夕食をとって一時間後、僕は三年生の住む二番館の玄関の前にいた。鍵がかかってるわけじゃないがガラス扉を開けて中で待つというのは落ち着かない。
 そして五分も待たないうちに会長さんが玄関に現れて扉を開いてくれた。
「羽鳥君ごめん、待たせて」
「いえ、今来たところです」
 ……一人で二番館の階段を上がるのは勇気がいるとは思ったが、会長さんと一緒に歩くというのもまた人目を引いて僕は視線を下げたまま歩いた。詮索されるのも落ち着かないが、誰も話しかけてこないのもまた同じだ。
 それでも何十分も歩くわけじゃない上に、人はまばらで。すぐ会長さんの部屋について中へ通された。
「アイス取ってくるからベッドに座ってて」
 会長さんは部屋を出ていく。
 三年生になると相部屋から一人部屋になる。そうなるともっと部屋は狭くなるようで、僕たちの半分強の広さだった。勉強机とベッドがあって、人を招けるテーブルを置けるスペースはほとんどない。
 割とドアの近くに共同冷蔵庫を見かけたからすぐ戻ってきて、スプーンと共に手渡されたのは結構値段のいいカップアイスのバニラだった。もらっていいんだろうか。僕はグルメでもないからあまり食べた記憶もない。百円ほどのアイスかと思ってたのに。
「バニラ苦手だった?」
 まじまじとカップを見つめていたら。
「あ、いえ。こんないいアイスいただいていいのかなと……」
「ああ、気にしないで。これ安く買えたんだよ。さ、食べよう」
 さすがのお値段でとても濃厚で美味しい。このアイス用だというスプーンも食べやすくて。
「美味しいです」
 甘いものは幸せな気分になる。
「羽鳥君」
 食べ終えた頃、会長さんはスプーンとカップを僕から回収して机に置くと、僕の横に座った。
「はい……」
 適度な間は空いているものの隣に座るとは思ってなくて意味もなくどきりとした。
「さっきの話」
 え?
「周りに人がいたから突っ込まなかったけど、君は誰に遠慮してる?」
「あの……?」
 断定なのはどうして。その話は終わったはずなのに。
「今日の羽鳥君はとても明るくて可愛くて、俺はあの頃の君に近いと思ったんだ」
 あの頃。会長さんは中学一年生の時の僕を知っている。というかそれしか知らない。
「本当はね、委員会で見た君は影がありすぎて驚いたんだよ。大人びた、なんてものじゃない。俺が卒業したあと何があったの?」
 穏やかな瞳が僕の顔を覗く。何があったのか、なんて。
「何を背負い込んでるの。視線は落ち気味で儚げに笑ってる。羽鳥君はそんな子じゃなかったはずだ」
 矢継ぎ早に言われても口調は優しくて。でもなぜこの人がそんなことを言うのか。
「俺にできることは少ないかもしれないけど、聞くぐらいはできる。もしそれで心が軽くなるのなら話してほしい。聞いたことは絶対誰にも言わないから」 
 ……デザートに誘ってくれたのはこれを言いたかったのか。なのに僕はひょこひょこついてきて。気分を悪くすることはないけど、立ち入ってほしくない。僕の密やかな問題だから。
「見てるこっちが辛くなる。以前の君を知ってるから」
「今の僕がすべてです。僕は何も変わってないです」
 ここで僕を知ってる人がいたなんて想定外だ。触れてほしくないところに触れてくる。
「俺は多分知ってると思う」
 え?
「羽鳥君が変わってしまった理由」
 ……嘘だ。
「この間の委員会で」
「あのっ」
 この人は一体何を言おうとしてるんだ。
「お話を遮って申し訳ないですが、会長さんは僕が中一の頃しか知らなくて、そのあとの二年間で僕は僕なりに考えて成長したつもりで、それを影があるとかそんな人間じゃないみたいなことを言われても僕は……困ります」
 これ以上しゃべらせては駄目だ。
「俺は確かに生徒会長だけど、守矢って名前がある。そっちで呼んでもらえると嬉しい」
「すみません……」
「謝ってほしいわけじゃないんだ。少し距離があって寂しいなって思ってさ」
 僕にとって三年生は、更に生徒会長さんとなればどうやっても距離を感じる。僕を知ってたらしい会長さ……守矢さん、にとっては寂しく感じたのかもしれないけど、失礼ながら覚えていなかった僕は初対面のようなものだし。
「野間、だよね?」
 !
「なっ何がですかっ」
 馬鹿。声が上擦るなんて肯定してるようなものだ。何やってるんだ、僕は。名前を言われたぐらいで動揺して。でも体中の血が逆流を始めたような気がしてどくどくと心臓が早鐘のように鳴って。責められたり怒られたりしてるわけじゃないのに。その声はとても優しいのに。でもいきなりその名前が。
「委員会の時、君は野間を気にかけていたし、野間はずっと君を厳しい目で見てたよ」
「……」
 誰にも知られてないと思っていたのに。クラスが違うし、食事も風呂も一緒じゃないから。長い時間、部屋の外で一緒にいることがなかったから。注意が足りなかったのかもしれない。
「野間と君との間に何があるの?」
 この人に言えるわけない。いや、誰にも。
「聞いたからといって俺にできることはないかもしれない、でも羽鳥君が心配なんだよ」
 心配なんてしなくていい。僕は心配されるようなことをしてるわけじゃない。納得してやってることだから。
「せめて辛いなら辛いって言ってほしい。どう見ても君の瞳が輝きに満ちて先を明るく見据えてるようには見えない」
 それは口にしてはいけないことだし、先が見えないのもその通りだ。でもそれでいいから。
「俺は君を癒やしてあげたいんだよ」
 駄目だ。絶対駄目だ。
 誰にも気付かれなかったことをこの人は気付いて、僕を気遣って優しい言葉をかけてくれる。辛いとひとこと言えば、それだけで僕を励ましてくれるのかもしれない。
「……それ以上言わないでください。お願いします」
 僕は反論するチャンスをとうとう自ら潰した。さっきから何一つ否定できてない。それはもう何かあると言ってるようなものだ。でも言葉が見つからない。心がいちいち反応してしまって、頷かないようにするのが精一杯で。
「羽鳥君?」
「これは僕の問題で自分で解決しないといけないんです」
 優しい声に揺れてしまう。弱い心が流されてしまう。
「わかった」
 微笑んだ守矢さんは少し腰を浮かして僕との間を詰めると、両手を広げて僕を抱きしめ、た。
 !
 僕は一瞬の出来事に声も出ず、結構な力の強さにもがくこともできずに守矢さんの胸の中におさまって。でも危害を加えるような意図は感じなくて、ぎゅうっと、大事に懐に入れてもらっている感じで。
「今この一瞬、俺に縋って何かをここに置いていけばいい。羽鳥君は何も言わなくていいから」
 頭を撫でられて一気に心が緩んだ。
 守矢さんの体温が僕を溶かして新しい温もりが生まれる。もっと溶かしてほしいと心が欲してそっと守矢さんの背に手を回すと、どうしようもなく硬かった心が柔らかくなった気がした。
 これは裏切りだろうか。真司への償いだけを体に刻むと誓ったのに、それを辛いことだと形にして他人に逃げた。自分だけ癒やされようとした。
 だけど、そうじゃないと僕は、僕はもう。真司への償いを全うできるだけの気力がなくなりかけていた。
 明日も明後日も真司のそばにいるだけの力があとわずかも残ってないように思う。だから。抱きしめてくれた腕に縋って。少しだけ力を分けてもらって。また真司のそばで。
 誰かに抱きしめてもらったのは何時ぶりだろうか。父親や母親に頭を撫でてもらった記憶はとうになくて。誰かに抱きしめてもらうことを欲していたわけじゃなかったけど僕は今抱きしめられて、そうされたかったのだと気付いた。一人で立つことに疲れて、支えてほしかったのだと。
「……ありがとうございます」
 守矢さんに回していた手を解いてもぞもぞと両手で胸を押し返した。守矢さんも僕の手に抗うことなく離れてくれて。
「びっくりしたかもしれないけど、俺はなんとかして君を楽にしてやりたいと思って」
 よくよく考えれば兄弟のような歳の差の同性の他人に抱きしめてもらうなんてあまりあることじゃないのかもしれないけど、僕はありがたくて。気恥ずかしくもあるけど。
「守矢さんに甘えてしまいました……すみません」
「いいんだよ、俺が勝手にやってることだ。いつでも頼ってくれて構わないから」
 事情も話さないまま癒してもらって。自分は狡い人間だと思いながらも、心はあたたかくて。
 消灯時間少し前に二番館を出て一番館へと戻った。