えへへっ。ついつい口元がゆるんでしまいます。やっとお兄さんとお約束していた連絡先の交換ができたんです。
 お昼休み中の廊下には生徒さんがまばらに歩いているだけなので、歩きスマホは危ないですが、少しだけスマホ画面を見るくらいは大丈夫ですかね。
 お兄さんとノラさんとお別れし、教室に戻るまで待ちきれなくて何度も何度もポケットからスマホを取り出し、意味もなくメッセージアプリのトーク画面を見つめてしまいます。
 手の中にあるスマホ画面には『玄』というシンプルな名前と丸く切り取られたアイコン写真はノラさんが表示されています。しかも、子猫ノラさんなんです。今よりおめめがくりくりして、あどけない表情と今よりもふわふわまるまるした体はほぼ天使さんですっ!
 とっても可愛いですよねぇ。あのお兄さんがわざわざアイコン画像にしちゃいますよ。
 あ、実は僕もアイコン画像は同じ子猫ノラさんなんです。羨ましがる僕にお兄さんが写真を送り、わざわざアイコン画像の設定までしてくれてお揃いにしてもらったんです。嬉しいなぁ。
「ふふっ」
 実はお兄さんって『可愛い』もの大好きだと思うんですよね。小さい動物のお人形さんであるシルバニアさんもそうですし、ノラさんに毎日餌あげたり、撫でて話しかけたりしているんですから。
 新しいお兄さんの1面を知れて嬉しいですね。お兄さんって本当に意外性の固まりさんなんですよ。
 今日だって、僕のスマホにGPSを付けてくれたんです。GPSっていうのは付けているだけで、詳細な現在の位置情報を相手へ送信できるものらしいです。
 つまり、お兄さんがスマホで調べたら僕が今どこへいるのかわかるという素晴らしい機能なんです。
 すっごく真剣な表情で僕へ切り出すので、連絡先交換のお作法で無礼をやらかしてしまったのかと不安だったんですけど、全然違ったんですよ。しかも、「また翠がどこかで倒れたらと想像しただけで、俺のほうが心配で倒れる」「今度も助けてやる」なんて優しい言葉のプレゼントまでもらっちゃいました。
 発作で苦しむ僕を助けたのをめんどくさいと思わず、さらに手助けしたい、手を伸ばしたいと。押しつけがましさなんて全く無い、飾らない善意をあんな強く優しいひとからもらいました。
 それに、お兄さんがスマホ同士でだけど、いつでもどこでも僕と繋がっても良いって思ってくれたのがとても嬉しかったんです。
 スマホ画面上部のコンパスマークが僕とお兄さんが今も繋がっているってしるしです。
 不思議ですね。このマークを見ているだけでぽかぽか胸の中が温もりで満ちて、ふわっと浮かんでいってしまいそうなくらい体が軽いです。
 変わらないスマホ画面ですが、どうしましょう。お兄さんに連絡ってしたほうが良いですかね。
 まだ連絡は来ていなくて「あとで送る」と言われたから待っているんですけど。
 このまま休憩終わったら授業中は無理ですし、夜は夜でお休み中だったらご迷惑になってしまいますよね。
 家族と幼馴染からの業務連絡でしか使用しないメッセージアプリで、僕はなにを送ったら良いのかわかりません。普段皆さんはどんな会話しているんでしょうか。
 お昼休憩もうすぐ終わりますし、教室着いたら連絡したほうが良いんですか?でも催促がましく自分から送って、煩わしく思われてしまったら、もう連絡来ないかもしれないですよね。
 ぐるぐる回る思考はだんだんと弱気になってきてしまいます。やっぱりこのまま待つことにしましょうか。お兄さんは自分から口にしたことを反故にしたり忘れたりするような方ではありません……よね?
「歩きスマホはダメだよぉ〜」
「ケガのもとだ。すぐしまえ」
「ふぇっ?!」
 緩い声と同時に眼前にふっと人影が出現しますが、スマホへ視線が釘付けだった僕はとっさに避けることができません。ぶつかっちゃいます!せめてスマホを落とさないように胸でぎゅっと抱えて目をつむりますが、ぽすんっと軽い音がなり誰かが僕を腕で包みます。
「え、え、あ?」
「翠ちゃん、あぶない〜」
 この声は累くんですね。包む腕の主が誰かわかりました。
 それに、僕の視界を埋めるのは、胸元が緩く開いたシャツと滑らかな首には彼の恋人さんの恭くんからプレゼントされたネックレスが光ります。
「あの累くん。ごめんなさい……」
「ん? 俺もぉ、いきなり声掛けちゃってごめんねぇ〜」
 僕の背中をポンポン優しく叩いた累くんは少ししたら体を離してくれました。そして、僕の腕を引いて、廊下の隅へ歩き出します。慌ててスマホをポケットへしまい付いていきます。すぐさま頭のてっぺんから胸やお腹をペタペタ触って念入りに確認する累くんです。
「どこも痛いとこなぁーい? 翠ちゃんにケガさせたなんてことがあったら、いおりんに僕10倍返しされるよぉ〜」
「だ、大丈夫ですよっ!」
 ほら、とむんっと両手でガッツポーズをするとほやんと安心したように微笑む累くん。
「もぉ〜可愛い?!」
 両手を広げて僕へハグを強請った累くんを、恭くんが逆に後ろから抱きしめました。
「……抱きつき過ぎだ。塁」
 ちょっと不機嫌な恭くんの低い声に累くんは頬を淡く染め、首だけで振り向きます。
「恭も混ざりたい〜?」
「いや。いい」
 な、なにやらお二人の世界が始まってしまいました。見つめ合う二人の瞳がうっとりしてきています。いや。いつも通りではあるんですけど、この状態を止められるのは伊織くんくらいですよ。
「お前だけで十分」
「ふふふっ。僕もぉ〜」
「……ん」
 二、三言囁き、累くんのきれいなストロベリーブロンドに顔を埋める恭くん。いつもの厳しいお顔が形無しですよ。珍しく口元が緩んでいます。累くんも腰に回った恭くんの腕を愛おしそうに撫でています。
 僕、この場にいりますかね? と疑問が湧いてきますが、このお二人に未だに引っ越しの際のお礼を言えていないので我慢です。
 かなり他の生徒さんからの視線が突き刺さり……ませんね。あの二人に皆さん視線が吸い寄せられていっています。
 累くんこと『(あさひ)(るい)』くんは、垂れた目元が印象的な甘いお顔立ちのとてもきれいな美人さんです。有名なインフルエンサーさんです。「動画を配信してバズった」らしいです。ほとんど日本語なのに全く言葉の意味がわかりませんでしたが。
 恭くんこと『南戸(みなと)恭一(きょういち)』くんも剣道部主将をつとめるくらい190cmの長身で体格も良く、凛々しげな眉毛と切れ長な瞳が眼光鋭い男らしさの塊さんですから。剣道着がとっても似合うお侍さまっぽい頼れるお兄さんです。
 2人とも学校内でも人気が高く、美貌輝くお似合いの二人が並ぶとかなり人目を引きますよ。いつ会っても仲良しな2人を見るだけで、嬉しくなってニコニコしちゃいますね。
「あの、あのね。累くんと恭くん?」
 ちょん、ちょん、と恭くんのシャツを引っ張ります。この雰囲気の二人に話し掛けるなんてかなり勇気を絞りましたよ。
「翠? どした?」
 気づいてくれた恭くんは昔からの条件反射で、累くんの腰への腕をとかずに僕の方へ身を屈めます。
 恭くんは伊織くんの幼馴染であり僕とも幼馴染なんです。出会ったのは僕が赤ちゃんの頃からなのでかなり長いお付き合いです。ずっと昔から伊織くんと恭くんのお二人にお世話になりっぱなしの僕なんです。
 もちろん人見知りの僕にいつも優しく話しかけたり、お見舞いにも必ず来てくれる累くんにもお世話になりっぱなし。いたずら好きでいつもからかわれちゃいますが、さり気ない気配りで誰も嫌な思いをさせず楽しませてくれます。
「遅くなっちゃったんだけど、お引越のお手伝いをしてくれてありがとうございました。あのね、可愛い服とかお菓子もいっぱいありがとうございます。大切に使わせてもらいますね」
「いいよぉ〜。それに僕たちだけじゃなくて、あの、ほら爽やかスポ根くん? も手伝ってくれたしね〜」 
「爽やかスポ根くん?」
「……ちょうどあそこにいるあいつだ」
 恭くんが視線で示したのは窓の先。みんなで並んで窓を覗きます。
 鼻の先に窓のサッシがちょうどあり、かなり視界を遮られ見辛いです。恭くんが僕の両脇を持とうと両手を広げだしましたが、無視して男の子としての意地で両手で窓枠を掴みつま先立ちで覗いてみます。
 窓枠に頬杖つけるくらい身長のある累くんが羨ましいですけど。恭くんは窓枠の高さが低すぎて腕組んでいるのは見ないふりです。
 校庭のバスケットゴールの前で6人くらい人が集まっています。ジャージ姿の生徒たちが、数人でバスケットボールの試合をしています。体育の授業前に遊んでいるんですかね。お元気です。
「今ちょうどボール持ってる子だよぉー? 同室の子だったでしょ?」
 累くんが指差してくれたボールを持つ赤茶の短髪で長身の男の子。手にボールがくっついているみたいな鮮やかなドリブルで彼の前に塞がる2人を横からするりと追い抜きます。これまたいとも簡単に、遠い位置からシュートをゴールへ決めています。オレンジ色のボールが放物線を描きながら吸い込まれるようにゴールを揺らす様子は、魔法のような光景で思わず見惚れてしまいます。
「スリーポイント簡単に決めちゃうのかぁ〜。爽やかスポ根かっこいいねー」
「あ、え。はい。魔法みたいでしたねぇ」
「……俺もあれくらいできる」
 眉を寄せ、ぶすっと口を尖らせる恭くん。隣で同じように見ていた恭くんが張り合いだし始めちゃいました。累くんが、笑いながら肘で恭くんを小突いています。
「翠ちゃんの元ルームメイトのあの子が翠ちゃんの私物を細々詳しく教えてくれてぇ、かなり早く終わったんだよぉ〜。」
「そうだな。助かったのは認める」
「……そうだったんですね」
 視線の先にいる元ルームメイトの彼こと、高森(たかもり)くんはお友達と手を合わせハイタッチしています。ウェーイと動物みたいな鳴き声をみんなで口々に真似しながら楽しそうです。仲良しさんだけのお遊びなんでしょうかね。
 彼のあんなイキイキした表情を見たのは初めてです。僕とお部屋にいる時はなぜか顔を逸らされたり歯切れの悪い反応ばかりでした。挙句に発作で睡眠妨害までかました僕は悲しいお顔までさせてしまいましたね。
「あっ! こっち気づいた? 翠ちゃんほらっ!」
「あっ……」
 お友達と肩を組んだりじゃれていた彼が、僕達からの視線の気配に気がついたのか何気なくこちらを見上げます。高森くんと目があいます。一瞬だけだけど確実に視線が重なりました。
 けれど、僕の視線から逃れるように不自然な動きで顔を逸らします。お友達に何かを話すと、ここから見えない場所まで駆け足でどこかに行ってしまいました。
 あからさまに僕を避けていますよね。こんな目立つ髪色と容姿の累くんや仁王像のような恭くんに気づかないはずないですよね。その間にいる『ゆーれいさん』である僕を含めてです。
「…………えっとなにあれぇ〜。ゼッタイ気付いてたよねぇ?」
「よし。殴るか」
「……僕、嫌われちゃいましたね。ご迷惑ばかりかけていましたから……」
 ぽつりと本当のことを言っただけなのに、累くんに再び抱きしめられていました。
 なんだか甘いシトラスの香りが落ち着きます。
「ママは翠ちゃんのこと大好きよ」
 優しい声で累くんが囁きます。
「パパはママと翠を」
 珍しく恭くんも累くんのこのいつものいたずらに便乗し、累くんごと僕を逞しい腕で抱きしめます。
 二人分の温もりと抱きしめる腕の強さが心からそう思ってくれていることを物語り、とっても嬉しいです。くすぐったい気持ちは、頬だけでなくお顔もゆるゆるにしてしまいました。2人の優しさあふれる気持ちへ『ありがとう』って伝えなきゃだめですよね。
「ありがとうございます。累くんママと恭くんパパ!」
 慣れないながらも、僕からも腕を2人に回します。
「っふふ! 我が息子よ〜」
 累くんにはさらに抱きしめられます。
「俺の家族は最高に可愛らしいな」
 大きな手で頭を撫でられました。手のひらが硬いので恭くんでしょうか。
 しばらく周りの生徒さんから注目を浴びながら3人で家族ごっこを楽しみました。
 それから、累くんと恭くんのおかげで気持ちを持ち直した僕は午後の授業もいつも通りに受けることができました。

 その日の夜。伊織くんお手製シチューを食べ終え、お風呂も済ませた僕はベットの上で敢えて気にしないようにしていた、スマホを持ちます。
 電源ボタンを押しますが、スマホにメッセージの通知は表示されていません。
 お兄さんからの連絡が来ないです。
 メッセージアプリにはしっかりと『玄』とお兄さんの名前が登録されています。
 交換したのは夢でも妄想でもなく現実だったはずなのに。未だに連絡がありません。
 ふと過ぎる今日の暗い記憶と気持ち。
 お兄さんも僕のことを面倒だと気付いてしまったのでは?しかしお兄さんは「あとで送る」と言ってくれました。その時の表情は柔らかったはずです。でも、今日の元ルームメイトの高森くんは僕のことを避けていきました。入院前はぎこちないながらも会話をしてくれていたはずなのに。
 今日になって突然顔も見たくなくなるくらい嫌われてしまうのが、この僕です。被害妄想なのかもしれないけれど、どんどん悪い想像が頭の中を埋め尽くします。胸は重苦しくなり、喉が潰れたように息を吸うのがとても難しい作業のようになってきました。
 あ、危ないかもしれない。
「ごほっ」
 やっぱり僕はダメダメなんです。ちょっと心配なことが起きると体が過敏に反応して悲鳴をあげます。
 発作を繰り返す中、たまたま顔を見に来てくれた伊織くんには発見されるまで僕は鳴らないスマホを抱えていました。
 伊織くんに連絡を受けた校医さんがお部屋に飛び込んできたり、診察や点滴をされている内に僕はいつの間にか眠っていました。