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 ほんの少しの勇気を振り絞れなかった。判断を間違った。
 その成れの果てが流血だなんて、一体誰が予想する。

 右手、チョークで汚れたスーツのポケットにイン。左手、教卓に積んだワークブックの上。トントントントン……と指先で表紙を叩く。
 教壇に立つ数学教師は当分授業を始める気のないポーズで構えて、問いかけた。
「このクラスの委員長は誰ですか?」
 三十数人いる教室。ちょうど教師の正面にいた女子が、欠席ですと答える。
 副委員長も休みの旨を女子が補足すると、三十代だろう数学教師は長方形のクラス名簿を開く。ポケットから抜いた右手でペンを握る。委員長の欠席を記入したんだろう。ぱたん、と名簿を閉じると、上半身をねじらせて黒板の端を確認した。
 その動作を認めた瞬間──体に緊張が走る。
 自分の意識しないところで体が動きだす。瞬きの回数が増える。呼吸が浅くなる。冷たい風が背筋を撫でるように血の気が引いたあと、ダムが決壊するみたいに毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出してくる。
 うつむき加減のまま瞳を動かした。すると岩崎がかける黒縁眼鏡越しに、がちっ、と視線がはまった。青髭が目立つほど色白な数学教師が今度は教卓の上に置かれた座席表に目を落とす。
「君が岩崎くん?」
 岩崎崇人くん。フルネームで確認されてうなずいた。
「今日の日直?」
 立て続けに聞かれてうなずいた。
「五限が数学だって、知らなかった?」
 嘘はつけずに、うなずけなかった。
「じゃあ、どうして職員室まで来てくれなかったんですか」
 深く吐こうとしたため息を文章に転換させたみたいな、そんな声色で指摘された。
「授業時間になっても教師がいなくて、数分待っても来ないなら、代表して誰かが呼びに行かないと」
 机上の筆箱に定めた目標、岩崎はその一点をひたすら無心で見つめる。
 この状況はバラエティコンテンツ。あるいはコメディ。
 叱られる岩崎を嗤う視線。自分でなくてよかったと安堵し合うひそひそ話。説教が長引くほど授業開始が遅れるからラッキー、と他人事のように構える気配。
 しんと教室は静かだが、岩崎のことをみんな内心で面白がっている。そして同時に、授業に遅刻した数学教師のことをナメている。
「それとも……もしかして、僕を呼びに行こうとしていたところでしたか?」
 新たな可能性を口にした数学教師に岩崎は顔を上げた。
「だとしたら申し訳ない。一方的に君を責めてしまいました」
 職員室へ行こうとしなかったのはクラス全員なのに、岩崎だけが罪を被るやるせなさが滲み出ていたんだろうか。数学教師は謝罪を口にした。
 ふと眼鏡フレームの外に動きを感じ、そちらを向く。すると一人の男子が岩崎を見ていた。
 小島。こいつが元凶だ。お前のせいで……と、岩崎は奥歯を噛みしめる。
 開講から約二十分にわたった数学教師の不在。それは全て、性悪な小島によって仕組まれたことだった。
 授業開始予定時間から十数分が経ち、最初は棚ぼたを喜んでいた教室が状況判断に揺らいでも、がははと馬鹿笑いしてのけたのが小島。
 クラス委員二人が休みなら、申告するべきは日直なのではないか。神輿へゆっくり乗せられていく雰囲気に耐えかね、椅子をギギギと引いた岩崎を制したのが小島。
 岩崎の肩を押さえつけ、乱暴に着席させたのが小島。
 くそ、くそくそ。不満に思っても抵抗できない葛藤を、岩崎は固めた拳に込めた。四本の指で親指を包んで、握る。血流が止まって指先がかあっと熱くなる。すると頭の意識がそちらの神経に向いて、気を逸らすことができる。
「もういいですよ」
 凛とした調子で許された。
 このくだりを終える気なのか、数学教師は授業プリントをうねうねと曲げ始める。そうして枚数を勘定しやすくしたのち、窓際の列の最前席から順に紙を配布していく。
「次こういうことがあったら、迷わず呼びにきてくださいね」
「……すみません」
 放免された岩崎がすとんと着席すると、そのタイミングで堪えかねた響きの笑いが聞こえてきた。
 元をたどると、やはり小島だった。小島と、小島の部活仲間であるサッカー部男子二人。
 ド、ン、マ、イ。
 オーバーな唇の動きで小島が伝えてくる。するとツレの二人が「お前もいっちょ噛んでるだろ」と口パクにツッコミを入れる。
 席が近い三人のところで局地的に小さな笑いが起きる。
 相手にしちゃいけない。無視。耐えろ、自分が耐えたら事は穏便に済むんだ。我慢我慢我慢──
 岩崎は呪文のように唱え、陰湿なグルーヴから目を背けた。

 *

 放課後、廊下を歩いていると院長回診のごとき野球部の大群がやってきた。
 がやがやとした空気を前方に察知すると同時に、岩崎の体は自動的に壁際へと寄る。
 集団、ひいては運動部に遭遇したときは、いかなる目的の途中であろうと避けること。岩崎の脳には初期設定でそういうプログラミングが施されている。
 教室内における力関係の把握は学生生活を送るうえで必要なスキルだ。
 リーダー格は誰で、その下に付いているのは誰なのか。影響力を持っている人物。教師が贔屓にする人物。ぱっと見は目立たないけれど、ちょうどいいポジションにいてちゃっかり恩恵を受ける人物。
 スマホに財布、生徒手帳。それから教室内勢力図は頭の中で大事に携帯しておくこと。必要な場面でさっと広げて確認できるように。
 それは小中高の十一年間をぼっち男子学生として過ごしてきた岩崎が習得した処世術。
 だけど悲しいかな。
 クラス内の関係図を正しく読み取れたところで、自分を取り巻く何を変えられるわけじゃない。その事実もまた、岩崎が長年の学生生活で得た知識である。
 うちのクラスでいうと大声を出していいのも世論をまとめていいのも小島とそのツレ二人。
 いわばあいつらは不動の王で、その対称にいるのが岩崎。普段は接点を持ちたくないが、いざとなれば生贄として差し出せばいい。自分で言うのもおかしいが、高校二年次のクラスにおいて岩崎崇人といえばそういう存在なのだ。
 雑な扱いを受け始めたのに明確なターニングポイントはない。
 四月中にはおおよそチェックが完了し、教室全体になんとなく共有されるクラスメイトのポジション評価。その審査基準はシンプルだけれど残酷なものだ。
 まず最初は見た目。垢抜けているか、最低限の清潔感は持ち合わせているか。極論、自分より強そうか弱そうか。
 次に交友関係。どういう友達とつるんでいるのか、どんな組織に所属しているのか。部活なんかが一番わかりやすい判断材料。
 その二点があればだいたいの点数はつけられてしまう。審査に直接話す機会などいらない。外に見える要素さえ掴めれば、それで。
 こいつは上。こいつは自分と同等。こいつは下。
 カーストを振り分けられたら、その時点で無条件に立場は確定。
 例えばその人の実家がよほどのお金持ちだとか、学年トップレベルで勉強ができるとか、認めざるを得ない才能があるとか。何かしらの強力なバックボーンがあったりしない限り、一度定められた立ち位置を覆すのは至難の業だ。
 上は上、下は下。それぞれには、それぞれの生息地というものがある。
 たとえ岩崎にとってのそこが教室の端であっても、岩崎は岩崎らしく。
 席替えのくじによって物理的にも配置された廊下側の際の席で、静かに、大人しくしているのが吉。
 きつく当たられても言い返さない。態度に表さない。反論できないんじゃなくて、能動的な無視。
 それがいい。そうするのが真理と信じている岩崎だから──
「小島くんとはどういう交流があるの?」
 回ってきた個人面談の時間にたずねられ、前髪の下で眉を寄せた。
 新卒一年目からこの高校に勤務し、今年になって初めてクラスを受け持ったという担任。
 年が近いからだろうか。生徒たちとはくだけた話し方で親睦を深めている印象があるのだが、接点のない岩崎相手には距離を掴みかねるらしい。
 居づらさを誤魔化すように、鎖骨あたりで切られた髪を先ほどからしきりに耳にかけている。
「実はね、山本先生が仰ってたのよ」
「山本先生?」
 山本とは数学教師の名だ。品のよさが逆に怖い口ぶりで岩崎を注意した、あの。
「今日の五限って山本先生の数学だったでしょ?」
 それが……なんだ?
「岩崎くんと小島くんの関係性はよく見ておいたほうがいいですよって、教えてくださって」
「……山本先生が、ですか」
「えぇ」
 脊髄反射の速さで懸念が湧いた。それは自分に伝えていい話なのか?
 いやいやいやいやいや。いいわけがない。こういう生徒個人に関する話題は普通、職員室限定。持ち出し厳禁だろう。
 それを、なんで、当事者に、直撃インタビューしてしまうのか。山本先生が知ったら卒倒するんじゃないか。
 結構なやらかしに気づいていない担任は岩崎に向けて質問を重ねた。
「小島くんとは友達なのかな?」
「……いえ」
「同じ中学校出身じゃないよね?」
「……はい」
「岩崎くんは帰宅部で、小島くんはサッカー部──」
「ただのクラスメイトです」
 思いきって岩崎は続けてみる。
「……俺が注意されたことですよね、山本先生から聞いたのって」
「そう。注意されてる岩崎くんのことを見て、小島くんたちが笑ってたんじゃないかって」
 あぁ、やっぱり。あぁ、じゃあ、えっと、
「それは……勘違いです。他人のこと馬鹿にして笑ったりしないです、小島くんたちは」
 個人名を出して強調したら、担任は背もたれにぐうっと体重を預けた。ならよかった、と息を吐く姿に岩崎は苦笑いで応じる。
 心情お察しします、先生。今日もご苦労様です。
 教職として経験が浅い担任。その立場を想像したらわかる。自分のクラスで生徒間トラブル発生なんてまっぴらごめんだろう。
 面倒事に巻き込まれることこそ面倒。
 だから岩崎が数学教師に誤解された五限目、クラスメイトはみんな揃って無視を決め込んだんだろうし、今さっきの岩崎だって小島の悪行を隠してやった。感謝しろ。
「何か困ったことがあれば言ってください。以上です」
 十五分の面談は長いなと思っていたら、隣でぱたんとファイルが閉じられた。意外とあっさりな締めだった。
 そうして岩崎が帰り支度を始めたころ、
「コンクール近いんだって」
 担任が話しかけてきた。クラリネット、と付け足され、岩崎は耳を澄ます。階段を駆け上がるようなメロディー。校舎のどこかで吹奏楽部が楽器の練習をしている。
 何が楽しいのか、ふふふっと機嫌よく担任は笑う。
「一生懸命な生徒のみんな見てると、自分も頑張らなきゃって思うよね」
「……はぁ」
「岩崎くんもそう思わない?」
 共感前提で問いかけられた。だが全くもってうなずけない。そんな岩崎の困惑はスルーで、担任は独り言を言いながら教室の整理を続けている。
 これは沈黙が苦手なタイプとみた。
「あっ、戻すの手伝ってくれる?」
 四人一組の給食スタイル。面談用に変形させていた机を担任は指す。
「……あ、はい」
「ありがとう。今から生徒さんたちが教室使うんだよね」
 クラリネットを奏でるのは『生徒のみんな』これからこの教室を使うのは『生徒さん』。そう担任は呼び分けた。
 岩崎が通う学校は、夜になると定時制高校に変化する。
 敷地面積が小さいので校舎は共用。十七時が定時制高校の始業なので、岩崎たち生徒はどんな用事があろうとチャイムを合図に完全下校しなければならない。
 定時制高校は私服登校だと聞いたことがあるが、制服を着ていない学生が教室にいる場面は想像がつかない。
 それほど岩崎たち生徒と定時制の生徒との繋がりはなく、それは担任も然りらしい。
「忘れ物ない?」
 机の形を復帰し終えた自分に担任が声をかけたのは遠回しの急かしで、会釈を挨拶に岩崎はそそくさと廊下へ出ていった。