「……伊織くんご飯食べた?」
累くんのお家のソファーに向かい合って座っているのはUberされた伊織くん。なぜか累くんと恭くんは僕と伊織くんを置き去りにして部屋を出ていきました。去り際、累くんが伊織くんに「男みせろよ」と睨みつけ。恭くんは無言です。例の仁王像の視線付きでしたが。
いざ二人きりになるとなにから話せばいいのかわかりません。お部屋に入って来た時から頑なに視線も合いません。目に入ったおかかおにぎりのお皿を見て浮かんだことを話しかけました。
「……うん。翠はまだなら、しっかり食べないとだめだよ。ひとつだけでも」
10秒くらい無言だった伊織くんは、おかかおにぎりを乗せたお皿を僕へ寄せます。いつものように僕を心配してくれる優しい伊織くんにぎゅうと胸が苦しくなります。
「食べるから……お話聞いて欲しい。僕は伊織くんとちゃんと家族になりたい」
顔を上げ、真正面から伊織くんを見つめます。息を呑み、暫く無言で僕を見つめた伊織くんは、ゆっくりと頷きました。息を吸います。
「伊織くんのお母さんと僕のお母さんが事故にあった日、発作が起きたのは嘘だったんだ。ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。お母さんに構って欲しくてウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたい。だから玄くんのことも誤解がないようにしたいんです」
あれだけ何年も言えなかったことがするする溢れて止まりません。自分でも呆れかえるくらいのわがままな言葉の数々です。でも、言い切ります。
「…………違うよ。僕のお母さんが翠の家族を奪ったんだよ。……でしょ?」
伊織くん青色の瞳はの虚ろでガラス玉の様です。
「それも違うよっ!」
僕の想像以上に伊織くんがこの出来事で負った傷は深くて、広くて、今も痛み、苦しんでいたんですね。
僕達は同じ出来事の被害にあったもの同士だけど、お互いの受けた傷を隠し続けてきたから、気づかなかった。玄くんからもらった厳しいけど優しいあの言葉を伊織くんに贈りたい。
「ねぇ伊織くん。どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんです。自分を責め続けたところで反省や償いにもなりません。誰もそんなこと望んでいない……から! 僕は全部お話して伊織くんと仲直りがしたい、また家族にっ」
なりたい、まで言い切れずに喉が締まります。伊織くんの鈍く光る青色の瞳が僕を射貫いたからです。
今まで見たこともないくらい険しい瞳。
「だからっ! ……僕は家族になりたくないんだ。翠が好きだから!」
いつも穏やかな伊織くんからの突然の心ごとぶつけるような告白。まさかの予想外で思考が停止します。好きって家族としてでの意味では説明がつかないくらい伊織くんの瞳には激しい熱が。
「翠だけが好きだから。翠が嫌がる家族って言葉も吐いて心を縛って、手も勝手に繋いだんだ! 誰にも翠を取られないように……。篠崎なんかと手を繋いだ翠を見たくなかった!」
きらきら伊織くんからは考えられないくらい執着めいた真っ黒い独白です。僕のことが嫌いになったわけでもなく、面倒くさくなったわけでもなく。玄くんと手を繋いだことを怒ってた?
言葉も無く呆然と見つめる僕へ伊織くんはふっと柔らかく微笑みます。
「最初はね。僕より可哀想な翠がいてくれれば自分が可哀想な子って思わなくていいから、……ふと襲われる罪悪感や寂しさからの逃避で心が楽だったんだ。そんな優越感まじりの打算から翠の世話を焼いているうちにね。……いつの間にか翠に癒やされる時間が手放せなくなっていた自分に気づいた」
ダメダメな僕に癒やされるなんてあるはずないです。伊織くんにはずっと迷惑ばかりかけていました。
伊織くんはふうっと息を吐きます。そして、僕のお顔を見てあははと楽しそうに笑います。
「全然心当たりないって顔してる。翠が発作で苦しむたびに弱音も吐かないで治療している姿はとってもいじらしくて可愛い。それに、絶対に翠は誰かのせいにもしないし誰のことも悪く言わないからさ。そばにいるだけでささくれ立つ心が安らいだんだ。自分の醜さも忘れてしまって……好きになったんだ」
伊織くんはふわりと優しく笑います。その笑顔が幸せそうで、家族よりももっと強い気持ちを抱いているとやっとわかってしまいました。
本気で僕のことを好きなんですね。理解できた瞬間、遅れて体の奥から熱がこみ上げてきます。熱が全身に広がり、ぽかぽかしてきた頭で、浮かぶのは玄くんのことだけ。僕は玄くんが好きです。伊織くんも好きですが、それはあくまで家族としてなんです。玄くんみたいに誰かにとられたくないとか、独り占めしたくないなんて全く思いません。
俯いて考えていた僕へ伊織くんがそっと呼びます。
「気持ち悪かった? 従兄だし、男からは……」
「そんなこと絶対思いません! こんなに真剣に伝えられた気持ちに!」
ぶんぶん首を振って否定します。
「そうだね。……翠はそういう子だから……」
ほっとした様子でしみじみと呟き、伊織くんは僕を真っ直ぐ見つめます。
「篠崎がね、翠は意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも持ってるかっこいい子って言うんだ。僕たちが心配しすぎて安心する為に翠を過保護に囲ってるとも。優しすぎる翠が、臆病な僕達がより安心できるように、やりたいことや本音を無意識に押し殺すようになってたとも」
こうも言っていたな、と伊織くんは笑います。
「翠はお前らの大事なお人形さんやお姫様じゃねー」
伊織くんでは絶対言わない乱暴な言葉遣い。そのギャップが玄くんが伊織くんへ本当にそう言ってくれたのだと証明する。嬉しい。玄くんが好きです。せり上がる気持ちが上手くコントロールできなくて、じわり、と視界を滲ませます。
「ねえ、翠。……翠は篠崎のこと」
柔らかな声音に、これから伊織くんが言おうとしていることがわかりました。でも、それは僕の口から言わなければならないこと。伊織くんの真剣な想いに真摯に向き合うために勇気を出すべきです。ぐっと唇に力を入れます。
「僕は玄くんが好きです」
自分で言った声なのにどこか淡々とした響きに、おかしくなります。自分の本当の気持ちを声に出すことがこんなに呆気なく簡単なことだったんですね。本音を話すことに過剰に臆病になっていた自分が恥ずかしいです。僕に勇気をくれるのはいつも玄くんです。
「あのね、知っていました。僕を憐れみ、庇護しようとしていたのを。みんなが、僕の病気を心配してくれていたのも同じくらい知っています。でも、そんな思いを抱かせてしまう、情けない自分が悪いと思っていたんです。伊織くんたちが僕を心配し、困らないように先回りしてくれていたのもありがたかったんです。でも僕は、たとえ上手く出来なくても、体の負担になるかもしれなくても、自分でやってみたかったんですよ」
「……知らなかったな」
「……はい。僕がお母さんの事故のことで『わがまま』を言ってはいけないって勝手に罪悪感に苛まれて。……今まで言い出せなかったんです」
「え? なんで? 翠はなにも悪くないじゃないか……」
「……ありがとう。伊織くんならそう言ってくれるますよね。今ならわかるんです。でも、僕のわがままで伊織くんのお母さんを奪ったとずっと思い込んでいたんです。家族って言われるのがちょっと苦しかったのは、僕が嘘ついたことを伊織くんに話せていなかったから。本当は大事な家族だと思っていたけど、後ろめたさでそんな態度を取ってしまいました。ごめんなさい」
「そんな……こと思ってたの?! 僕こそ翠の家族を奪ったと思っていたよ……」
伊織くんが悲痛そうに顔を歪め、視線をずらします。でもね、伊織くん。聞いてと呼びかけると顔を上げる伊織くん。
「『世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。
でも、翠なら出来る』って玄くんが言ってくれたんです。わがままな僕は伊織くんと一緒にこのままならないことを受け入れたいです。僕と伊織くんならできるはずです」
「…………」
玄くんからの言葉を応用しました。伊織くんは顔をしかめます。でもそれも一瞬のことで固い表情でぽつりと尋ねます。
「それ……がやっと言えた翠のわがままなの?」
「はい」
言葉を詰まらせる伊織くん。真正面からじっと見つめます。伊織くんの顔つきがあまりに真剣なので、驚き、怒り、悲しみなのか、わかりません。端正な美貌は仮面じみて見えます。伊織くんは歯を食いしばって、顔を伏せます。その瞬間、どこか昏い伊織くんの瞳に温もりが灯ったように見えました。ぎゅっと手を握り締めます。もう今しか無い。僕達が家族へ戻るための機会は。
「少しだけこのわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげです。
わがままな僕でも良い。翠が生きる為に、わがままになっても良いと、心の声を大切にしてほしいと言ってくれたから、今こうして本心を言えるようになったんです」
静かに俯いたまま聞いていた伊織くんがふと目元を手で覆います。
「……うん。翠の本当の気持ちを聞けて嬉しいよ……」
その声は僅かに震えています。ゆっくり深呼吸をした伊織くんは顔を上げます。揺れる青色の瞳を逸らさず見つめ僕は口を開きます。
「伊織くんずっと今までありがとうございます。伊織くんみたいなかっこよくて、なんでもできる素敵な人に『好き』になってもらえるなんて、……ひ弱で悲しませることしかできないって思っていた自分自身をもっと好きになれました。ごめんなさい。僕、とっても好きな人がいるんです。
だから、伊織くんのその気持ちは受け取れません」
丁寧に頭を下げます。今までのありがとうの気持ちを込めて。それと、わがままだけど家族へ戻りたいと。
「……僕こそありがとう。謝らなくてもいいよ……頭上げて」
優しく受け止めるような声に、喉がヒクッと震えます。
「で……も……」
「家族でしょ?」
当たり前に言われた言葉には、伊織くんの優しさや10年間ともに大切に積み重ねた日々の重みが込められていました。ぼろぼろ膝に落ちていく雫が止まりません。泣いた姿を見せるなんて告白してくれた伊織くんに、失礼だから。ゴシゴシ袖で拭い、顔を上げます。
「はい! 家族です!」
「じゃあ。仲直りのハグしよう」
最後に、と小さく付け足された、その言葉の残酷さに申し訳なさで心臓がぎゅっと掴まれたよう。でも僕は目を背けられたい心の痛みも拾い上げ、真正面から受け止めたいです。両手を広げてコクコクと何回も頷きます。
「ありがとう。翠」
伊織くんはテーブルを周り込み、僕の座る二人がけのソファーへ腰掛けます。いつも肩がくっつく程近くに座るのに少し距離を開けて。その距離につい唇を噛んだ僕へ伊織くんは微笑みかけます。
「翠って実は意地っ張りで強情だよね……」
「へぇあ?」
突然笑顔で罵倒された僕はわけがわからず、気の抜けた声が漏れそのままの体勢で固まります。
あはは、とからりと笑う伊織くんは軽く両手を広げ、僕の背中へ手を回します。そのまま伊織くんにゆっくりと抱きしめられます。あくまでも抜け出せるくらいの力加減。腕の中へ閉じ込めるような以前の力加減ではありません。些細な違いに胸が締め付けられます。今までの僕たちでしたら僕も背中に手を回しますが、それはもうできないです。広げた手をぎゅっと握り、ゆっくり下ろしました。
「だからさ、無気力アメーバの篠崎とお似合いだよ」
「……っ」
「……自信持って頑張れ」
玄くんとのことを励まされてしまい、恥ずかしさと申し訳無さが交じります。なんと返してよいかわからずあわあわ顔が熱くなります。
「ねぇ。翠、ありがとう」
「伊織くんもっ、ありがとうっ」
ふふっと笑う伊織くんは僕の背中をぽんっと押してくれます。不意に懐かしさがこみ上げます。うんと小さな頃はこうやって伊織くんに励まされていました。病院に行きたくないとぐずったときも、いたずらがバレてお母さんに怒られて拗ねていたときも、ずっと。優しくお話を聞いてくれて励ましてくれました。
うんと小さい頃は同じ、家族の好きが重なり合っていたはず。いつもまにか『好き』の意味がずれてしまった僕達ですが、いつかまた、同じ『好き』になれたらいいな。とわがままにも思ってしまいます。
これからは家族として伊織くんとの関係をやり直していきます。
「……ねえ? 翠……体熱くない?」
体を離した伊織くんがなにやら怪訝なお顔をします。 そして、顔を近づけようと動かした寸絶でピタッと止まり、手の平をおでこにそっと当てます。手の平の冷たさに自然と目を瞑ります。冷たさが気持ち良いです。
「っ凄い熱あるじゃないかっ?!」
「えええ?」
「最悪だ。僕のことでストレスが?! 翠が高熱を出してしまったぁー!!」
伊織くんの苦悩な叫びを聞き流しながら、熱があると意識した途端に寒気が襲ってきます。
ぼんやりしていた頭で、そうかさっきからなんとなく気分が高揚していたのは熱のせいだったんですねと妙に納得し、僕はソファーにこてんと横になります。
次第に遠ざかる意識の中、累くんと恭くん、伊織くんが言い争う声を聞きます。
最後に皆仲直りできて良かったですと思いました。
累くんのお家のソファーに向かい合って座っているのはUberされた伊織くん。なぜか累くんと恭くんは僕と伊織くんを置き去りにして部屋を出ていきました。去り際、累くんが伊織くんに「男みせろよ」と睨みつけ。恭くんは無言です。例の仁王像の視線付きでしたが。
いざ二人きりになるとなにから話せばいいのかわかりません。お部屋に入って来た時から頑なに視線も合いません。目に入ったおかかおにぎりのお皿を見て浮かんだことを話しかけました。
「……うん。翠はまだなら、しっかり食べないとだめだよ。ひとつだけでも」
10秒くらい無言だった伊織くんは、おかかおにぎりを乗せたお皿を僕へ寄せます。いつものように僕を心配してくれる優しい伊織くんにぎゅうと胸が苦しくなります。
「食べるから……お話聞いて欲しい。僕は伊織くんとちゃんと家族になりたい」
顔を上げ、真正面から伊織くんを見つめます。息を呑み、暫く無言で僕を見つめた伊織くんは、ゆっくりと頷きました。息を吸います。
「伊織くんのお母さんと僕のお母さんが事故にあった日、発作が起きたのは嘘だったんだ。ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。お母さんに構って欲しくてウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたい。だから玄くんのことも誤解がないようにしたいんです」
あれだけ何年も言えなかったことがするする溢れて止まりません。自分でも呆れかえるくらいのわがままな言葉の数々です。でも、言い切ります。
「…………違うよ。僕のお母さんが翠の家族を奪ったんだよ。……でしょ?」
伊織くん青色の瞳はの虚ろでガラス玉の様です。
「それも違うよっ!」
僕の想像以上に伊織くんがこの出来事で負った傷は深くて、広くて、今も痛み、苦しんでいたんですね。
僕達は同じ出来事の被害にあったもの同士だけど、お互いの受けた傷を隠し続けてきたから、気づかなかった。玄くんからもらった厳しいけど優しいあの言葉を伊織くんに贈りたい。
「ねぇ伊織くん。どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんです。自分を責め続けたところで反省や償いにもなりません。誰もそんなこと望んでいない……から! 僕は全部お話して伊織くんと仲直りがしたい、また家族にっ」
なりたい、まで言い切れずに喉が締まります。伊織くんの鈍く光る青色の瞳が僕を射貫いたからです。
今まで見たこともないくらい険しい瞳。
「だからっ! ……僕は家族になりたくないんだ。翠が好きだから!」
いつも穏やかな伊織くんからの突然の心ごとぶつけるような告白。まさかの予想外で思考が停止します。好きって家族としてでの意味では説明がつかないくらい伊織くんの瞳には激しい熱が。
「翠だけが好きだから。翠が嫌がる家族って言葉も吐いて心を縛って、手も勝手に繋いだんだ! 誰にも翠を取られないように……。篠崎なんかと手を繋いだ翠を見たくなかった!」
きらきら伊織くんからは考えられないくらい執着めいた真っ黒い独白です。僕のことが嫌いになったわけでもなく、面倒くさくなったわけでもなく。玄くんと手を繋いだことを怒ってた?
言葉も無く呆然と見つめる僕へ伊織くんはふっと柔らかく微笑みます。
「最初はね。僕より可哀想な翠がいてくれれば自分が可哀想な子って思わなくていいから、……ふと襲われる罪悪感や寂しさからの逃避で心が楽だったんだ。そんな優越感まじりの打算から翠の世話を焼いているうちにね。……いつの間にか翠に癒やされる時間が手放せなくなっていた自分に気づいた」
ダメダメな僕に癒やされるなんてあるはずないです。伊織くんにはずっと迷惑ばかりかけていました。
伊織くんはふうっと息を吐きます。そして、僕のお顔を見てあははと楽しそうに笑います。
「全然心当たりないって顔してる。翠が発作で苦しむたびに弱音も吐かないで治療している姿はとってもいじらしくて可愛い。それに、絶対に翠は誰かのせいにもしないし誰のことも悪く言わないからさ。そばにいるだけでささくれ立つ心が安らいだんだ。自分の醜さも忘れてしまって……好きになったんだ」
伊織くんはふわりと優しく笑います。その笑顔が幸せそうで、家族よりももっと強い気持ちを抱いているとやっとわかってしまいました。
本気で僕のことを好きなんですね。理解できた瞬間、遅れて体の奥から熱がこみ上げてきます。熱が全身に広がり、ぽかぽかしてきた頭で、浮かぶのは玄くんのことだけ。僕は玄くんが好きです。伊織くんも好きですが、それはあくまで家族としてなんです。玄くんみたいに誰かにとられたくないとか、独り占めしたくないなんて全く思いません。
俯いて考えていた僕へ伊織くんがそっと呼びます。
「気持ち悪かった? 従兄だし、男からは……」
「そんなこと絶対思いません! こんなに真剣に伝えられた気持ちに!」
ぶんぶん首を振って否定します。
「そうだね。……翠はそういう子だから……」
ほっとした様子でしみじみと呟き、伊織くんは僕を真っ直ぐ見つめます。
「篠崎がね、翠は意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも持ってるかっこいい子って言うんだ。僕たちが心配しすぎて安心する為に翠を過保護に囲ってるとも。優しすぎる翠が、臆病な僕達がより安心できるように、やりたいことや本音を無意識に押し殺すようになってたとも」
こうも言っていたな、と伊織くんは笑います。
「翠はお前らの大事なお人形さんやお姫様じゃねー」
伊織くんでは絶対言わない乱暴な言葉遣い。そのギャップが玄くんが伊織くんへ本当にそう言ってくれたのだと証明する。嬉しい。玄くんが好きです。せり上がる気持ちが上手くコントロールできなくて、じわり、と視界を滲ませます。
「ねえ、翠。……翠は篠崎のこと」
柔らかな声音に、これから伊織くんが言おうとしていることがわかりました。でも、それは僕の口から言わなければならないこと。伊織くんの真剣な想いに真摯に向き合うために勇気を出すべきです。ぐっと唇に力を入れます。
「僕は玄くんが好きです」
自分で言った声なのにどこか淡々とした響きに、おかしくなります。自分の本当の気持ちを声に出すことがこんなに呆気なく簡単なことだったんですね。本音を話すことに過剰に臆病になっていた自分が恥ずかしいです。僕に勇気をくれるのはいつも玄くんです。
「あのね、知っていました。僕を憐れみ、庇護しようとしていたのを。みんなが、僕の病気を心配してくれていたのも同じくらい知っています。でも、そんな思いを抱かせてしまう、情けない自分が悪いと思っていたんです。伊織くんたちが僕を心配し、困らないように先回りしてくれていたのもありがたかったんです。でも僕は、たとえ上手く出来なくても、体の負担になるかもしれなくても、自分でやってみたかったんですよ」
「……知らなかったな」
「……はい。僕がお母さんの事故のことで『わがまま』を言ってはいけないって勝手に罪悪感に苛まれて。……今まで言い出せなかったんです」
「え? なんで? 翠はなにも悪くないじゃないか……」
「……ありがとう。伊織くんならそう言ってくれるますよね。今ならわかるんです。でも、僕のわがままで伊織くんのお母さんを奪ったとずっと思い込んでいたんです。家族って言われるのがちょっと苦しかったのは、僕が嘘ついたことを伊織くんに話せていなかったから。本当は大事な家族だと思っていたけど、後ろめたさでそんな態度を取ってしまいました。ごめんなさい」
「そんな……こと思ってたの?! 僕こそ翠の家族を奪ったと思っていたよ……」
伊織くんが悲痛そうに顔を歪め、視線をずらします。でもね、伊織くん。聞いてと呼びかけると顔を上げる伊織くん。
「『世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。
でも、翠なら出来る』って玄くんが言ってくれたんです。わがままな僕は伊織くんと一緒にこのままならないことを受け入れたいです。僕と伊織くんならできるはずです」
「…………」
玄くんからの言葉を応用しました。伊織くんは顔をしかめます。でもそれも一瞬のことで固い表情でぽつりと尋ねます。
「それ……がやっと言えた翠のわがままなの?」
「はい」
言葉を詰まらせる伊織くん。真正面からじっと見つめます。伊織くんの顔つきがあまりに真剣なので、驚き、怒り、悲しみなのか、わかりません。端正な美貌は仮面じみて見えます。伊織くんは歯を食いしばって、顔を伏せます。その瞬間、どこか昏い伊織くんの瞳に温もりが灯ったように見えました。ぎゅっと手を握り締めます。もう今しか無い。僕達が家族へ戻るための機会は。
「少しだけこのわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげです。
わがままな僕でも良い。翠が生きる為に、わがままになっても良いと、心の声を大切にしてほしいと言ってくれたから、今こうして本心を言えるようになったんです」
静かに俯いたまま聞いていた伊織くんがふと目元を手で覆います。
「……うん。翠の本当の気持ちを聞けて嬉しいよ……」
その声は僅かに震えています。ゆっくり深呼吸をした伊織くんは顔を上げます。揺れる青色の瞳を逸らさず見つめ僕は口を開きます。
「伊織くんずっと今までありがとうございます。伊織くんみたいなかっこよくて、なんでもできる素敵な人に『好き』になってもらえるなんて、……ひ弱で悲しませることしかできないって思っていた自分自身をもっと好きになれました。ごめんなさい。僕、とっても好きな人がいるんです。
だから、伊織くんのその気持ちは受け取れません」
丁寧に頭を下げます。今までのありがとうの気持ちを込めて。それと、わがままだけど家族へ戻りたいと。
「……僕こそありがとう。謝らなくてもいいよ……頭上げて」
優しく受け止めるような声に、喉がヒクッと震えます。
「で……も……」
「家族でしょ?」
当たり前に言われた言葉には、伊織くんの優しさや10年間ともに大切に積み重ねた日々の重みが込められていました。ぼろぼろ膝に落ちていく雫が止まりません。泣いた姿を見せるなんて告白してくれた伊織くんに、失礼だから。ゴシゴシ袖で拭い、顔を上げます。
「はい! 家族です!」
「じゃあ。仲直りのハグしよう」
最後に、と小さく付け足された、その言葉の残酷さに申し訳なさで心臓がぎゅっと掴まれたよう。でも僕は目を背けられたい心の痛みも拾い上げ、真正面から受け止めたいです。両手を広げてコクコクと何回も頷きます。
「ありがとう。翠」
伊織くんはテーブルを周り込み、僕の座る二人がけのソファーへ腰掛けます。いつも肩がくっつく程近くに座るのに少し距離を開けて。その距離につい唇を噛んだ僕へ伊織くんは微笑みかけます。
「翠って実は意地っ張りで強情だよね……」
「へぇあ?」
突然笑顔で罵倒された僕はわけがわからず、気の抜けた声が漏れそのままの体勢で固まります。
あはは、とからりと笑う伊織くんは軽く両手を広げ、僕の背中へ手を回します。そのまま伊織くんにゆっくりと抱きしめられます。あくまでも抜け出せるくらいの力加減。腕の中へ閉じ込めるような以前の力加減ではありません。些細な違いに胸が締め付けられます。今までの僕たちでしたら僕も背中に手を回しますが、それはもうできないです。広げた手をぎゅっと握り、ゆっくり下ろしました。
「だからさ、無気力アメーバの篠崎とお似合いだよ」
「……っ」
「……自信持って頑張れ」
玄くんとのことを励まされてしまい、恥ずかしさと申し訳無さが交じります。なんと返してよいかわからずあわあわ顔が熱くなります。
「ねぇ。翠、ありがとう」
「伊織くんもっ、ありがとうっ」
ふふっと笑う伊織くんは僕の背中をぽんっと押してくれます。不意に懐かしさがこみ上げます。うんと小さな頃はこうやって伊織くんに励まされていました。病院に行きたくないとぐずったときも、いたずらがバレてお母さんに怒られて拗ねていたときも、ずっと。優しくお話を聞いてくれて励ましてくれました。
うんと小さい頃は同じ、家族の好きが重なり合っていたはず。いつもまにか『好き』の意味がずれてしまった僕達ですが、いつかまた、同じ『好き』になれたらいいな。とわがままにも思ってしまいます。
これからは家族として伊織くんとの関係をやり直していきます。
「……ねえ? 翠……体熱くない?」
体を離した伊織くんがなにやら怪訝なお顔をします。 そして、顔を近づけようと動かした寸絶でピタッと止まり、手の平をおでこにそっと当てます。手の平の冷たさに自然と目を瞑ります。冷たさが気持ち良いです。
「っ凄い熱あるじゃないかっ?!」
「えええ?」
「最悪だ。僕のことでストレスが?! 翠が高熱を出してしまったぁー!!」
伊織くんの苦悩な叫びを聞き流しながら、熱があると意識した途端に寒気が襲ってきます。
ぼんやりしていた頭で、そうかさっきからなんとなく気分が高揚していたのは熱のせいだったんですねと妙に納得し、僕はソファーにこてんと横になります。
次第に遠ざかる意識の中、累くんと恭くん、伊織くんが言い争う声を聞きます。
最後に皆仲直りできて良かったですと思いました。