事件は、5月も中頃を過ぎた頃に起きた。

 午前の授業を終え、翔太は大宮たちと一緒に食堂に向かって歩いていた。食堂は3年生の教室がある棟の向こうにあるので、通り道には先輩たちがたくさんいて、1年生にとっては食堂までの道のりも気が抜けない。出会う先輩たちに、大きな声であいさつをしながら食堂を目指した。

「あー腹減った・・・」
「今日の日替わり唐揚げやったで。」
「まじで!やったー!」
「大宮、唐揚げ好きやもんな。」
「うん!好き~」

 3年生の教室棟を抜け、間もなく食堂というところ、ちょうど中庭が見える廊下に出た。中庭には3年生が数名。壁際に集まって話をしていて、わずかに話し声が聞こえている。その中に、織田すばるの姿が見えた。織田は、男子バレーボール部の3年生。翔太や空と同じウイングスパイカーで、現時点で空と共に、スターティングメンバーに起用されている選手だ。

「あ、織田さんだ。」

 大宮も織田の存在に気付いたようで、一緒にあいさつしようと近づいた。しかし、「こんにちは」と開きかけた口は、織田の発言によって、止まってしまう。

「日下部って調子乗ってるよな。」

 翔太も大宮もそこから一歩も動けず、固まってしまった。織田は、翔太たちの存在には気付いていないようで、言葉を続ける。咄嗟に翔太は大宮の手を引いて物陰に隠れた。

「な、なんで隠れるんだよ。」

 小声で問う大宮を、「しっ」と人差し指を口に当てて翔太が黙らせる。翔太の胸の奥に、少しずつ少しずつ怒りがたまっていく。ぎゅっと握りしめた拳はふるふると震えていた。

「ちょっとバレーがうまいからって、ちやほやされてさ。1年の頃から試合出てるからって、偉そうに言ってくんの、腹立つわ。」
「あーなんか分かるわ。教室でもいつもすかしてるよな。」
「どうせ、俺が一番うまいとか思ってんだろうな。」
「大した努力もしてないくせに。」

 “大した努力もしてないくせに”

 この言葉を聞いた瞬間。翔太の中で、プツンと何かが切れる音がした。隠れていた場所から、一気に飛び出す。後ろで大宮が「おい!!小柳!!」と呼び止めるが、そんなことは気にもとめず、翔太は織田をめがけて駆けていく。織田が翔太の存在に気付いたとほぼ同時に、翔太は織田の胸ぐらを思いきりつかんだ。

「小柳!?おい、離せ。なんだよ!!」

 織田の方が身長は高い。驚いた織田が、力尽くで翔太を振り払おうとする。それでも翔太は怯まなかった。相手が先輩だとか、自分よりもたっぱがあるとか、そんなことは気にならない。ただただ、目の前の相手に対する怒りしか感じなかった。

「空くんは・・・日下部空はそんなしょうもない人間ちゃうわ!」
「は!?盗み聞きかよ。」
「あんたら、ずっと一緒にバレーしてきたんやろ!?あの人のどこ見たらそんなこと言えるねん!あの人は、誰よりも努力して、誰よりもバレーが好きで・・・確かに才能もめちゃくちゃあるけど、でも、それだけちゃう!」
「お前、ほんとに日下部のこと好きだな。たった一ヶ月しか見てないだろ?お前の方こそ、何も知らねぇくせに、偉そうに言ってんじゃねぇよ。」
「小柳!落ち着けって!」

 いつの間にか追いついてきた大宮に後ろから抱えられて、翔太はやっと織田の胸ぐらを離す。それでも翔太の怒りは少しも収まってなどいなかった。乱れた制服を整える織田に、鋭い視線を向ける。

「一ヶ月も見とったら十分やろ!?空くんが毎日どんな思いでバレーボールと向き合っとるかなんて、ちゃんと見とったら分かるやん!なんで・・・なんで、そんなにひどいことが言えるんや!!」

 その時、騒ぎを聞きつけた部長の高山、副部長の斉藤を始め、バレー部の3年生、おまけに顧問までやってきて、翔太は教官室へ連れて行かれることになった。教官室でも、まだ怒りの収まらない翔太に、顧問は呆れていたが、「お前の熱意だけは伝わった。」と肩を軽く叩いてなだめた。