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 学校からの帰り道。自転車にまたがったまま、直進方向の信号が青になるのを待っていると、横断歩道を隔てて手を振られる。
「岩崎くん!」
 信号が変わり、こちらに駆けてきたのは佐古田のお母さんだった。冬めく青白い夕方の街に、彩度の高い髪色が映える。
「学校終わったの?お疲れ様」
 店にお邪魔するときに顔を合わせることはあったのだが、こうして直接、佐古田のお母さんと対面するのは二度目のことだった。少し緊張しつつ会釈する。
 佐古田のお母さんの腕にはレジ袋が提げられていて、スーパーで買い物をしてきたんだろう。
「最近忙しいの?」
 急に聞かれ、岩崎は連写するみたいに瞬いた。
「高校生だもんね、忙しいよね」
 返答のない岩崎を放って、佐古田のお母さんは一人で話を完結させた。最近、オープン前の店に岩崎が来ないことを言っているんだろう。
「ありがとうね、温と仲良くしてくれて」
 突然の言葉に岩崎は困惑する。
「開店前の時間なら、うちはいつでも遊びに来ていいからね」
 それじゃあ気を付けて、と岩崎に挨拶を残して佐古田のお母さんは去っていった。
 気を付けて、という別れの言葉は同世代じゃ耳にしない、なんとも気の利いたフレーズだ。
 そんなひと言を添えてくれるお母さんなのに、もう会うことはないかもしれないと思うと胸に苦味が広がる。
 最後に会った土曜日から数日が経つが、佐古田からの連絡はない。
 本来なら勉強会があるはずの平日は、以前のように無音のままに過ぎていく。

 * 

 連絡先の限られる岩崎のメッセージアプリが動いたのは、十一月も終わりのころだった。
 六限後のショートホームルームが終わったとき。鞄の中でこっそりスマホを起動させると、ロック画面へ通知が立て続けに届いた。
 大概はどうでもいい内容だったのが、その中の一つに、あっ、と声を出しかける。
 [今日の放課後、うち来れる?]
 それは佐古田からのメッセージ。
 岩崎は舞い上がり、返信の内容も考えていないのにトーク画面を開いてしまう。スマホの起動には時間がかかるのに数分のロスも厭わず、ここ最近は休み時間のたびに佐古田からの連絡はないかと電源を入れ直していたくらいだった。
 嬉しかった。だけどその思いは一瞬ですぐに冷えていく。
 やっと。とうとう。
 二つの相反する思いが、岩崎の心の中でごちゃごちゃに入り混じる。
 学校を出て、家近くを通過し、駅を少し行ったところにある佐古田の店。
 自転車で十五分もかからない距離。しかし今日はいつもより長いこと運転していたような、あっという間に着いたような、現実感がないままに岩崎はブレーキをかけた。
 サドルから降り、扉に這わせる形に自転車を置く。
 前カゴに入れていたリュックを背負い、扉へと歩んでいく。入店する一歩手前で立ち止まる。深く呼吸をする。迷いを吐き、覚悟を取り入れる。
「よう」
 入口からすぐのところにあるカウンター。
 戸を開けると、そこの中央あたりに佐古田は座っていて、普段と変わらない調子で岩崎を迎え入れた。
「元気だった?」
 椅子から立ち上がりながら問われ、岩崎は曖昧なうなずきで応じた。
 なんともいえない反応になったのは、佐古田が口にした言葉が空白の時間を振り返るものだったから。岩崎は苦い意味合いに受け取った。
 だから「そっちも元気だった?」とは返さない。佐古田がそういう会話の展開を期待していることはわかっているが、聞きたくないものは自分から聞かない。その代償として沈黙が落ちる。
 気まずいのか、佐古田は自分から話を始めた。
「一昨日から期末考査始まってさ」
「……へぇ」
「テスト勉強もだし、提出物も結構あって忙しくて。なかなか連絡できなくてごめん」
 佐古田への疑心が岩崎を膨れた顔にさせた。理由は他にあるんじゃないか。
「それで……あのさ」
 いつもならとうに岩崎をテーブルへ促しているのに、佐古田はその場での立ち話を続ける。
「何?」
「今までありがとう」
 ほら、来た。
「勝手で悪いけど、もう勉強教えてくれなくて大丈夫」
 岩崎が恐れた軌道の上を、そのままに現実がなぞっていく。
「会うのやめよう、俺たち」
「なんで?」
「なんでって」
 いきなり関係性を断とうとしたなら当然、そのことを岩崎から追及されるだろうに。
 続きが浮かばないのか、佐古田は眉を下げて苦笑いした。
 出会ってからの期間はまだ短いが、その中で岩崎は佐古田のいろいろな表情を見てきた。万華鏡のようで、一緒にいたら楽しかった。
 だが、今日は無性にイライラとする。
 眉を下げたいのは岩崎のほうなのに。何でそっちが困った顔をする。
 不服に思う岩崎をよそに、佐古田は口元の笑みを深めた。
「……あんたも気まずいだろ?」
「気まずい?」
「気まずいっていうか……嫌だろ? あんなことしてきた人間と会うの」
「嫌なんて思ってない」
 一秒も置かずに否定した岩崎に、佐古田は狼狽えを見せた。その隙に岩崎は漬け込む。
「この前のことなら、嫌じゃなかった」
 あんなこと──佐古田があやふやにした部分
 キス。佐古田はどういうつもりだったか知らないが、岩崎にとってはファーストキスだった。
 忘却できない出来事だし、なかったことにしたいともこちらは思わない。
 一歩、佐古田に近づいて伝える。
「好きだから」
 本心。強く言った。反応をうかがう。
 すると、それまで緻密に作り込まれていた表情が崩れる。
「……やめろよ」
 うつむいた角度からしか伺えないが、見たことのない顔だった。中央に寄った眉。しぱしぱと瞬く瞼。困惑のもう一歩先のような、怒りのような、でも何かの拍子で泣きだしてしまいそうな──
 視覚と聴覚からの情報に追いつけないでいると、
「あんたさ、勘違いしてる」
 いきなり佐古田が明るい口調になる。
「……勘違い?」
 急な変化に戸惑ってしまい、耳に入ったばかりの手近な言葉で岩崎は返した。
「そう、勘違い」
「どういう意味?」
「あんたの気持ちは恋じゃない」
 きっぱりと言われた。言い切りの言葉に頭を殴られ、しばらく思考が停止したが、
「……何言ってんの」
 だんだんと笑けてきた。
 勘違い、勘違い。馬鹿の一つ覚えみたいに、さっきから佐古田は繰り返している。
「勘違いじゃないよ」
 面白がって、岩崎も同じ言葉を使ってやった。
 そうしたら佐古田の顔つきがふっ、と無になる。
 普段の岩崎なら、次に何を言われるのかと身構えるだろう。だけど、
「……俺の感情は俺のものだ」
 引き下がれなかった。
「勝手にそっちが決めてかかるのはおかしいだろ」
 ここで会話を譲ったら終わりだ。佐古田が望むままにされてしまう。
 誰かと親しくなれたためしがない岩崎でも、そんな予感に焦りを覚えた。
「勘違いなんてしてない。俺は佐古田が好きだ」
「それは──」
「友達じゃなくて、恋愛的な意味で」
 今回は揚げ足取りじゃなく、強調で『勘違い』の言葉を使った。含みが生まれないよう、可能性も潰した。
 すると、岩崎の圧に押さ出れたみたいに佐古田は目を逸らす。
「あんた友達いないじゃん」
 ぽつり、と言われた。
「……それが何」
「俺がぽんっていきなり現れて、仲良くなってさ。錯覚してんだよ」
 そう来るんだ、とちょっと呆れた。勘違いじゃなければ、錯覚らしい。
「人との距離感おかしいって、俺よく注意されるんだよね。あんたにもぐいぐい接しすぎたかも」
 ごめんごめん、と思ってもいない謝罪を向けられる。
「俺にキスされてさ、自分は恋してるんだって思い込んでんだよ」
「そんなこと──」
「キスに深い意味はない」
 割り込まれて、切り捨てられた。
「頭撫でたりハグするのと同じノリ? だってこの前のあんた、俺以上にしんどそうな顔したからさ。どうやって慰めようってテンパって、それでつい」
 へらへらと説明する佐古田に、反論する気力と失せる。
「……恋だって」
 壊れかけのプレーヤーで再生したみたいに、擦り切れそうな声で言うのがせいぜいだった。しかし受け取ってはもらえず、岩崎の主張はその場に滞在し続ける。
「今なら引き返せるじゃん」
 見つめられ、視線で同調を求められた。
 だが接続の悪い機械みたいに、岩崎の思考は先へ進まない。
 そうしてできた間を好機と見たのか、
「俺には知りようないけど、高校生の世界って学校が全てなんでしょ? でもあんたは俺と仲よくなれた」
 ここぞとばかりに佐古田は説得を始める。
「他校に仲いい奴作るって、結構すごいことじゃね? それも俺みたいな、自分とは全然タイプの違う奴とさ」
 ようやく頭が落ち着いてきた岩崎に、口を挟む機会を与えない。
「今までは人付き合い避けてただけで、作ろうと思えば、あんたは学校でも友達できるって」
 もしかして。流暢な口ぶりの佐古田に岩崎は思い当たり、
「……そうだね」
 ためしに納得の様子を見せたら、佐古田から肩の力が抜ける気配がした。
 ほっとすんなよ、そう言い返したい気持ちを拳に閉じ込めて握る。
「悪かったな。ここ数か月、週二回も放課後の時間使わせて、面倒な頼み聞いてもらって」
 岩崎に礼を伝える、この部分だけがやけに丁寧だった。やっぱり今日は、初めから別れを言うつもりだったんだろう。
 もう、自分にはわかってしまったから──
「じゃあね」
 余計な発言をしないよう、岩崎はそれだけを告げて背を向けた。
 今なら引き返せる。さっき佐古田はそう言った。
 関係が以前に逆戻りできるなら、自分たちは友達になれる。
 だけど佐古田は、勉強会という唯一の繋がりを拒否した。
 手を変え品を変え、岩崎の恋愛感情をことごとく否定したがった。
 人間関係に不慣れな岩崎でも、ここまであからさまにされたら気づいてしまう。
 岩崎に好かれることは佐古田にとってうざいのだ。
 引き戸を後ろ手で閉め、岩崎は店の外観に振り返る。
 まだ佐古田はそこにいるだろうか。期待めいた淡い感情が広がりそうになり、苦笑いでぐっと押し潰す。
 隔たりの奥を見つめる。さっさと気持ちを新たにして、日常に戻ったんだろう佐古田。
 佐古田は知らない。
 自分が岩崎にとって、替えの利かない存在であること。
 これから先、どんなに気の合う友達ができたって、佐古田は岩崎の特別であり続けること。
 放課後、一緒に過ごす時間はかけがえのないものだった。
 これまでの礼を言い忘れてしまったな。店を離れて数歩でさっそく後悔したが、もう終わったことだろ、と切り替えて進む。
 絶対に振り返らない。この道を帰るのは最後。来るのも最後。
 佐古田家が経営する居酒屋は駅より北の位置にある。岩崎はめったに行かないエリア。父親も母親も下戸だ。兄が飲み会をするのは大学の最寄り駅だ。
 エビスドラッグ◯✕店を岩崎が利用したのはあの日の一度だけ。母親の行きつけはヒノキ薬局。
 そもそも、岩崎の生活圏と佐古田の生活圏は被らない。活動する時間帯もズレている。それでよかった。全てが元通りになっただけ。
 佐古田が知らない──ただの他人になっただけ。