お昼ご飯を食べに行くため、お弁当箱の入ったランチバックを持ち椅子から立ち上がります。
お隣の関くんと席が一つ前の天宮くんが手を振って見送ってくれたので、僕も手を振り返してから教室をでました。
最近、僕は『地縛霊』になりました。だって、クラスメイトさん全員に、顔と名前を覚えてもらえていたんですよ。窓際にいつも座る透けているやつくらいには認識されたとみて間違いないでしょう。今も廊下を歩いていたクラスメイトさんに「いってらっしゃい」と声を掛けられました。凄い進化じゃないですか。しかも、担任の先生だけじゃない教科担任の先生にも存在を認識されているんです。
退院後は毎回僕に回されるプリントが1枚足らなくて、気づいた天宮くんが先生に手を上げて知らせていたのに。
「にゃおーん」
「お待たせしました。ノラさん!」
昇降口にはだらりと寝そべるノラさんが待っていました。少しお待たせしてしまったのか、彼女はペロペロと前足の肉球を舐め毛づくろいしています。僕が靴を履き替えている間にすくっと立ち上がったノラさんは、いつもの校舎裏へ続く道へ歩き出します。女王さまに置いていかれないよう追いかける僕です。
あれから毎日お兄さんとノラさんとお昼ご飯を食べています。もちろん女王さまの送迎付きです。単に面倒みの良いタイプなのか僕を本当に猫さんの赤ちゃんだと思っているのかわかりませんが、可愛らしいもふもふさんとのお散歩は楽しいです。
お兄さんとも最初のころよりは緊張せずにお話をできるようになったと思います。お兄さんも僕も口がたつほうではないので、ふとしたときにやっぱり沈黙というのか間が空くこともあるけれど、なぜかその沈黙が嫌ではなくて。穏やかでゆるやかな静けさがとても心やすらぐんです。
それに、意外とお兄さんはお茶目なところというのかちょっと変わった考えをしているので、雑談をしていても楽しいんです。雑談もノラさんを挟んでお互いのふと気になったことを聞いていくくらいで、しつこく素性を詮索しあうこともありません。ノラさんがいることでほんわかした雰囲気で少しずつお互いに会話を楽しんでいる、という感じです。
なので、僕がお兄さんについて知っていることは、助けてもらったときの手際の良さは喘息持ちの妹さんがいたからだとか。たぶん先輩なんだろうなとか。本当に僅かなことだけなんです。
でも、表情だとか声音や言動でお兄さんも僕との時間を居心地良く思ってくれているのでは? と思います。ゆっくりじっくり2人と1匹で会話を重ねて和む時間が過ぎるのはいつも早いんですよ。
お昼休憩が終わり僕がベンチから立ち上がり、ノラさんの後をついていこうとするとお兄さんは『またな』と必ず返してくれるんです。『またな』という時のお兄さんは優しいお声で柔らかい表情なんです。だから、僕と仲良くしたい、と思ってくれているのかなと感じるんです。
これって僕の自惚れでしょうか。どうなんでしょう。
初めてなのでわかりません。どうやって確かめて良いのか、確かめても良いのか。それとも、確かめなくてもみんなそんなことはわかる前提の暗黙のルールがあるのか。む、難しいですね。
そうこう悩んでいるうちにベンチへ到着してしまいました。
僕はありえない光景に思わず息を呑みました。
お兄さんがベンチに長い足を組んだまま両腕を組み、俯いています。えっとたぶん寝ています。僕はなんとなく足音をたてないように、ゆっくりと近づきます。ノラさんはそんな僕を一瞥するも興味もないのか、いつもどおりにするんと滑らかにお兄さんの膝下へまとわりつきます。顔をスリスリ擦り付けながら、しっぽを足に巻きつけています。ノラさんが足元にじゃれついているのにまだお兄さんは目覚めません。
目の前に立ちそろーりお顔を覗いてみましたら、風にさらわれてしまいそうなほど小さな寝息が聞こえます。起こすのも忍びないので、いつもの定位置へ。
ノラさんがお腹を出してごろ寝できるようにお兄さんとは人一人分以上開けたベンチの端っこに座ろうとしますが。せっかくの機会なので、ちょっといつもより近くに座ってみました。僕とお兄さんの距離はほんの拳1つか2つ分です。とっても近いです。こんなに近づいているのに起きません。お兄さんの意識がないのをいいことに普段照れくさくて見れないお兄さんのお顔をまじまじと観察です。
目を閉じているのにお人形さんみたいでとてもかっこいいです。まつげも長くてきらきら漆黒に輝いています。あ、目の下のほくろがあります。やっぱり見間違いじゃありませんでした。僕とおなじ右目尻の下にあります。おそろい嬉しいです。
なんか不思議です。この前まで全然知らなかったお兄さんとこんな近距離でお昼を過ごすようになるなんて。ちょっといつもよりお兄さんと近づけたのでなんだか胸がふわふわそわそわ落ち着きません。でも頬が緩んでしまうんです。勝手に。
この風鈴ピアスってどうなっているんでしょうか。むくむくと湧き出る好奇心です。今のうちならじっくり見れますよね。5cmくらいのシルバープレートピアスがきらきら銀光を散らし、きれいです。お耳に穴を空けてピアスを通しているんですね。今は痛くないんでしょうか。でも開けたときは絶対に痛いですよね。僕はあんなに点滴を刺され慣れているはずなのに、未だに針が自分の皮膚に侵入してくる場面は怖くて見れないです。お兄さんは毎朝自分の耳の穴に自らこのピアスを通しているなんてすごいです!お兄さんのおしゃれに対する意気込みというのか男気を尊敬します。初めて間近でみる不思議なピアスの構造につい目が離せません。
初めて会った時見惚れたとてもきれいな風鈴みたいに風でゆらゆら揺れますかね。
気になりだしたら、確かめたくて。またあのゆらゆらを見たくなって。首を伸ばし、フーと口を尖らせ息を吹きかけてみました。びくともしませんね。ちょっと心なしかお兄さんのお耳が桜色になったような?でもまだ目を閉じて寝息が聞こえており、無防備な寝顔は保たれていますからセーフなはずです。
もうこうなったら意地でもこのピアスを風鈴みたいに華麗に揺らしてみせますよ。気合を入れ人差し指を1本立てた僕はゆーくり慎重にピアスの元へ持っていきます。
唐突に大きな手が伸びて人差し指ごと握られます。
「?!」
「いたずらきんし……」
お兄さんの眠気の残るとろんと低い声が耳元で聞こえます。驚嘆で息を止めながら、自分の手を掴む骨ばった大きな手、それから声の主であるお兄さんへ素早く視線を転じます。そして、さらに驚くことに。先程よりもものすごく近距離に非の打ち所のないお兄さんの美貌です。
「うあ、あ、ぴ、ぴあすをさわりたかっただけでしゅっ」
みゃー!! 噛んでしまいましたぁ! なんで僕のお口はいいところで上手にお仕事してくれないんでしょう!パニックになりながら言い訳がましく言った僕を捉えた漆黒の瞳はぱちくりとゆっくり瞬きをします。
「……っ」
お兄さんは体を揺らすと、空いているもう片方の手で顔を覆いました。笑いを堪えぷるぷる震えているのが、未だにがっしり掴まれている手から伝わります。
「くっ……あ……ははっ」
もうこらえきれなくなったのか、遠慮なく声を出して笑いだしたお兄さんです。ちらりと見上げると、ピアスが風鈴みたいにゆらゆら揺れてきれい。お兄さんが声を出して笑うところをまた見ました。
いつもは切れ長の瞳や作り物めいたきれいなお顔全体にくしゃりとシワがよって、無邪気なお顔。きりっと整った切れ長な瞳は笑うと目尻が下がってふんわり包み込むような優しい瞳に変わります。表情が滅多に変わらないからこそ、笑うと一気に雰囲気が変わるんです。ちょっと可愛らしいな、と思うのは年上の男の人に失礼かもしれないですが。そう思ってしまいました。
お兄さんの笑顔を見ていると、心臓がドクンと勝手に高鳴って、喉の奥がきゅうっと詰まったような苦しさがしてきました。
これは発作の前触れ、かもしれないです。なんでこのタイミングなのかわかりませんが、もうこれ以上お兄さんの笑顔を見るのは危険です。それだけじゃなくても、なぜか見れなくて、足元で優雅に毛づくろい中のノラさんに視線をおとしました。ふわりんと時々揺れるもっふもふを目で追いつつ、暴れる胸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返します。
「わりい。飯食うか」
お兄さんの普段通りの声で僕はようやく顔を上げることができました。しかしでも、さっき不可抗力で間近に見てしまったきれいな瞳をみることができません。ご飯を食べていても、もう掴まれていないはずなのにぎゅっと掴まれた手が熱いし、お兄さんのさらりとした手のひらの感触が残っているようで。お箸が上手につかえず、おかずを掴めずに何回も落としてしまいました。
「あの、今日は移動教室なので……もう行きます」
「あっ! あ、あぁ……なぁ」
「……は、い」
お兄さんがいつもなら『またな』と言ってくれるのに、今日は言ってくれません。少し寂しいな、と思っていたらなにやらお兄さんが首の後ろをしきりに擦っています。
さっき明らかに首に負担のかかる昼寝をしていたので寝違えちゃったんでしょうか。校医さんに頼んで湿布もらえませんかね、と悩む僕の目の前にスマホが差し出されました。
「これ……」
「あ! 電話じゃなくても保健室行けばもらえますよ」
「はぁ? お前の連絡先教えろ」
「はい?!」
盛大な勘違いでした。誰かと連絡先を交換したこともない僕には無い発想だっったんですよ。お兄さんと連絡先を交換したいのに、スマホをカバンへ忘れてきたのでできません!
「……いやなのかよ?」
「う、あ、あのスマホ持っていません。あ、いや正確には持っているんですが……」
「…………」
すいーっと視線を逸らすお兄さん。正直にありのままの事実をお伝えしたら、断ったみたいな雰囲気になってしまいました。違うんですと言ってもなんか白々しいですよね。
「あの、失礼します!」
意を決した僕はお兄さんの片手をお借りして、カーディガンの左右ポケットの上をぽんぽん叩きます。
「今日は忘れただけなんです。……だから明日でも良いですか?」
お膝の上でぎゅうとお兄さんの手を両手で包み込むように握って頼み込みます。
「ぐぅ!……うん」
「ありがとうございます!」
いつの間にか下がっていた視線を上げるとお兄さんはやわらかく微笑んでくれていました。
「じゃあ今日は名前教えろよ」
「あの、僕『綾瀬翠』といいます! よろしくおねがいします!」
「すい?」
「……あ、はい。字はこう書きます」
ただ名前を呼ばれただけなのに、また喉の奥がきゅうっとしました。ごまかすために、お兄さんの手の平に指でゆっくりと『翠』と書きます。
指先をお兄さんの手のひらに滑らせますが、手のひらの薄い皮の感触、ダイレクトに伝わる体温に顔が熱を持ってきました。
「緑色って意味のほうか。……俺とおそろいだ」
「え?」
「『篠崎玄』っていうんだ。俺の名前」
お兄さんが僕の手のひらを掬うように手を持ち替えます。細長い指が僕の手の平にしなやかに滑り、流れた線はやがて『玄』という文字を形作った。
「黒色っていう意味の漢字で『玄』」
時間にしてあっという間だったのかも知れませんが、時間の流れがゆっくりに感じられました。触れている指先からふわふわとろける気持ちが胸に伝わったような不思議な感覚が残ります。
「素敵な名前です。……おそろい嬉しいです」
「……そうだな」
しみじみと呟かれた声は優しくて、明日は連絡先を絶対に交換したいと思いました。
その後、お兄さんにスマホを必ず明日持って来るのでとお約束をした僕は、連絡先交換を予約させてもらいました。
ノラさんと昇降口へ向かいます。でもあまりそのあとのことは覚えていません。未だにぽやーっとした頭です。いつもどおりに『またな』と言ってお兄さんとお別れしただけなのに、胸の中がなぜかきゅうっと苦しくていっぱいいっぱいだったんです。
「またな。翠」
お名前をお兄さんに呼ばれただけ。それだけのことなのに、無性に泣きたくなってしまったんです。
お隣の関くんと席が一つ前の天宮くんが手を振って見送ってくれたので、僕も手を振り返してから教室をでました。
最近、僕は『地縛霊』になりました。だって、クラスメイトさん全員に、顔と名前を覚えてもらえていたんですよ。窓際にいつも座る透けているやつくらいには認識されたとみて間違いないでしょう。今も廊下を歩いていたクラスメイトさんに「いってらっしゃい」と声を掛けられました。凄い進化じゃないですか。しかも、担任の先生だけじゃない教科担任の先生にも存在を認識されているんです。
退院後は毎回僕に回されるプリントが1枚足らなくて、気づいた天宮くんが先生に手を上げて知らせていたのに。
「にゃおーん」
「お待たせしました。ノラさん!」
昇降口にはだらりと寝そべるノラさんが待っていました。少しお待たせしてしまったのか、彼女はペロペロと前足の肉球を舐め毛づくろいしています。僕が靴を履き替えている間にすくっと立ち上がったノラさんは、いつもの校舎裏へ続く道へ歩き出します。女王さまに置いていかれないよう追いかける僕です。
あれから毎日お兄さんとノラさんとお昼ご飯を食べています。もちろん女王さまの送迎付きです。単に面倒みの良いタイプなのか僕を本当に猫さんの赤ちゃんだと思っているのかわかりませんが、可愛らしいもふもふさんとのお散歩は楽しいです。
お兄さんとも最初のころよりは緊張せずにお話をできるようになったと思います。お兄さんも僕も口がたつほうではないので、ふとしたときにやっぱり沈黙というのか間が空くこともあるけれど、なぜかその沈黙が嫌ではなくて。穏やかでゆるやかな静けさがとても心やすらぐんです。
それに、意外とお兄さんはお茶目なところというのかちょっと変わった考えをしているので、雑談をしていても楽しいんです。雑談もノラさんを挟んでお互いのふと気になったことを聞いていくくらいで、しつこく素性を詮索しあうこともありません。ノラさんがいることでほんわかした雰囲気で少しずつお互いに会話を楽しんでいる、という感じです。
なので、僕がお兄さんについて知っていることは、助けてもらったときの手際の良さは喘息持ちの妹さんがいたからだとか。たぶん先輩なんだろうなとか。本当に僅かなことだけなんです。
でも、表情だとか声音や言動でお兄さんも僕との時間を居心地良く思ってくれているのでは? と思います。ゆっくりじっくり2人と1匹で会話を重ねて和む時間が過ぎるのはいつも早いんですよ。
お昼休憩が終わり僕がベンチから立ち上がり、ノラさんの後をついていこうとするとお兄さんは『またな』と必ず返してくれるんです。『またな』という時のお兄さんは優しいお声で柔らかい表情なんです。だから、僕と仲良くしたい、と思ってくれているのかなと感じるんです。
これって僕の自惚れでしょうか。どうなんでしょう。
初めてなのでわかりません。どうやって確かめて良いのか、確かめても良いのか。それとも、確かめなくてもみんなそんなことはわかる前提の暗黙のルールがあるのか。む、難しいですね。
そうこう悩んでいるうちにベンチへ到着してしまいました。
僕はありえない光景に思わず息を呑みました。
お兄さんがベンチに長い足を組んだまま両腕を組み、俯いています。えっとたぶん寝ています。僕はなんとなく足音をたてないように、ゆっくりと近づきます。ノラさんはそんな僕を一瞥するも興味もないのか、いつもどおりにするんと滑らかにお兄さんの膝下へまとわりつきます。顔をスリスリ擦り付けながら、しっぽを足に巻きつけています。ノラさんが足元にじゃれついているのにまだお兄さんは目覚めません。
目の前に立ちそろーりお顔を覗いてみましたら、風にさらわれてしまいそうなほど小さな寝息が聞こえます。起こすのも忍びないので、いつもの定位置へ。
ノラさんがお腹を出してごろ寝できるようにお兄さんとは人一人分以上開けたベンチの端っこに座ろうとしますが。せっかくの機会なので、ちょっといつもより近くに座ってみました。僕とお兄さんの距離はほんの拳1つか2つ分です。とっても近いです。こんなに近づいているのに起きません。お兄さんの意識がないのをいいことに普段照れくさくて見れないお兄さんのお顔をまじまじと観察です。
目を閉じているのにお人形さんみたいでとてもかっこいいです。まつげも長くてきらきら漆黒に輝いています。あ、目の下のほくろがあります。やっぱり見間違いじゃありませんでした。僕とおなじ右目尻の下にあります。おそろい嬉しいです。
なんか不思議です。この前まで全然知らなかったお兄さんとこんな近距離でお昼を過ごすようになるなんて。ちょっといつもよりお兄さんと近づけたのでなんだか胸がふわふわそわそわ落ち着きません。でも頬が緩んでしまうんです。勝手に。
この風鈴ピアスってどうなっているんでしょうか。むくむくと湧き出る好奇心です。今のうちならじっくり見れますよね。5cmくらいのシルバープレートピアスがきらきら銀光を散らし、きれいです。お耳に穴を空けてピアスを通しているんですね。今は痛くないんでしょうか。でも開けたときは絶対に痛いですよね。僕はあんなに点滴を刺され慣れているはずなのに、未だに針が自分の皮膚に侵入してくる場面は怖くて見れないです。お兄さんは毎朝自分の耳の穴に自らこのピアスを通しているなんてすごいです!お兄さんのおしゃれに対する意気込みというのか男気を尊敬します。初めて間近でみる不思議なピアスの構造につい目が離せません。
初めて会った時見惚れたとてもきれいな風鈴みたいに風でゆらゆら揺れますかね。
気になりだしたら、確かめたくて。またあのゆらゆらを見たくなって。首を伸ばし、フーと口を尖らせ息を吹きかけてみました。びくともしませんね。ちょっと心なしかお兄さんのお耳が桜色になったような?でもまだ目を閉じて寝息が聞こえており、無防備な寝顔は保たれていますからセーフなはずです。
もうこうなったら意地でもこのピアスを風鈴みたいに華麗に揺らしてみせますよ。気合を入れ人差し指を1本立てた僕はゆーくり慎重にピアスの元へ持っていきます。
唐突に大きな手が伸びて人差し指ごと握られます。
「?!」
「いたずらきんし……」
お兄さんの眠気の残るとろんと低い声が耳元で聞こえます。驚嘆で息を止めながら、自分の手を掴む骨ばった大きな手、それから声の主であるお兄さんへ素早く視線を転じます。そして、さらに驚くことに。先程よりもものすごく近距離に非の打ち所のないお兄さんの美貌です。
「うあ、あ、ぴ、ぴあすをさわりたかっただけでしゅっ」
みゃー!! 噛んでしまいましたぁ! なんで僕のお口はいいところで上手にお仕事してくれないんでしょう!パニックになりながら言い訳がましく言った僕を捉えた漆黒の瞳はぱちくりとゆっくり瞬きをします。
「……っ」
お兄さんは体を揺らすと、空いているもう片方の手で顔を覆いました。笑いを堪えぷるぷる震えているのが、未だにがっしり掴まれている手から伝わります。
「くっ……あ……ははっ」
もうこらえきれなくなったのか、遠慮なく声を出して笑いだしたお兄さんです。ちらりと見上げると、ピアスが風鈴みたいにゆらゆら揺れてきれい。お兄さんが声を出して笑うところをまた見ました。
いつもは切れ長の瞳や作り物めいたきれいなお顔全体にくしゃりとシワがよって、無邪気なお顔。きりっと整った切れ長な瞳は笑うと目尻が下がってふんわり包み込むような優しい瞳に変わります。表情が滅多に変わらないからこそ、笑うと一気に雰囲気が変わるんです。ちょっと可愛らしいな、と思うのは年上の男の人に失礼かもしれないですが。そう思ってしまいました。
お兄さんの笑顔を見ていると、心臓がドクンと勝手に高鳴って、喉の奥がきゅうっと詰まったような苦しさがしてきました。
これは発作の前触れ、かもしれないです。なんでこのタイミングなのかわかりませんが、もうこれ以上お兄さんの笑顔を見るのは危険です。それだけじゃなくても、なぜか見れなくて、足元で優雅に毛づくろい中のノラさんに視線をおとしました。ふわりんと時々揺れるもっふもふを目で追いつつ、暴れる胸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返します。
「わりい。飯食うか」
お兄さんの普段通りの声で僕はようやく顔を上げることができました。しかしでも、さっき不可抗力で間近に見てしまったきれいな瞳をみることができません。ご飯を食べていても、もう掴まれていないはずなのにぎゅっと掴まれた手が熱いし、お兄さんのさらりとした手のひらの感触が残っているようで。お箸が上手につかえず、おかずを掴めずに何回も落としてしまいました。
「あの、今日は移動教室なので……もう行きます」
「あっ! あ、あぁ……なぁ」
「……は、い」
お兄さんがいつもなら『またな』と言ってくれるのに、今日は言ってくれません。少し寂しいな、と思っていたらなにやらお兄さんが首の後ろをしきりに擦っています。
さっき明らかに首に負担のかかる昼寝をしていたので寝違えちゃったんでしょうか。校医さんに頼んで湿布もらえませんかね、と悩む僕の目の前にスマホが差し出されました。
「これ……」
「あ! 電話じゃなくても保健室行けばもらえますよ」
「はぁ? お前の連絡先教えろ」
「はい?!」
盛大な勘違いでした。誰かと連絡先を交換したこともない僕には無い発想だっったんですよ。お兄さんと連絡先を交換したいのに、スマホをカバンへ忘れてきたのでできません!
「……いやなのかよ?」
「う、あ、あのスマホ持っていません。あ、いや正確には持っているんですが……」
「…………」
すいーっと視線を逸らすお兄さん。正直にありのままの事実をお伝えしたら、断ったみたいな雰囲気になってしまいました。違うんですと言ってもなんか白々しいですよね。
「あの、失礼します!」
意を決した僕はお兄さんの片手をお借りして、カーディガンの左右ポケットの上をぽんぽん叩きます。
「今日は忘れただけなんです。……だから明日でも良いですか?」
お膝の上でぎゅうとお兄さんの手を両手で包み込むように握って頼み込みます。
「ぐぅ!……うん」
「ありがとうございます!」
いつの間にか下がっていた視線を上げるとお兄さんはやわらかく微笑んでくれていました。
「じゃあ今日は名前教えろよ」
「あの、僕『綾瀬翠』といいます! よろしくおねがいします!」
「すい?」
「……あ、はい。字はこう書きます」
ただ名前を呼ばれただけなのに、また喉の奥がきゅうっとしました。ごまかすために、お兄さんの手の平に指でゆっくりと『翠』と書きます。
指先をお兄さんの手のひらに滑らせますが、手のひらの薄い皮の感触、ダイレクトに伝わる体温に顔が熱を持ってきました。
「緑色って意味のほうか。……俺とおそろいだ」
「え?」
「『篠崎玄』っていうんだ。俺の名前」
お兄さんが僕の手のひらを掬うように手を持ち替えます。細長い指が僕の手の平にしなやかに滑り、流れた線はやがて『玄』という文字を形作った。
「黒色っていう意味の漢字で『玄』」
時間にしてあっという間だったのかも知れませんが、時間の流れがゆっくりに感じられました。触れている指先からふわふわとろける気持ちが胸に伝わったような不思議な感覚が残ります。
「素敵な名前です。……おそろい嬉しいです」
「……そうだな」
しみじみと呟かれた声は優しくて、明日は連絡先を絶対に交換したいと思いました。
その後、お兄さんにスマホを必ず明日持って来るのでとお約束をした僕は、連絡先交換を予約させてもらいました。
ノラさんと昇降口へ向かいます。でもあまりそのあとのことは覚えていません。未だにぽやーっとした頭です。いつもどおりに『またな』と言ってお兄さんとお別れしただけなのに、胸の中がなぜかきゅうっと苦しくていっぱいいっぱいだったんです。
「またな。翠」
お名前をお兄さんに呼ばれただけ。それだけのことなのに、無性に泣きたくなってしまったんです。