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 前までは見えていた根元の黒色が無くなり、毛先まで均一な茶色になった。数日前までの状態をプリンと呼ぶのなら、佐古田からはカラメルが消えた。
 いつ染めたんだろう。佐古田の頭を見つめ、そんなことを考えていると、
「え、何?」
 がばっと。いきなり。ワークブックと平行の体勢で向き合っていた佐古田が顔を上げた。
 岩崎が否定も言い訳も捻出できないでいるうちに、ペンを握っていない左手で佐古田は自分の髪に触れる。
「何?」
「何も」
「何もなかったら人のことじっと見ないだろ」
「何もないって」
「ハゲてる?」
「は、ハゲてなんかないよ! 何言ってんの」
 けなすニュアンスで岩崎が注意すると、唇の端を持ち上げて佐古田が笑った。佐古田はぼそっとボケるときがある。
「じゃあ、ゴミでも?」
 言いながら、佐古田は頭を左右に大きく振ってみせる。ゴミを取るにしちゃ大げさな、犬が体ごと震わせて水滴を払うみたいな動き。
「ついてないよ」
 だったらなんで見てたんだよ。今度はしかめた顔だけで問われた。
 夕方、開店前の居酒屋の空間にいるのは自分と佐古田の二人きり。響く音といっても時計の秒針がサク、サクと一定のリズムで刻むものくらい。
「髪染めた?」
 ようやく岩崎がたずねると、は? と言いたげに佐古田の眉は寄った。
「染めたけど」
「だよね」
「だから何だよ」
 佐古田はペンをぽいっとワークブックの上に放り投げる。単純に呆れた感じで笑われた。
「髪も切ったよね」
「切ったけど」
「どこで切るの?」
「どこでって……」
「床屋? 美容室?」
「美容室っていうか、美容師の専門学校通ってる友達がいるから練習台で切ってもらってる」
 なるほど、と岩崎はうなずく。
「髪はずっと茶色なの?」
「まぁ、そうかな」
「変えないの?」
「しばらくは」
「そっか。どのくらいの頻度で──」
「ちょ、ストップ」
 佐古田が手のひらをかざした。
「どうしたよ」
「え、何が?」
「変だって。根掘り葉掘り、さっきから質問ばっかしてさ」 
「嫌な気持ちになったなら、ごめん」
「別に。それより」
 短く切り捨てると、佐古田はすっと椅子から立ち上がる。
「今から俺、店出ないといけないんだけど、どうする?」
 付いてくる? 残る?
 提示された二択はほぼ一択のようなもので、迷いなく「行く」と岩崎は答えた。
 母ちゃんから買い物頼まれたんだよ。
 そう言い、佐古田は鍵を抜いた。軽く引っ張り、戸の施錠を確認する。今から自分たちは駅前の商店街に向かう。町内会の回覧板を回す用事があるそうだ。
「さむっ」
 出発してしばらくしたころ、佐古田が身を縮めた。
 えっ? と聞き返す自分の声が、秋の風に冷やされる。しまった。
 薄手のカットソーに、これまた薄手のカーディガン。見るからに佐古田は寒そうな格好なのに、どうして今の今まで気が回らなかった。
「佐古田、これ着て!」
 三個留めのボタンを、岩崎はもたつく手つきで外す。
 制服の紺ブレザー。たしかに佐古田は手に取ったが、それは反射的なもので、
「なんでブレザー?」
と、佐古田は困惑の表情を浮かべた。
「寒いんでしょ? ごめん、俺、気遣えなくて」
「いいよ、着とけよ」
 佐古田が自分に上着を返そうとするから拒否する。
 寒がる佐古田が風邪を引いたらいけない。岩崎はブレザーの下にカーディガンまで着ているから頑丈だ。心配などいらない。
「俺はいいんだよ。寒がりじゃないし」
「いやそういう問題じゃないし」
 じゃあ……どういう問題?
「おかしいだろ。俺、私服だし」
 と言って佐古田はカーディガンの裾を軽く伸ばした。
「私服の上からブレザーって、どういうおしゃれ?」
 指摘されてみれば……という感じだった。
 至らなさに真っ赤になりながらブレザーを羽織る岩崎に、佐古田は不審な顔を向ける。
「俺にやましいことでもあんの?」
「……やましい?」
「いやさっきからさ……」
 濁した語尾には言いたいことがあったんだろうが、
「もういいよ」
 簡単に佐古田は片付けた。岩崎を置いて、回覧板を片手に行ってしまう。
「ねぇ、やましいことって──」
 どういう意味?
 想像だけじゃ解消できそうにない疑問。たずねようとした口が止まる。佐古田を追いかける足も止まる。
「お、温! ひさしぶりじゃねぇか!」
 向こうから自転車でやってきたおじさんが、朗らかな口調で佐古田に話しかけたのだ。白髪交じりのおじさんと佐古田とは知り合いらしい。
「おっちゃんじゃん!」
 と佐古田は応じた。おじさんは歯を見せて嬉しそうな顔をする。
「おっちゃん、こんなとこで何してんの?」
「買い物だよ。温も買い物か?」
「俺は回覧板届けに行くとこー。そこの酒屋に」
 佐古田は適当に向こうを指差す。そうか! とおっちゃんは納得する。ふわふわ進行する二人のやりとりを岩崎は見守っている。
「それにしても最近はさみぃな。もう熱燗の季節だ」
「そうなの?」
「寒いときたら熱燗だろうよ」
「知るかよ。俺、まだ酒飲めないもん」
「そうか……そういや、そうだったな」
 温は今いくつだ? ハンドルに手を乗せたままのおじさんがたずね、
「十七だよ。今年で十八歳」
 と佐古田が答える。
 ……今年で十八歳?
 ……十八?
「十八って?」 
 簡単な挨拶でおじさんと別れたあと。何事もなかったかのように歩き出そうとするから、佐古田の腕を掴んで引き止めた。
 その数字について岩崎が必死になる理由がわかっていなさそうだったので、もう一度繰り返す。
「十八歳ってどういうこと?」
「え……あれ、言ってなかったっけ? 数え歳で今年十八歳なの、俺」
「……は?」
 おかしいなぁと言わんばかりに佐古田はうなじのあたりを擦った。
「え、俺ら高二だよね?」
「そう」
 普段の勉強会で教えている内容も、岩崎が以前に習ったものだ。
「じゃあ十七じゃない?」
「えっと……中学卒業してから一年は学校行ってなかったんだよね」
 本来の用事を忘れていない佐古田は、岩崎を連れて歩きだす。
「その間はバイトとかして過ごしてて。だから俺とあんたは同じ学年だけど、歳は一個上」
 年齢は、名前と同じくらい基本的な情報なのに。岩崎は今の今まで知らなかった。
 後ろめたさがあるのか「ごめんごめん」と佐古田は謝罪を口にする。
「定時制って年齢の縛りないから、何歳からでも入れるんだよ。俺は十七の代で入学したけど全然浮いてなくて」
 俺の後ろの席の人とか担任のおじいちゃんとほとんど年齢変わんないの。
 鉄板エピソードなんだろう。佐古田は笑い混じりに語るが、岩崎はうまく笑えず──
「あ。俺に敬語使えってわけじゃないから」
 佐古田は言った。
「岩崎のが先に卒業していくんだから、むしろ先輩って感じだしね」
「……どういうこと?」
「夜から始まるぶん、一日の授業時間短いじゃん? だから定時は四年かけて卒業すんの。このまま順調にいけば、俺が卒業すんのは」
 二十歳? と佐古田は宙を見上げ、答えを弾きだした。高い空では、ひゅーんと鳶が旋回し続けている。一向に羽ばたこうともせず、何かを探しているみたいだ。
「隠してるわけじゃなかったよ」
 しばらくしたあと、無言を縫うように佐古田は言った。
「言い出すタイミングがなかっただけで」
 そこに嘘はないと思う。
「……悪い」
 ついに佐古田は黙り込んでしまった。
「謝ってほしいわけじゃなくて!」
 通り過ぎるバイクの音にかき消されてしまわないよう、腹の筋肉に力を入れて岩崎は言った。
 後ろからの声と気づいた佐古田が振り返る。
「知りたいんだ、佐古田のことが」
 そう、はっきりと佐古田に伝える。
 いつの間にか鳶はどこかへいなくなっていた。探していたものは見つかっただろうか。
 岩崎は見つけることができた。
「何で?」
 数メートルの距離を隔てて、佐古田がたずねる。
 その答えとなる理由は色んな感情を差し置いて、岩崎の胸の最前面にあつて、
「……好きだからだよ」
 こんなふうに、すぐに口に出せる。
 答えを聞かないで歩き出した佐古田になら、小さい声でなら、簡単に言えるのだ。
 駅前の喧騒に馴染んでいく後ろ姿に、岩崎は改めて誓う。
 この気持ちは、決して表に出してはいけない。
 岩崎にとっては尊い想いでも、それは佐古田を困らせる。