発作で倒れたあの夜から丸一日経ちました。左側に点滴がぶら下がる僕のお部屋のベッド脇に立つ校医さんが聴診器で寝たままでいる僕の胸の音を聞いています。
「胸の音も落ち着いたし、点滴は今日までで終了で、あとは飲み薬で様子見ね」
点滴と腕時計を見比べ速度を調整した校医さんは、タブレット端末になにやら打ち込みます。僕はパジャマの前ボタンをプチプチ留めながら、起き上がります。
「えっとでは?」
「寮で自宅療養。今から出す薬を飲みきるまでの最低1週間ね。しっかりと安静にすることー」
強調するように校医さんは、人差し指を1本立てます。そして、両肩をゆっくりと押され、ベッドへ戻されちゃいました。
「理事長と佐倉には連絡しておくから、君は何も気にせずゆっくりと休みなさい」
「……ありがとうございます」
「よく食べて、よく寝たら治るからね」
校医さんは僕を安心させるようにわずかに口元を緩めます。首からぶら下げたID証には『白井梓』さんと書かれています。白井先生。あまり口数は多くないですが、昨晩、夜遅くなのに駆けつけてくれた優しい校医さん。「点滴終わる頃にまた来るから」と言い残すと白衣を翻し、白井先生はそのまま僕の寝室を出ていかれました。
一人残されたベッドの上で、唯一視界に入るのは、いつの間にか運び込まれていた点滴棒にぶら下げられた点滴ボトル。ぽつぽつゆっくりと一定のリズムで落ちる点滴の中身はちょうど半分くらいなので、いつ終わりますかね。長くかかりそうです。
いま何時くらいなんでしょうか。
今日もお兄さんとノラさんとお昼ご飯食べるとお約束していたのに、すっぽかしたことになっていませんか。また良くない印象をもたれたら嫌ですね。
では、今日はお昼ご飯をいけませんと連絡したほうが良いのでは?
それにこれは正当な連絡ですよね。もしお兄さんに嫌がられていてもノラさんをお待たせする訳にはいかないので連絡をしないといけないと思います。
お兄さんはノラさんをとても可愛がっているので、ノラさんのための連絡なら僕からでも受取ってくれるかもしれませんよね。それに、もしかしたら朝に連絡が来ているかもしれないですし。何時に連絡すると聞いていなかったので逆に僕が連絡無視していることになっているのは困りますよ。
再びぐるぐるする思考ですが、昨日の夜よりは前向きで客観的に考えられるようになった気がします。1通だけ送ってみましょうか。
お兄さんは約束を守る義理堅い方だと思います。毎日ノラさんのご飯持参であのベンチに行くような人。見ず知らずの発作に倒れた痛々しい僕を助け、わざわざ『ありがとう』を教えてくれました。
大丈夫。大丈夫。今から送ろうとする業務連絡になんでもいいから反応がほしいだけなんです。そう自分に言い聞かせ、起き上がり枕元に置いてあるスマホを取リます。
スマホにライトが点滅しています!
ドキドキする心臓が飛び出ないように、胸を押さえ口をすぼめて息を吐き出します。緊張で小刻みに震える右手の親指で、側面の電源ボタンをそっと押します。
画面には『玄』とでています!
「来てました!」
『また明日』『おやすみ』『昼来る?』短いメッセージばかり。最後はもらったシルヴァニアファミリーの赤ちゃんうさぎさんが木の影から『ちらっ』と覗くアニメのスタンプです。お兄さんの容姿とあまりに似つかないとてつもなく可愛らしいスタンプです。ピンクのベビー服がかわいい赤ちゃんうさぎさんが不安げに画面越しに何度も『ちらっ』と見つめてきます。
ふと大きな体を丸めシルヴァニアさんのガチャを回しているところ。スマホを睨みつけこのスタンプを選んでいる姿を想像してしまいました。
「ふふふっ……」
さっきまでの緊張が嘘みたいに今度はふわふわ胸が温かくなってきました。それにしてもこれは確定では。お兄さんは『可愛い』ものが大好きですね。
『連絡ありがとうございます。嬉しいです。スタンプ可愛いですね。今日は発作が出てしまってしばらく学校をおやすみすることになったのでいけません』
うう。お兄さんの送ってくれたメッセージに対しての返信ってこれで良いですか?お兄さんのメッセージと見比べると長いような気もしますね。そして、圧倒的に可愛さが皆無な気がします。
もう少し気の利いたメッセージ送りたいんですが。お友達とメッセージを送りあったことのない僕では難しすぎます。この文章が僕には限界です。文章にすると同じ言葉なのに冷たい印象を受けますね。勉強になりますが、どう変えていいのかわかりません。
あっ! スタンプも一緒に送ったらいいですかね。でも、デフォルトで入っているスタンプさんしか持っていません。僕もこのシルヴァニアさんのスタンプ欲しいです。おそろいにしたいです。あとで教えてもらうとして、今はこの大量のスタンプから一つを選ばなければなりません。
知識と経験不足が、僕を今打ちのめしてきています。先程より違う意味の不安と緊張に包まれました。
とりあえず当たり障りない『すみません』と土下座しているスタンプ送信しました。
慣れなくて緊張した初めてのメッセージ送信をやりきった僕は、再びベッドへ横になります。安静って言われましたし、早く治さないと学校いけませんからね。
枕元へ戻した瞬間、震えるスマホ。
お兄さんから『お大事に』と送られてきています。直ぐに『いつまで?』『電話できそ?』と短い文章が送られてきます。
『ありがとうございます。1週間らしいです。お電話したいですけど点滴中です。』
よしこれで質問にすべて答えていますよね。なんだかテストの問題もしくは尋問に答えたみたいですが大丈夫ですよね。テストより難解ですけど。
『点滴終わったら連絡して』『こっちはいつでもいい』
お兄さんから立て続けに返信です。えっとお兄さんはいつでも良いといいますが、スマホの時刻は14時を表示中です。絶対今の時間は授業中ですよね。それに点滴はまだあと数時間はかかりそうですし、どうしましょうか。夜遅くなっても良いでしょうか。ちょっと聞いてみましょう。
『点滴終わる時間が遅いと思います。夜寝る前にお兄さんとお電話したいです。』
ここまで文字を打って、なにか物足りない感じがしますね。見直し大事。
『おやすみなさいを初めて言いたいです』 よし。送信です。
『夜おk』『俺も』
よかったです。ふふふ、お兄さんと夜にお電話する許可をいただけました。返信する前にお兄さんからお時間聞かれましたが確実なお時間を伝えられません。
『点滴終わる時間がわからないのでまた連絡します』と送信するとすぐに『待ってる』と表示。
最後には『ぐっ』小さくガッツポーズした白猫赤ちゃんのスタンプです。早く点滴終えて元気な声でお兄さんに「おやすみなさい」を言いたいので、僕はそのままベッドにおとなしく休む決意をしました。
「よし! 準備万端です!」
点滴も無事に終了して、シャワーも済ませました。やたら心配した伊織くんが僕のお部屋へ泊まろうとしたのもちゃんとお断りできました。昨日の発作を見てしまったから伊織くんが心配する気持ちもわかります。枕元には吸入機とスマホを置いて置くことを伊織くんとお約束しました。吸入機も準備万端です。シャワーよりも大変疲れましたが、このために頑張りました。
お兄さんと初めてのお電話です。いざお兄さんへメッセージ送信です。
『今からお電話できますか?』
『りょ』
最短時間と最短文字数で返されました。ドキドキと逸る心臓です。ノラさんのアイコンが表示された画面のマークを緊張しすぎて目をつぶって押します。
『もしもし? 翠です』
『…………』
なにかぼそぼそくぐもった声がスピーカーからするだけで画面は真っ暗です。え? 電波とか悪いですかね。こういうときはスマホを高く上げたらいいですかね。高いところなら電波ありそうです。両手でスマホを掲げるように天井に向かって手を伸ばします。
『上目遣いは反則だろ?! スクショ! すくしょ!』
お兄さんのお声がやっと聞こえました。電波回復できたのかもしれないです。伸ばした手を戻し、スマホ画面を覗き込むとお兄さんの姿が映し出されていました。しかもおしゃれな丸い眼鏡をかけて、髪の毛を耳の上で縛るハーフアップにしています。
『え? な、なんでお兄さんです? 眼鏡と髪しばってます? かっこいいです』
『んん゙、間違えてビデオ通話のボタン押したろ?』
お兄さんに言われたことがわからずこてり、と首を傾げます。そうしたら苦しそうに目元を押さえたお兄さんは、通話にはボタンが2つあり僕が間違えてビデオ通話の方のボタンを押してしまったと教えてくれました。なんたる失敗です。
『あの、でも。いつもと違ってリラックスしてるかっこいいお兄さん見られて嬉しいです』
『……俺的にはゆるんでるとこ見られんの……恥ずい』
画面の中のお兄さんが頬を淡く染めて視線をそらします。自室にいるからでしょうかお兄さんの表情がいつもより豊かな気がします。こんな照れた表情なんていつもは見られませんよ。
画面の向こうで後ろ手で髪を解こうとするお兄さん。僕はそのかっこいい髪型をまだ見ていたいです。
『あああっ! とらないでくださいっ! お兄さんはいつでもかっこいいですっ』
『ん。ありがとな。……翠も猫耳似合ってて可愛い』
『へ?』
お兄さんが僕の顔を指差します。指先は顔よりも上を指してます。ねこみみ? そして、その言葉で気付きます。僕は今、塁くんからの引っ越しプレゼントを着ていました。真っ白のもこもこ猫耳パーカー上下です。ふわふわの着心地が最高に気持ちよくて、パジャマとして毎日着ています。でもお兄さんに猫耳姿を見られるの恥ずかしいです。
『いや、あの、これは……貰いもので……着心地が最高なんですぅ……』
慌てて被っていたフードの猫耳を両手で押さえます。今さら隠しても見られてしまいましたが。
『翠のもこもこ猫耳可愛いよ。もっと見せてくれよ。なぁ?』
優しいお声でお願いするみたいに言うそんなお兄さんずるいです。そんな風に言われてしまえば、僕は断れないじゃないですか。
お兄さんにはじめてお願いされたのなら、それを叶えたいと思うに決まっています。
手の中に隠した猫耳をゆっくり手をずらして出すと、なぜかシャッター音の幻聴が一瞬聞こえました。
『お兄さん? カメラの音しませんでした?』
『あー。同じ部屋のやつの音だな。そうに決まってんだろ』
ははっとズレてもいない眼鏡をくいっと指であげるお兄さん。眼鏡かっこいいです。
『もう体調はいいのか?』
『はい。点滴したらすごく良くなりました!』
その後は今なにしてる? や、もうすぐ中間テストですね、とかいつも通りの他愛のない会話をしました。
テレビ電話になってしまった時はどうなることかとおもいましたが、逆にお電話で表情が見えないまま会話をするより緊張せずにいつものように会話できました。でも、回線越しのお兄さんのお声は少し低くて、話し方もゆったりというのか甘いです。あとは声を出してよく笑います。
それだけお部屋にいるときはくつろいでいるってことなんでしょうか。
いつもと同じところもあるけど少し違う。スマホ画面越しのお兄さんと僕。
発作なんか起こしてもう最悪だと思いましたけど、さらに違うお兄さんの姿が見れました。
なんだかお互いに見られたくない姿を最初に見せてしまったので、心の壁みたいな僕達2人の中であった遠慮がなくなりました。心の距離が縮まった、というかわざわざカッコつける必要がなくなったせいもあるかもしれないですね。
どうしてか僕はお兄さんにがっかりされたくなかったんです。自分の本当の情けない姿を見られて、気を遣われたり心配かけてばかりの僕のくせに。幻滅されて離れていってほしくない。ノラさんとお兄さんと過ごすあの時間が本当に楽しくて大切でかけがえのないものだったから。陽だまりの中で風にそよがれとりとめのない会話をしながらご飯を食べる。ただそれだけ。でも、誰かと一緒に過ごす楽しさを僕に教えてくれました。
結局発作をいとも簡単におこしてしまいましたが、そんなことでお兄さんは離れていかない。そう信じられたからこそ、だと思います。
臆病な僕にも変わらず手を差し伸べてくれる優しいお兄さんともっと仲良くなりたいです。
これは欲張りなわがままですね。過ぎた欲の『わがまま』を望むと皆を不幸にしてしまいますから。でも今よりほんの少しだけ今より仲良くなる……ならお兄さんも不幸にならないですよね。
どうかお兄さんが僕のことを面倒だと気付いてしまうまで仲良くしてくださいね。
『あのさ。朝も電話した、い。というかしてくんね? 俺、朝弱いんだよ……だから起こして?』
『……あ。はい。僕でよければ……』
『まじ?! ありがとっ!』
テレビ電話をして、そろそろ『おやすみ』の時間になった頃お兄さんからお願いされました。新しい発見です。僕はこのなんといいますか、お兄さんに不安げにお願いされると断れないです。ちらっと僕を伺うお兄さんのお顔を見た瞬間に脳直でお返事していましたよ。
了承のお返事を受けたお兄さんは破顔しました。本当に屈託のないあの笑顔です。
やっぱり僕は喉がぎゅっと苦しくなって心臓がドクリと音を立てます。やっっぱりおかしいです。発作は点滴したばかりだから起きないはずなのに、お兄さんの笑顔でまた発作の前触れみたいな体の状態になりました。
明日のお兄さんを起こすためにも早く寝て体調を万全にしなければ。
『何時、何時にしましょう?』
『ん? 翠はいつも何時におきる?』
そこからまた朝のルーティンをお互いに話して盛り上がってしまいました。
お兄さんは朝食はパンとコーヒー派らしいです。コーヒー飲めるなんて大人ですね。ちなみに僕もパン派。おそろいです。食パンに塗るジャムはいちご1択な僕に対してお兄さんは、なにもつけずに食べちゃうそうです。素材の味重視かと思いましたが「片付けダルい」の1言で理由が判明です。お兄さん意外とめんどくさがりさんでした。
『えっと。ではまた明日の朝お電話しますね。』
『よろしく。翠。……おやすみ』
またおかしい。ぎゅっと喉が詰まって目の奥がジンと熱くなります。
『……おやすみなさい』
でも無理やり喉と舌を動かして、初めてのおやすみなさいを言えました。言い終えた途端、寂しさが掠めます。通話終了ボタンを僕から押したほうがいいんですよね。
ちょっと切り方わかりませんとか理由をつけ、まだ引き延ばしこのまま寝たいな、と思ってしまったんです。
『……まだ……切らないよな?』
『えっお?』
『あー。一緒のタイミングで切ろう!』
『っりょうかいです』
お兄さんも一緒の気持ちだったみたいです。楽しかったと思ってくれたのでしょうか。
お兄さんのカウントダウンで一緒に通話を切れました。
手に残ったのは真っ暗で静かなスマホ。さっきまでお兄さんが映っていたなんて嘘みたい。
長い電話でスマホは熱を持ち全体がかなり熱く、この熱が移ったように僕も体がぼんやり熱いです。指先まで熱が回っています。緊張していたんでしょうか。
なのに、すっごく、楽しかったです。さすがお兄さんは僕を楽しませるのがお上手です!
まだ電話の余韻で目がぱっちり冴えていますが、胸の中がぽかぽかふわふわ気持ちいいです。この気持ちよさに浸りながら寝てしまいましょう。
枕元にスマホを置いて目を閉じようとしましたが、忘れずにアラームを7時にセットスマホ表示でコンパスマークがついているのを確認。ふっと小さく息を吐き出し、お布団の中へ入り目を閉じました。
明日からお兄さんを電話で起こすという重大任務。頑張ります!少しでももらった楽しさをお兄さんに返せるように。
「胸の音も落ち着いたし、点滴は今日までで終了で、あとは飲み薬で様子見ね」
点滴と腕時計を見比べ速度を調整した校医さんは、タブレット端末になにやら打ち込みます。僕はパジャマの前ボタンをプチプチ留めながら、起き上がります。
「えっとでは?」
「寮で自宅療養。今から出す薬を飲みきるまでの最低1週間ね。しっかりと安静にすることー」
強調するように校医さんは、人差し指を1本立てます。そして、両肩をゆっくりと押され、ベッドへ戻されちゃいました。
「理事長と佐倉には連絡しておくから、君は何も気にせずゆっくりと休みなさい」
「……ありがとうございます」
「よく食べて、よく寝たら治るからね」
校医さんは僕を安心させるようにわずかに口元を緩めます。首からぶら下げたID証には『白井梓』さんと書かれています。白井先生。あまり口数は多くないですが、昨晩、夜遅くなのに駆けつけてくれた優しい校医さん。「点滴終わる頃にまた来るから」と言い残すと白衣を翻し、白井先生はそのまま僕の寝室を出ていかれました。
一人残されたベッドの上で、唯一視界に入るのは、いつの間にか運び込まれていた点滴棒にぶら下げられた点滴ボトル。ぽつぽつゆっくりと一定のリズムで落ちる点滴の中身はちょうど半分くらいなので、いつ終わりますかね。長くかかりそうです。
いま何時くらいなんでしょうか。
今日もお兄さんとノラさんとお昼ご飯食べるとお約束していたのに、すっぽかしたことになっていませんか。また良くない印象をもたれたら嫌ですね。
では、今日はお昼ご飯をいけませんと連絡したほうが良いのでは?
それにこれは正当な連絡ですよね。もしお兄さんに嫌がられていてもノラさんをお待たせする訳にはいかないので連絡をしないといけないと思います。
お兄さんはノラさんをとても可愛がっているので、ノラさんのための連絡なら僕からでも受取ってくれるかもしれませんよね。それに、もしかしたら朝に連絡が来ているかもしれないですし。何時に連絡すると聞いていなかったので逆に僕が連絡無視していることになっているのは困りますよ。
再びぐるぐるする思考ですが、昨日の夜よりは前向きで客観的に考えられるようになった気がします。1通だけ送ってみましょうか。
お兄さんは約束を守る義理堅い方だと思います。毎日ノラさんのご飯持参であのベンチに行くような人。見ず知らずの発作に倒れた痛々しい僕を助け、わざわざ『ありがとう』を教えてくれました。
大丈夫。大丈夫。今から送ろうとする業務連絡になんでもいいから反応がほしいだけなんです。そう自分に言い聞かせ、起き上がり枕元に置いてあるスマホを取リます。
スマホにライトが点滅しています!
ドキドキする心臓が飛び出ないように、胸を押さえ口をすぼめて息を吐き出します。緊張で小刻みに震える右手の親指で、側面の電源ボタンをそっと押します。
画面には『玄』とでています!
「来てました!」
『また明日』『おやすみ』『昼来る?』短いメッセージばかり。最後はもらったシルヴァニアファミリーの赤ちゃんうさぎさんが木の影から『ちらっ』と覗くアニメのスタンプです。お兄さんの容姿とあまりに似つかないとてつもなく可愛らしいスタンプです。ピンクのベビー服がかわいい赤ちゃんうさぎさんが不安げに画面越しに何度も『ちらっ』と見つめてきます。
ふと大きな体を丸めシルヴァニアさんのガチャを回しているところ。スマホを睨みつけこのスタンプを選んでいる姿を想像してしまいました。
「ふふふっ……」
さっきまでの緊張が嘘みたいに今度はふわふわ胸が温かくなってきました。それにしてもこれは確定では。お兄さんは『可愛い』ものが大好きですね。
『連絡ありがとうございます。嬉しいです。スタンプ可愛いですね。今日は発作が出てしまってしばらく学校をおやすみすることになったのでいけません』
うう。お兄さんの送ってくれたメッセージに対しての返信ってこれで良いですか?お兄さんのメッセージと見比べると長いような気もしますね。そして、圧倒的に可愛さが皆無な気がします。
もう少し気の利いたメッセージ送りたいんですが。お友達とメッセージを送りあったことのない僕では難しすぎます。この文章が僕には限界です。文章にすると同じ言葉なのに冷たい印象を受けますね。勉強になりますが、どう変えていいのかわかりません。
あっ! スタンプも一緒に送ったらいいですかね。でも、デフォルトで入っているスタンプさんしか持っていません。僕もこのシルヴァニアさんのスタンプ欲しいです。おそろいにしたいです。あとで教えてもらうとして、今はこの大量のスタンプから一つを選ばなければなりません。
知識と経験不足が、僕を今打ちのめしてきています。先程より違う意味の不安と緊張に包まれました。
とりあえず当たり障りない『すみません』と土下座しているスタンプ送信しました。
慣れなくて緊張した初めてのメッセージ送信をやりきった僕は、再びベッドへ横になります。安静って言われましたし、早く治さないと学校いけませんからね。
枕元へ戻した瞬間、震えるスマホ。
お兄さんから『お大事に』と送られてきています。直ぐに『いつまで?』『電話できそ?』と短い文章が送られてきます。
『ありがとうございます。1週間らしいです。お電話したいですけど点滴中です。』
よしこれで質問にすべて答えていますよね。なんだかテストの問題もしくは尋問に答えたみたいですが大丈夫ですよね。テストより難解ですけど。
『点滴終わったら連絡して』『こっちはいつでもいい』
お兄さんから立て続けに返信です。えっとお兄さんはいつでも良いといいますが、スマホの時刻は14時を表示中です。絶対今の時間は授業中ですよね。それに点滴はまだあと数時間はかかりそうですし、どうしましょうか。夜遅くなっても良いでしょうか。ちょっと聞いてみましょう。
『点滴終わる時間が遅いと思います。夜寝る前にお兄さんとお電話したいです。』
ここまで文字を打って、なにか物足りない感じがしますね。見直し大事。
『おやすみなさいを初めて言いたいです』 よし。送信です。
『夜おk』『俺も』
よかったです。ふふふ、お兄さんと夜にお電話する許可をいただけました。返信する前にお兄さんからお時間聞かれましたが確実なお時間を伝えられません。
『点滴終わる時間がわからないのでまた連絡します』と送信するとすぐに『待ってる』と表示。
最後には『ぐっ』小さくガッツポーズした白猫赤ちゃんのスタンプです。早く点滴終えて元気な声でお兄さんに「おやすみなさい」を言いたいので、僕はそのままベッドにおとなしく休む決意をしました。
「よし! 準備万端です!」
点滴も無事に終了して、シャワーも済ませました。やたら心配した伊織くんが僕のお部屋へ泊まろうとしたのもちゃんとお断りできました。昨日の発作を見てしまったから伊織くんが心配する気持ちもわかります。枕元には吸入機とスマホを置いて置くことを伊織くんとお約束しました。吸入機も準備万端です。シャワーよりも大変疲れましたが、このために頑張りました。
お兄さんと初めてのお電話です。いざお兄さんへメッセージ送信です。
『今からお電話できますか?』
『りょ』
最短時間と最短文字数で返されました。ドキドキと逸る心臓です。ノラさんのアイコンが表示された画面のマークを緊張しすぎて目をつぶって押します。
『もしもし? 翠です』
『…………』
なにかぼそぼそくぐもった声がスピーカーからするだけで画面は真っ暗です。え? 電波とか悪いですかね。こういうときはスマホを高く上げたらいいですかね。高いところなら電波ありそうです。両手でスマホを掲げるように天井に向かって手を伸ばします。
『上目遣いは反則だろ?! スクショ! すくしょ!』
お兄さんのお声がやっと聞こえました。電波回復できたのかもしれないです。伸ばした手を戻し、スマホ画面を覗き込むとお兄さんの姿が映し出されていました。しかもおしゃれな丸い眼鏡をかけて、髪の毛を耳の上で縛るハーフアップにしています。
『え? な、なんでお兄さんです? 眼鏡と髪しばってます? かっこいいです』
『んん゙、間違えてビデオ通話のボタン押したろ?』
お兄さんに言われたことがわからずこてり、と首を傾げます。そうしたら苦しそうに目元を押さえたお兄さんは、通話にはボタンが2つあり僕が間違えてビデオ通話の方のボタンを押してしまったと教えてくれました。なんたる失敗です。
『あの、でも。いつもと違ってリラックスしてるかっこいいお兄さん見られて嬉しいです』
『……俺的にはゆるんでるとこ見られんの……恥ずい』
画面の中のお兄さんが頬を淡く染めて視線をそらします。自室にいるからでしょうかお兄さんの表情がいつもより豊かな気がします。こんな照れた表情なんていつもは見られませんよ。
画面の向こうで後ろ手で髪を解こうとするお兄さん。僕はそのかっこいい髪型をまだ見ていたいです。
『あああっ! とらないでくださいっ! お兄さんはいつでもかっこいいですっ』
『ん。ありがとな。……翠も猫耳似合ってて可愛い』
『へ?』
お兄さんが僕の顔を指差します。指先は顔よりも上を指してます。ねこみみ? そして、その言葉で気付きます。僕は今、塁くんからの引っ越しプレゼントを着ていました。真っ白のもこもこ猫耳パーカー上下です。ふわふわの着心地が最高に気持ちよくて、パジャマとして毎日着ています。でもお兄さんに猫耳姿を見られるの恥ずかしいです。
『いや、あの、これは……貰いもので……着心地が最高なんですぅ……』
慌てて被っていたフードの猫耳を両手で押さえます。今さら隠しても見られてしまいましたが。
『翠のもこもこ猫耳可愛いよ。もっと見せてくれよ。なぁ?』
優しいお声でお願いするみたいに言うそんなお兄さんずるいです。そんな風に言われてしまえば、僕は断れないじゃないですか。
お兄さんにはじめてお願いされたのなら、それを叶えたいと思うに決まっています。
手の中に隠した猫耳をゆっくり手をずらして出すと、なぜかシャッター音の幻聴が一瞬聞こえました。
『お兄さん? カメラの音しませんでした?』
『あー。同じ部屋のやつの音だな。そうに決まってんだろ』
ははっとズレてもいない眼鏡をくいっと指であげるお兄さん。眼鏡かっこいいです。
『もう体調はいいのか?』
『はい。点滴したらすごく良くなりました!』
その後は今なにしてる? や、もうすぐ中間テストですね、とかいつも通りの他愛のない会話をしました。
テレビ電話になってしまった時はどうなることかとおもいましたが、逆にお電話で表情が見えないまま会話をするより緊張せずにいつものように会話できました。でも、回線越しのお兄さんのお声は少し低くて、話し方もゆったりというのか甘いです。あとは声を出してよく笑います。
それだけお部屋にいるときはくつろいでいるってことなんでしょうか。
いつもと同じところもあるけど少し違う。スマホ画面越しのお兄さんと僕。
発作なんか起こしてもう最悪だと思いましたけど、さらに違うお兄さんの姿が見れました。
なんだかお互いに見られたくない姿を最初に見せてしまったので、心の壁みたいな僕達2人の中であった遠慮がなくなりました。心の距離が縮まった、というかわざわざカッコつける必要がなくなったせいもあるかもしれないですね。
どうしてか僕はお兄さんにがっかりされたくなかったんです。自分の本当の情けない姿を見られて、気を遣われたり心配かけてばかりの僕のくせに。幻滅されて離れていってほしくない。ノラさんとお兄さんと過ごすあの時間が本当に楽しくて大切でかけがえのないものだったから。陽だまりの中で風にそよがれとりとめのない会話をしながらご飯を食べる。ただそれだけ。でも、誰かと一緒に過ごす楽しさを僕に教えてくれました。
結局発作をいとも簡単におこしてしまいましたが、そんなことでお兄さんは離れていかない。そう信じられたからこそ、だと思います。
臆病な僕にも変わらず手を差し伸べてくれる優しいお兄さんともっと仲良くなりたいです。
これは欲張りなわがままですね。過ぎた欲の『わがまま』を望むと皆を不幸にしてしまいますから。でも今よりほんの少しだけ今より仲良くなる……ならお兄さんも不幸にならないですよね。
どうかお兄さんが僕のことを面倒だと気付いてしまうまで仲良くしてくださいね。
『あのさ。朝も電話した、い。というかしてくんね? 俺、朝弱いんだよ……だから起こして?』
『……あ。はい。僕でよければ……』
『まじ?! ありがとっ!』
テレビ電話をして、そろそろ『おやすみ』の時間になった頃お兄さんからお願いされました。新しい発見です。僕はこのなんといいますか、お兄さんに不安げにお願いされると断れないです。ちらっと僕を伺うお兄さんのお顔を見た瞬間に脳直でお返事していましたよ。
了承のお返事を受けたお兄さんは破顔しました。本当に屈託のないあの笑顔です。
やっぱり僕は喉がぎゅっと苦しくなって心臓がドクリと音を立てます。やっっぱりおかしいです。発作は点滴したばかりだから起きないはずなのに、お兄さんの笑顔でまた発作の前触れみたいな体の状態になりました。
明日のお兄さんを起こすためにも早く寝て体調を万全にしなければ。
『何時、何時にしましょう?』
『ん? 翠はいつも何時におきる?』
そこからまた朝のルーティンをお互いに話して盛り上がってしまいました。
お兄さんは朝食はパンとコーヒー派らしいです。コーヒー飲めるなんて大人ですね。ちなみに僕もパン派。おそろいです。食パンに塗るジャムはいちご1択な僕に対してお兄さんは、なにもつけずに食べちゃうそうです。素材の味重視かと思いましたが「片付けダルい」の1言で理由が判明です。お兄さん意外とめんどくさがりさんでした。
『えっと。ではまた明日の朝お電話しますね。』
『よろしく。翠。……おやすみ』
またおかしい。ぎゅっと喉が詰まって目の奥がジンと熱くなります。
『……おやすみなさい』
でも無理やり喉と舌を動かして、初めてのおやすみなさいを言えました。言い終えた途端、寂しさが掠めます。通話終了ボタンを僕から押したほうがいいんですよね。
ちょっと切り方わかりませんとか理由をつけ、まだ引き延ばしこのまま寝たいな、と思ってしまったんです。
『……まだ……切らないよな?』
『えっお?』
『あー。一緒のタイミングで切ろう!』
『っりょうかいです』
お兄さんも一緒の気持ちだったみたいです。楽しかったと思ってくれたのでしょうか。
お兄さんのカウントダウンで一緒に通話を切れました。
手に残ったのは真っ暗で静かなスマホ。さっきまでお兄さんが映っていたなんて嘘みたい。
長い電話でスマホは熱を持ち全体がかなり熱く、この熱が移ったように僕も体がぼんやり熱いです。指先まで熱が回っています。緊張していたんでしょうか。
なのに、すっごく、楽しかったです。さすがお兄さんは僕を楽しませるのがお上手です!
まだ電話の余韻で目がぱっちり冴えていますが、胸の中がぽかぽかふわふわ気持ちいいです。この気持ちよさに浸りながら寝てしまいましょう。
枕元にスマホを置いて目を閉じようとしましたが、忘れずにアラームを7時にセットスマホ表示でコンパスマークがついているのを確認。ふっと小さく息を吐き出し、お布団の中へ入り目を閉じました。
明日からお兄さんを電話で起こすという重大任務。頑張ります!少しでももらった楽しさをお兄さんに返せるように。