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 定時制高校への進学を決意したのは、あの人の隣にいる大義名分がほしかったからだ。
 ──高校に行こうかなって思ってる
 ──将来のこと考えたら、このままじゃいけないって思って
 どう思う? と佐古田が相談を持ち掛けたときの、あの人──秀太くんの顔。目元より先に、唇が笑みを結んだ。
 ──勉強で何か聞きたいことあったら、いつでも相談してほしい
 ──まだ実家に参考書とか置いてあるから、力になれるかも
 受験勉強なんて一つも、それどころか志望校すら決めていなかったというのに、なぜか自分よりやる気に満ち溢れていた秀太くん。
 秀太くんは、二年と少しの間付き合った恋人だった。
 三個上の大学生である彼と知り合ったのは、自分たちの家が近かったのがきっかけ。出会ったころの秀太くんは学生向けのマンションで一人暮らしを始めたばかりだった。実家は北海道にあるらしい。
 佐古田が暮らす地域の大学といえば、名門の私立大学のみで、たずねたら秀太くんもそこの学生だった。さらに深掘りすると、そこの看板学部である理系学部の所属なことが明らかになる。
 エリートだ。無条件にそう思った。
 経歴も肩書きも自分とはまるで違う秀太くんに佐古田は自ずと畏れを抱いてしまったが、
 ──上京してからは、ずっと一人だったんだ
 ──君が、ここで最初に打ち解けられた人
 秀太くんは屈託ない笑顔で、分け隔てなく接してくれた。
 その当時の佐古田は中卒のフリーターだった。フリーターといっても、例えば何かの書類を記入するとき、その職業欄に無職と書くしかないような本物のフリーター。
 高校へ進学しなかったのは──いや、進学できなかったのは出席日数があまりに少なかったせいだ。
 学校に登校する頻度が減っていったのは、中二の秋ごろからだろうか。体育大会、文化発表会と立て続けに行事が終わって、再び通常通りに進行していく日常。
 日中の大半である約七時間を縛られる。こんなつまらない毎日が、あと一年以上も続くのか。高校に進学したらさらに三年。将来のことなんて何一つ確定していないけれど、大学に行ったらプラスで四年。進学を選ばずとも、いつかは社会人になるから──
 それはある日の帰り道に何気なく想像したことだったのに、いつの間にかブラックホールに足を踏み入れていたようで佐古田は恐ろしくなった。
 学校を休みがちになる以前から、佐古田はいわゆる問題ありの生徒ではあった。
 筆記科目の授業は毎時間のように居眠り。課題は当然のように出さない。それでも目に見える結果を残すならまだいいとして、成績は下から数えた方が早い順位。危機感を感じろと補習に召集されるも、断固として参加しない。態度の悪さは学業面だけに収まらず、教師の目を盗んでは懲りずに制服を着崩す。校則ギリギリのラインを狙って髪を染める。
 口コミサイトにおいて星三・七がつく母校。『落ち着いた校風で、生徒たちはみんな文武両道です』というのが総じての評価らしいので、怠惰な佐古田は学年の中でも悪目立ちしていた。
 暴力をふるうから学校へ来てはいけないことになっている。クラスのあの子が不登校になったは佐古田のせいだ。学校ではそんな噂が蔓延していたらしい。
 佐古田が自堕落スイミーであるからといって、誰に被害がいくわけじゃない。だというのにどういうわけか、自分はいつのまにか不良の部類にカウントされていた。
 だがそんなのは、いつ何時も誰かを囃し立てていたいミーハーどもの虚言に過ぎない。先生や親に迷惑をかけたことは認めざるを得ないが、事件を起こしたことなど一度もない。わざわざ口にしないけれど、クラスメイトのことは結構好きだった。

 *
 
 週休七日のゼロ時間労働。その言葉だけ拾えば悠々自適なお気楽生活を想像されるだろうが、経験したらわかる。あれは精神力勝負のサバイバルだ。
 例えば誰かと会話で起床時の出来事を語るとき『朝起きて──』と口では表現するのだが、実際のところ、ベッドの温みを抜け出すのは白昼。
 リビングのテレビを惰性でつけるとお昼のニュースに出迎えられる。大リーグの試合結果をふうんと把握しつつ、ブランチと呼ぶには質素な昨晩の残り物などをレンジで加熱。熱々になった皿をダイニングテーブルに置くころには主婦層をターゲットにした情報番組が始まっていて、野菜の正しい保存方法なんかを学ぶ。
 佐古田が学校をサボりがちになると、中学のクラス担任は放課後たびたび家を訪問してくるようになった。
 しかし担任とは毎度毎度すれ違う。佐古田は昼食を食べると、共働きで親が不在な真鍋の家へ遊びに行っていたからだ。
 時間の概念がないゲームの空想世界から帰ってくるころ、現実世界は夕刻になっている。一日を無駄にしてしまった罪悪感の影を引きずりながら佐古田は家に戻る。
 開店準備中で忙しない様子の母親に用件をたずね、その足で向かうは駅前のゆあばすけっと。夜からの営業にあたっての不足ぶんと、佐古田家の献立計画の上で足りないぶん。
 それぞれ食材を購入して帰宅するも住居部分の二階から上には行かず、そのまま佐古田は母親のアシストに入る。家業の手伝いくらいはしておかないと、食費泥棒! と、うちを追い出されかねない。
 そうして営業が始まり、夜が更けるも体内リズムは狂っているので眠たくはならない。
 一階フロアから聞こえるお客さんたちの喧騒を床面に感じながら、写真投稿アプリに流れてくる同級生の投稿をチェック。学校行事の様子を収めた写真に季節の移ろいを感じて少し嫌な気持ちになる。
 ホーム画面の中で親指が一番届きやすいところに配置されてある動画アプリを開いたら、こちらが何かを検索するより前にランダムでショート動画が流れてくる。だけどたいして面白くない。次。次の動画が面白かったらやめよう。次。次のほうが面白いかもしれない──
 起床。すっきり開こうとしないまぶたのだるさに、眼精疲労で寝落ちした昨夜を悟る。
 体を起こすより先に、まずはスマホを探す。枕元で添い寝になっていたそれはショート動画の再生画面のままで、熱暴走寸前の本体と表示される電池残量の少なさに、起きがけからげぇっと疲れた心地になる。
 素足でリビングにぺたぺたと歩んでテレビをつける。お昼のニュース。冷蔵庫。昨日の晩飯の余り。水滴でべちょべちょになったラップを剥がす。
 くだらない。
 日常の退屈は学校のせいじゃなかった。学校がなくても自分はろくな生き方をしていない。
 そんな息子を心配し、母親は口を酸っぱくして注意した。ふらふらするな。お前には人より時間があるんだから、自分の人生を見つめ直せ、と。
 ──最悪、居酒屋継げばいいかなんて考えは甘いからね
 浅はかな自分の考えを晒した母親にムカついて、八つ当たりするようにバイトアプリをインストールした日もあった。だけど、数日も経てばすぐにアンインストールした。
 ここは時給が低い。ここは逆に時給が高すぎる、怪しい。この仕事はきつそう。
 選り好みできる立場じゃないのにもかかわらず、なぜか偉そうな視点から求人を一刀両断しては、ぽいっとスマホを投げていた。
 フリーターである現状は、ちょっもやばい。そんな危機感を抱き始めた起点は、駅前のファーストフード店で偶然に同級生の女子と会ったときだ。
 腹が減った佐古田がふらりと訪れたそこで、同級生の女子は店のクルーとして働いていた。
 きびきびとした動きで店内を掃除する姿。きゅっと被った指定の帽子に、胸元で反射するプラスチック板の名札。とたんに佐古田の食欲は失せ、予定外だったがハンバーガーはテイクアウトした。
 社会から取り残されていく。
 自分の現在地に気づくと恐ろしくなった。
 引きこもり同然の自分は左胸に卒業式のブローチを付けたまま、ずっと同じ地点で足踏みをしている。同級生はライフステージを順調に進めているにもかかわらず。
 家でだらだらと過ごしているばかりじゃ、人生経験の一つも積めない。
 昼飯を食べながら流し見する昼間のテレビ。首都圏のサービスエリアの人気商品やレディースファッションのトレンドに詳しくなったところで、そんな情報は佐古田の将来に役立ちやしない。 
 もし秀太くんと出会っていなかったら、自分はどうなっていただろう。駄目人間に落ちぶれていただろうか。
 佐古田の人生が好転したのは、間違いなく秀太くんと付き合いだしたおかげだといえる。
 それまで指先で放棄してきたバイト探しだったにもかかわらず、近所のドラッグストアが求人募集していることを知ると、その日のうちに応募書類を全て揃えた。
 朝が夜で昼が朝な、いい加減な生活も見直した。
 大学には決められた時間割がないので、秀太くんが通学する時間帯はまちまちになるらしい。日によっては遅い時間から講義が始まることを知った佐古田は、バイトのシフトをうまく組んで秀太くんとの時間を作るように努力した。
 自分たちが会うときは、秀太くんの一人暮らしのマンションに佐古田が通うパターンがほとんどだった。だから、
 ──無理してない? 
 眉を下げる表情で秀太くんにはよく気遣われたものだけど、その心配は佐古田が秀太くんに思うことでもあった。大学にバイトに忙しい恋人。
 ──大丈夫だよ、こっちはいろいろ調整効くし
 正直、時間がかつかつになって慌ててバイト先に向かうということもあったのだけど、そんなのは少し自分が我慢すればいい負担だった。
 あの当時、佐古田の生活は秀太くんが最優先だった。それだけ夢中だった。