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 真面目という意味でおとなしそうな奴。それが岩崎の第一印象。
 だから、どうしてだろうと不思議だった。なんで顎から血流してんの? と。
 学校のパンフレットとか制服カタログにでも載っていそうな、きちんとした身なりの男子高校生だった。流血の原因はまさか喧嘩なわけがなく、そうしたら怪我なのか?
 どうしても気になってしまった佐古田はたずねた。
 ──転んだんですか?
 ──すごい擦り傷
 しかし客としてやってきた岩崎からは、店員との接触を必要最低限で済ませたいという本音が見え隠れしていた。
 怪我は自転車でコケたせいなのか。続けて聞いたら、すごい目で見られた。こいつはヤバい奴、そう佐古田をジャッジする冷たい目線。
 正直、むっとした。俺は心配してやってんのに、と。だけど、学校帰りなんだろう足で消毒液を買いにくるほどだ。よほど傷が痛むんだろう。
 だから佐古田は駅周辺にあるドラッグストアの店名を思いつく限り岩崎に教えた。
 可哀想だな、と思った。純粋に思っただけで、嫌味ったらしい感情ではない。だから、
 ──もう結構なんで!
 予兆なく起こった突沸に佐古田は思わずバーコードリーダーを落としかける。え、今、この人、怒った?
 しかし暴言など吐き慣れていないんだろう。直球の言葉をぶつけるとその火力はすぐに弱まり、
  ──……会計お願いします
 ぼそりと呟く姿は陰気なものだった。
 押し付けがましいと人に嫌われる。お節介はほどほどにしなさい。小さいころから佐古田は親にさんざん言われ、気をつけて生きてきたつもりだ。
 だからこそ、レジで交わした岩崎とのやりとりは踏み込みすぎたものだった、とすぐに気づいていたけれど、
 ──お大事に!
 その言葉は、その言葉だけは絶対に掛けなければいけないような気がして、佐古田はカウンターに身を乗り出した。
 しかし言葉は受け取ってはもらえずに、動けないレジスペースから佐古田は紺の制服を気まずく見送った。
 消毒液をめぐってのやりとり以降、勤務中も、退勤してから学校へ向かうまでの道のりも。岩崎とのやりとりは佐古田の中で引っ掛かり続けた。
 相手は名前も知らぬ男子高校生、ただの客であるというのに、どうでもいい会話とはみなせなかった。
 怒りのあとで呆れがやってきて、最後は諦めになる。
 ため息を置き土産に、佐古田の前から無言で去っていく。
 その光景は、記憶にありありと残る『あの人』との別れ際に重なって仕方なかった。

 *

「大丈夫か?」
 自分への呼びかけ だと思わず、単純に音へ反応して視線を動かした。そうしたら正面にいた真鍋と、ガチっと音がしそうなほどの正確さで目が合った。
 公園にある馬の乗り物に乗るみたいな体勢で、背もたれに肘を置く真鍋。紙パックのジュースをすすっている。
「期末の成績悪かったとか?」
 真鍋は紙パックを持つ手から器用に小指だけを離すと、それ、と二つ折りにした机の上の答案用紙を指した。
「今回はよかった」
「本当かよ」
「八十六。過去最高点数」
「嘘つけっ」
 いきなり真鍋が机上に向けて手を伸ばす。そうして佐古田の手元を離陸したテスト用紙。空中にて開かれる。
「マジじゃん」
「だから言ったじゃん」
 鼻高々な佐古田とは対照的に、真鍋はいぶかしげに首をかしげている。再度、小指で答案用紙を指すと、
「ご、じゅう、じゅうご、じゅうはち……」
「採点ミスはない」
 ムカつきながら佐古田は紙を奪取する。赤丸の数と設問の配点とを照合するなんて失礼な奴だ。
「眼鏡くんのおかげ?」
 岩崎くんだっけ、と真鍋は思い出したかのように付け足した。
「佐古田って数学超苦手だったっしょ? なのにほぼ満点ってすごくね?」
「オーバーだな」
「四捨五入したら百だろ。……ん? 八って繰り上がるよな?」
 黒目を上に動かして小学校で習った算数の記憶を脳内に見ようとする真鍋をよそ目に、丸の密度が高い答案用紙を佐古田は複雑な思いで眺めた。
「俺も眼鏡くんに勉強教えてもらおっかなー」
 音符に乗せたようなリズム感で真鍋が冗談を言い出す。
「お願いしたらいけるかな?」
「……やめろよ」
 えぇー、と真鍋は嘆き、ブーイングを表明するように、紙パックのジュースを左右に振ってみせる。ジュースを飲み干してて出来た空洞に、ストローがカラカラと音を立てる。
「じゃあ、あの人が原因?」
 真鍋は数秒のインターバルを置くと、それまでとは一転した落ち着きでたずねた。反応して佐古田が顔を上げれば、まだ何も言っていないのに「やっぱり」と答えを決めてかかる。
「佐古田のの悩みなんて限られてるもんな」
「馬鹿にすんな、俺にだって色々あるわ」
 最近でいうと……岩崎との関係。
 しかしその事情を知らない真鍋は、
「なら、あの人とのいざこざは、もうきれいさっぱり解決したってこと?」
 イエス、ノーの二択で迫ってきた。唇すれすれの近さでマイクを向けられた気分になる。
「あの人と会うことになったんだ、って言ってたけど。そのくらいからお前変だよ」
「そんなこと──」
「あるよ」
 言い逃れできないところまで追い詰められた。
 しかし、ちょうどそのタイミングで教室前方のスピーカーが鳴る。二限開始の鈴だ。
「ほら、席戻れ」
 自席へたらたらと戻る真鍋を、佐古田は目線で見送る。一歳年下の真鍋とは幼なじみで、保育園からの仲になる。
 腐れ縁には、これまでの時間で共有したエピソードが絡みついている。