結局その日、空は朝練にも学校にも来なかった。もちろん放課後の練習にも姿を見せず、翔太としては気が気でなかった。今日は居残り練習をせずに、まっすぐに寮に帰ろう。そう思って、解散と同時に走り出したのに、運悪く顧問に呼び止められてしまった。

「小柳、お前大丈夫か?」
「なにがですか?急いでるんですけど。」
「体調だよ。お前は元気かって聞いてんだ。」
「見ての通り全身くまなく元気です。」
「そうか。それならよかった。でも油断はするなよ。」
「・・・どういうことですか?」

 顧問の話の意図が見えなくて、眉間にしわが寄る。急いで帰りたいのに、話が見えなくて相手が顧問だろうと関係なく、翔太は僅かに苛立っていた。そんな翔太を見て、「落ち着け。日下部は大丈夫だ。」と、呆れたように言った。何もかもお見通しの顧問に、翔太は「うっ」と言葉を詰まらせた。

「今朝、熱があったらしい。寮母さんの付き添いで病院に行ったら、インフルエンザだったって。今流行ってるからな。寮でも何人か出てるだろ。」
「あ・・・はい・・・」
「今は、熱も下がって落ち着いてる。ただ・・・」
「ただ・・・?」
「寮にはしばらく戻れない。」
「え・・・」
「決まりなんだ。感染力の高い病にかかった場合、良くなるまでは自宅で療養することになってる。同室のお前や、他の生徒に広がる可能性があるからな。」

 顧問の言っていることは最も正しかったし、理解もできた。でも正直、寮に戻って空がいないというのは寂しいと思った。飛んで帰ろうと思っていた体がなんだか一気に重く感じた。

 とぼとぼと重い足取りでたどり着いた寮の部屋。いつもは空と他愛もない会話をしながら帰ってくるのに今日は一人。扉を開けて、真っ暗な部屋に入る。電気をつけて、空のベッドを見ると、布団は少し乱れたまま、そこには誰もいなかった。

 冬の寒さというものは、人肌が恋しくなるというけれど、空がいないこの部屋がこんなに寂しいなんて思わなかった。何もする気になれず、翔太はしばらく呆然とベッドに座り込んでいた。

 その時、スマホが震えてメッセージの受信を知らせた。慌てて確認すると、相手は空からで、一言“大丈夫か”と翔太を心配するメッセージが送られてきていた。翔太はすぐにメッセージを開き、文字を打ち込んだ。

“俺は大丈夫です。空くんは?”

 翔太が送ったメッセージはすぐに既読になり、返信もすぐだった。

“大丈夫だよ。熱も下がった“
“それならよかったです。いつ帰ってくるん…?”
“なに。さみしいの?”

 “違います”と打とうとして、途中で指が止まった。文字を消して、打ち直す。

“はい。やから、はよ帰ってきて。”
 
 勢いよく送ったメッセージはすぐに既読がついた。なのに、ぴたりと返事が止まってしまって翔太は内心焦っていた。引かれたかもしれない。高校生にもなって、寂しいだなんて・・・。思い返せば、ここに来たときからずっと、空がいたから寂しくなかった。地元にいる家族や友だちと離れていたって、ここに空がいたから寂しくなかった。でも、今空はここにはいない。言いようのない不安やさみしさが翔太を襲う。

 メッセージを取り消そうと再び画面を開いたと同時に、今度は空から電話がかかってきた。慌てて出ると、電話の向こうで空は笑っていた。でもやっぱり笑い声にも覇気がない。

「そ、空くん?」
『ふは。慌てすぎ。』
「大丈夫なんですか?」
『だから、俺は大丈夫だって。・・・ごほっ』
「大丈夫ちゃうやん・・・」
『うるせ。あーその・・・朝は悪かったな。きつく言って』
「気にせんといてください。あれは、必要以上に俺が近づくのを止めるためやったって、分かってます。」
『ふっ。翔太のくせに生意気。』

 声には覇気がないが、ここまで会話ができるのなら療養期間も最短で大丈夫なんだろう。心の中のモヤが少し晴れた気がして、翔太はほっと胸をなで下ろした。

「早くよくなって、帰ってきてくださいね。」
『うん。誰かさんがさみしがってるからな。』
「からかわんといてくださいよ!」
『早く寝ろよ~体調気をつけてな。』
「はい。空くんも。お大事に。」
『うん。おやすみ。』
「おやすみなさい。」

 電話が切れた。ツーツーと機械音がむなしくなっているけど、心は軽くなった。空はほんの数日で帰ってくる。それまでにまた少しでも技術を伸ばして、春高では空たちの力になりたい。気弱になった心を励ますように両頬を2回叩くと、翔太は夕飯を食べるために部屋を出た。