3

『エリア初上陸の〇〇!』『本場で大人気の〇〇!』『SNSで話題沸騰!』
 若者や女の人がいかにも食いつきそうなキャッチコピーの店は、実験的にオープンしているのかと思うほど流行り廃りが早い。
 だけどその宣伝効果は抜群だ。
 休日になり、岩崎が訪れた駅直結の商業施設は賑わいに満ちていた。
 友達同士、カップル、夫婦、親子連れと、エスカレーターに乗っているだけでたくさんの人とすれ違う。
 下層から上層へと、出荷されるみたいにして運ばれた三階。岩崎は書店へと向かう。
 店内入口に平積みされた雑誌は景色の一部。児童書のそばを過ぎ、新刊ランキングのディスプレイを過ぎ、学習書コーナーだけを目指して進んでいく。普段なら用がなくとも立ち寄るだろうコミックコーナーもスルーだ。
 きっかけは佐古田のひと言。
 ──数学は自分の中で比較的得意なんだけどさ
 ──図形だけはなんか苦手なんだよね
 使いこんだ教科書を開いた状態にし、防災頭巾をかぶるみたいに頭へ乗せながら佐古田が嘆いたのだった。
 体勢こそ面白かったが、佐古田は深刻そうだった。フリーハンドで図形に補助線を引っ張っては消し、計算式をガリガリと書いては消し、を繰り返す。図形問題が悩みの種なんだろうことは、見守る岩崎の目にもわかった。
 佐古田が解けなかった問題を分析するに、基礎となる高一の範囲を復習するべきではないかと思うのだ。
 そこはわかっているのだけど、ずらりと並ぶ参考書を前にすると何を手に取ればいいかわからない。
『誰でも解ける!』『宇宙一わかりやすい!』
 多種多様な謳い文句に翻弄され、一冊を選ぶのにかれこれ三十分近くはかかってしまった。
 喜んでくれたらいいなと思う。喜ぶ顔が見たいと思う。
 休日はぐうだら寝てばかりの岩崎がアクティブに動いた。自分事じゃないのに多くの時間を費やした。
 その原動力は結局、好きな人のためという一点に帰結していく。
 でも自分のために参考書を買ったと知れば佐古田は負い目を感じるかもしれない。
 今日買った本は元々岩崎が持っていたことにしておこうか。
 そんなことを考えつつ商業施設から帰ろうとしていると、
「……佐古田?」
 カフェの引きドアを開ける姿。磁力が発生したみたいに、寄るはずのなかった店へと岩崎のつま先は向いた。
 窓ガラスにぺとりと手を付け、中の様子に見入る。女性客が多い店内。中央あたりの席に茶髪の男がいた。佐古田だった。
 気づいた瞬間、岩崎はカフェへと踏み出していた。
 いらっしゃいませと声をかけてくれる店員への会釈もそこそこに、佐古田がいる席へ向かう。こんな偶然はなかなかない。
 そう思った足が、止まる。
 どこかからふらりと男が現れ、佐古田の向かいの席を引いたのだ。佐古田はスマホを裏返してテーブルに伏せると、男の顔を見上げる。微笑みかける。
 歩んだあとは話しかけるつもりだったために、岩崎はひどく動揺した。
 置物のように固まっていたら、通りかかった店員に「こちらどうぞ」と動作つきで座席を案内される。
 正常な判断もつかないまま、言われるがまま、岩崎は席についた。ちょうど佐古田の姿が皆既日食のように男と重なってみえない配置でもどかしい。
 着ていたジャケットを椅子の背に掛けるタイミングで、少しだけ男の横顔が見えた。清潔感という言葉が強く印象に残ふ。
 テーブルを挟んで話し込む二人はどういう関係なんだろう。
 男は二十代に見えるが、学校で知り合ったんだろうか。定時制高校に年齢の制限はないのだと、以前に佐古田から教わった。
 友達だろうか。
 いや……と首を傾げてしまうのは、男に対する佐古田の態度がなんだかよそゆきに見えるからだ。
 二人が醸し出す空気は、遠目に見ても独特だった。
 普段の佐古田を顧みるも、例えば自分、例えば真鍋といるときと同じ雰囲気には見えない。
 継続して男と佐古田の様子を観察していると、ふいに男がセーターの袖を摘んで腕まくりをする。
 するとそのとき、男の手首にはめられた腕時計があらわになる。
 それが革製だったからではないけれど、大人っぽいと思った。
 一体どれほどの時間が経過しただろう。
 無銭では居座れなくて注文したコーヒーがぬるくなり始めたころ、男が席から立ち上がる。
 直前までそんな気配はなかったものだから、岩崎は慌ててカップを置いた。
 男はラック代わりにしていた椅子の背からジャケットを取ると、羽織る時間が惜しいとばかりに腕へ引っ掛ける。そしてそのまま、急ぎ足で出口へと向かっていった。
 ……佐古田は?
 元々追いかけていた人の存在がリマインドされ、急いで岩崎はテーブルに視線を戻す。
 二人がけの席に、佐古田は一人で座っていた。
 一人きりの佐古田は、すごく悲しそうだった。
 テーブルの板面につむじからめり込んでいくんじゃないかと思う勢いで、うつむいていた。
 どうしたんだろう。心配になるけれど、下向きに集まる髪が邪魔をして表情を察することもできない。
 佐古田の隣の卓に座るサラリーマンが店員を呼んでもうなだれたままでいる。注文を受けたその店員がコーヒーを運ぶ頃合いになっても、まるで気絶しているかのように。
 見守る岩崎の心はどんどん不安定になるが、佐古田は微動だにしない。
 そんな事態が動いたのは、これまた突然のことだった。
 これまた予兆は一切なしに荷物を手に持つと、たっぷり助走をつけたチョロQカーみたいに、いきなり佐古田は席を立ったのだ。
 突然の動きを見せた佐古田を目で追跡する中、自分たちが最接近したのはすれ違いざま。
 その一瞬の姿は、岩崎の網膜に一枚の絵として切り取られる。
 ぐしゃりと、佐古田の表情は歪んでいた。

 *

 帰路。岩崎の肉体は家までの道を行くけれど、意識と精神は日中のカフェにて未だ迷子になっている。
 泣いていたんだろうか。
 悲しさと悔しさとが混じったような佐古田の姿を脳内に描くと、同期するように岩崎の胸が締め付けられる。
 泣いていた。佐古田はおそらく──いいや 、泣いていたのだ。
 ブレがあるだろう残像が根拠なのに、岩崎の中で疑問は確信へと変わった。
 居ても立ってもいられなくなる。家近くのよしおか歯科の看板はもう見えていたけれど 、岩崎はずんずんと来た道を引き返していく。
 佐古田の実家兼店舗にお邪魔するのは、いつも平日の夕方限定だ。
 土曜日であり、勉強会の予定もないのにアポなしで訪ねる理由はどうしよう。
 たまたまこの辺に用があったから、もしかしたらいるかなと思って。
 それっぽい言い訳の草稿が出来上がったのは、佐古田宅の引き戸に指をかけるほんの数秒前だった。
 そんな自分だ。もしカフェで岩崎が目撃した涙が事実だったとして、この扉の向こう。どんな態度で佐古田と対面する。
 放っておいてくれ、もしそう言われたら──
 時間が経過するほどに怖気づいてしまいそうで、思い切って岩崎は扉をスライドさせた。
 どうしても、自分は佐古田のためになりたい。
 音に反応して振り返ったんだろうか。扉の遮断がなくなると同時に、岩崎はテーブルを拭いていたらしい佐古田と目が合った。
 開きっぱなしの入口へと、サンダルをペタペタ鳴らしながら小走りで佐古田はやってきて、
「どうした?」
 私服姿の岩崎に浮かんんだろう疑問を持ち寄せた。
 気になるところは佐古田の外見にもあって、岩崎の目がそこに止まっていると、
「土日は店の手伝いするんだ」
 自分の骨盤あたりをぽんっと叩いてみせた。腰元には紺色のエプロンが巻かれている。
 話があるなら店の中で、と言葉柔らかに促される。
 接客するみたいに引かれた椅子はいつものテーブル。いつも岩崎が座る場所。
 紐をしゅるしゅると解いてエプロンを軽く畳むと、佐古田は岩崎の正面にかけた。
「それで、どうした?」
 机の上で腕組みをするような姿勢で、岩崎の口から来訪の理由が出てくるのを佐古田は構えている。
 待たれている、待たせている。 そう感じたら、ずしんと気が重くなる。
 噛んでいるうちに水分で膨れたパンがカチカチになり、喉をうまく通らなくなるのと逆の原理で、溜め込んだ言葉は固まって、唇から出ていこうとしてくれない。
 せっかく時間と場とを作ってくれたのだ。
 聞きたいことなら直接佐古田に聞けばいい。でもそれができなくて、すがる藁を周囲に探すが、
「ん?」
 本人の顔を見つめて助けを求めてしまう。
 中心に寄せられてから、くいっと上方向に動かされる眉毛。人体構造的にまつ毛も動く。
 そんな目元を見ているうち、あることに気がつく。
 指で、なぞるように触れていた。
 佐古田は顎を左下に背け、態度で拒否の意思を示す。
 自分の行動に面食らう。岩崎は佐古田からさっと指を引っ込めた。
 またも露わになった涙の痕跡。乱暴な手つきで、佐古田はこそぎ取ろうとする。
「泣いた?」
 イメージトレーニングが無駄に終わる。
 でもいい。これが聞きたかったことだ。聞くことができた。
 しかし佐古田からは、質問とは対にならない答えが返された。
「見てたんだ」
 顔は真っすぐ前のまま、目線だけで佐古田は下を向いていた。アイラインを引いたみたいな、目の際の濃さが目立つ。
 え? と聞き返すと、佐古田は首の動きひと振りで岩崎の隣の席を指した。
 軽く引いて空間を作った座面には、岩崎が寄った書店の袋が置かれている。
「いつから見てた?」
「……ごめん」
「謝れなんて言ってないけど」
 佐古田の声が硬い。岩崎の「ごめん」は不愉快だったようだが、謝罪を添えないと、怒ってどこかへ行ってしまうんじゃないかと焦る。
「駅前で買い物してたら佐古田のこと見かけて、声かけようって思ってたら、男の人が来て……」
 おそるおそる佐古田を見上げると、代わる代わる、今度は視線が逸らされる。
 佐古田はきつく蓋をするみたいに唇を内側に巻き込んで閉じている。
「全部見てんじゃん」
 ごめん、と同じミスを犯しそうになり、慌てて口を慎んだ。
「だ、大丈夫?」
 問いかけてから時間を置いたが、佐古田からは返答がない。
 これまでも通知簿に設置された『学校での様子』の欄において、やんわりと指摘されてはきたが、自分はつくづく会話下手だ。
 大丈夫ではなさそうな人に大丈夫? と聞いても、それは「大丈夫だよ」の強要にしかならないだろう。
 代わりになるふさわしい言葉を探していると、
「見られてたならもういいや」
 笑って、佐古田が言った。清々しい、という感じだった。目の前で急変する情緒に戸惑う。
「あれ、元カレ」
 さっぱりと佐古田は言う。
 あれ、だけで岩崎には通じた。カフェにて一緒にいた男だろう。しかし、
「元カレって、誰の?」
 佐古田の説明にはそこの部分が欠けていた。
 知りたい、と思って目の前の相手を見つめる。
 そうしたら、知られてしまうのか、というふうに顔色が変わった。
「あの人は、俺の元カレ」
 ふうっと息を吐くと、覚悟を決めたように佐古田は続ける。
「俺、男が好きなんだよね」
 動揺する隙もない。
「わりと最近まで付き合ってたんだけど、いきなり振られてさ。もうびっくり。保証はなかったけど、これから先もずっと付き合っていくんだろうなって、俺のほうは勝手に思ってたから」
 他人事みたいに佐古田は語る。
 すらすらすらすらと、
「会おうってひさしぶりに連絡入ったとき……俺、動揺しちゃった」
 流暢だった口が止まる。
「向こうの考え変わったのかなって。まぁ、実際は俺の勘違い」
 馬鹿みたいだよねー、と自嘲し、佐古田はへらりと笑った。
「……好きなの?」
 思わずたずねてしまったが、直後に後悔することになる。
 苦笑いを口元に浮かべると、岩崎の元から佐古田が離れてしまった。
 カウンターに手をついて、岩崎に背を向ける。涙が滲みて、ふやけて、脆くなった後ろ姿。
「そんなひどい人のこと好きでいる必要ないよ」
 岩崎は焦って駆け寄った。
 歌詞みたいな文言に佐古田は振り返り、岩崎をきっ、と睨んだ。
 いつもは水分量が多い瞳なのに、細い血管が浮かんで充血している。自分の発言がいかに不用意であったかがそこには映っている。
 何を却下したいのかはわからないけれど「でも」と、岩崎は否定の言葉で続けた。
「佐古田にはもっと似合う人がいる」
 断言した岩崎を、佐古田は鼻で笑った。
「それはどーも」
 小馬鹿にするニュアンスだった。だけど、小島たち相手とは違って腹が立ちはしない。
「……俺にできることってあるかな」
 岩崎の提案に佐古田は首をかしげた。
「まともに友達もいない奴に言われても困るだろうけど……佐古田のあんな辛い姿は見たくない」
 本心だからか、台本がなくなって言葉は出てきた。
「いつも俺は助けられてばかりだ。出会ったときからそう。佐古田は恩人だ」
「恩人?」
 聞き返され、エサを待っていたツバメの雛みたいに岩崎は食いつく。
「そうだよ。佐古田にはすごく感謝してる」
 壊したノートを許してくれたこと。勉強を教えるという、自分が負担に思わないような案を出してくれたこと。
 クラスメイトにはひと目で格下とみなされてしまう見た目だけど、初対面のときから平等に話してくれたこと。
 感情を押し殺すことが当然になっていた自分に代わり、小島たちを叱ってくれたこと──
「それだけじゃないでしよ」
「え?」
 あっさり見抜かれたのち、持っていかれた。
 あまりに一瞬の出来事だった。
 首の後ろに手を回され、身体をぐいっと引き寄せられる。
 それがキスだと気づいたのは、この瞬間を後から振り返ってのことだ。
 その当時の岩崎の頭は、目の前で吹雪いた出来事にホワイトアウトするばかりだった。
 唇が離れる。呆然とする思いで佐古田を見つめる。
 しかし佐古田は、一切として視界に岩崎を入れようとしない。
「……悪い。今日は帰って」
 今の今まで触れていた箇所から、冷たい言葉。
「帰って」
 動けないでいると、繰り返し促された。
 それから先のことはよく覚えていなくて、ようやく気持ちを立て直せたとき、岩崎は自室のベッドに仰向けになっていた。
 どうにかして自分は店から退出したんだろう。歩を進め、家へとたどり着いたんだろう。
 学習机に目をやると、机上には書店の袋が寝かせた状態で置いてあった。ちゃんと持って帰っていたのか。過去の自分が取った行動にちょっとした感心を抱く。
 中に入っているのは数学の参考書だ。ブックカバー付き。レジに通すときに、一応と思って付けてもらった。
 だけどどうだろう。紙製の薄茶色いそれに、佐古田が触れることはあるだろうか。
 仰向けに態勢を戻して、視線も上向きに戻す。
 何かが変わってしまった。
 脈絡もなく、ふとそう思った。
 柄も模様もない天井。岩崎はそこに、自分たちの日々がそう長く続かない未来を見た気がした。