ああこれは夢ですね。おぼろげな意識の中で理解します。
 小児科病棟のペールブルーの壁紙と真っ白な天井。規則的な電子音が鳴り続ける心拍モニター。
 鼻には緑色の酸素チューブに、手の甲にはぐるぐる包帯が巻かれ、透明な長いチューブが伸び、辿れば点滴です。ベッド上に寝そべる僕の包帯だらけの手を小さな手が優しく握ってくれています。
「ごめんね。僕のお母さんのせいで翠が1人になっちゃって。……これから家族の僕が翠を守るから」
 ズビズビ鼻をすする伊織くんの泣き声です。伊織くんの言葉で、この日がなんの日かわかりました。
 伊織くんと僕のお母さんのお葬式をした日です。伊織くんからは、ほのかにお線香の香りがします。
 情けない僕の人生史上一番ダメダメな日。自分で死なせてしまった方々のお見送りもできずに、病院のベットで寝て沢山の人にお世話され生かされている。脆くて弱っちい僕なんかが。
「翠。大丈夫だからね。僕がいるから。家族の僕がいるから、泣かないで……」
 僕はなんとお返事したんでしょうか。舌が乾いてはりつき上手くおしゃべりできません。
 ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。ウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたいよ。
 ああ。このときに全て白状して謝ればよかったんですよね。一緒にこのままならない出来事を受け入れることができたかもしれないのに。
 たしか僕は怖くて逃げたんですよ。これ以上伊織くんに泣いて欲しくなくて。悲しいお顔が見たくなくて。
『わがまま』をいわなければ伊織くんは幸せになれるはず、と自分の中で一方的に自己完結したんです。
 罪悪感だけなのか、伊織くんに純粋に笑っていてほしいと思ったのかはもう思い出せませんが。

 スマホのアラームがなっています。もう起きる時間です。夢の余韻で少し震えている指先でタップしてアラームを消します。時刻は7時ちょうど。ふーっと大きく息をはいて、指先の震えを落ち着かせます。そして、メッセージアプリを開き通話ボタンをタップ。
「おはようございます。玄くん」
『はよ。翠。今日も雨だな……』
 今日も日課のモーニングコールをして、朝の準備をします。雨の日の玄くんは、少し気だるげで低く掠れたお声が艶っぽいです。さらに、ぼんやりさんです。服を着替えるまでの数分間はベッドの上から動こうとしません。電話口の向こうから僕は二度寝予防のために話しかけます。いってきますの挨拶で通話を切り、僕も玄関ドアを開けます。
 玄関ドアには小さなランチバッグがかけられていました。数日前から朝昼晩かかさず届けられます。ランチバッグの中にはタッパーやお弁当箱にいっぱいに料理が詰め込まれているんです。
 あの旧校舎でお兄さんと伊織くんが鉢合わせた日から避けられてしまっています。かれこれ1週間も顔をあわさず、スマホで連絡しても既読無視をされているんです。直接お部屋に訪ねてもいつも留守。
 こんなことは今までありませんでした。それだけ、僕は伊織くんに甘えきっていたのか思い知ります
 ですが、ランチバッグにはいつもどおりのお弁当が。ずっしりと重いお弁当に、伊織くんの優しさを感じます。いつもお世話をしている僕に言い返され、面倒くさくなったのか迷惑に思ったから避けられていると考えたけど、まだ僕は見捨てられていないはず。ちゃんと伊織くんと真正面から向き合いこの前の謝罪といつもの優しさへ感謝を伝えたいです。
 いつもいつも僕は伊織くんに優しく手を引かれていた気がします。それなのに、伊織くんに家族って言われて心配されるのは心に重しがのったように少し苦しかったんです。いざ距離を置かれるのが寂しくて、置いていかれたような虚しさを勝手に感じてしまうわがままで自分本意な僕。でも玄くんは生きてるからわがままになると言いました。今度は僕が伊織くんへ手を差し出す番だと思います。
 むん、と気合をいれるため、鍵に取付けた赤ちゃん猫の人形をぎゅっと両手で握りしめます。
 玄くんの隣にいたいから。少しでもかっこよくなろう。
 鍵を閉めた僕は、ランチバッグとカバンを持ち1人で寮を出て学校へ向かいました。

 お昼休み、授業が終わってすぐに3年生の特別コースがある1階に向かうため階段を降りていると、下から登ってくる玄さんとばったり会います。
「あー、ごめん。佐倉に逃げられた」
 首に手をやり申し訳なさそうに玄くんが謝ります。実は玄くんと伊織くんはクラスメイトでしかも席順も前後と仲良しさんだったのです。玄くんは仲良くないって凄い勢いで否定したんです。伊織くんと玄くんの仲の良さにもやもやが解消してしまった現金な僕です。ですので、そういうもやもやを持たずに安心して伊織くんと会ってお話するために玄くんに協力してもらいました。けど、うまくいきません。
「そうですか。……協力していただいたのにすみません」
「いいよ。また放課後もあんだし、さっさとメシ食おう。おいで」
 こくりと頷くと、玄くんは手を差し出します。手を乗せるとする、と指を絡めて握られます。玄くんと手を繋ぐのが当たり前になってしまいました。
 2人でとてとて旧校舎の空き教室へ向かいます。雨の日はここで2人でご飯を食べるようになったんです。
 因みに雨の日になるとノラさんは寮監さんのお部屋で『ラテ』さんになり、室内猫さまに変わっているそうです。地域猫さんのたくましさは凄いですよねぇ。
 空き教室には机や椅子が無造作に積み上げられ、その机に美術部さんの大きなポスターや吹奏楽部の垂れ幕なんかがたてかけられています。普段は物置として使われているらしく、床と教壇しか座るところがないので、2人で教壇の段差にしゃがみ込みます。
 玄くんにおいで、と言われると同時に体を軽々持ち上げられ、お膝の上に座らされます。玄くんの胸に背中を預け、自分のお膝の上でお弁当箱を開けます。
 最近玄くんは僕をことあるごとに自然と抱っこするようになりました。
 最初のうちは心臓が爆発するくらいドキドキしていましたが、慣れるとぴったりとくっついていないと寂しい気持ちになってしまいます。
 この体勢ではご飯も喉を通りませんでしたが、今では普通に食べられます。慣れって恐ろしいです。
「……なあ。隈ある……」
 お弁当も食べ終わりお話をしていると、肩越しに顔を覗きこまれ、目元を指で撫でられます。唇へ吐息がかかって、落ち着いていた心臓が跳ねます。膝下と肩を支えられ、あれ? と思っていたら、真上に玄くんのお顔があります。頭の下にはなにやら温かくて固いものがと思ったら太ももですね。上半身を倒されて、玄くんに膝枕を強制的にされました。
「あ、あの? なぜ?」
 見上げた玄くんのお顔が近いです。目元のほくろさえ見えちゃいます。
「少しだけ寝ろ。起こしてやるから……」
「で、でも」
「今日の俺のわがままだから、な?」
「はい……」
 あれから律儀に1日1回お互いにわがままを言う練習をしてくれる玄くんです。僕の今日のわがままは伊織くんを連れて来てほしい、という無理難題です。そんな僕のわがままを玄くんはいつもどんな内容でも優しい笑顔で引き受けてくれます。頭を撫でて欲しいと言ってみたいですが、未だに恥ずかしくて言えません。僕の髪を優しく撫でる指先と目元を覆う大きな手の平です。まさかの撫でるオプション付きでした。
 そのどちらも気持ちよくて、緊張してこわばった体の力が抜けます。
「あのな……佐倉は翠が嫌いになった訳じゃねーと思うんだ……」
「……そうだと良いんですけど」
「俺……1回あいつにすげー怒られたことあんだよ。少しだけ、うん。少しだけな授業ダルいから自主的に休んだ時期があって」
 すう、とお兄さんが息を吸い、腹筋が動きます。
「佐倉に学校に来たくても来れないれない子もいるんだからしっかりしろ! ってガチで怒鳴られたんだよ。胸ぐらつかんでまでな。その来れない子って翠のことだろ? だから……佐倉は翠のことすっげー大事にしてんじゃねーかと」
 はっきりものを言う玄くんにしては自信無さそうにとつとつとお話しされます。口ぶりの変わりようから僕を一生懸命励まそうとしてくれているのがわかります。嬉しい。
「はい。仲直り頑張ります!」
「ん。大丈夫。翠ならできる」
 玄くんの優しい声が甘やかな余韻を残し胸の奥へゆっくり沁みていきます。消えない甘さに勇気をもらい放課後伊織くんに突撃する決意をしました。

 放課後、伊織くんに逃げられた僕は、寮への突撃に作戦を変更しました。
 寮部屋の玄関扉前。いますよね。いる。絶対に。スマホの時刻は19時過ぎ。最終下校時刻はもう過ぎていますし、今日は生徒会のお仕事もない日です。生徒会書記の恭くんに確認しましたから確実です。伊織くんはお部屋にいるはず。なのに、心臓がバクバクいっています。ポケットの中に手を入れて、シルヴァニア人形に触れ、心臓を落ち着かせます。1回深呼吸。
 インターホンのボタンを押します。数秒後、ノイズまじりにはい、と応答したのは伊織くん。
「お、お弁当箱返します! 出てきて! お願い」
 わたわたあらかじめ用意していたセリフを言い切ります。足音が扉越しに近づくと、すぐに伊織くんが扉から顔を覗かせます。
「……お弁当箱ちょ」
「あのね! 伊織くんとお話をしたい! 僕達『家族』だよね! 心配だし、伊織くんと前みたいに仲良くしたいから……」
 お弁当箱を人質のように胸に抱え、勇気を振り絞りました。でも。
「ふ、あはは」
「い、伊織くん?」
 伊織くんはなぜか歪に口元をゆがめ嗤い出します。
「自分で言ってた言葉がこんなに白々しくて残酷なんて知らなかったよ。なにが『家族』だよ。そんなことこれっぽっちも思っていないくせに」
「ち、ちがっ」
 吐き捨てるような伊織くんの言葉につい否定します。ですが、伊織くんはさらに声を低くして続けます。
「ねえ、僕に家族って言われることが翠は苦手だったよね?」
「………え?」
「ふっ、とっくの昔に僕は気づいていたよ。ずっと翠だけを見てきたんだからね。僕だってバカじゃないよ。本当は嫌なのに、翠が僕に遠慮していたのもわかってる」
 ドアノブを掴む伊織くんの手が震えています。
「あのね。本当は僕、翠と家族になんてなりたくない。ずーっと翠の隣にいながら、僕を嫌がる翠を見てみないふりをしてた。なんでこうなったんだろうね」
 僕は……どうしたら良かった? と伊織くんは力なく呟きます。
 さっきから言われている内容がわかりません。ただ伊織くんを怒らせてしまったことしか。こんなに静かに激しく怒る伊織くんは見たこともありません。
「翠はわからないよね」
 聞かれても困惑と恐怖で指先一つ動かせません。伊織くんの瞳がうつろに僕を映すのを見つめます。
「うん。もういいんだ。僕はもう翠とは会わない」
「なんで? 伊織くん?!」
 ふっと伊織くんは微笑みます。その微笑みが伊織くんが遠くにいってしまいそうな、これでお終いになってしまいそうな予感を。
「家族じゃない僕とわざわざ会う必要もないでしょ?」
 見下ろす青色の瞳は冷たい拒絶の色をしていました。
「……ッ」
「早く帰ってくれるかな」
 伊織くんは僕の肩をそっと押し出すとバタンと玄関扉を閉じます。
 閉じられた扉は微動だにしない。僕と伊織くんの距離を表しているようです。どうしよう。伊織くんを怒らせた? 違う……僕を扉から押し出した手は震えていました。扉を閉じる間際の取り残されたような不安気な表情は、あのお葬式の日に見たものと同じでした。はからずも伊織くんをまた悲しませてしまったんですね。
「……全然ダメダメじゃないですか」
 伊織くんに手を差し伸べるとか意気込んだくせに、いざ拒絶されたら勝手に傷ついて。あんな……家族じゃないとまで言わせてしまいました。伊織くんは人を傷つける言葉を平気で使えるようなひとじゃないです。きっと、言った伊織くんも傷ついています。
「ごめんね……伊織くん……」
 本当にどうしたらよかったんでしょうか。……僕達は。