翌日。スマホのアラームより前に起きてしまいました。勝手に目が開いてしまい、スマホの時刻はあと5分程で一応アラームの時間です。たかが5分。されど5分ですよね。早めに起こしてしまったらお兄さんの貴重な睡眠時間を削ってしまいます。ベッドの上でちょこんと正座して眠気で重だるい頭を動かします。5分でできることを探してみますが、結局思いつかず、いつのまにかアラームが音を立て始めます。
 いつもと同じアラームのはずなのに、音が大きくなるにつれてなぜか僕の心臓の音も大きくなっていきます。ドキドキを超えてバクバクと音を立てる心臓の音を聞きながら、アラームを止めます。こんなときに限って、何度も何度も「ストップ」ボタンをタップしてもアラームは止まってくれません。
 やっとアラームを止め終えたころにはもう約束の時間より2分も過ぎています!焦った僕はすぐにメッセージアプリで電話マークを指でタップ。
 今度は間違いなく電話です。なぜか息を切らしながら、コール音を聞きます。そして、一回鳴り終わるか鳴り終わらないかというところでコール音が途絶えます。
 びくっと大きく肩をはねさせながら、えいって気合をいれて話します。
「あ、あのおはようございますっ!」
『……おはよ。翠』
 お兄さんのお声とふっと笑った柔らかな笑い声が鼓膜をくすぐります。
 直接吐息まじりに耳元で笑われたような錯覚がして、照れくささとわけのわからないあの泣きそうになる気持ちでぎゅうっと目をつむってしまいます。
『朝はやくからありがとな。うん。これで1日頑張れそう』
「お、お役に立てて嬉しいです」
『ん。お願いついでにこのまま電話繋いでいていいか?』
「へぇあ?」
 このまま電話を繋いでいないと二度寝をしそうだから、見張っててほしいとのことです。なるほど。朝弱いっていうのは大変なんですね。僕は今日はおやすみで登校準備もないのでお付き合いしましょう。
「はい。電話のおつきあい頑張ります!」
『ありがと』
 ふはっと軽い笑いまじりの声はやっぱりくすぐったいですし、心臓に悪いです。思わずスマホを持つ手に力を入れぎゅっと握りしめてしまいます。
 お兄さんがスピーカーにしててそのへんに置いといてくれればいいよ、と教えてくれました。が、スピーカーとは?とりあえず耳にあてながら、いそいそとベットから抜け出し、リビングのソファーに腰掛けます。そわそわ落ち着かないのでお山座りで両膝を抱えます。
『今日も休みなんだよな?』
「……はい。しばらくお休みですね。お昼にノラさんによろしくお伝えください」
『ん。昨日ノラすっげー不機嫌だったからな……翠から謝ったほうがいいぞ。あれ』
「え?! ノラさんそんなに怒ってたんですか?」
『ちゅるちゅーる2本でやっと撫でさせてくれたくらいだったな』
「献上しなければ……大量のちゅるちゅーるを」
 ぶっと思い切りお兄さんが噴き出しました。そんな笑っている場合ではないのに。
 僕とノラさんとの仲が大変な危機的状況なんですよ。こちらは真剣なんですよ。僕の必死さが伝わらないもどかしさにぎゅうっと拳を握り、ついぶんぶん上下に振ってしまいます。
『直接謝ればいいんじゃね? 昼にテレビ電話して、翠が顔見せればノラも機嫌直るだろ』
「なるほど。お願いしてもいいですか?」
『ん。俺も翠の顔みたいしな』
 びっくりしすぎて言葉もでませんでした。なんだかお兄さんが昨日からおかしいです。あれですかね、昨日のテレビ電話での僕の顔があまりにも病人顔だったので心配しているとかですよね。
 点滴したあとにお昼寝までしましたけど、顔色とか良くなかったかもしれないですね。
 つまり伊織くんと同じ状態ってことですね。納得です。やっぱり僕はダメダメなんですね。脆くていとも簡単に崩れる体は皆の優しい心を煩わせることしかできません。
「きょ、恐縮です。僕もノラさんとお兄さんのお顔見ながらご飯食べたいです」
『ノラが先なのな……未だにお兄さん呼びだしなぁ』
 なんだか声が遠いですね。衣擦れの音が聞こえてきたのでお着替え中なんでしょうか。
 人さまのお着替えを盗み聞きはよろしくないので、テーブルの上にスマホを置き、ふうっと息を吐きます。頬が熱い気がして、両手で頬を挟むとほんのり熱をもっていました。
 その後は無事にスピーカーに切り替えられた僕です。でも、スピーカー通話は好きじゃないかもです。息を洩らしたような笑ったのかわからないくらいの笑い声も、すうっと息を吸う音も、耳元にあてた通話より雑音でかき消されちゃいます。お兄さんの声をしっかり聞きたいです。
『あー、もう出るわ。ありがと』
 お兄さんの声が激しく揺れながら、ごそごそと靴を履く音がします。もう学校に行く時間なんですね。一緒に朝ごはん食べて、ちょっと雑談していたらすぐでした。
 通話を切る前に、なんとかお見送りをしたいですね。学校頑張ってくださいの気持ちを込めて、息を吸います。
「いってらっしゃい」『は』
 なんだかごんって何かにぶつけたような、物騒な重い音が聞こえました。
「お兄さん?!」声をかけたのにくぐもった唸り声しか聞こえません。いきなり体調不良でしょうか。それとも何かあったのか、心配です。なるほど、みんなが僕へ色々言うのはこういう気持ちなんですね。そわそわ落ち着かないし、苦しいです。
『あ゙ーうん。ドアに頭ぶつけただけだから大丈夫だから』
「え? な、なんでです?」
『ん? 想定外の嬉しいことがあって心臓が飛び出そうなんだよ。ありがと』『いってきます。翠』
 笑顔が透けて見えそうなくらいごきげんなお声に僕も心臓が飛び出そうになりながらお返事をして、名残惜しくも通話を切りました。
 初お電話の余韻に浸る間もなく伊織くんがお部屋を訪ねて来て、今日も色々と細かくお約束させられました。心配性の伊織くんの心の平穏のためにも、吸入機とスマホは肌見離さず持っておきましょう。
 その後、午前中に白井先生の診察を受け、無事自習の許可もおりました。中間テストのためにもお勉強しておかないといけませんからね。

 日が高くなり、タブレットでの自習も終わり一息つくとちょうどお昼になりました。
 伊織くんが朝残したメモ通りに、お昼ご飯を簡単に調理します。といっても、包丁もIHヒーターも体が本調子ではないので危険と判断され、レンジで温めて終わるんですけどね。普段は料理のお手伝いできるくらいの調理は僕だってできるのに、伊織くんは心配性ですね。
 メモというのか長文はほぼレシピをふむふむとしっかり読み込み、調理開始です。
「僕でもリゾットが作れましたね。伊織くんすごいです」
 レンジの中から取り出したリゾットをテーブルに置きながら、伊織くんに感謝の念をピピっと送ります
 さらに追加でミトンをつけたままぱふぱふ両手を叩いて拍手も贈りました。
 あら、チーズがふつふつとマグマのような地獄状態なので、冷めるまでとりあえずリゾットさんは待機ですね。あとは飲み物を準備して、お兄さんへの連絡ですね。
 あ、スマホにメッセージがもうお兄さんから届いていました。
『まだかなー』と双子のくまの赤ちゃんが仲良く左右に揺れるスタンプです。僕もサムズアップした白猫赤ちゃんのスタンプを返します。お星さまがキランとしているのが可愛らしいんですよ。
 画面の中がシルヴァニアさんだらけでとっても可愛らしくてつい笑みがこぼれます。
 朝のお電話のあと、お兄さんがシルヴァニアさんスタンプをプレゼントしてくれました。ねだったわけでもないですし、ただおそろいにしたかったから、何気なしに聞いただけなんです。
 ですが、速攻のお返事かつ、いつもの5倍くらい長いメッセージと口調から不安げなのが伝わり例のあのお顔が頭に浮かんだ僕です。「わかりました」と指が勝手に打ち返していました。僕はお兄さんに頼まれたらとてつもなく弱いです。際限なくお願いを聞いてしまう自信しかありません。
 受け取ってしまったからには、モーニングコール頑張りますし、おそろいのスタンプをいーっぱいつかいます。もうこれしかお兄さんにお返しできる術はないですね。
『ほら、ノラ! お待ちかねの翠だっああ?!』
『ひぎゃっ!』
『やめっ! 触んっな! ちょ、待て!』
 お兄さんのお顔が映ったと思ったら、ノラさんのアップからの猫パンチ連打でした。画面いっぱいにピンク色の潰れた肉球が映り込み、スマホは不穏な音を立てながら大いに傾き、お兄さんの焦った声。ノラさんの不機嫌そうな「にゃー!!」という鳴き声がBGMです。
 放送事故もしくは衝撃映像です。
 お兄さんが抱っこでスマホに映った僕をノラさんに見せようとした結果この大惨事。
 僕のスマホ画面にはきれいな澄み渡る青空が映し出されています。とってもいいお天気で和みますね。音声だけ聞くとかなりの修羅場なんですが、僕にはどうすることもできません。
『翠はここからは出てこないからな! 見るだけ! 触るなっ!』
 2人が真剣に話し合いを重ねているようですが、なかなか話がまとまらないようです。時間がかかりそうですね。
 ずっとスマホを持ち続けるのも手が疲れちゃいますし、ご飯食べるときには両手を空けたいです。キョロキョロとお部屋の中を見渡し、スマホを立てかけられるものを探し回ります。そして、この子もお昼のお供に誘いました。お兄さんにもらったシルヴァニアのキーホルダー。お行儀悪いですが、お茶のペットボトルにスマホを立てかけ固定します。スマホの横には白猫の赤ちゃんを。僕も椅子に腰掛け、お昼ご飯の準備万端です。
 初夏の澄んだ青空を細長い雲がゆったり流れる映像が未だに表示中です。今日は上空の風は穏やかみたいで雲の流れがゆっくりですね。時折お兄さんの影が映り込む。耳元のピアスが初夏の陽射しに乱反射して眩しい光がはねてきれいです。
「きれい……」
 走る光に引き寄せられつい指を伸ばしかけますが、触れられないと気づきそっと戻します。
 代わりに直接触れられるお兄さんにもらったシルヴァニアのキーホルダーに触れます。指先で頭を撫でてあげると心なしか嬉しそう?ふっと小さく笑いがもれます。
 それにしても先程から届くノラさんのお声がいつもより低いです。未だに話し合いは続いています。
 先程、自分のお顔に猫パンチされるのはなかなかに恐怖でした。猫パンチの連打具合から察するに、相当女王さまがご立腹なのがわかります。ちゅるちゅーるを献上してもあのお怒りは収まりますか? 1週間のおやすみ中に猫さんのご機嫌をとるアイテムを検索しましょう。ノラさんの信用回復と怒りを鎮めるために!
 ノラさんの鳴き声が聞こえなくなったとき。お兄さんがスマホ画面に再登場です。小さく息をつきながら前髪をかきあげています。珍しい。お疲れなんですかね。
『翠? 先にメシ食おう。待っててくれてんだろ?』
『大丈夫です。リゾットさんのチーズをちょうど冷ましていました』
『リゾット? 翠が作ったやつ?』
『はい。でも伊織くんがレンジでチンするだけのとっても簡単な方法教えてくれましたので……』
 なぜかお兄さんが無言です。先程まで柔らかかった表情がなんの感情ものせていません。
『……いおりくん』
 視線を落としながら、重々しい声で伊織くんの名前を復唱するお兄さんです。あれ? 伊織くんとお知り合いですかね。それとも伊織くんは有名人なのでただ名前が引っかかっただけでしょうか。
『三年生にいる僕の母方の従兄なんです。お名前は佐倉伊織くんっていいます』
 何かを考え込むようにずっと無言のお兄さんとの間に満ちる沈黙がいつもと違います。ぎこちないこの空気を変えたくて、聞かれてもいないことが口から滑り落ちます。
「従兄?翠とあいつが?」と小さく呟いたお兄さんはゆっくりとスマホ越しに僕を見る。
『ご飯やお弁当作ってくれたりとお世話を色々焼いてくれる……家族なんです』
 僕が圧倒的に弱い不安げな揺れる瞳をなんとか変えたくて、いつもなら絶対にいえない言葉を使いました。
 ぱちくり瞬きを繰り返すお兄さんはこわばった表情をゆっくりと緩めます。
『あーわりい。あの佐倉伊織が翠の従兄なんてびっくりしすぎてな。あいつってやたらキラキラしてて恋愛漫画の表紙を主人公と爽やかに微笑み合いながらバックハグで飾るタイプだよな』
『きらきら爽やかバックハグ』
『あいつは誰もがかっこいいって言うモテ無双王子だろ?』
 お兄さんが首のうしろをすんごく擦っています。それにしても伊織くんに対するイメージが偏っています。やけに具体的ですし。
 だって、お兄さんも伊織くんをかっこいいって思っているんですよね。たしかに容姿はキラキラして王子様ですが。
『……僕はお兄さんの方がかっこいいと思います』
 艷やかな黒色の髪や瞳はなにものにも揺るがない優しさを持つお兄さんにぴったりです。お顔の造形だって目元のほくろや切れ長な目の型はドキッとするくらい色っぽいです。ピアスも風鈴みたいで一番かっこいい。加えて本当の笑顔は可愛い、です。
 そんなに伊織くんをかっこいいって持ち上げなくても良いんじゃないですか。
『うぇ? お、俺かぁ。俺は表紙では左端の三角関係の当て馬タイプだろ。横向いて舌出してるような……』
『左端の当て馬?……』
『ん。このピアスとか皆は怖がんだよ……』
 肩をすくめると、ピアスを指で弾いて揺らすお兄さん。
 当て馬は知っています。競馬が好きなおじいちゃんと同室になったときに意味を聞きましたから。本命でないダミーのお馬さんのことです。お兄さんには自分を卑下して欲しくないです。僕にはお兄さんの耳元でゆらんと揺れるピアスがとっても輝いて見えます。白い光を放ちながらたゆたうピアスはやっぱりかっこいいですよ。
『あの!僕は本命です。風鈴みたいなお兄さんのピアス大好きですよ』
 悔しさなのかわからないもやもやした気持ちを握りつぶすように、いつの間にかぎゅうっと両手を握りしめていました。
『あ、ありがとうございます』
 お兄さんはどうしてか敬語で視線をウロウロと彷徨わします。狼狽えているようにもみえて、僕は不思議な反応に首を傾げます。前のときみたいに笑って喜んでもらえると思ったのに。ワシワシと荒いけど優しいあの撫で方で頭を撫でもらえると思ったんです。
 ……僕は頭を撫でてもらいたいんですか?
 なんで僕はこんなにがっかりしているんでしょうか。それにさっきからずっと居座るもやもやする気持ちはなんでしょう。お兄さんが伊織くんのお話をし始めてから、さざ波が立つように気持ちが落ち着きません。
『おっ。やっと女王さまがご機嫌直したな』
 考え込んでいた僕の耳にノラさんの甘えた鳴き声が届きます。
 スマホに映る視点がぐっと高くなります。お兄さんのお膝の上で丸まり背中を丁寧に撫でられているノラさんがいました。気持ちよさそうにお兄さんのお膝に頭をこすりつけ、ゴロゴロ喉をならし目を細めています。しっぽがふりんふりんとご機嫌に左右に揺れています。
『……いいなぁ』
『元気になったら、撫でさせてもらえんだから。メシいっぱい食って治そうな』
『そ……う、……ですね』
 ぽつりとこぼした本音にお兄さんが優しく微笑んで返してくれます。でも、僕はなんて返したら良いのかわかりませんでした。だって僕が羨ましいと思った相手が違うんですから。
 撫でたいのではなく、撫でられたいって思ってしまったんです。お兄さんの大きな手で背中や頭を撫でられた感触や温もりが恋しくて。
 だから、僕はノラさんのように、猫のように。可愛がられたい、と思っているんです。
 本命のお兄さんに。たぶん。