と呼ぶには足りない何か。かすかなそれは、出迎えてくれた秀太くんの笑顔に消えた。
熱かったでしょ? と、秀太くんはキンキンの麦茶をグラスに注いでくれたけれど、今振り返ってみれば、その姿はどこかそわそわと落ち着かないようだった。
自分を呼び出したのは、相談事があるからだろうか。
そんな悠長なことを考えていた佐古田に対し、秀太くんは改まったようにソファへかけ直すと、
──別れよう
提案じゃなく、結論を口にした。
秀太くんの発言に冗談を疑う余裕もなかった。別れという単語は佐古田の思考をひと吹きで飛ばし、何も考えられなくさせた。
──どうして
しばらくしてようやく、第一歩となる疑問を聞くことができた。
──これから本格的に研究が始まって忙しくなるから、温に寂しい思いさせるなって
なんとも神妙な言い方。佐古田が理解に苦しんでいると、
──わからないかなぁ
呆れからきた困惑のような、困惑の末にきた呆れのような。秀太くんの呟きは複雑な意味合いがありそうだった。
──温って、遠回しの言葉通じないよね
──温のストレートな話し方には好感持つけど、自分がそうだからってみんながみんな、温にはっきりした態度とってくれるとは限らないよ
──大人なんて特にそう、本心は隠すんだよ。そんなんじゃバイト先の人間関係でもそのうち困りそう
嫌味な感じで言われた。
──思うことがあるなら、ちゃんと教えて
苛立ちと焦りが混ざると声が震えた。
──俺、全部言葉にしてくれないとわかんないんだって
──でもこっちに落ち度があるなら直そうって思うから。直せるように頑張るから、だから何か言ってよ。お願い。
懇願する佐古田がまるで見えていないみたいに、別れの日の秀太くんはずっと沈黙を貫いていた。
エアコンの送風音だけが響く静寂が長引くほど、秀太くんが自分に何かしらの不満を抱いていることが確定されていく。
押しても引いても、体当たりで破ろうとしても。びくとも動かないドアの前で立ち尽くす心地だった。
もうこのまま話は流されてしまうのかな、諦めかけたころに秀太くんが呟く。
──好きな人ができた
手間だからと端折ったわけではなさそうで、それが全てという感じだった。
秀太くんが口を割るまでさんざん待っていた佐古田だから、そのころには落ち着きを取り戻していた。笑い交じりにたずねる。
──それ本気?
本気で言ってるの? そんなバレバレの嘘を俺が信じるって、本気で思ってるの? 佐古田の半笑いにはそんな二つの意味がかかっていた。
好きな人ができた、なんて。
こういうときの常套手段じゃないか。円満に関係を解消させたいときの切り札じゃないか。
──ごめん
肩を落とし、窮屈そうに秀太くんは言った。
別れ際の模範的な謝り方だな。この時点の佐古田は、まだ高みの見物で事態を傍観していたけれど、
──裏切ってごめん
短いワードに、冷え切った現状を知らしめられた。あぁ、そうなんだ。俺って裏切られたんだ。
──最低だな
──ごめん
──くずじゃん
──ごめん
それから先は、佐古田がどんな言葉を向けようと枝が伸びて会話になることはなく、全部が謝罪となって散った。
婉曲な表現を汲んでくれと頼んだ恋人は──恋人だった人は、その終焉に、これ以上ないほどストレートな言葉を佐古田に吐かせた。
*
「お疲れ様でした」
一声かけて、軽く会釈をする。「お疲れ様でした」と返されるとを耳にしながら、佐古田は休憩室をあとにする。
爆音で流れるエビスドラッグのテーマソングをくぐり抜けて、店の外に出たら、風がびゅうっと体を叩きつけた。
駐輪させていた自転車に鞄を乗せ、鍵を回す。スタンドを起こすためにハンドルとサドルをそれぞれ押さえたら、手のひら全体に冷たさが伝わった。師走の寒さだ。
ダウンのポケットからスマホを取り出す。サイドボタンでロック画面を起こす。バイトの時間で溜まった通知を捌いていくのだが、メッセージアプリに届いていたのは中学時代の友人からの連絡のみだった。
岩崎からの便りはない。
登校時間であったが、学校へ行く前に佐古田はコンビニへと寄った。学校では給食が出るのだけれど、それだけでは腹が減ってしまう。
コンビニでは惣菜パンと炭酸飲料を買った。会計を済ませて店を出ると、自動ドア近くに立てられたフラッグがパタパタとはためいていた。今日は風が強い。
すると、一瞬、強く吹いた風に煽られて旗が倒れてしまいそうになる。佐古田は慌ててそれを掴んで止める。
あれは秋口。自分と岩崎はここのコンビニにて偶然再会した。
失くしたと思っていたノートを岩崎が持っていたことにはテンションが上がったが、それが破れてしまったと聞いたときには、正直「はぁ?」と思った。だけど、
──すみません。これは、わざとじゃなくて
申し訳ないと心から思っている口調だったし、何より岩崎の顔を見たら怒る気になんてなれなかった。絆創膏が貼られた顎。自転車でこけた翌日に、他人に謝罪する羽目になるなんて、佐古田の目にも踏んだり蹴ったりだった。
──じゃあ俺に勉強教えて
──俺はタダで勉強教えてもらえてラッキー。あんたはあんたで罪悪感減るんだから、なかなかフェアだって思わない?
あの瞬間、佐古田は詐欺師だった。優しさを装って、自分の思う通りに会話を誘導した。
恨まないでほしいと思う。
長い間、秀太くんが占めていた心の大部分。陥没するみたいに心に空いてしまった穴に気持ちが落ちてしまわないよう、別の何かで塞いでおく必要があったのだ。
定時制高校に入ったきっかけも、そこで頑張るモチベーションも秀太くんのためだった。その存在なきあと、勉学に励む目的とはなんだろう。
考えてもわからないけれど、でもとにかく暇な時間は作りたくなかった。
勉強は手頃だ。没頭でき、誰にも迷惑をかけず、そして終わりがない。
アドリブだったのに、うまいこと事を運べたものだと、コンビニでの自分には感心してしまう。納得いかない様子ではあったが、岩崎の首を縦に振らせることができた。
ワンルーム六畳、狭いあの部屋で秀太くんは自分を騙した。
研究で忙しくなるから、なんて。
付き合い始めた当初からレポートや実験やらで大変そうではあったから多忙になるのは事実なのかもしれないが、巧妙な手口だった。秀太くんが大学でいかに生活しているかなんて、佐古田にはどうしたって知り得ない。
柔順な人なら簡単に受け入れてしまいそうな理由。あたかも事実のように言った秀太くんを、佐古田はずるいと思った。
でもどうだろう。秀太くんは悪い人なんだろうか。
最後に岩崎と会った日。佐古田だって、同じ方法で岩崎を丸め込んだ。
正直に生きていたいと思っていても、仕方なく嘘を使う場面はあるのかもしれない。
誰かとの季節を心に残したまま、他の誰かを好きになることだって。
岩崎に語った通り、秀太くんとの別れは突然だった。
いつものデートと変わらない誘われ方で訪ねたワンルームの部屋。ドアを引き開けた瞬間。
サンダルの穴から覗く甲をひんやり撫でたエアコンの冷気に、ふと佐古田は足を止めた。
違和感と呼ぶには足りない何か。かすかなそれは、出迎えてくれた秀太くんの笑顔に消えた。
熱かったでしょ? と、秀太くんはキンキンの麦茶をグラスに注いでくれたけれど、今振り返ってみれば、その姿はどこかそわそわと落ち着かないようだった。
自分を呼び出したのは、相談事があるからだろうか。
そんな悠長なことを考えていた佐古田に対し、秀太くんは改まったようにソファへかけ直すと、
──別れよう
提案じゃなく、結論を口にした。
秀太くんの発言に冗談を疑う余裕もなかった。別れという単語は佐古田の思考をひと吹きで飛ばし、何も考えられなくさせた。
──どうして
しばらくしてようやく、第一歩となる疑問を聞くことができた。
──これから本格的に研究が始まって忙しくなるから、温に寂しい思いさせるなって
なんとも神妙な言い方。佐古田が理解に苦しんでいると、
──わからないかなぁ
呆れからきた困惑のような、困惑の末にきた呆れのような。秀太くんの呟きは複雑な意味合いがありそうだった。
──温って、遠回しの言葉通じないよね
──温のストレートな話し方には好感持つけど、自分がそうだからってみんながみんな、温にはっきりした態度とってくれるとは限らないよ
──大人なんて特にそう、本心は隠すんだよ。そんなんじゃバイト先の人間関係でもそのうち困りそう
嫌味な感じで言われた。
──思うことがあるなら、ちゃんと教えて
苛立ちと焦りが混ざると声が震えた。
──俺、全部言葉にしてくれないとわかんないんだって
──でもこっちに落ち度があるなら直そうって思うから。直せるように頑張るから、だから何か言ってよ。お願い。
懇願する佐古田がまるで見えていないみたいに、別れの日の秀太くんはずっと沈黙を貫いていた。
エアコンの送風音だけが響く静寂が長引くほど、秀太くんが自分に何かしらの不満を抱いていることが確定されていく。
押しても引いても、体当たりで破ろうとしても。びくとも動かないドアの前で立ち尽くす心地だった。
もうこのまま話は流されてしまうのかな、諦めかけたころに秀太くんが呟く。
──好きな人ができた
手間だからと端折ったわけではなさそうで、それが全てという感じだった。
秀太くんが口を割るまでさんざん待っていた佐古田だから、そのころには落ち着きを取り戻していた。笑い交じりにたずねる。
──それ本気?
本気で言ってるの? そんなバレバレの嘘を俺が信じるって、本気で思ってるの? 佐古田の半笑いにはそんな二つの意味がかかっていた。
好きな人ができた、なんて。
こういうときの常套手段じゃないか。円満に関係を解消させたいときの切り札じゃないか。
──ごめん
肩を落とし、窮屈そうに秀太くんは言った。
別れ際の模範的な謝り方だな。この時点の佐古田は、まだ高みの見物で事態を傍観していたけれど、
──裏切ってごめん
短いワードに、冷え切った現状を知らしめられた。あぁ、そうなんだ。俺って裏切られたんだ。
──最低だな
──ごめん
──くずじゃん
──ごめん
それから先は、佐古田がどんな言葉を向けようと枝が伸びて会話になることはなく、全部が謝罪となって散った。
婉曲な表現を汲んでくれと頼んだ恋人は──恋人だった人は、その終焉に、これ以上ないほどストレートな言葉を佐古田に吐かせた。
*
「お疲れ様でした」
一声かけて、軽く会釈をする。「お疲れ様でした」と返されるとを耳にしながら、佐古田は休憩室をあとにする。
爆音で流れるエビスドラッグのテーマソングをくぐり抜けて、店の外に出たら、風がびゅうっと体を叩きつけた。
駐輪させていた自転車に鞄を乗せ、鍵を回す。スタンドを起こすためにハンドルとサドルをそれぞれ押さえたら、手のひら全体に冷たさが伝わった。師走の寒さだ。
ダウンのポケットからスマホを取り出す。サイドボタンでロック画面を起こす。バイトの時間で溜まった通知を捌いていくのだが、メッセージアプリに届いていたのは中学時代の友人からの連絡のみだった。
岩崎からの便りはない。
登校時間であったが、学校へ行く前に佐古田はコンビニへと寄った。学校では給食が出るのだけれど、それだけでは腹が減ってしまう。
コンビニでは惣菜パンと炭酸飲料を買った。会計を済ませて店を出ると、自動ドア近くに立てられたフラッグがパタパタとはためいていた。今日は風が強い。
すると、一瞬、強く吹いた風に煽られて旗が倒れてしまいそうになる。佐古田は慌ててそれを掴んで止める。
あれは秋口。自分と岩崎はここのコンビニにて偶然再会した。
失くしたと思っていたノートを岩崎が持っていたことにはテンションが上がったが、それが破れてしまったと聞いたときには、正直「はぁ?」と思った。だけど、
──すみません。これは、わざとじゃなくて
申し訳ないと心から思っている口調だったし、何より岩崎の顔を見たら怒る気になんてなれなかった。絆創膏が貼られた顎。自転車でこけた翌日に、他人に謝罪する羽目になるなんて、佐古田の目にも踏んだり蹴ったりだった。
──じゃあ俺に勉強教えて
──俺はタダで勉強教えてもらえてラッキー。あんたはあんたで罪悪感減るんだから、なかなかフェアだって思わない?
あの瞬間、佐古田は詐欺師だった。優しさを装って、自分の思う通りに会話を誘導した。
恨まないでほしいと思う。
長い間、秀太くんが占めていた心の大部分。陥没するみたいに心に空いてしまった穴に気持ちが落ちてしまわないよう、別の何かで塞いでおく必要があったのだ。
定時制高校に入ったきっかけも、そこで頑張るモチベーションも秀太くんのためだった。その存在なきあと、勉学に励む目的とはなんだろう。
考えてもわからないけれど、でもとにかく暇な時間は作りたくなかった。
勉強は手頃だ。没頭でき、誰にも迷惑をかけず、そして終わりがない。
アドリブだったのに、うまいこと事を運べたものだと、コンビニでの自分には感心してしまう。納得いかない様子ではあったが、岩崎の首を縦に振らせることができた。
ワンルーム六畳、狭いあの部屋で秀太くんは自分を騙した。
研究で忙しくなるから、なんて。
付き合い始めた当初からレポートや実験やらで大変そうではあったから多忙になるのは事実なのかもしれないが、巧妙な手口だった。秀太くんが大学でいかに生活しているかなんて、佐古田にはどうしたって知り得ない。
柔順な人なら簡単に受け入れてしまいそうな理由。あたかも事実のように言った秀太くんを、佐古田はずるいと思った。
でもどうだろう。秀太くんは悪い人なんだろうか。
最後に岩崎と会った日。佐古田だって、同じ方法で岩崎を丸め込んだ。
正直に生きていたいと思っていても、仕方なく嘘を使う場面はあるのかもしれない。
誰かとの季節を心に残したまま、他の誰かを好きになることだって。