「さーくー!」
「遥先輩」

 渡り廊下を歩いていた休憩時間。呼ばれた方へ顔を向けると、如月が右手を大きく振りながらこっちを見ている。如月は学校で見かける度に名前を呼んでこうやって手を振ってくれる。声が大きいというのもあるが、どんなに離れていても真っ直ぐ通るから自分に届くのだ。中庭を歩いている時に四階から名前を呼ばれた時は、近くにいた人達がこっちを向いていて流石に恥ずかしかったけど。自分に気がついてくれたんだって、それが嬉しかったりする。
 そのお陰か、自分も気がついたら如月を見つけることが多々ある。でも、自分からは声をかけない。

 〝ーー朔久!〟

 如月に名前を読んで欲しいから、わざと気がつかないフリをしているのだ。

「移動? 次の教科なにやんの」
「化学です」
「お、じゃあ途中まで一緒に行こうぜ~」
「先輩、髪はねてますよ」
「うそ!どこ」
「うそ」
「え」
「……っふ」
「ーーっ! またそうやって! 先輩をからかうな!」

 ムッとした表情で不服そうに見てくるのも慣れたもんだ。睨むようにこっちを見ていても全然威圧感が無くて笑ってしまう。自分の方が身長が高いから自然と見下ろす形になり、如月が上目遣いになる。
 ……遥先輩、可愛いな。

 ……ん?

「……ーー久、朔久?どした?」
「いや、……何も」
「じゃ、また部活でなー!」
「はい」

 パタパタと廊下をかけて行く後ろ姿を見えなくなるまでじっと見つめた。
 遥先輩が可愛い……?可愛いってなんだ?
 何が可愛いの?俺より小さいところ?目が猫目ではっきりしてるところ?いつも笑ってくれるところ?

「あれ、ドアの前に突っ立ってどしたん? 教室入んねーの?」
「……はいる」

 これがどんな感情なのかその時は全く分からなくて、このじりじりと焦がれそうな心を一度閉まった。



「今日体育の時間にこいつがさ~」
「ちょっ、お前それは言うなって約束だろ!」

 この言葉に出来ない、糸がぐるぐるに絡まったみたいな気持ちがやっぱり気になってしまい、如月のことを考えていたらあっという間に授業も部活も終わっていた。食事や風呂を済ませ、共同スペースで如月と他の先輩達が話しているのを隣で見つめながら、なかなか出ない答えをぼんやりと考えている。
 自分の性格からして共同スペースなんて好まないのに、進んで行くようになったのは如月と一緒にいるからだ。
 自分の知らない所で他の誰かと仲良くしてると思ったら嫌だなと、ふと先日同級生と話している所を見て思ってしまい、この独占欲みたいな感情にも困っている。

「朔久さ~、表情筋動いてる?」
「……動いてますけど」
「なんつー質問よ、それ」
「いやあさ、朔久って喋ると普通だけどさ、基本的に何思ってんのか顔に出ないから読み取りにくいじゃん。周りにはイケメンが故のクールだと思われてっけど」
「すいませんね、この顔で」
「だんだん妬みに聞こえてんぞ~」
「あ、悪口とかじゃねーからな!」
「分かってますよ」

 本当に嫌味のようには聞こえないし本当に悪気なくこの先輩は言っているんだと思う。言われた所でどうでもいいので全く気にしていないが。今までこういうことを何度か言われてきたことがあるから慣れている。
 感情を表に出すのは昔から得意じゃない。というか、どうやったらそう見えるのかなんて考えたこともなかった。イケメンかどうかは知らないけど。

「そうか~? 分かるけど」
「遥は一緒にいることが多いからじゃね?」
「え~? そんなことねえよ。ちゃんと朔久のこと見てたら分かるよ。な?」
「なんかお前らって先輩後輩でいい関係だよな~。俺も混ざりたいんだけど」
「え、嫌です。うるさいから」
「なっ! 先輩に向かってうるさいってなんだよ!」
「遥先輩部屋戻ろ、ゲームの続きしたい」
「おー! やろうぜー!」
「あ! ずるい! 俺もやりたい!」
「えーー……。……まあ、どうしてもって言うならいいですよ」
「なんかお前、遥に対する態度と違くねえ?」
「それはほら、俺ら運命共同体なんで」

 如月がいると、自然と周りに人が寄ってくる。人といることが苦手だった自分もいつも間にか複数人でいることに慣れていて、気がつけば気にならなくなっていた。他の人の騒がしさにはまだ慣れなくて疲れるけど。


「はっ?! お前強くねえ?!」
「朔久このゲーム負けなしだもんな~。マジで強いよ」
「勉強も運動も出来て、なんでも出来るマンかよくそー! おまけに顔面偏差値も高くて羨ましいっつーの!」
「はい、負けたから帰ってくださいさようなら」
「また勝負すっからな!」

 何人か上級生が来てぎゅうぎゅうだった部屋もやっと落ち着き、如月とひと息ついた。

「さっきの話じゃないけどさ」
「はい?」
「朔久って何でも器用にやってるイメージあるけど出来ないことあんの?」
「考えたことないけどあるんじゃないですか? 先輩だって何でもできるじゃん」
「え~? 俺出来ねえよ? うちの学校で特待生なんてなかなかとれないし」
「でもスポーツ推薦取ってるじゃないですか、普通に凄いです」
「なんでこの学校選んだとかあるん?」
「……うち、母子家庭で下に双子の妹がいるんですけど、母さん働きっぱなしだから俺が金かからなければちょっとは楽になるかなって」

 この時、自分の家庭の事情を話したのは如月が初めてだった。今時両親が離婚なんて珍しくないが、そのことを話して気を遣われるのは気に入らなかったので話してこなかった。
 遥先輩になら何知られてもいいや。なんだろう、この絶対的な安心感。

 自分のベッドに座っていた如月がポンとその場を叩いたので、寄って行くと手を引かれそこに座った。

「朔久は偉いな~!」

 くしゃっと豪快に頭を撫でられ心臓がギュッと握られたように締めつけられた。体温が下から上へ一気にグッと上がり、沸々と湯が温まるみたいに身体の中がポカポカする。
 この人は何処までこんなに眩しくて太陽みたいな存在なんだろう。
 そのまま如月の肩に頭を乗せると優しく笑われた。

 ーーああ、好きだなあ。

「……ーーっ、」

 その時、ずっと考えてみても出なかった答えがぽろっと容易に溢れてしまったのだ。

 ……ーー俺、遥先輩のこと好きなんだ。

「はあーー……」
「え、ごめん痛かった?!」
「いや、痛くないです。……そういうことか」
「ど、どういうこと?」
「いやーー……、こっちの話です」

 あの言葉に出来ない、感じていた気持ちに答え合わせを出来たらストンと腑に落ちてスッキリした。首を傾げてこっちを見る如月に「なんでもないです」と言うと、撫でられている頭でグリグリと優しく押し返した。

 ……やばい、自覚したら余計先輩のこと好きだなって実感してきた。この気持ち、大切にしたい。



「まーたお前らくっついてんのか。暑くねえの」
「先輩暑い?」
「いや、暑くねえ」
「暑くないって」
「距離感バグってんな……」
「楓先輩何しに来たんですか」
「何しにきたじゃないわ、ここ共同スペース」

 如月に対する気持ちを自覚したからと言って何かアクションを起こす訳でもなく、〝いつもの距離感〟で接している。……まあ、意識してもらいたいなとは思っているのでこうやってくっついたりはしているのだが。というか俺が先輩とくっついていたい。

「その遥の撫でてる手は何なん」
「朔久って大型犬みたいで可愛いから撫でたくなんだよな~」
「……俺って犬なの」
「うちの実家にいる犬そっくり!」
「随分大きな犬だな」

 ……大型犬、か。これはもしかしなくとも全く意識されてねえな。

「遥先輩! ちょっといいですか?」
「おー、どったの~」
「え~、行っちゃうの」
「朔久は部屋でも会えんだろ~、また後でな」
「はいはい朔久くんは俺とお喋りな。行ってらっしゃい~」

 後輩に呼ばれて歩いて行く後ろ姿をじっと見つめていると三波に笑われた。

「そんなに見てたら遥に穴が開くだろうがよ」
「あーあ、取られちゃった」
「お前らそろそろ付き合った?」
「……付き合ったらさすがに楓先輩には言いますよ」
「遥は気づかねえと思うから言っちゃった方がいいと思うぞ~」

 如月と同じクラスの三波楓(みなみかえで)は、俺が好意があることを薄々気づいていたらしい。
 普段からよく目が合うことがあり見られているなと思ったが、気持ちを自覚してから数日後にたまたまこのスペースで二人になることがあり、第一声が「朔久って遥のこと好きなの?」だったのだ。

「とりあえず犬から人間に昇格してみたら?」
「うるさいなあ……」
「自分の話をするのが苦手な芦屋くんに先輩が寄り添ってやるから最近の近況報告してみ」
「えーー……、最近ですか?……あ、聞いてくださいよ。この間そろそろ寝るかってなった時に〝遥先輩一緒に寝よ〟って言ったんですよ」
「何そのパワーワード」
「そしたら何て言ったと思います?〝このベッドじゃ男二人は狭いだろ~〟って言って笑ってました」
「あいつ裏切らねえな……」

 そうなのだ。先輩はなかなかに手強い。どうやら〝一緒にいる〟だけでは意識して貰えないらしい。パーソナルスペースが狭い人だから気にも止められてないんだろう。

「遥の周りはいつも人がいるからな~。そんなんじゃ気づかねーと思うよ」
「……まって、ってことは学校で遥先輩にくっついてる輩がいるってことですよね?……じゃあ何したら意識してもらえんの?腹立ってきた」
「輩ってなんだよ……。ってか朔久さんよ、キャラが変になってるから一旦戻ってきて」
「楓先輩とりあえず遥先輩のこと監視しててもらっていいですか」
「なんで俺なんだよ! だから、言っちゃった方が良いっつってんじゃん」
()って断られたら終わりじゃん」
「なにも()えって言ってねーよ。〝意識させろ〟っつってんの。遥が分かるようにアピールすりゃあいいじゃん。言葉じゃないとあいつは無理だろうなあ~」
「あの人気づいてくれんのかな……」
「まあそれは朔久の努力次第じゃねえ?」

 楓は「まあ、何かあったらまた相談のるから」と言うと、手をヒラヒラさせて行ってしまった。

「……俺も戻ろう」


 部屋に着きドアを開けようとしたら勝手に開いた。

「おかえり」
「え、何で分かったんですか」
「朔久の足音聞こえたから」
「俺の足音ってなに」
「一緒にいたら分かんのよ~。ってか遅かったな」
「あれから楓先輩とちょっと色々」
「朔久と楓って結構仲良いよな。何繋がり?」
「えーー……、なんだろ……繋がりって言うか相談相手?」
「……ふーん」
「何ですかその反応」
「いや、別に~?」

 何か言いたげな表情でこっちを見ていたが首を傾げてみても「なんもねーよ」の一点張りだったので気にせず自分の勉強机に腰掛けた。



 天気が良くいわし雲が所々で広がる昼休み、同級生と中庭を歩いていたら先の方に如月がいるのが見えた。ぱっとこっちを向くと目を大きく見開いている。

「あれ、樹?!」
「あ! 遥先輩! 久しぶりっす!」
「朔久も! 二人同じクラス?」
「そうっすよ~! ここは何繋がりっすか?」
「俺ら寮部屋一緒なんだよ! な? ……朔久?」
「……ーーっ、はい」
「そうなんですね!」
「あ、やべ!急いでんだった!またな~!」

 走りながらこっちに笑って手を振る先輩を見つめるとあっという間に姿が見えなくなってしまった。

「遥先輩と同室なんだな! いいな、楽しそう。あの人優しいでしょ」
「樹は何で知り合いなの?」
「中学の時委員会一緒にやってたんだよ。部長もやってんのに委員長も任されたりして頼られること多いのに嫌な顔しないんだよな~。ほんといい先輩だよな遥先輩って」
「ふーん……」

 その如月遥は俺の知らない先輩だ。知り合って数ヶ月とはいえ、一緒にいることが多いし過去の話も色々したから何でも知ってる気になってた。
 こういう時モヤモヤの対処法を知らないから自分の気持ちに疲れて嫌になる時がある。

「……はあ。樹むかつく」
「え?! なんで?!」

 俺に勝手に八つ当たりされて可哀想に、なんて他人事のように思いながらも、頭にはてなマークを浮かべこっちを見ている樹に「なんでも」と答えた。



 学校が終わり委員会の仕事や先生からの頼まれごとを済ませると、部活が無いのでそのまま寮へ帰る。
 部屋のドアを開けると、先に帰っていた如月がベッドに寝転がってスマホを弄っていた。

「おかえり~、遅かったな」
「はい」

 相変わらずニコニコと笑ってこっちを見て話しかけてくれる。……俺のこんな気も知らないで。

「朔久が樹と同じクラスだと思わんかった! 仲良いんだな」
「まあ、そうですね」
「俺中学の時委員会一緒でさ~」

 ……知ってるよ、あの後樹に聞いたから。

「……あのさ、お願いがあるんですけど」
「ん?」
「俺がいる時は一番に俺の名前呼んで」
「なんで?」
「なんでも」
「なんでもってなんだよ~」
「……わかんない?」
「え?」

 寝転がっているベッドへ近づき如月の上に跨る。
 大きく沈んだベッドで如月の身体が揺れた。グッと顔を近づけると、きょとんとした顔でこっちを見ている。……ああ、ほんと、むかつく。

「俺、アンタのこと好きなの」
「……え?」
「俺が好意向けてんのに全然気づいてくんねえのむかつく。今日だって呼ばれなかっただけでこんなに嫌なのにさあ」
「……え、と……?」
「これからは堂々とアプローチしてくから俺のこともっと意識して。……風呂行ってきます」

 如月から離れベッドから下りると、着替えを持って部屋を出た。


「朔久~、部屋に遥いる?」
「……楓先輩」
「ん? どうした?」
「好きって言った」
「……はい?」

 目を大きく見開き口をぽかんと開けてこっちを見ている。

「これからアプローチしてくから意識してって」
「おお……遥は?」
「愕然としてた」
「……言った本人はなんか楽しそうですけど」
「もう遠慮せず行けるなって。あ、遥先輩部屋にいますよ。とりあえず風呂行ってきます」

 そうだ。言ってしまった。〝好き〟は正直言うつもり無かったけど気がついてたら口から出ていた。これであの人が意識してくれるのなら俺は構わない。