6
人通りの少ない男子トイレ近くの物陰。
岩崎はどこぞの探偵みたいに身を隠し、ポケットからこっそりスマホを抜き取る。
[今どこ?]
両手打ちですばやく入力した。じれったく返信を待っていると既読がつく。
[もうすぐ学校着きそう]
メッセージの相手は佐古田。表示される日付は十一月の二週目、文化祭二日目の一般祭。
──じゃあさ俺、行きたいんだけど
──どこに?
──文化祭。俺も行っていい?
社交辞令だろうと思って流していた先日の発言は、予想に反して本心だったらしい。
校内祭が行われた昨日、詳細をたずねられたときは思わず「来るの?」と聞き返してしまった。
[あ、俺の友達も今日来るから]
テキストボックスを起こしているうちに追加のメッセージが届く。
友達ってどんな友達なんだ? 思っていると、さらに追加で、
[真鍋って奴。中学の後輩]
どんな人だろう。平日の昼間に予定を入れられるということは、真鍋という人物も定時制高校の生徒なんだろうか。というか男女どっちだ。多分男だろうとは思うけれど。
「あれっ」
突然、声が飛び入った。岩崎はスマホを背中と壁の間に挟んで隠す。行事の日であろうと、校内でのスマホ使用は一切禁止だ。
小島のツレ二人がぞろぞろとトイレから出てくる。立て続けに小島も現れ、
「ちょうどよかったわ!」
遠慮なく肩に手を回された。こいつ手洗ったのかよ、などと不快に思う暇もなく、
「暇だろ?」
そう断言され、岩崎は首の動きで否定を表した。
自分は佐古田と、それから初対面である佐古田の友達と校内で待ち合わせをしているところだ。トークルームでは集合場所についてこれから話をしようと思っていたのに──
「スマホいじりはどう考えても暇じゃん。ちょっと来て」
ぐいぐいぐいぐい。まるで隠れスマホの容疑者扱いで連行された先は、教室。
無理矢理、肩に回されていた腕は教室前の廊下に設置された受付スペースにて外れ、やっと解放──されたかと思いきや、長机とセットになった椅子に今度は座らされる。
「受付、しばらく代わりにやっといてくんない?」
頼む! と小島が顔の前で両手を合わせてくる。
「他校の友達と約束してたの忘れててさ! 顔出したらすぐ戻ってくるから」
「え……ちょっ……」
はなからこちらの返事を検討する気などない小島だから、岩崎が引き留める間もなく廊下を行ってしまった。
小島と他校の友達の約束なら、ツレの二人が代役をすればいいんじゃ? そう思い当たったころにはすでに二人の姿は消えていた。部活練習によって培われたのか、逃げ足が速い奴ら。あいつらのせいでサッカーというスポーツ自体に拒否感が生まれそうだ。
岩崎は背もたれに体重を預け、揃えた指先で両方の眉頭を押さえた。どうしよう。
佐古田とのトークには既読がついてしまっている。返信をしないと。長机に隠れてこそっと、手早くならバレないだろうか。
でも、さすがにここは廊下だ。誰かが見ていたらまずい。今のところお化け屋敷は全く繁盛していないけれど、誰かが客として来るかもしれないし……。
と、思考をぐるくる回転させる視界。誰かが岩崎の座る机を叩いた。
二度の振動を与えたのは色白の細い指で、辿ると袖がまくられた黒シャツに包まれていて、
「何やってんの?」
「……あ」
「連絡返せよ」
「ごめん」
「今日は仕事ないって言ってたじゃん」
佐古田は不服そうにズボンのポケットに手を突っ込んだ。
メッセージを無視する岩崎にしびれを切らし、教室までやってきたらしい。佐古田はこの学校の構造をよく知っている。
「仕事は……なかったんだけど」
「けど?」
追求されるも、情けなくて事情を言い出せない。
どう伝えようかと視線を彷徨わせていると、佐古田の後ろにいた黒髪の男と目が合った。こちらに会釈をするとき、後ろでハーフアップに縛っているらしい男の長い髪がはらりと首筋で流れた。この人が真鍋だ。いかつい。
うまく噛み合わなかった待ち合わせと、知り合いの知り合いとの初対面。
気まずさのマリアージュで口の中がカラカラに渇いたところに、
「悪い!」
小島が廊下を走って戻って来る。これには驚いた。いつもの横暴さを鑑みると、てっきり自分は受付を任せきりにされてしまうとばかり──
「もうちょい延長頼める?」
ですよね。
「次の人に交代するのが十三時半だからあと三十分くらい、いける?」
「……三十分」
「岩崎、どうせぼっちでしょ?」
「いや俺にも予定──」
「一生のお願い!」
人差し指一本を立てて小島が頼みこむ。一生、という言葉にかけるプライドのなさ。呆れるどころか絶句する。蝉でももう少し慎重にその機会を窺うだろう。
ぐたっ、とくるものがあった。ずっと歩き続けただるさのような、蓄積された疲労感のようなものが。
わかったとも嫌だとも口にしたくない。
もう、しんどい。
何を期待しようと、小島の姿勢は変わらないだろう。
だけど、小島を責めるばかりもできないだろう。
現状は何も変えられない。そう、岩崎だって諦めているんだから。
「それさー、ここでする話?」
岩崎に向けられていた集中がふっと途切れ、小島がよそを向いた。
「ここ模擬店なんでしょ? 俺ら客なんだけど?」
小島が視線を止めた先には佐古田がいて、薄ら笑いを浮かべている。
怖い。腕組みをする姿にはなんだか威圧感がある。
そう感じるのは普段の穏やかな雰囲気を知る岩崎だからではないようで、ぱちぱちと忙しなく小島は瞬いた。
「あと、岩崎のことぼっちっていうのやめてくれるかな?」
佐古田は胴の前で組んでいた腕を解くと、岩崎の肩に回す。
急に体を引き寄せられて驚いた自分とは対照的に、佐古田のテンションは保冷されたままだ。声に一切の感情が乗っていない。
「俺の友達なんだよね、岩崎って」
「え?」
ここで初めて小島がリアクションを見せる。
同じく動揺した岩崎の肩の上で、佐古田がトントンと指先を弾く。反応するな、落ち着け、そう言わんばかりに。
「あんたはクラスメイト?」
「……あ、はい」
「そうなんだ。岩崎、学校でどんな感じなの?」
「……どんな感じって」
「岩崎って自分のことペラペラ話す性格じゃないでしょ? だから楽しくやってんのかなって心配で」
同じクラスになって半年以上経つが、初めて見た。小島が臆するところ。顔の筋肉は引きつり、足は後ずさって佐古田から距離を取りたそうに見える。都会的に垢抜けた佐古田の容貌と、にこにこと笑む表情の嘘っぽさにびびっているんだろう。
「クラスメイトねぇ」
物を査定するような目で佐古田は小島を眺め回している。
「……そ、そんな仲いいとかじゃなくて」
「じゃあ、これから仲よくしてやってよ」
岩崎の肩をひとつ叩いたのを最後に、佐古田は回していた腕を外した。
そして小島にじりじりと近づいていき、眼前で立ち止まる。小島が息を飲む。
「あ、今日は岩崎借りてくけどね。俺らと先に約束してるんで」
行こ、と呼びかけた佐古田は、岩崎の知るいつもの飄々とした調子に戻っていた。佐古田の友達──おそらく真鍋が岩崎の横を通り、そこでようやく、心が自分の元へと帰ってくる。
「……ごめん、先行ってて!」
岩崎が言うと、佐古田が怪訝な顔で振り返った。小島と何かを言い合うつもりなのか、寄せた眉がそう言っている。
答える代わりに、岩崎は唖然と立ち尽くす小島のそばを通過してみせる。
男子トイレまで早足で戻ってくると、誰もいないのを確認して、背中を壁に伝わせながら廊下にしゃがみ込む。
心臓がばくばくと鳴っている。走ってはいないのに息が切れるようで、気管のあたりを押さえた。
いつもの理不尽だと諦めていたところを救われたから? 違う。
散々自分を苦しめた小島が成敗される姿にスカッとしたから? 違う。
最悪だった状況が、目の前で鮮やかに変わったから? そしてあの場に残った、台風が過ぎたあとのような空気に高揚を覚えたから? 違う、違う。全部違う。
鼓動がどんどん強くなるとともに、頭の中が佐古田でいっぱいになっていく。
胸に当てていた手を肩に滑らせると、触れられていた熱を思い出した。
人通りの少ない男子トイレ近くの物陰。
岩崎はどこぞの探偵みたいに身を隠し、ポケットからこっそりスマホを抜き取る。
[今どこ?]
両手打ちですばやく入力した。じれったく返信を待っていると既読がつく。
[もうすぐ学校着きそう]
メッセージの相手は佐古田。表示される日付は十一月の二週目、文化祭二日目の一般祭。
──じゃあさ俺、行きたいんだけど
──どこに?
──文化祭。俺も行っていい?
社交辞令だろうと思って流していた先日の発言は、予想に反して本心だったらしい。
校内祭が行われた昨日、詳細をたずねられたときは思わず「来るの?」と聞き返してしまった。
[あ、俺の友達も今日来るから]
テキストボックスを起こしているうちに追加のメッセージが届く。
友達ってどんな友達なんだ? 思っていると、さらに追加で、
[真鍋って奴。中学の後輩]
どんな人だろう。平日の昼間に予定を入れられるということは、真鍋という人物も定時制高校の生徒なんだろうか。というか男女どっちだ。多分男だろうとは思うけれど。
「あれっ」
突然、声が飛び入った。岩崎はスマホを背中と壁の間に挟んで隠す。行事の日であろうと、校内でのスマホ使用は一切禁止だ。
小島のツレ二人がぞろぞろとトイレから出てくる。立て続けに小島も現れ、
「ちょうどよかったわ!」
遠慮なく肩に手を回された。こいつ手洗ったのかよ、などと不快に思う暇もなく、
「暇だろ?」
そう断言され、岩崎は首の動きで否定を表した。
自分は佐古田と、それから初対面である佐古田の友達と校内で待ち合わせをしているところだ。トークルームでは集合場所についてこれから話をしようと思っていたのに──
「スマホいじりはどう考えても暇じゃん。ちょっと来て」
ぐいぐいぐいぐい。まるで隠れスマホの容疑者扱いで連行された先は、教室。
無理矢理、肩に回されていた腕は教室前の廊下に設置された受付スペースにて外れ、やっと解放──されたかと思いきや、長机とセットになった椅子に今度は座らされる。
「受付、しばらく代わりにやっといてくんない?」
頼む! と小島が顔の前で両手を合わせてくる。
「他校の友達と約束してたの忘れててさ! 顔出したらすぐ戻ってくるから」
「え……ちょっ……」
はなからこちらの返事を検討する気などない小島だから、岩崎が引き留める間もなく廊下を行ってしまった。
小島と他校の友達の約束なら、ツレの二人が代役をすればいいんじゃ? そう思い当たったころにはすでに二人の姿は消えていた。部活練習によって培われたのか、逃げ足が速い奴ら。あいつらのせいでサッカーというスポーツ自体に拒否感が生まれそうだ。
岩崎は背もたれに体重を預け、揃えた指先で両方の眉頭を押さえた。どうしよう。
佐古田とのトークには既読がついてしまっている。返信をしないと。長机に隠れてこそっと、手早くならバレないだろうか。
でも、さすがにここは廊下だ。誰かが見ていたらまずい。今のところお化け屋敷は全く繁盛していないけれど、誰かが客として来るかもしれないし……。
と、思考をぐるくる回転させる視界。誰かが岩崎の座る机を叩いた。
二度の振動を与えたのは色白の細い指で、辿ると袖がまくられた黒シャツに包まれていて、
「何やってんの?」
「……あ」
「連絡返せよ」
「ごめん」
「今日は仕事ないって言ってたじゃん」
佐古田は不服そうにズボンのポケットに手を突っ込んだ。
メッセージを無視する岩崎にしびれを切らし、教室までやってきたらしい。佐古田はこの学校の構造をよく知っている。
「仕事は……なかったんだけど」
「けど?」
追求されるも、情けなくて事情を言い出せない。
どう伝えようかと視線を彷徨わせていると、佐古田の後ろにいた黒髪の男と目が合った。こちらに会釈をするとき、後ろでハーフアップに縛っているらしい男の長い髪がはらりと首筋で流れた。この人が真鍋だ。いかつい。
うまく噛み合わなかった待ち合わせと、知り合いの知り合いとの初対面。
気まずさのマリアージュで口の中がカラカラに渇いたところに、
「悪い!」
小島が廊下を走って戻って来る。これには驚いた。いつもの横暴さを鑑みると、てっきり自分は受付を任せきりにされてしまうとばかり──
「もうちょい延長頼める?」
ですよね。
「次の人に交代するのが十三時半だからあと三十分くらい、いける?」
「……三十分」
「岩崎、どうせぼっちでしょ?」
「いや俺にも予定──」
「一生のお願い!」
人差し指一本を立てて小島が頼みこむ。一生、という言葉にかけるプライドのなさ。呆れるどころか絶句する。蝉でももう少し慎重にその機会を窺うだろう。
ぐたっ、とくるものがあった。ずっと歩き続けただるさのような、蓄積された疲労感のようなものが。
わかったとも嫌だとも口にしたくない。
もう、しんどい。
何を期待しようと、小島の姿勢は変わらないだろう。
だけど、小島を責めるばかりもできないだろう。
現状は何も変えられない。そう、岩崎だって諦めているんだから。
「それさー、ここでする話?」
岩崎に向けられていた集中がふっと途切れ、小島がよそを向いた。
「ここ模擬店なんでしょ? 俺ら客なんだけど?」
小島が視線を止めた先には佐古田がいて、薄ら笑いを浮かべている。
怖い。腕組みをする姿にはなんだか威圧感がある。
そう感じるのは普段の穏やかな雰囲気を知る岩崎だからではないようで、ぱちぱちと忙しなく小島は瞬いた。
「あと、岩崎のことぼっちっていうのやめてくれるかな?」
佐古田は胴の前で組んでいた腕を解くと、岩崎の肩に回す。
急に体を引き寄せられて驚いた自分とは対照的に、佐古田のテンションは保冷されたままだ。声に一切の感情が乗っていない。
「俺の友達なんだよね、岩崎って」
「え?」
ここで初めて小島がリアクションを見せる。
同じく動揺した岩崎の肩の上で、佐古田がトントンと指先を弾く。反応するな、落ち着け、そう言わんばかりに。
「あんたはクラスメイト?」
「……あ、はい」
「そうなんだ。岩崎、学校でどんな感じなの?」
「……どんな感じって」
「岩崎って自分のことペラペラ話す性格じゃないでしょ? だから楽しくやってんのかなって心配で」
同じクラスになって半年以上経つが、初めて見た。小島が臆するところ。顔の筋肉は引きつり、足は後ずさって佐古田から距離を取りたそうに見える。都会的に垢抜けた佐古田の容貌と、にこにこと笑む表情の嘘っぽさにびびっているんだろう。
「クラスメイトねぇ」
物を査定するような目で佐古田は小島を眺め回している。
「……そ、そんな仲いいとかじゃなくて」
「じゃあ、これから仲よくしてやってよ」
岩崎の肩をひとつ叩いたのを最後に、佐古田は回していた腕を外した。
そして小島にじりじりと近づいていき、眼前で立ち止まる。小島が息を飲む。
「あ、今日は岩崎借りてくけどね。俺らと先に約束してるんで」
行こ、と呼びかけた佐古田は、岩崎の知るいつもの飄々とした調子に戻っていた。佐古田の友達──おそらく真鍋が岩崎の横を通り、そこでようやく、心が自分の元へと帰ってくる。
「……ごめん、先行ってて!」
岩崎が言うと、佐古田が怪訝な顔で振り返った。小島と何かを言い合うつもりなのか、寄せた眉がそう言っている。
答える代わりに、岩崎は唖然と立ち尽くす小島のそばを通過してみせる。
男子トイレまで早足で戻ってくると、誰もいないのを確認して、背中を壁に伝わせながら廊下にしゃがみ込む。
心臓がばくばくと鳴っている。走ってはいないのに息が切れるようで、気管のあたりを押さえた。
いつもの理不尽だと諦めていたところを救われたから? 違う。
散々自分を苦しめた小島が成敗される姿にスカッとしたから? 違う。
最悪だった状況が、目の前で鮮やかに変わったから? そしてあの場に残った、台風が過ぎたあとのような空気に高揚を覚えたから? 違う、違う。全部違う。
鼓動がどんどん強くなるとともに、頭の中が佐古田でいっぱいになっていく。
胸に当てていた手を肩に滑らせると、触れられていた熱を思い出した。