天を見上げるよう優雅に咲き誇る無数の白花。陽の光を受け、眩く光る大ぶりの花たちが澄んだ青空に揺れる。
葉が見えないせいか、細い枝に白い光がぽっと灯っているようにも見える。
冬の終わりを告げるように爽やかで気品のある甘い香りがふわりと風に乗って漂う。
明日にはきっと散ってしまうのに。
1
窓から降り注ぐ柔らかな春の光に包まれながら、矢内 天青は小さくあくびを噛み砕く。
新学期を迎えるにあたり体育館に集められた全校生徒数千人を相手に校長が説く、人生に対するありがたい教えも耳にとどまらず、小鳥の囀りを聞いているような心地良ささえ感じる。心拍数がゆっくりと低下し、このままではいけないと遠のく意識に抗うよう周囲に視線を移した。
わっ。
春の麗らかな陽気と小鳥の囀りに呑まれない、天に向かってまっすぐ背筋を伸ばす美しい姿が目に飛び込んできた。
あー、あいつかぁ。
180センチほどの高身長、見惚れるほどの大きな背中、程よくついた筋肉、すらっとした手足を持つ生徒はこの学校には1人しかいない。
森宮 晴人。進学校でも無いのに何故かウチにいるダントツの成績優秀者。派手ではないが鼻筋が通っていて知的な顔立ちの森宮は入学当初から密かにアイドル的存在であり、ほとんどの女子生徒は彼を認知している。
視線を落とし自分の細く貧相な手首と見比べ、小さくため息をついた。
「女子より細い男の人ってやっぱ無理かなって思っちゃって…。友達からも矢内くんって頼りなさそうって言われちゃうし…なんかごめんね」
先月、半年ほど付き合った彼女から言われたチクッと痛い別れの言葉を思い出す。
ーすらっとしていてかっこいい。
高校1年の夏休み前、顔を真っ赤にして告白してきてくれた彼女はよくそう言って褒めてくれた。明るくて可愛い、俗に言うマシュマロボディの女の子。毎日楽しく順風満帆に進んでいると思っていたのは自分だけだったようで、月日をただ重ねるだけでは愛は育まれないんだなぁとこの半年をぼんやり思い浮かべる。
別々の高校に進学すると決まった時からなんとなくこうなる予感はしていたのだ。わかっていながら別れない未来を模索しなかった自分の不誠実な一面を思い知る。
やっぱり女の子は森宮みたいに逞しくてかっこいい男を選んだ方が良いよなぁ。誠実そうだし。
勝手なイメージを膨らませながら再び視線を森宮に戻す。
すでに校長の話は終わり、始業式は締めの挨拶に入っていた。
窓から覗く澄んだ青空と陽の光を受けてきらきら輝く森宮からしばらく目を離せないでいた。
2
「矢内〜。お前早々と行くなよな〜」
「おーっ!葉山!もしかして同じクラス?」
式後、廊下に張り出されたクラス表を確認し既に2年1組の教室で暇を潰していた矢先、中学からの友人である葉山 虹太郎が項垂れながら話しかけてきた。
「お前、自分の分しか確認してないだろ」
「当たり前だろ〜!人いっぱいでイヤだし。てか、今ドキ張り紙1枚で確認してくださいってシステム自体おかしいよな」
「みんなで一喜一憂する空気を共有するのが楽しいんじゃん。日常を楽しんでこその人生だと思わない?」
「わー、じじくさ」
たわいもない雑談をしている間、続々と生徒が教室に入ってくる。
「え!天ちゃんも同じクラス!?やったー!」
「おー!笠原じゃん!」
「うわっ。うっかりさんそろったな」
天ちゃんと親しく名を呼ぶ女子生徒、笠原 空がぴょんと跳ねながら近づいてきた。彼女との出会いは入学式。当日の開始時刻を勘違いしてしまい、1時間ほど遅れて登校してしまった。どうしようもないので校内を散策しようと歩いていたら体育館前で呆然としている生徒がいた。それが笠原。そこからうっかり三人衆として意気投合し、都合が合う日は一緒にお昼を楽しんだり、下校する仲である。ちなみに虹太郎は全くうっかりではない。
「なんか女子たちザワザワしてね?」
虹太郎にそう言われ教室を見渡すと、確かに女子生徒だけ異様に嬉しそうに喋っている。
「森宮くんが同じクラスなんだよ!もう超嬉しいよ!目の保養!」
「なるほど」
「そりゃ女子は嬉しいわな」
腕を組み、冷めた視線を送る2名を他所に頬を赤らめわざとらしく照れる笠原。
「『もりみや』ってことは、俺の前?」
未だ誰にも座られていない、目の前の座席を指差す。
「わっ!そうじゃん!羨ましい」
きぃっ!とハンカチを噛む仕草をして悔しがる笠原をどうどうとなだめる。
「噂をすればご登場だ」
教室のドアをくぐり、真っ直ぐこちらに向かって森宮が歩いてくる。歩く姿は百合の花ってこうゆうことなんだろなとぼんやり眺めていると、「よろしく」とひとこと三人に声をかけ、前の席に静かに座った。
「……おー。…よろしく…」
驚きすぎて聞こえるか聞こえないかの声量で歯切れの悪い返事をしてしまった。新学期、しっかりしなくては。
「はぁ。間近で見るとより綺麗なお顔ですこと…」
笠原がニヤニヤしながらおじさんのような感想を言うので先ほどの決意も少し緩む。
「はーい,落ち着いて。みんな席に着きなさい」
浮き足立つ生徒をなだめながら、去年と同じく田原先生が大量の配布物を抱えて教室に入ってきた。「またかよ」とチラホラ声が聞こえる。田原先生は厳しいけれど親しみやすく生徒から人気の先生だ。信頼がある程度構築されている上でのおふざけと先生もわかっているようで「そんな寂しいこと言うと出ていっちゃうよ!」と泣き真似をし、生徒の心をほぐしてくれる。教室全体の雰囲気を明るくまとめ上げてくれるのでありがたい。
それぞれ自分の席に着席する中、目の前に座っているイケメンを眺める。
式中にもこれでもか、と眺めた大きな背中に小さい頭、すらっと伸びた手足。芸能人の骨格ってやつはきっとこうなんだろう。見れば見るほど惚れ惚れする。確かに、女子が騒ぐのもわからなくもない。
感心しながらまじまじと後ろ姿を眺めていると、森宮が突然振り返りばちんっと視線がぶつかった。森宮は顔色を変えず涼しい顔で、はい、と回ってきたプリントを差し出す。添えられた細長い指、綺麗に整えられた爪。手先までも美しいとは何事か…。と心の中で憂いているとふわっと、爽やかでほのかに甘い香りがした。疎いので何の香りなのかはよく分からない。もう一度香りを嗅ぐためにすぅと大きく息を吸う。レモンのようだがその中に甘い花のような香り。なんだかわからないがてとも心が安らぐ香りだった。
「……森宮、お前なんか良いにおいするな」
深い意味はなく、ただ素直に思ったことがそのまま口から出てしまった。
「…………えっ?」
森宮は困惑したように大きな瞳をさらに開き唇を少し開け、頬を微かに紅潮させていた。
「……そうかな」
それだけ言って身体を前に戻した。
どくんっと心臓の重い音が脳みそを揺らした。
3
あの日から森宮を観察することが矢内の習慣となっていた。
成績優秀との評判は本物で、授業中に教師から当てられてもどんな教科でもなんなく答える姿はあまりにも格好がいい。交友関係はあまりわかっていない。見ている限りでは自分から話しかけるタイプではないため人を寄せ付けないオーラを放っているが、冷たい人というわけでもない。大量の資料を抱えて廊下を歩く教師の荷物を率先して持っていたこともあるし、体調が悪そうな女子を保健室まで運んでいく王子様のような姿を見かけたこともある。
爽やかでほのかに甘い香りは変わらず身に纏っており、衣服が擦れる度にふんわりと漂ってくる。矢内はすっかり森宮のファンになっていた。
「すくーぷ!」
「なんだなんだ。大きな声出して」
「森宮くんのご実家、お花屋さんされてるらしいよ。友達が店の手伝いしてる森宮くんを見かけたんだって」
ホームルームも終わり、部活や用事のない学生が一斉に帰宅する時間帯。イヤホンをしながら歩いていると笹原の声が後ろから突き抜けてきた。葉山は最近塾に通い始めたそうでなかなか都合が合わず、最近は二人で帰ることが多い。
「へぇ〜。イケメンで成績優秀でお花屋さんって完璧すぎるな」
と平静を装いつつも内心とても興奮していた。森宮と花、なんて美しいんだろうか。エプロン姿で美しい花束を作る森宮を想像する。うん、良い。
「ね〜ずるいくらいだよ」
「なんてお店?」
「えーとね、確か"リーフ"ってゆう…」
鞄に入っていたスマホを素早く取り出し、指を滑らせる。
「あっ」
顔の近くに差し出されたスマホの画面を覗く。
地図上に刺されたピンが示している場所は、今まさに二人が立っている場所だった。
「ここだ」
森宮のご実家が営んでいる花屋と思われる場所にはシャッターが閉まっており、最近では珍しく『定休日』と手書きで書かれた張り紙がされていた。
「残念。おやすみか」
心底残念そうに肩を落とす笠原に気づかれぬよう同じく肩を落とす。
「また今度リベンジしようね…!」
「えー。一人で行ってこいよ」
「なんでよ。ノリ悪い!」
悪態をつきながらも、一人でのリベンジを誓った。
翌日、普段より1時間前に家を出て森宮のご実家が営んでいると噂の花屋を見に行くことにした。ストーカーの始まりと言われても仕方のない好奇心と行動力だと思うが、まぁクラスメイトだし、通学路だしと提示できる理由はいくつかあるし問題ナシ!と心の中で手を合わせる。
生憎の雨だったが昨日確認した場所に行くと、窓ガラスに「LEAF」と白い文字で書かれた茶色い木のドアが印象的なお店が現れていた。
りーふってなんだったっけ、葉っぱとかそーゆう意味だっけ。脳内で乏しい知識を検索する。
窓ガラスに伝う水滴越しの店内はぼんやりと暖かいオレンジ色の光が灯っており、幻想的な雰囲気を纏っていた。店の前に一台のカーキ色の軽バンが止まった。
開店準備ってこんな朝早くからするのか、と驚きつつそっと覗いてみる。
車に積まれたたくさんの花たちを丁寧にかつ迅速に店内へ運んでいる森宮の姿が見えた。
やや大きめの黒いTシャツに濃色のデニム。学校では見ることのできない私服姿にどきりとしたが、それ以上に
隣で親しそうに話す綺麗な女性に視線が縫い止められた。傘を握る手に力が入る。
「付き合ってんのかな……」
森宮の新たな一面を知って嬉しいはずなのに、先ほどの高揚感は萎んでいた。
勢いを増した雨音が耳に響き、ハッと意識を戻す。
「わーっ!ずぶ濡れ!早く学校行こ!」
森宮がこちらに目を向けた気がした。
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教室に入り、予備で持ってきていた靴下に履き替えながら先ほど見かけた女性の姿を思い浮かべる。年齢は近そうだったのでおそらく女子大生くらいだろう。森宮に年上の彼女が居ても何ら不自然ではないのだが、いざこの目で見てしまうとなんだかモヤモヤする。嫉妬?誰に?う〜んと頭の中をぐちゃぐちゃにしていると、始業時間ギリギリに森宮が教室に入ってきた。普段なら10分前には席に着いているのに、珍しいなと思いつつ靴下に意識を集中していると、「かっこいい」「超可愛い!」「脳に焼き付ける」と女子たちの囁き声が聞こえ、何事かと視線を移す。
「わ。メガネだ」
先ほどのモヤモヤもどこかへ吹き飛び、まじまじと凝視する。シンプルなフレームだが森宮が掛けることによって格が増している気がする。顔の小ささがより際立ち、どこか可愛らしく幼い印象も受けた。そろそろブロマイドでも売っていい頃合いではないだろうかと思ったがすでにどこかで売買されている気もする。美少年も大変だ。
1限目のチャイムが鳴る。今日は確か国語だからいけるな、と体を曲げて体勢を整える。
雨音と抑揚のない教師の声が一定のリズムを刻み、睡眠への波が引き寄せる。微かに服が擦れる音が聞こえてきた。
体を起こし前の席を確認すると頭を下げ、ゆらゆらと体を前後に揺らす森宮が目に飛び込んできた。
あれ、もしかして寝てる…?
珍しいもんだと頬杖をつきながら呑気に眺めていたが、内申とかに響くんじゃ…?そう思うと心配になってきた。勉学に取り組んでいるのに、こんなことで印象を下げてしまったら可哀想だと思い、後ろから背中をとんとんっと叩く。びくっと身体が揺れ、ゆっくりといつも通りの美しい姿勢に戻る。板書の最中で良かったとホッと胸を撫で下ろす。
すると森宮がちらっと後ろを振り返り
「ありがとう」
眉をさげ恥ずかしそうに口もとを動かした。
見慣れない眼鏡姿がより一層キラキラしていて眩しい。
「いえいえ」
と右手を小さく振るのが精一杯だった。
「矢内、さっきはありがとう」
授業終わり、身体を後ろに向け、わざわざお礼を言ってきた。
「えっ。いやいや、全然。森宮も居眠りするんだなってちょっと嬉しかったよ」
「なにそれ」
フニャりと笑う。眼鏡がかちゃりと音を立てる度に矢内の中で何かのスイッチが入りそうになる。
「あ、後さ、申し訳ないんだけど…」
言うか言わないか迷ったように目を泳がせている。
「さっきの授業のさ、ノート見せてもらってもいい…?黒板の文字あんまり見えなくって」
「えっ」
森宮から頼まれごとをされるなんて思ってもみなかったので、一瞬言葉に詰まった。
「おっ、俺ので良かったら全然貸すけど…。てか森宮って普段コンタクトだったんだなー。メガネ姿新鮮ー」
必死に言葉を絞り出しながら、先ほど取った授業のノートを手渡す。
「うん。コンタクト浮いてきたから取っちゃったんだ。予備のメガネを鞄に入れてたんだけど…これが絶妙に度が合ってなくて」
掛けていたメガネを取り、両手で目を抑える。ありがとうと一言添え、まだ眠いのか体を若干揺らしながら受け取ったノートを開く。
「うわ〜わかる〜。俺も目ぇ悪くてさ。災害用のリュックに前使ってたメガネ入れてんだけど、絶対に度合ってないもん」
「あ〜。普段使ってるもの持っていければ一番良いけど難しいよね。しかも新しく作り替えるのってちょっと面倒だし」
「そーなんだよなぁー」
矢内の机でノートを書き写しながら話す森宮をまじまじと見る。
「……森宮って雑談とかしてくれるんだな」
「え?」
手を止め、ゆっくり顔を上げる。一体どういうこと?と言わんばかりの表情だ。
「いや、森宮って頭良いからさ。俺と話しててもつまんないと思われちゃうかなって。ごめん、こっちの勝手なイメージで」
「そんなわけないじゃん。…ただ、きっかけがないと話しかけられない。人見知りなだけで」
目線を逸らし、再びノートを書き写す。
「ふ〜ん…」
「あのさ、良かったら昼一緒に食べない?天気悪いけど」
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「んー!気持ちいいー!」
体を目一杯伸ばす。
「はずなんだよ。お日様が出てる日は」
雨が上がったとはいえ、まだどんよりとした雲が空を支配している。
「なんで屋上?」
「外で食べた方が話しやすいかと思って。なんとなく開放的になれそう」
「…確かに。屋上初めて来た」
「まじ?また天気良い日にぜひ」
屋上に設置されているベンチには誰一人座っていない。というか誰一人屋上にいない、貸切状態である。
教室に置いていたブルーシートをベンチに敷き、お弁当を広げた。
「うわ。美味しそう」
「今日はちょっと時間なかったから雑で恥ずかしいんだけど」
「え?森宮が作ったの?」
木製のお弁当箱にぎっしり詰まった圧巻の景色を眺める。
唐揚げに卵焼き、煮物や切り干し大根にきんぴらと雑穀ご飯。薄く切ったレモンがアクセントとして添えられたとんでもない完成度のお弁当だった。
「うん」
「え!?朝働いてるのに?!えら…」
盛大に口が滑った。
「矢内、朝見てたよね?」
「あ〜…気づいてた?」
「やっぱり。なんか似てる人がいるな〜と思ってたんだよ」
冷や汗が止まらないが認識されていることにドキッとした。
「同じクラスの笠原に聞いてさ。通学路だったもんでちょっと覗かせてもらいました」
嘘だ。ちょっとどころではない。凝視。
「元々は祖父母がやってた花屋なんだ。最近は両親が引き継いでたまに搬入とか手伝わせてもらってるんだよ。お客さんとは全然喋らないけど」
「ふ〜ん」
「…矢内こそ立派なお弁当だけど」
「あ〜。俺は食べるの好きだから。自分の好きなもの詰めまくってる」
「てことは自分で作ってるの?」
「…お恥ずかしながら」
「……すごい」
こちらも木製の弁当箱に敷き詰めた白ごはんの上にメインとなるブリの照り焼きがのっている。
にんじんや紫キャベツ、スナップエンドウを添え大葉を敷いた上に小さく切ったとんかつをのせる。隙間には、ポテトサラダやペースト状にしたかぼちゃをこれでもかと詰めている。半分に切ったゆで卵をのせ完成。作る時も食べる時も元気が出るお弁当をコンセプトにしている。
森宮がまじまじと覗いてくる。
「いろんな食材が入ってて楽しいね」
「だろー。」
「食べること好きなんだけど、ガリガリなんだよな。森宮みたいに逞しくりたいもんだよ…。見てよ、この貧相な手首を」
森宮に両手首を差し出すと、勢いよくガシッと掴まれた。予想していなかった事態に体が硬直する。
「そうかな?俺は線が細くて綺麗だと思うけど」
「……え?」
思ってもみない言葉が返ってきた。
「は……初めてそんなこと言われたな…」
「ほんと?初めて見かけた時から思ってたけど」
「ま、またまたぁ…」
体が熱い。全身の血が沸いているのがわかる。
自分の感情を知りたくなくて、必死にお弁当を飲み込んだ。
4
梅雨が明けた7月下旬。森宮とは定期的にお昼を食べるような仲になった。
「あ、やば」
「どうしたの?」
気持ちの良い風が吹く屋上。口に運んだご飯をぼろっとこぼす。
「今日、母さんの誕生日だったのすっかり忘れてた」
家中のカレンダーに記載されているのに、どうして当日まで忘れているのか謎である。
「あーどうしよ。なんも用意してないわ」
「お母さん、お花好き?」
「え、嫌いではないと思うけど」
「ウチで良ければお手伝いするよ。定休日だからじっくり選んで良いし」
「え。そんなわざわざいいよ。お休みの日はゆっくり休まなくちゃ」
「遠慮しないで。俺、花束作りも手伝っててさ。矢内のお母様のためなら喜んで作るよ」
「そ…そう…?」
「うん」
あの日から一度も訪れていない。親しそうに話す森宮と女性の姿を未だ鮮明に思い出す。
森宮がそこまで言ってくれるなら…。花を選ぶ姿も見てみたい。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「うん」
その日に早速お店へ向かった。ガラガラっとシャッターを開けてもらい、店内に入る。
「見たことない花がいっぱいだ」
スーパーで売っているパキッとした色の花しか知らないが、似たような形でも花弁が多かったり同じ色でも全く違う花たちが並んでいた。
「どんな感じがいいとかある?」
「んー。大きすぎると困ると思うから、ささやかな感じで。花は詳しくないから森宮にお任せしてもいい?」
「わかった」
さっと素早く花を選別していく。
「こんな感じでどうかな」
「……綺麗」
濃淡の違うオレンジ色の花の中に白い紫陽花やグリーンが添えられていた。背の高さや色の濃淡で絶妙なバランスを作り上げているのが素人目でもわかる。
「オレンジ色のガーベラと菊、白い紫陽花とグリーンのデンファレでまとめてみました」
「名前は聞いたことあるけど、俺が知ってる見た目じゃないな」
「海外での品種改良で色んな種類の花があるんだ」
「へぇ…。すごいな」
正直、凄すぎてポカンとしてしまう。
「じゃあ、包んでくるね」
「お願いします」
店の奥へと入っていった。最近の花屋さん事情は全く知らないがすごく進化していることはなんとなく分かった。
オレンジ色の不織布をさらに真っ白なラッピングロールで包み、濃いオレンジ色のリボンで括られた花束をどうぞ、とカウンター越しに差し出す。
「すごい綺麗すぎるよ。ありがとう」
「お代は大丈夫だから」
「えっ。そんな悪いよ」
「いいの。気持ちだから」
「えー。そんな返せないよ」
「こうやって話してくれるのが俺は嬉しいから」
花束を受け取ろうとして距離が縮む。
こんな綺麗な花束にも負けない品のある佇まい。やっぱり森宮はかっこよくて綺麗だなと口元にそっと手を伸ばす。
プルルル…お店の電話が鳴り、ハッとして慌てて手を引く。
「あ!わわわ!ごめん!俺なんか変なことしたな!」
花束を受け取り、逃げるように店のドアに手をかけた瞬間、森宮に激しく捕まれた。
驚いて顔を見上げると唇を重ねられた。全ての体重をかられ押し倒される。
拒めるはずもなく、更に深く唇を重ねた。
頭がぼーっとする。
今度は森宮が我に帰り、ごめん!と距離をとる。
「かっ、帰る…!」
「えっ!き…気をつけて…!」
花束を握りしめ、今度こそ逃げるように店を出た。
まずいだろ、これ。
オレンジ色の花束は矢内の心臓の鼓動で大きく揺れていた。
5
お互いあの日のことは触れないまま数日を過ごした。
「森宮、遅くなったけどこの前はお花ありがとな」
「ううん。お母さん喜んでくれた?」
「うん。もうそりゃバッチリ。大喜びで大泣きしてた」
「ふふっ。そりゃよかった」
大丈夫。普通に話せる。
これからも普通に一緒にご飯食べて、普通に雑談がしたい。
そう思う度に、あのとき抱きしめられた感触や温度が身体を駆け巡る。
そういえば、彼女は抱きしめられたことがあるんだろうか。キスも。自分がされていないそれ以上も。
どこにも行かないで欲しい、そう祈るように目の前の背中へそっと手を伸ばす。
すると突然森宮が振り返りばちんっと目が合う。
自分は何度この手の失敗を繰り返すのだろうかと恥ずかしさが込み上げる。
「すいません!俺ちょっと帰ります!」
机にかけていた鞄を取り、わけもわからず勢いに任せて教室を飛び出す。
「え!何事!?」
田原先生の甲高い声が廊下まで響いてくる。
後ろから誰かの足音も。
「待って!」
森宮だ。
「やだ!なんで来んだよ!」
「逃げるから!」
「逃げてねぇし!」
子供の鬼ごっこのようなやりとり。
「って早!おまえ…運動もできるのか」
「まぁ…花屋なんで」
かんけぇなねぇだろ…と悪態をつく。階段を駆け上り屋上の扉を勢いよく開け、エネルギー切れを起こしそのまま倒れ込んだ。
「はぁー!」
頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「大丈夫!?」
心配そうに声をかける。どんな顔してんだろ。今見たら涙が出そうで意地でも向かない。
「なんか俺、お前のこと好きになっちゃったみたいでどーしたらいいかわからん!わー!もうごめん!男なのに…しかもあんなことも……わー!」
情けなさと恥ずかしさが込み上げ、気づいてしまった気持ちは溢れて止まらない。言ってどうなる。言わない方がまだ関係を続けられるのに。終わりだもう。
「矢内、落ち着いて。」
「やだ!だってお前彼女いるじゃん!また俺振られちゃうじゃん!」
「……」
長い沈黙が続く。図星だったんだ。聞きたくない。悪い思考回路はすぐに繋げられる。
「……彼女?…いないよ…?」
「え?」
訝しげにこちらを見ていた。
「誰のこと?」
「え…花屋の綺麗なお姉さん」
「…?…あぁ。アルバイトの方だよ。将来花屋を開きたいっていう。付き合ってない」
「……絶対森宮に気があるよ」
「あるかもしれないけど」
「否定しろよ」
「俺、ゲイだから」
「え」
「俺も矢内のこと好きだ」
「最初に見た時から綺麗だと思ってた」
「でも彼女いるって知ってたから、話しかけようとも思わなかった」
「いつからか、すごく見てくるようになったでしょ」
「……気づいてたのかよ」
ぽつぽつと自分の気持ちを話してくれる森宮に気持ちがほぐされていく。
「気づくよ、穴開いちゃうかと思った」
「嬉しかったよ」そう言ってゆっくりと二人の距離が縮む。
森宮の大きな体が矢内を包み込む。
「…汗かいてるから」
初夏の空気と全速力で走った後の汗でシャツが張り付いているのがわかる。
「そんな場合じゃないでしょ?」
そう言って森宮は額にキスを落とす。
「……ここがいいんだけど」
恥ずかしさを堪えて唇を尖らせる。
「…可愛い」
お互いを確かめ合うように何度も深く重ねる。
シャツが擦れ合うたびに、あの香りが鼻腔を掠める。
「ねぇ、その香りなに?」
「香り?」
「なんかレモンみたいに爽やかでちょっと甘い香りする。良いにおい」
何度も唇を重ねて頭がぼーっとする。
「白木蓮だよ」
「ハクモクレン?」
「春の香りがして好きなんだ」
「うん。俺も好き。あたたかく包まれてるみたいで、なんだか安心する」
「……どうかした?」
「ううん。散らないこともあるんだなぁと思って」
初夏の爽やかな風が駆け抜けていく。
青空を見上げると眩しいくらいの光が満ち溢れていた。
春の終わりも悪いことばかりじゃないらしい。